日本の映画館の総合データベースです。

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* 京都市
京都市は[[京都市の映画館]]を参照。

* 福知山市
福知山市は[[福知山市の映画館]]を参照。

* 舞鶴市
舞鶴市は[[舞鶴市の映画館]]を参照。

* 山城地域
** 宇治市
*** 大久保劇場
所在地 : 京都府宇治市大久保町茶屋裏(1953年・1955年)、京都府宇治市大久保広町(1960年)、京都府宇治市大久保広野(1961年・1962年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「大久保劇場」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「大久保劇場」。1962年の映画館名簿では経営者・支配人ともに田村金次郎、木造1階、定員250、邦画を上映。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 昭和館/宇治昭和館
所在地 : 京都府久世郡宇治町(1930年・1936年・1941年・1943年・1947年・1949年・1950年)、京都府宇治市妙楽47(1953年)、京都府宇治市宇治妙楽45(1955年・1958年・1960年・1963年)、京都府宇治市妙楽45(1966年・1968年)
開館年 : 1929年以前、1931年6月
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1931年6月設立。1930年・1936年・1941年・1943年・1947年・1949年・1950年の映画館名簿では「昭和館」。1953年の映画館名簿では「宇治昭和館」。1955年の映画館名簿では「昭和館」。1958年・1960年・1963年・1966年・1968年の映画館名簿では「宇治昭和館」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1965年の住宅地図では「映画 昭和館」。1968年の映画館名簿では経営者が昭和館、支配人が西村義雄、木造2階冷暖房付、定員250、東宝を上映。跡地は「橋姫神社」向かいの民家数軒。最寄駅はJR奈良線宇治駅。

1929年12月7日、宇治で唯一の常設映画館「昭和館」が全焼した。((『宇治市史年表』宇治市、1983年、p.553))

*** 宇治映画劇場/宇治東映/宇治東映劇場
所在地 : 京都府宇治市宇治妙楽166(1960年・1963年)、京都府宇治市宇治妙楽29(1966年・1969年)
開館年 : 1957年12月29日
閉館年 : 1972年
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「宇治映画劇場」。1963年・1966年の映画館名簿では「宇治東映」。1965年の住宅地図では「宇治東映」。1969年の映画館名簿では「宇治東映劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1973年のゼンリン住宅地図には掲載されていないと思われる。1985年の吉田地図では跡地に「スーパーサンスマイルナツカ」。跡地は「食品館アプロ宇治店」建物南西側。宇治市最後の映画館。最寄駅はJR奈良線宇治駅。

1957年12月29日、宇治市の宇治橋通りで映画館「宇治映画劇場」がこけら落としを行い、宇治市の常設映画館が3館となった。((『宇治市史年表』宇治市、1983年、p.610))

1957年12月の宇治市に開館した映画館「宇治映画劇場」の写真あり。しめ飾りや花輪が見える。『赤城の子守歌』、『赤穂浪士』のポスターが見える。それまで宇治市には大久保と県通りに映画館があり、市内3館目の映画館となった。「宇治東映」という名称で親しまれたが、1972年に閉館した。2009年現在の跡地はスーパーマーケット。((辻ミチ子(監修)『保存版 宇治の今昔』郷土出版社、2010年))

1957年12月、宇治市の宇治橋通りに映画館「宇治映画劇場」が開館した。全国的に映画館の新築がブームだった。花輪が見える写真あり。((宇治市歴史資料館『写真展 昭和の子どもたち』宇治市歴史資料館、2010年、p.17))

** 城陽市
*** 鴻巣館
所在地 : 京都府久世郡寺田村
開館年 : 1929年以前
閉館年 : 1934年頃
各年版の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「城陽市観光協会」南隣の駐車場付近。最寄駅は近鉄京都線寺田駅。
各年版の映画館名簿には掲載されていない。

寺田村の映画常設館「鴻の巣館」館主の北尾石松は、木村敬老会の発会式後に全員を映画館に招待した。1931年1月には第2回の招待を行った。((「鴻の巣館主の美挙」『寺田村報』1931年3月15日号、第6号))

昭和初期の寺田駅前には映画館「鴻巣館」があった。1929年頃の鴻巣館前で撮影された開館記念写真あり。1935年3月1日の新聞『山城』には「寺田村素通り記(2)」という記事があり、「1934年の嵐の後に寺田村の活動小屋が宇治町に持っていかれた」という記述がある。嵐とは1934年9月の室戸台風と思われる。((『令和2年度冬季特別展 心ときめく映画の世界』城陽市歴史民俗資料館、2021年、p.16))

*** 城陽アルプラ劇場
所在地 : 京都府城陽市富野荒見田112(1995年・2000年・2005年)
開館年 : 1992年2月14日
閉館年 : 2005年頃
1990年の映画館名簿には掲載されていない。1995年・2000年・2005年の映画館名簿では「城陽アルプラ劇場」。2002年の映画館名簿では鉄筋造4階、111席、経営会社が平和堂、経営者が夏原平和、支配人が水田浩也、邦画・洋画を上映。2006年の映画館名簿には掲載されていない。アル・プラザ城陽店4階。1スクリーン111席のビデオシアター。

** 八幡市
*** 八幡館
所在地 : 京都府綴喜郡八幡町(1962年)
開館年 : 1961年頃
閉館年 : 1962年頃
1960年全商工住宅案内図帳では発見できず。1961年の映画館名簿には掲載されていない。1962年の映画館名簿では「八幡館」。1962年の映画館名簿によると経営者・支配人ともに佐藤荘一、木造1階、定員200、東映・松竹・東宝を上映。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

** 京田辺市
映画館名簿によると京田辺市に映画館は存在しなかったと思われる。

** 木津川市
*** 清友館
所在地 : 京都府相楽郡木津町恵比須町2(1953年)、京都府相楽郡木津町木津(1955年・1956年)
開館年 : 1950年10月
閉館年 : 1956年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年10月設立。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1956年の映画館名簿では「清友館」。1955年の映画館名簿では経営者が田中友太郎、支配人が満野忠男、木造2階建、250席。1957年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 木津映劇
所在地 : 京都府相楽郡木津町木津(1957年)、京都府相楽郡木津町(1960年・1962年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1962年頃
1956年の映画館名簿に掲載されていない。1957年・1960年・1962年の映画館名簿では「木津映劇」。1957年の映画館名簿では経営者が飯田祐司、木造2階、600席、邦画・洋画を上映。1962年の映画館名簿では経営者が飯田祐司、支配人が飯田貞雄、木造2階冷暖房付、450席、邦画・洋画を上映。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 船屋クラブ/船屋クラブ映劇
所在地 : 京都府相楽郡加茂町船屋(1954年・1955年)、京都府相楽郡加茂町船屋48(1960年)、京都府相楽郡加茂町船屋(1962年)
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1962年頃
1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年の映画館名簿では「船屋クラブ」。1960年・1962年の映画館名簿では「船屋クラブ映劇」。1962年の映画館名簿では経営者・支配人ともに末永義登、木造1階、250席、邦画・洋画を上映。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

*** ワーナー・マイカル・シネマズ高の原/イオンシネマ高の原
所在地 : 京都府木津川市相楽台1丁目1-1 イオンモール高の原4階
開館年 : 2007年4月26日
閉館年 : 営業中
2007年4月26日にワーナー・マイカル・シネマズ高の原として開館。2013年7月にイオンシネマ高の原に改称。

2007年5月1日、木津川市に「イオン高の原ショッピングセンター」が開業する。核テナントはサティであり、複合映画館なども併設する。((「サティ、映画館、医療施設も イオン高の原 5月1日開業」『京都新聞』2007年3月28日))

** 長岡京市
映画館名簿によると長岡京市に映画館は存在しなかったと思われる。

** 向日市
*** 向日町劇場
所在地 : 京都府乙訓郡向日町(1936年・1941年)
開館年 : 1930年以後1936年以前
閉館年 : 1941年以後1943年以前
1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1941年の映画館名簿では「向日町劇場」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「京都銀行向日町支店」東90mの民家数軒。

1935年頃の向日町の街並みの地図には「向日劇場(芝居小屋)」が掲載されている。((向日市文化資料館『20世紀のむこうまち』向日市文化資料館、2002年))

2019年11月24日には向日市立図書館・向日市文化資料館開館35周年記念特別展「昭和モダンと向日町」の一環で、現在の向日市鶏冠井町に戦前まであった芝居小屋・映画館「向日町劇場」に関する談話会が開催された。(([[向日市立図書館・向日市文化資料館開館35周年記念特別展「昭和モダンと向日町」>>https://www.library.muko.kyoto.jp/images/event/1571799562/1571799562_201.pdf]] 向日市文化資料館))

** 久世郡久御山町
*** イオンシネマ久御山
所在地 : 京都府久世郡久御山町森南大内156-1(2000年・2005年)、 京都府久世郡久御山町森南大内156-1 ジャスコ久御山ショッピングセンター2階(2010年)、京都府久世郡久御山町森南大内156-1 イオンモール久御山2階(2015年)
開館年 : 1999年7月2日
閉館年 : 営業中
1995年の映画館名簿には掲載されていない。2000年・2005年・2010年の映画館名簿では「イオンシネマ久御山1-8」(8館)。2015年の映画館名簿では「イオンシネマ久御山シネマ1-8」(8館)。

1999年7月2日、ジャスコ久御山ショッピングセンターがオープンし、2階には京都府初のシネコンである「イオンシネマ久御山」が開館する。8スクリーン計約1800席。6月29日から7月2日まではミニ体験ツアーを実施しており、無料ででもフィルムを上映している。((「府内初のシネコン 久御山町に来月オープン」『朝日新聞』1999年6月15日))

** 乙訓郡大山崎町
映画館名簿によると大山崎町に映画館は存在しなかったと思われる。

** 綴喜郡井手町
映画館名簿によると井手町に映画館は存在しなかったと思われる。

** 綴喜郡宇治田原町
映画館名簿によると宇治田原町に映画館は存在しなかったと思われる。

** 相楽郡笠置町
映画館名簿によると笠置町に映画館は存在しなかったと思われる。

** 相楽郡和束町
映画館名簿によると和束町に映画館は存在しなかったと思われる。

** 相楽郡精華町
映画館名簿によると精華町に映画館は存在しなかったと思われる。

** 相楽郡南山城村
映画館名簿によると南山城村に映画館は存在しなかったと思われる。

* 南丹地域
** 亀岡市
*** 亀岡劇場/亀岡座
所在地 : 京都府南桑田郡亀岡町(1930年・1936年)、京都府南桑田郡亀岡町安町(1941年)、京都府南桑田郡亀岡町(1943年)、京都府亀岡市安町38(1960年・1961年)
開館年 : 1930年以前
閉館年 : 1961年頃
1930年・1936年・1941年の映画館名簿では「亀岡座」。1943年の映画館名簿では「亀岡劇場」。1947年・1949年・1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1961年の映画館名簿では「亀岡座」。1961年の映画館名簿では経営者が前田三次、支配人が矢野政一、木造2階、定員450。1962年・1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「西光寺」南西80mにあるアパート「コーポセジュール」。最寄駅はJR山陰本線亀岡駅。

亀岡市安町には映画館・演劇館「亀岡座」があった。時期不明の亀岡座の広告の写真あり。「丹波唯一を誇る娯楽場」、「復活亀岡座は映画と演劇」、「大江美智子一座」などと書かれている。((亀岡市『グラフかめおか20世紀』亀岡市、2000年、p.79))

南桑田郡は地域住民の大半が農業従事者だったが、劇場では大正中期頃から旅芸人の歌舞伎や股旅物の芝居などが演じられた。亀岡の安町には「亀岡座」が、横町には「朝日座」があった。亀岡座は安町と新開地の境にあり、枡席や2階席のある芝居小屋だった。亀岡座で芝居が行われる際には、チンドン屋が鉦や太鼓を鳴らして町内をふれまわった。戦時中には弾薬の薬きょうを作る工場となり、戦後しばらくは工場のまま閉鎖されていたが、1946年12月、100万円の工費で芝居小屋に戻した。((『新修 亀岡市史 本文編 第三巻』亀岡市、2004年、pp.665-667))

*** 朝日座/亀岡東映
所在地 : 京都府亀岡市安町24(1958年・1960年・1961年・1962年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1962年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1961年の映画館名簿では「朝日座」。1962年の映画館名簿では「亀岡東映」。1962年の映画館名簿では経営者が前田三次、支配人が矢野政一、木造1階、定員320、邦画・洋画を上映。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は京都府道25号旅籠町交差点北西角の建物。建物が現存する可能性がある。最寄駅はJR山陰本線亀岡駅。

南桑田郡は地域住民の大半が農業従事者だったが、劇場では大正中期頃から旅芸人の歌舞伎や股旅物の芝居などが演じられた。亀岡の安町には「亀岡座」が、横町には「朝日座」があった。((『新修 亀岡市史 本文編 第三巻』亀岡市、2004年、pp.665-667))

三和映画株式会社は園部劇場のほかに、亀岡市に「松竹座」や「朝日座」、八木町に「八木映劇」、丹波町に「須知映劇」、京北町に「周山映劇」と、周辺地域に次々に映画館を開館させた。((『図説 園部の歴史』園部町・園部町教育委員会、2005年、p.215))

*** 松竹座/亀岡松竹座
所在地 : 京都府南桑田郡亀岡町内丸26-23(1953年)、京都府南桑田郡亀岡町字舟丸町(1955年)、京都府亀岡市内丸町23(1958年・1960年)、京都府亀岡市内丸23(1963年)、京都府亀岡市丸の内町26(1966年・1967年・1968年)
開館年 : 1950年12月
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年12月設立。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「松竹座」。1955年・1958年の映画館名簿では「亀岡松竹座」。1960年の映画館名簿では「松竹座」。1963年・1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「亀岡松竹座」。1968年の映画館名簿では経営者が前田三次、支配人が前田逸郎、木造1階冷暖房付、定員300、邦画を上映。1969年の映画館名簿には掲載されていない。亀岡市最後の映画館。跡地は日本料理店「池佳」付近。最寄駅はJR山陰本線亀岡駅。

三和映画株式会社は園部劇場のほかに、亀岡市に「松竹座」や「朝日座」、八木町に「八木映劇」、丹波町に「須知映劇」、京北町に「周山映劇」と、周辺地域に次々に映画館を開館させた。((『図説 園部の歴史』園部町・園部町教育委員会、2005年、p.215))

*** ボール亀岡シネマ
所在地 : 京都府亀岡市安町大池12(1974年・1975年)
開館年 : 1973年頃
閉館年 : 1975年頃
1973年の映画館名簿には掲載されていない。1974年・1975年の映画館名簿では「ボール亀岡シネマ」。1975年の映画館名簿では経営会社が前田興業、経営者が前田三次、支配人が前田勉郎、鉄筋2階冷暖房付、150席、邦画を上映。1976年の映画館名簿には掲載されていない。

** 南丹市
*** 八木館
所在地 : 京都府船井郡八木町字東久保36(1941年)
開館年 : 1936年以後1941年以前
閉館年 : 1941年以後1943年以前
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「八木館」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 八木映画劇場
所在地 : 京都府船井郡八木町大字八木(1953年)、京都府船井郡八木町本町1丁目(1955年・1958年・1960年)、京都府船井郡八木町字杉ノ前(1961年・1962年)
開館年 : 1952年5月19日
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1952年5月設立。1953年・1955年・1958年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「八木映画劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「八木郵便局」北東120mにある「理容中川」を含む民家数軒。最寄駅はJR山陰本線八木駅。

1952年5月の八木町にあった「八木映画劇場」の開館記念写真あり。建物の前に開館を祝う花輪が見える。現在の南丹市域には八木映画劇場のほかに「園部劇場」もあったが、2010年現在の跡地は両館ともに住宅街となっている。((『保存版 亀岡・南丹・京丹波の今昔』郷土出版社、2011年、p.129))

2009年7月18日から9月13日まで南丹市立文化博物館で開催された「映像文化の足跡 光学玩具から映画まで」では、南丹市域に存在した「園部映画劇場」と「八木映画劇場」の両館を紹介した。(([[南丹市立文化博物館だより>>http://www.be.city.nantan.kyoto.jp/hakubutukan/dayori/2010-06.pdf]] 南丹市立文化博物館、2010年3月31日、第6号))

1953年頃の八木の商店街を再現した図が掲載されている。1952年に開館した映画館「八木映画劇場」も見える。大雨の日には劇場内に水が流れ込み、1953年の水害でも被害を受けている。戦前の八木町には、現在の国道9号八木駅前交差点付近に料亭丸屋が経営する劇場があり、映画や芝居の興行が行われた。戦時中に閉鎖されて徴用され、亀岡市の大谷鉱山で働く労働者向けの宿舎となった。((『近現代の八木の記憶 八木町史編さん事業歴史資料調査報告書第4集』南丹市教育委員会、2011年、p.189))

*** 園部劇場/園部映画劇場
所在地 : 京都府船井郡園部町字若松町(1953年・1955年)、京都府船井郡園部町若松町20(1958年)、京都府船井郡園部町若松62(1960年)、京都府船井郡園部町若松(1963年)、京都府船井郡園部町字若松町(1966年・1968年)
開館年 : 1950年
閉館年 : 1969年
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「園部映画劇場」。1958年の映画館名簿では「園部劇場」。1960年の映画館名簿では「園部映画劇場」。1963年・1966年の映画館名簿では「園部劇場」。1968年の映画館名簿では「園部映画劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は日本料理店「津多屋」を含む数軒分の民家。最寄駅はJR山陰本線園部駅。

戦前の園部町にあった「園部劇場共楽館」の写真あり。「伎舞歌大」の文字が見える。((園部町教育委員会『園部の歴史 郷土史の資料』園部町、1991年、p.122))

1995年10月から、園部町で月1回の定期映画上映イベント「スウィート・シネマ・パラダイス 町に映画がやって来た」が開始される。園部町には1950年に映画館「園部劇場」が開館したが、1969年に閉館した。その後は園部町を含めた口丹波地域に映画館がなかったが、26年ぶりに復活する。10月15日には原節子主演の『青い山脈』(1949年)、11月18日には石原裕次郎主演の『嵐を呼ぶ男』(1957年)、12月16日にはアメリカ映画『風と共に去りぬ』(1939年)が上映される。14時と18時に1日2回上映される。((「10月から定期上映会 26年ぶりに商工会青年部が企画」『毎日新聞』1995年10月4日))

明治初期の園部には、船井郡唯一の常設興行館として「共楽館」が建てられ、歌舞伎・壮士芝居・浪花節芝居などの興行が行われた。1924年には資本金2万5000円で園部劇場株式会社が設立され、本格的な演劇興行の場となった。建物は当時としては珍しい2階建てであり、1階席・2階席を合わせて約1000人を収容できた。芝居の興行のほかには、町民大会、政治演説会、展覧会などにも使用された。戦時中には閉鎖されて日本軍の石綿倉庫となったが、戦後の1946年7月には中村雁治郎を迎えて営業再開のこけら落とし公演が行われた。1950年には園部劇場株式会社から三和映画株式会社に社名を変更し、「園部劇場」は船井郡初の常設映画館として再出発した。三和映画株式会社は園部劇場のほかに、亀岡市に「松竹座」や「朝日座」、八木町に「八木映劇」、丹波町に「須知映劇」、京北町に「周山映劇」と、周辺地域に次々に映画館を開館させた。しかし、高度成長期にはレジャーの多様化で映画人気が衰退し、1969年には園部劇場も閉館し、1975年には建物が取り壊された。((『図説 園部の歴史』園部町・園部町教育委員会、2005年、p.215))

2009年7月18日から9月13日まで南丹市立文化博物館で開催された「映像文化の足跡 光学玩具から映画まで」では、南丹市域に存在した「園部映画劇場」と「八木映画劇場」の両館を紹介した。両館の写真も展示されている。(([[南丹市立文化博物館だより>>http://www.be.city.nantan.kyoto.jp/hakubutukan/dayori/2010-06.pdf]] 南丹市立文化博物館、2010年3月31日、第6号))(([[「映像文化の足跡 光学玩具から映画まで」>>http://www.be.city.nantan.kyoto.jp/hakubutukan/tenji_kikaku/21/eizo/eizo.html]] 南丹市立文化博物館))

** 船井郡京丹波町
*** 須知会館
所在地 : 京都府船井郡須知町字須知(1953年)
開館年 : 1952年頃
閉館年 : 1953年頃
1952年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「須知会館」。1953年の映画館名簿では経営者が谷口耕平、支配人は記載なし、木造2階、定員550、混合を上映。1954年の映画館名簿には掲載されていない。

三和映画株式会社は園部劇場のほかに、亀岡市に「松竹座」や「朝日座」、八木町に「八木映劇」、丹波町に「須知映劇」、京北町に「周山映劇」と、周辺地域に次々に映画館を開館させた。((『図説 園部の歴史』園部町・園部町教育委員会、2005年、p.215))

*** 和知クラブ/和知映劇/和知映画劇場/和知館
所在地 : 京都府船井郡下和知村本庄(1954年・1955年)、京都府船井郡和知町(1958年)、京都府船井郡和知町字本庄(1960年)、京都府船井郡和知町(1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1954年・1955年の映画館名簿では「和知クラブ」。1958年の映画館名簿では「和知映劇」。1960年の映画館名簿では「和知映画劇場」。1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「和知館」。1965年の映画館名簿では経営者が文字佐市、支配人が文字巌、木造1階、定員300、松竹・日活・大映・東宝を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。「京丹波町役場和知支所」東南東100mに映画館の建物が現存。最寄駅はJR山陰本線和知駅。

* 中丹地域
** 綾部市
*** 綾部映画サークル
綾部市内に3館あった映画館がすべて閉館したことから、1983年3月に綾部映画サークルが発足。毎月1回の自主上映会を行っている。第1回は『禁じられた遊び』。会場は綾部市中央公民館であり、小映画館に匹敵する縦3m×横7mのスクリーンがある。((「“市民の映画館”ピンチ 綾部のサークル、赤字で上映回数減へ」『朝日新聞』1993年11月30日))

*** 帝国館
所在地 : 京都府何鹿郡綾部町(1927年・1930年)、京都府何鹿郡綾部町広小路(1936年・1941年)
開館年 : 1927年以前
閉館年 : 1941年以後1943年以前
1927年・1930年・1936年・1941年の映画館名簿では「帝国館」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 平和劇場
所在地 : 京都府綾部市天神町南大坪21-5(1958年・1960年)、京都府綾部市天神町南大坪(1963年・1966年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1966年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「平和劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。1973年の住宅地図では跡地に「アキヤ」。洋画専門館だった。跡地は「了円寺」北西80mにある民家。最寄駅はJR山陰本線・舞鶴線綾部駅。

*** 長楽座/栄楽劇場/綾部栄楽劇場/あやべ大劇
所在地 : 京都府何鹿郡綾部町本町5丁目24(1936年)、京都府何鹿郡綾部町本町5丁目(1941年)、京都府何鹿郡綾部町本町(1943年)、京都府何鹿郡綾部町広小路(1947年)、京都府何鹿郡綾部町(1950年)、京都府綾部市本町5-24(1960年・1963年・1966年)
開館年 : 1901年7月(長楽座)、1924年(栄楽劇場)
閉館年 : 1973年頃
1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「長楽座」。1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「栄楽劇場」。1955年の映画館名簿では木造2階建て、定員733人、経営者は栄楽、支配人は長尾延太郎・谷口源蔵。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「栄楽劇場」。1969年の映画館名簿では「あやべ大劇」。1973年のゼンリン住宅地図では「綾部大劇」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1980年のゼンリン住宅地図では跡地に「綾部オートセンター有料駐車場」。1998年のゼンリン住宅地図では跡地に「月極駐車場」。跡地は「えいらく月極駐車場」。最寄駅はJR山陰本線・舞鶴線綾部駅。

長楽座の写真あり。1889年頃には天神馬場の隅に綾部町初の芝居小屋が開館し、「馬場の常小屋」と呼ばれた。1901年7月には綾中の四ツ堂に移転して建て替え、この芝居小屋は長楽座と呼ばれた。当時の綾部町では唯一の劇場であり、歌舞伎・芝居・活動写真などが興行され、政談演説の会場としても利用されたが、1922年に火災で焼失した。1924年には本町5丁目に新劇場が建てられ、「栄楽劇場」に改称した。((『ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 綾部』国書刊行会、1982年、p.16))

1949年、三ッ丸映画劇場に加えてもうひとつあった劇場である栄楽劇場に、邦画を中心とする何鹿映画鑑賞会が設立された。1950年3月にはアメリカ映画研究会と何鹿映画鑑賞会が合併して綾部映画研究会となった。((綾部市史編さん委員会『綾部市史 下巻』綾部市、1979年、pp.487-498))

大正初期の綾部にあった芝居小屋「長楽座」の写真あり。1899年には堀重助によって、天神馬場に綾部初の劇場である長楽舎が建てられた。長楽舎は馬場の常小屋と呼ばれ、秋の収穫後に芝居などが興行された。1901年には綾中の四ツ堂に長楽座が新築され、大正期には映画も上映された。1922年5月5日夜、長楽座は『青い鳥』の上映中に火災で焼失した。1924年5月、本町5丁目に新らしい長楽座が建てられ、芝居や映画の興行が行われた。戦後には「栄楽劇場」に改称し、主に邦画が上映された。2004年の長楽座跡地の写真あり。跡地には駐車場がある。((山崎巌・塩見昭吾(監修)『保存版 福知山・綾部の今昔』郷土出版社、2004年、p.87))

1955年に刊行された吉田初三郎の鳥観図『連邦平和都市綾部市』には「栄楽劇場」が描かれている。((吉田初三郎『[[連邦平和都市綾部市>>https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/detail/004854204.html]]』1955年))

設立者は谷口源蔵が代表を務める谷口興行社。谷口興行社は1951年、京都市内に京都東山本町劇場(後の本町館)を設立している。(([[本町館>>http://www.cinema-st.com/adalut/d037.html]] 港町キネマ通り))

*** 三ツ丸映画/三ツ丸会館/三ツ丸映画劇場/綾部三丸映劇/綾部三丸劇場/綾部三ツ丸劇場/三ツ丸東宝/あやべ映劇/綾部映劇/サンワパレス
所在地 : 京都府何鹿郡綾部町(1950年)、京都府綾部市南西町21(1955年)、京都府綾部市西町1-21(1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1977年・1978年・1979年)
開館年 : 1947年7月
閉館年 : 1978年
『全国映画館総覧 1955』によると1947年7月設立。1950年の映画館名簿では「三ツ丸映画」。1953年の映画館名簿では「三ツ丸会館」。1955年の映画館名簿では「三ツ丸映画劇場」。1955年の映画館名簿では経営者が三ツ丸百貨店、支配人が井田瀧三郎、鉄筋造1階、定員370。1960年の映画館名簿では「綾部三丸映劇」。1963年・1966年の映画館名簿では「綾部三丸映画劇場」。1969年の映画館名簿では「綾部三ツ丸劇場」。1973年の映画館名簿では「三ツ丸東宝」。1973年のゼンリン住宅地図では「三ツ丸映劇」。1976年・1977年の映画館名簿では「あやべ映劇」。1978年の映画館名簿では「綾部映劇」。1979年の映画館名簿では「サンワパレス」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。1980年のゼンリン住宅地図では跡地に「3階建の商工センター」。1998年のゼンリン住宅地図では跡地に「フレッシュさとう綾部西町店」。跡地は「ヲギノ楽器店」。最寄駅はJR山陰本線・舞鶴線綾部駅。

戦前の綾部町には、本町5丁目の「栄楽劇場」、広小路の東裏手の「帝国館」という映画館があった。戦後の1948年8月、三ツ丸百貨店内に綾部町3館目の映画館「三ツ丸映画劇場」が開館した。会員数約500人の映画鑑賞会も結成されたが、テレビの普及により綾部市の映画館は閉館していった。((『ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 綾部』国書刊行会、1982年、p.17))

1948年8月、「三ツ丸映画劇場」の開館にともなってアメリカ映画研究会が設立された。このグループは月1回の頻度で鑑賞会を行い、さらに合評会を行って会報を発行した。劇場がせまいため150人がグループの定員だったが、希望者が多くて会員数を制限するのに困ったほどだった。((綾部市史編さん委員会『綾部市史 下巻』綾部市、1979年、pp.487-498))

1949年頃の「三ツ丸映画劇場」の写真あり。『赤い靴』の看板が見える。戦前の綾部には「栄楽劇場」と「帝国館」があったが、戦後になって三ツ丸百貨店に三ツ丸映画劇場が開館した。((『映画黄金期 小屋と名作の風景 下巻』国書刊行会、1989年、p.41))

映画黄金期の綾部には「三ツ丸映画劇場」・「栄楽劇場」・「平和劇場」の3映画館があり、昭和30年代には一年間に計30万人以上の観客数があったが、テレビの影響で激減して栄楽劇場と平和劇場が閉館した。三ツ丸映画劇場はサンワパレスに改称したが、1978年にはサンワパレスも閉館した。((綾部市史編さん委員会『綾部市史 下巻』綾部市、1979年、pp.738-748))

綾部市南西町には「三ツ丸映画劇場」があった。オープニング作品はアメリカ映画。綾部市唯一の映画館だった。1954年頃の写真あり。((梅原三郎・根本惟明(監修)『目で見る福知山・綾部の100年』1995年、p.125))

*** 綾部ITホールA・B/綾部ITホールA
所在地 : 京都府綾部市西町1-4-1(1997年・1998年・1999年)
開館年 : 1996年頃
閉館年 : 1999年頃
1996年の映画館名簿には掲載されていない。1997年の映画館名簿では「綾部ITホールA・B」(2館)。1997年の映画館名簿では経営会社が綾部市商工振興公社、経営者が谷口昭二、支配人が山田松雄、鉄筋造2階、Aが80席、Bが120席、いずれも邦画・洋画を上映。1998年・1999年の映画館名簿では「綾部ITホールA」。1998年の映画館名簿では経営会社が綾部市商工振興公社、経営者が谷口昭二、支配人が上原繁夫、鉄筋造2階、80席、邦画・洋画を上映。1999年の映画館名簿では経営会社が綾部市商工振興公社、経営者が西方八洲男、支配人が大槻敏昭、鉄筋造2階、200席、邦画・洋画を上映。2000年の映画館名簿には掲載されていない。

* 丹後地域
** 宮津市
*** 宮津市の映画館
1951年度版の『宮津町勢要覧』には、映画館・劇場として、「宮津劇場」「有楽館」が掲載されている。宮津劇場の系統は東宝・東映・セントラル・他、収容人員は754人、1か月平均収容人員は13,500人。有楽館の系統は松竹・大映・セントラル、収容人員は540人、1か月平均収容人員は13,500人(※2館が同じ数字)。((『宮津町勢要覧 昭和26年度版』宮津町、1951年、p.23))

1952年度版の『宮津町勢要覧』には、映画館として、「宮津劇場」「有楽館」が掲載されている。有限会社宮津劇場、代表者が仁谷助蔵、所在地が万町、電話が189、1951年の総入場者が108,739人、月平均入場者が9,062人、1日平均入場者が302人、町民1人あたり入場回数が6.5回。株式会社有楽館、代表者が石井儀平、所在地が万町、電話が651、1951年の総入場者が92,020人、月平均入場者が7,667人、1日平均入場者が256人、町民1人あたり入場回数が5.5回。((『宮津町勢要覧 昭和27年版』宮津町、1953年、p.20、p.28))

*** 市民団体「宮津シネマフレンズ」
1981年4月には「宮津シネマフレンズ」が設立された。5月24日には宮津会館大ホールで第1回例会を開催。14時と18時から『フロント』(作品名かどうか不明)、16時10分と19時50分に『トランザム』(作品名かどうか不明)を上映する。チケットは当日一般1100円、当日学生800円、会員600円。会員になると「見たい映画」「見せたい映画」のリクエストが可能であり、また舞鶴市内の映画館の割引がある。((「掲示板: 宮津シネマフレンズ第1回例会」『宮津瓦版』1981年5月3日号、第48号、pp.114-115))

みやづシネマフレンズの設立から1年が経過し、会費を「入会金500円、例会ごとに600円」から「年会費2500円」に改正する。1982年7月24日・7月25日には2日間にわたって第4回例会を開催。『典子は、今』と『にんげんをかえせ』の2作品を上映。((「みやづシネマフレンズ第4回例会のお知らせ」『宮津瓦版』1982年7月1日号、第62号、pp.142-143))

1984年5月6日には宮津会館でみやづシネマフレンズの第15回例会を開催。14時からと19時からの2回にわたって『ザ・デイ・アフター』を上映。((「みやづシネマフレンズ第15回例会」『宮津瓦版』1984年5月1日号、第84号、pp.190-191))

*** 吉津産業会館
所在地 : 京都府宮津市須津
開館年 : 不明
閉館年 : 不明
1958年・1960年の映画館名簿には掲載されていない。

『全国映画館名簿』全国映画館新聞社、1960年では「吉津産業会館」。電話番号は岩滝73、大映・東映・日活を上映。

*** 橋立劇場
所在地 : 京都府与謝郡宮津町万町(1930年)、京都府与謝郡宮津町402(1936年)、京都府与謝郡宮津町新浜(1941年・1943年)、京都府与謝郡市場村字幾地369(1953年)
開館年 : 1927年以後1930年以前
閉館年 : 1953年頃
1927年の映画館名簿には掲載されていない。1930年の映画館名簿では「橋立劇場」。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「橋立劇場」。1936年の映画館名簿では経営者が安達久米蔵、松竹・大映を上映。1947年・1949年・1950年・1951年・1952年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「橋立劇場」。1954年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は2020年開業のホテル「フェアフィールド・バイ・マリオット・京都天橋立」。最寄駅は京都丹後鉄道宮津駅。

1940年の与謝郡宮津町新浜にあった劇場「橋立劇場」の写真あり。日独伊三国同盟調印祝賀行事の際の写真と思われる。明治初期の学制発布の際に開校した尽道校の跡地に建てられた。2021年現在の跡地は「フェアフィールド・バイ・マリオット・京都天橋立」。((『写真アルバム 舞鶴・宮津・丹後の昭和』樹林舎、2021年、p.62))

*** 有楽館/宮津有楽館
所在地 : 京都府与謝郡宮津町(1925年)、京都府与謝郡宮津町本町(1927年)、京都府与謝郡宮津町万町(1930年・1934年・1936年・1941年)、京都府与謝郡宮津町(1943年・1947年・1949年)、京都府与謝郡宮津町字葛町(1950年)、京都府与謝郡宮津町字万年538-549(1953年・1954年)、京都府与謝郡宮津町字万年538(1955年)、京都府宮津市万年538(1960年)、京都府宮津市万年573(1963年)、京都府宮津市字本町757(1966年・1969年・1970年・1971年)
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1971年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1925年・1927年・1930年・1934年・1936年・1941年・1943年・1947年・1949年・1950年の映画館名簿では「有楽館」。1953年の映画館名簿では「宮津有楽館」。1955年の映画館名簿では「有楽館」。1955年の映画館名簿では経営者が石井留五郎、支配人が石井儀平、鉄筋造、定員270。1955年時点の京都府郡部には18館があったが、鉄筋コンクリート造は有楽館と明峰会館の2館だけだった。1960年・1963年・1966年・1969年・1970年・1971年の映画館名簿では「宮津有楽館」。1972年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「やまと屋旅館」南南西25mのガレージ。最寄駅は京都丹後鉄道宮津駅。

『与謝年鑑 昭和二十八年版』の宮津町の項には「有楽館」が掲載されている。「所在 字万町、電話 宮津534、資本金 200万円、配給映画 松竹 大映 メトロ映画」「社長 石井儀平」とある。有楽館の広告も掲載されている。「松竹 大映 東映 外映 三丹封切場 株式会社 宮津有楽館 宮津町万町 電話651番」とある。((中村留蔵『与謝年鑑 昭和二十八年版』橋立新聞社、1953年、p.51、p.97))

かつて宮津市「有楽館」と「宮津劇場(宮劇)」の2館の映画館があった。有楽館はやまと屋旅館の斜め前であり、現在はガレージになっている。大映・にっかつ・松竹の作品が上映された。有楽館の2階は畳敷きで冬は寒かった。有料の火鉢の貸し出しがあり、客はそれぞれ火鉢にあたりながら映画を見た。(([[弁護士法人たんご法律事務所>>http://www.tango-lpc.com/greeting.html]]))

*** 万年座/宮津劇場
所在地 : 京都府与謝郡宮津町字万年町(1941年)、京都府与謝郡宮津町字万年(1950年)、京都府与謝郡宮津町万年町1017(1953年・1955年)、京都府宮津市万年1017(1958年・1960年・1963年)、京都府宮津市字万年町19(1966年)、京都府宮津市字万年19(1969年)、京都府宮津市字万年1017(1973年・1975年・1978年・1979年)
開館年 : 1944年6月? 1946年12月?
閉館年 : 1979年頃
『全国映画館総覧 1954』によると1946年12月設立。『全国映画館総覧 1955』によると1944年6月設立。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「万年座」。1943年・1947年の映画館名簿には掲載されていない。1949年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1979年の映画館名簿では「宮津劇場」。1955年の映画館名簿では経営者が仁谷助蔵、支配人が川本利夫、定員750、上映作品は混合。1978年のゼンリン住宅地図では「宮津劇場」。1979年の映画館名簿では経営会社が有限会社宮津劇場、経営者が中村幸雄、支配人が大木泰生、木造2階冷暖房付、506席、邦画・洋画を上映。1980年の映画館名簿には掲載されていない。1986年のゼンリン住宅地図では跡地に駐車場。1993年のゼンリン住宅地図では跡地に「万年ハイツ」。跡地は「万年ハイツ」。最寄駅は京都丹後鉄道宮津駅。

『与謝年鑑 昭和二十八年版』の宮津町の項には「宮津劇場」が掲載されている。「所在 字万年、電話 宮津189、資本金 300万円、営業種目 映画 演劇 興行」「社長 仁谷助蔵、支配人 川本利夫、従業員7名」とある。宮津劇場の広告も掲載されている。「映画の殿堂 有限会社 宮津劇場 宮津町亀ケ丘 電話189」とある。((中村留蔵『与謝年鑑 昭和二十八年版』橋立新聞社、1953年、p.51、p.97))

かつて「万年座」という芝居小屋があり、上映作品を宣伝する隊のチンドン屋が鐘や太鼓を叩いて町を練り歩いた。後に「宮津劇場」に改称して常設の映画館となった。現在の跡地は大きなアパートとなっている。時期不明の宮津劇場の写真、1989年現在の跡地のアパートの写真あり。((宮津市老人大学『写真でつづる「みやづの今と昔」』宮津市教育委員会、1989年、p.58))

時期不明の「宮津劇場」の写真あり。((『創立90周年記念 宮高 今昔写真集・沿革史総合年表』京都府立宮津高等学校創立90周年記念誌編集委員会、1993年))

「宮劇」は今の万年ハイツの場所にあった。上映作品は東映と洋画。『ベン・ハー』(1959年・アメリカ)や『大脱走』(1963年・アメリカ)や『ほほにかかる涙』(1964年・イタリア)や『イージーライダー』(1969年・アメリカ)などを上映した。(([[弁護士法人たんご法律事務所>>http://www.tango-lpc.com/greeting.html]]))

かつて宮津には「宮津劇場」があり、近江飛竜一座などの旅役者が公演した。近江新之介座長が率いる関西老舗の「浪花劇団」の特別公演も開催された。(([[宮津観光アテンダントまちなか案内人のブログ>>http://blog.livedoor.jp/matinakaannainin/archives/51351249.html]]))

『地域情報誌 丹後ing』1984年秋号には宮津東宝の200円割引券が印刷されている。1984年秋の宮津東宝の上映スケジュールは、1984年9月15日-9月21日が『キャノンボール2』『バット・トラック』(バット・トラックなんていう映画があるのか不明)、9月22日-9月28日が『スター・ウォーズ ジェダイの復讐』(後年にジェダイの帰還に名称変更された)『カランバ』、9月29日-10月5日が『化粧 彩り河』、10月6日-10月12日が『必殺 海つばめのジョー』。((「宮津東宝CINEMAガイド」『地域情報誌 丹後ing』1984年秋号、第2号、p.55))

『地域情報誌 丹後ing』1986年春号には、丹後地方の映画館の3月から6月までの上映情報が掲載されている。宮津東宝1、宮津東宝2、東舞鶴八千代、浮島劇場、福知山東宝劇場、福知山スカラ座の6館が掲載されている。宮津東宝1は『キン肉マン』『キャプテン翼 ヨーロッパ大決戦』『ゲゲゲの鬼太郎』『恋文』『それから』『ゴールドパピヨン』『レイザー・バック』『オーディーン 光子帆船スターライト』『ザ・サムライ』『山下少年物語』『君が輝くとき』『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』『玄海つれづれ節』『セカンド・ラブ』『雪の断章』『情熱』『姉妹坂』。宮津東宝2は『野蛮人のように』『ビー・バップ・ハイスクール』『ネバーエンディング・ストーリー』『幸福物語』『懺悔M』『愛の遍歴』『ポルノ三本立』『ビルマの竪琴』『刑事物語3』『潮騒の詩』『日活ロマンポルノ』『食人族』『マッドマックス/サンダードーム』『コーラスライン』((「映画情報」『地域情報誌 丹後ing』1986年春号、第8号、p.46-47))

「宮津劇場」は洋画の殿堂だった。『望郷』(1937年・フランス)、『舞踏会の手帖』(1937年・フランス)、『風と共に去りぬ』(1939年・アメリカ)、『無防備都市』(1945年・イタリア)、『シェーン』(1945年・アメリカ)、『赤い靴』(1948年・イギリス)、『楽聖ショパン』(1953年・アメリカ)、『アンナ・カレーニナ』(どの作品か不明)などを上映した。1973年11月には『ゲッタウェイ』や『ジョニーは戦場へ行った』を上映した際の写真あり。((「私の宮津 消えゆくものたちへ(その1) 宮津劇場」『宮津瓦版』1981年3月3日号、第46号、pp.110-111))

*** 宮津東宝/宮津東宝1・2/宮津東宝1
所在地 : 京都府宮津市字鶴賀2075(1985年・1986年・1988年・1990年・1992年・1994年・1995年)
開館年 : 1984年頃、1985年6月(2館化)
閉館年 : 1995年頃
1978年のゼンリン住宅地図では「建設用地」。1982年の住宅地図には掲載されていない。1984年の映画館名簿には掲載されていない。1985年の映画館名簿では「宮津東宝」。1986年のゼンリン住宅地図では「宮津東宝」。1986年・1988年・1990年・1992年・1994年の映画館名簿では「宮津東宝1・2」(2館)。1990年の映画館名簿では経営会社が小谷食品、経営者・支配人ともに小谷太也、1が木造1階で72席で邦画を上映、2が木造2階で50席でにっかつ・成人映画を上映。1993年のゼンリン住宅地図では「宮津東宝」。1995年の映画館名簿では「宮津東宝1」。1995年の映画館名簿では経営会社が小谷食品、経営者・支配人ともに小谷太也、木造1階、72席、邦画・洋画・成人映画を上映。1996年の映画館名簿には掲載されていない。1997年の住宅地図には掲載されていない。「ビジネス旅館やまと屋」北側に映画館の建物が現存。最寄駅は京都丹後鉄道宮津駅。

1984年8月の宮津東宝の上映スケジュールは、7月28日-8月3日が『すかんぴんウォーク』『うる星やつら2』の2作品、8月4日-8月10日が『水滸伝』『マッド・ライダー』の2作品、8月11日-8月20日が『天国の駅』『晴れときどき殺人』の2作品、8月21日-8月31日が『キン肉マン』『宇宙刑事シャイダ』『バイオマン』の3作品。((「映画番組予定表 宮津東宝」『宮津瓦版』1984年8月1日号、第87号、pp.196-197))

宮津東宝は1985年6月から2スクリーン体制となる。1985年6月の上映スケジュールは以下の通り。宮津東宝1は、5月20日-6月7日が『序の舞』『櫂』、6月8日-6月21日が『五福星』『チャンピオン鷹』、6月22日-7月5日が『ベスト・キッド』『ザ・ライダー』。宮津東宝2は6月22日-6月28日が『愛染恭子の未亡人下宿』『秘色リース妻』『ニセ未亡人いちじく白書』、6月29日-7月5日が『イヴちゃん姫』『愛獣・熱く凌す』『未熟な下半身』。((「上映予定 宮津東宝」『宮津瓦版』1985年6月1日号、第97号、pp.216-217))

1987年6月の上映スケジュールは以下の通り。宮津東宝1は、5月23日-6月5日が『ザ・フライ』『ゴースト・ハンターズ』、6月6日-6月26日が『白い道』、6月27日-7月9日が『山口組九州侵攻作戦』『山口組三代目総集編』。宮津東宝2は、5月30日-6月5日がロマンポルノ2本立、6月6日-6月19日が『マッドマックス/サンダードーム』『エルム街の悪夢2 フレディの復讐』、6月20日-6月26日が『松居一代の衝撃』他ポルノ、6月27日-7月4日が日活ロマンポルノ3本立。((「上映予定 宮津東宝」『宮津瓦版』1985年6月1日号、第121号、pp.264-265))

1987年10月の上映スケジュールは以下の通り。宮津東宝1は、10月3日-10月16日が『必殺』『吉原炎上』、10月17日-10月23日が『日本の首領』『北陸代理戦争』、10月24日-11月6日が『プレデター』『エンゼル・ハート』。宮津東宝2は、10月3日-10月9日がポルノ3本立、10月10日-10月20日が『めぞん一刻』『新宿純愛物語』、10月21日-10月30日がポルノ3本立。((「上映予定 宮津東宝」『宮津瓦版』1985年10月1日号、第125号、pp.272-273))

『地域情報誌 丹後ing』1984年秋号には、「宮津東宝」の上映作品案内が掲載されている。((『地域情報誌 丹後ing』vol.2、1984年秋号、p.55)) 『地域情報誌 丹後ing』1986年春号には、「宮津東宝1・2」「東舞鶴八千代1・2」「浮島劇場」「福知山東宝劇場」「福知山スカラ座」の上映作品案内が掲載されている。((『地域情報誌 丹後ing』vol.8、1986年春号、p.47))

** 京丹後市
*** 島児座
所在地 : 京都府竹野郡網野村
開館年 : 1887年頃
閉館年 : 1892年?
1887年頃、森田重武は網野に劇場「島児座」(しまこざ)を建設した。島児座の名称は浦島太郎(浦島子)に因んでおり、地方では稀な大劇場だった。1973年現在の第一保育所付近である。島児座は政談演説会や名士講演会の会場となり、また上方歌舞伎も上演された。ゾウやラクダが来館したこともある。森田は万延元年(1860年)に網野村に生まれ、新島襄から洗礼を受けてクリスチャンとなった。31歳の時に京都府会議員となり、2年後の1892年に死去した。その後の島児座については資料を欠いており、閉館時期などは分からない。森田は『網野町人物誌 第一集』(網野町郷土文化保存会、1973年)に掲載されている。

*** 磯辺館
所在地 : 京都府熊野郡久美浜町十楽
開館年 : 明治後期以後大正後期以前
閉館年 : 1945年以前?
明治後期の十楽区の家並みを記した図では、磯辺神社の上は空白となっている。大正後期の十楽区の家並みを記した図には、磯辺神社の上、宮忠製糸工場の下に「磯辺館【芝居小屋】」がある。1950年の十楽区の家並みを記した図には、磯辺館があった場所に「柿本文男【酒造】」(熊野酒造)がある。((十楽区誌編纂委員会『十楽区誌』十楽区、2007年、p.20))

1929年に発行された久美浜町の絵図『久美浜名所案内』には、現在の熊野酒造の場所に「劇場」が描かれている。((日本名所図絵社『久美浜名所案内』久美浜町役場、1929年))((京丹後市史編さん委員会『京丹後市の自然環境』京丹後市、2015年))

*** 久僧映画館
所在地 : 京都府竹野郡丹後町久僧小字上地492・493番地
開館年 : 1950年
閉館年 : 1958年? 昭和30年代末?
映画館名簿には掲載されていない。跡地は「久僧公民館」西30mの空き地。最寄駅は京都丹後鉄道宮豊線網野駅。

1950年、久僧に映画館が開館した。((『うかわ 川と人のふるさと』上宇川地区公民館、1989年、p.62))

1950年、久僧に個人で「久僧映画館」が設立された。テレビやラジオの影響で営業が困難となり、1958年に閉鎖された。((丹後町『丹後町史』丹後町、1976年、p.680))

1950年、丹後町久僧小字上地492・493番地に私営の「宇川映画館」(※久僧映画館ではない)が開館した。経営者は松田房太郎と松田三門であり、屋号は「よへい」だった。近隣町の映画館とフィルムの配送などで連携した。常設映画館であり、名優の出演作品は昼も夜も上映した。演芸や芝居などの興行を行うこともあった。1958年頃には宇川地域にもテレビが普及し始め、昭和30年代末に開館した。((『久僧 村の記録誌』久僧自治区、2015年、p.66))

*** 和田野座
所在地 : 京都府竹野郡弥栄村(1953年・1954年・1955年)、京都府竹野郡弥栄町和田野(1960年・1961年)
開館年 : 1952年頃
閉館年 : 1961年頃
1952年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1954年・1955年の映画館名簿では「和田野座」。1955年の映画館名簿では木造2階建て、定員200人、経営者・支配人ともに幸田小一郎、支配人は幸田小一郎。1956年・1957年・1958年・1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1961年の映画館名簿では「和田野座」。1961年の映画館名簿では経営者が寺田小一郎、支配人が記載なし、木造1階、定員200。1962年の映画館名簿には掲載されていない。

1930年時点で、和田野橋の西側の低地には芝居小屋があった。旅回りの一座による芝居、活動写真の上映などの興行が行われた。((萩原勉『「恒枝保」考』萩原勉、1990年、p.31))

*** 久美浜館
所在地 : 京都府熊野郡久美浜町(1956年・1957年・1958年・1959年・1960年・1961年・1962年)、京都府熊野郡久美浜町1147(1963年)、京都府熊野郡久美浜町(1964年)
開館年 : 1951年9月
閉館年 : 1964年10月
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年・1958年・1959年・1960年・1961年・1962年・1963年・1964年の映画館名簿では「久美浜館」。1964年の映画館名簿では木造2階建暖房付、定員400、経営者は東史郎、支配人は中西淳視。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1931年には東本町の有志6人によって、現在の久美浜浜公園のカヌー艇庫の場所に「久美浜劇場」が建てられた。大阪から劇団を招くなどして歌舞伎や芝居の興行を行ったが、1936年2月の豪雪によって倒壊した。昭和20年代には久美浜劇場とは別に、土居区に「産業会館」が建てられ、毎日映画が上映された。床面はゴザを敷いただけだったため座布団を持参するか、売店で5円か10円で座布団を借りることができた。テレビの普及で映画が衰退すると、産業会館は昭和40年代半ばに閉館した。産業会館があったのは2015年現在の北都信用金庫の場所である。(※産業会館と映画館名簿における久美浜館が同一施設かどうかは不明)((『久美浜大事典』特定非営利活動法人わくわくする久美浜をつくる会、2015年、p.27))

昭和30年代の土居・仲町の表通りには、「銀座通」というアーチ型の街路灯が設置されていた。当時の市街地には映画館、銀行、旅館、開業医、造り酒屋、酒店、食堂、貸本屋、運動具店、文房具店、洋装店、鍛冶屋、下駄屋、小間物屋、乾物店、パチンコ店などの商店があり、何でもそろうとされた銀座通には熊野郡各地から買い物客があった。銀座通同様に、東本町には「本町通」の、駅前には「駅前」のアーチ型街路灯があった。((『久美浜大事典』特定非営利活動法人わくわくする久美浜をつくる会、2015年、p.27))

1975年現在の久美浜町域には、かつて久美浜、友重、野中、長柄などに映画館があったが、テレビの普及によって閉館した。久美浜にあった映画館は1951年9月に開館し、1964年10月に閉館した。((久美浜町誌編纂委員会『久美浜町誌』久美浜町、1975年、p.564))

*** 弥栄劇場/弥栄映劇
所在地 : 京都府竹野郡弥栄町(1958年・1959年・1960年・1961年・1962年・1963年・1965年)
開館年 : 1953年
閉館年 : 1965年6月
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1959年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「弥栄映劇」。1958年の映画館名簿では経営者が東史郎、支配人が木本政一、木造1階、定員300、邦画・洋画を上映。1963年の映画館名簿では「弥栄劇場」。1964年・1965年の映画館名簿では「弥栄映劇」。1964年の映画館名簿では経営者が東史郎、支配人が東久江、木造2階冷暖房付、定員300、邦画・洋画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1953年には弥栄村に「弥栄映劇」ができた。1965年6月に廃館となった。((萩原勉『「恒枝保」考』萩原勉、1990年、p.34、p.37))

弥栄町の和田野には「弥栄映劇」があったが、昭和30年代に廃館となった。((弥栄町役場総務課『時を越えて 弥栄町の四十年』弥栄町役場、1995年))

*** 庚子館/間人劇場
所在地 : 京都府竹野郡間人町(1943年・1947年・1949年・1952年)、京都府竹野郡間人町字向地(1953年)、京都府竹野郡間人町(1954年・1955年)、京都府竹野郡丹後町間人(1956年・1957年・1958年・1959年)、京都府竹野郡丹後町(1960年・1961年・1962年・1963年)、京都府竹野郡丹後町間人(1964年)
開館年 : 1900年(庚子館)、1926年11月(間人劇場)
閉館年 : 1965年6月
『全国映画館総覧 1955』によると1927年設立。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年・1947年・1949年・1952年・1953年・1954年・1955年・1956年・1957年・1958年・1959年・1960年・1961年・1962年・1963年・1964年の映画館名簿では「間人劇場」。1955年の映画館名簿では経営者が東史郎、支配人が木本政一、木造2階、定員500。1964年の映画館名簿では経営者が東史郎、支配人が東久江、木造2階冷暖房付、定員500、邦画・洋画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は旅館「昭恋館 よ志のや」西50mの空き地。最寄駅は京都丹後鉄道宮豊線網野駅。

1954年現在の間人町の娯楽施設としては、「間人劇場」と「昭和座」がある。間人劇場の先代は庚子館であり、庚子館を引き継いだ東史郎が館内を近代化させて映画常設館とした。((間人町『町政三十五年史 町村合併廃町記念』間人町、1954年、p.125))

1900年、庚子館が開館した。田舎としては立派な永久小屋だった。向かって左手に花道があり、左右と後方の三方に2階席があり、前方には畳2畳敷の枡席が約60あった。照明はランプ7つ程度だった。庚子館を取り壊し、1926年11月には東四郎が間人劇場を新築した。当初は旅回りの一座による新派劇が主であり、活動写真と演劇を組み合わせた連鎖劇、浪曲師と俳優による浪曲芝居も上演されていた。1930年頃には映画が上映されはじめ、1953年にはシネマスコープの設備が導入された。1965年6月には東京オリンピックの記録映画が上映され、間人劇場では老若男女によって超満員となったが、この映画を最後に閉館した。((丹後町『丹後町史』丹後町、1976年、pp.679-680))

*** 網野第一映劇
所在地 : 京都府竹野郡網野町(1960年)、京都府竹野郡網野町住吉(1964年・1965年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1965年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「網野第一映劇」。1961年・1962年・1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年・1965年の映画館名簿では「網野第一映劇」。1964年の映画館名簿では経営者が荻野丈夫、支配人が荻野之枝、木造1階冷暖房付、定員250、洋画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 公楽会館/網野公楽会館
所在地 : 京都府竹野郡網野町浜詰(1962年)、京都府竹野郡網野町(1963年・1964年)、京都府竹野郡網野町浜詰(1965年)
開館年 : 1953年頃
閉館年 : 1965年頃
1961年の映画館名簿には掲載されていない。1962年・1963年の映画館名簿では「公楽会館」。1964年・1965年の映画館名簿では「網野公楽会館」。1964年の映画館名簿では経営者・支配人ともに久保博司、木造1階、定員300。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「北都信用金庫浜詰支店」職員駐車場。最寄駅は京都丹後鉄道宮豊線夕日ヶ浦木津温泉駅。

1953年になると、浜詰の三差路付近(現在の北都信用金庫駐車場付近)に「公楽会館」が建てられた。こけら落としには京都から劇団が招かれて歌舞伎の興行が行われた。公楽会館は映画の上映が主であり、芝居の興行も行われた。浜詰の新開地が整備されたのもその頃であり、公楽会館周辺が村の中心となっていった。((「浜詰村今昔物語 第35話 公楽会館」『』萬福寺))

*** 口大野劇場/大野劇場
所在地 : 京都府中郡口大野村(1947年・1949年)、京都府中郡大野村(1952年)、京都府中郡大野村口大野(1953年)、京都府中郡大宮町口大野(1954年・1955年・1956年・1957年)、京都府中郡大宮町口大野314(1958年)、京都府中郡大宮町口大野字鯨(1959年)、京都府中郡大宮町(1960年)、京都府中郡大宮町口大野(1961年・1962年・1963年)、京都府中郡大宮町口大野字鯨1275(1965年)
開館年 : 1928年8月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1928年8月設立。1947年・1949年・1952年・1953年・1954年・1955年・1956年・1957年・1958年・1959年・1960年の映画館名簿では「大野劇場」。1955年の映画館名簿では経営者・支配人ともに松田鶴次郎、木造1階、定員464。1961年・1962年の映画館名簿では「口大野劇場」。1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「大野劇場」。1964年の映画館名簿では木造2階冷暖房付、定員377、経営者は松田鶴次郎、支配人は松田功。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「京都丹後鉄道宮豊線京丹後大宮駅」駅舎南南西140mにある「牧草総合設計」が入る建物。映画館時代の建物が現存。最寄駅は京都丹後鉄道宮豊線京丹後大宮駅。

*** 野中劇場
所在地 : 京都府熊野郡佐濃村(1955年・1956年・1957年・1958年)、京都府熊野郡久美浜町佐濃(1959年・1960年)、京都府熊野郡久美浜町(1961年・1962年)、京都府熊野郡久美浜町佐濃(1963年・1964年)
開館年 : 1949年4月
閉館年 : 1966年5月
『全国映画館総覧 1955』には掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1956年・1957年・1958年・1959年・1960年・1961年・1962年・1963年・1964年の映画館名簿では「野中劇場」。1955年の映画館名簿では経営者・支配人ともに谷口松治、定員120。1964年の映画館名簿では経営者・支配人ともに谷口松治、木造2階建、定員360。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1959年に発行された『佐濃村誌』には、「野中及び周辺の商工業種一覧」に「劇場」が掲載されている。((辻源太郎『佐濃村誌』久美浜町佐濃支所、1959年、p.343))

1975年現在の久美浜町域には、かつて久美浜、友重、野中、長柄などに映画館があったが、テレビの普及によって閉館した。野中にあった映画館は1949年4月に開館し、1966年5月に閉館した。((久美浜町誌編纂委員会『久美浜町誌』久美浜町、1975年、p.564))

*** 網野映画館/網野劇場/日勝館/綱映日勝館/網野日勝館
所在地 : 京都府竹野郡網野町(1934年・1936年・1941年・1943年・1947年・1949年・1950年)、京都府竹野郡網野町242(1953年)、京都府竹野郡網野町網野(1955年)、京都府竹野郡網野町888(1960年)、京都府竹野郡網野町(1963年・1964年)、京都府竹野郡網野町字網野242(1965年)、京都府竹野郡網野町888(1966年・1969年・1970年・1971年・1972年)
開館年 : 1906年(劇場)、1930年(再建)、1936年(映画館化)
閉館年 : 1972年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1930年設立。1934年の映画館名簿では「網野劇場」。1936年の映画館名簿では「網野映画館」。1941年の映画館名簿では「網野劇場」。1943年・1947年・1949年・1950年・1953年の映画館名簿では「日勝館」。1955年の映画館名簿では「網野日勝館」。1955年の映画館名簿では経営者は蒲田千江子、支配人は久保博司、木造2階、定員500。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「網映日勝館」。1964年の映画館名簿では経営者は蒲田誠、支配人は久保博司、木造2階冷暖房付、定員530。1964年・1965年・1966年・1969年・1970年・1971年・1972年の映画館名簿では「網野日勝館」。1971年の映画館名簿では経営者・支配人ともに蒲田誠、木造2階冷暖房付、500席、邦画・洋画・成人映画を上映。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はパン屋「PLUS BAKERY RYO」とその西側の駐車場。最寄駅は京都丹後鉄道宮豊線網野駅。

1933年に網野小学校が発行した『我が郷土』によると、当時の網野町には劇場「日勝館」と映画館「網野劇場」の2館があり、いずれも震災後(※震災とは1927年の北丹後地震のことと思われる)の建物だった。どちらも客席は畳敷きであり、日勝館は330人、網野劇場は570人を収容した。1936年8月、網野劇場は隣接する織物工場の火災が類焼して焼失し、再建はなされなかった。網野劇場の経営者は日勝館を支援し、日勝館は実演に加えて活動写真も上映する劇場となった。((網野町誌編さん委員会『網野町誌 上巻』網野町、1994年、p.751))

1906年、網野町に劇場の「日勝館」が建った。1934年、初めて網野でトーキー映画が上映された(※上映館は不明)。1936年、日勝館が映画常設館となった。((網野町社会化研究会・網野町社会科主任会『わたしたちの網野町』網野町社会化研究会・網野町社会科主任会、1975年、pp.92-93))

1906年、網野町に劇場「日勝館」が建った。((『網野町年代史』網野町郷土文化保存階、1977年、p.27))

『網野町誌 中巻』には「ちりめん祭(網映前)」の写真が掲載されている。((網野町誌編さん委員会『網野町誌 中巻』網野町、1994年、p.749))

『網野町誌 下巻』には1954年の町内文化団体に「潮演劇研究会・エルアギターバンド・紅葉会・郷土研究会・カメラクラブ・網野洋舞研究会・真華流花の会・音羽流舞踏会・琴曲菊澄会・尺八狂琳会・潮光会・玉諷会、三津音楽会を挙げ、ほかに「網野劇場(日勝館)・浅茂川劇場」を挙げている。原典は橋立新聞社の『奥丹後年鑑』としている。((網野町誌編さん委員会『網野町誌 下巻』網野町、1996年、p.302))

2016年4月に琴引浜鳴き砂文化館で開催された写真展『郷愁・丹後の今昔』には、「在りし日の日勝館」(網野映画館)の写真が展示されたらしい。

*** 明峰会館
所在地 : 京都府中郡峰山町浪花(1952年)、京都府中郡峰山町浪花字杉谷(1953年)、京都府中郡峰山町字浪花(1955年)、京都府中郡峰山町字杉谷(1958年)、京都府中郡峰山町(1960年・1961年・1962年・1963年)、京都府中郡峰山町664(1966年・1969年)、京都府中郡峰山町字杉谷(1973年)
開館年 : 1950年7月
閉館年 : 1974年
『全国映画館総覧 1955』によると1950年7月設立。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1952年・1955年・1958年・1960年・1961年・1962年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「明峰会館」。1955年の映画館名簿では経営者が田木麻男、支配人が中野典雄、鉄筋造2階、定員300。1955年時点の京都府郡部には18館があったが、鉄筋コンクリート造は有楽館と明峰会館の2館だけだった。1970年の映画館名簿では「明峯会館」。1973年・1974年の映画館名簿では「明峰会館」。1971年の関西地研住宅地図では「明峰会館」。1975年・1976年の映画館名簿には掲載されていない。現在の株式会社明峰会館は京都府京丹後市峰山町杉谷914番地の1にある。1986年のゼンリン住宅地図では「車庫」や「大信」などがある。跡地は「七輪炭火焼肉」の北側の空き地。京都府道17号網野峰山線に面する「廣瀬薬局」の東側。最寄駅は京都丹後鉄道宮豊線峰山駅。

お食事処 きくのやは「明峰会館」の写真を所蔵している。1957年頃撮影。洋画『エデンの東』『友情ある説得』、東映『魔の紅蜥蜴』、『大菩薩峠』の看板が見える。ファサードには東宝、ワーナー、東映、MGM、大映のロゴが見える。(([[明峰会館>>https://twitter.com/Asturio_t/status/1383536785989410827]] Asturio (Twitter)))

1957年の峰山町勢要覧に収録されている「観光と産業の峰山町鳥瞰図」には「明峰会館」が描かれている。((『みねやま』1957年「観光と産業の峰山町鳥瞰図」『みねやま』1957年))

京丹後フィルムウィーク実行委員会と京丹後フィルムコミッションが主催した「京丹後フィルムウィーク2013」のチラシには、「会場:ろばた中原(旧 明峰会館)」とある。(([[京丹後フィルムウィーク2013>>http://www.consortium.or.jp/wp-content/uploads/tango_filmweek_2013_chirashi.pdf]] 京丹後フィルムウィーク実行委員会))

*** 峰山劇場
所在地 : 京都府中郡峰山町(1934年・1936年・1943年・1949年・1950年)、京都府中郡峰山町浪花(1952年)、京都府中郡峰山町字安(1953年)、京都府中郡峰山町字浪花(1955年・1958年)、京都府中郡峰山町字勅使(1960年)、京都府中郡峰山町(1961年・1962年・1963年・1964年)、京都府中郡峰山町杉谷(1966年)、京都府中郡峰山町杉山(1969年)、京都府中郡峰山町(1970年)、京都府中郡峰山町字安664(1973年)、京都府中郡峰山町字千才664(1980年・1981年)
開館年 : 1930年以後1934年以前
閉館年 : 1981年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1934年・1936年の映画館名簿では「峰山劇場」。1936年の映画館名簿では経営者は荻野丈夫(ハギではなくオギ)、各社を上映。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「峰山劇場」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1949年・1950年・1952年・1953年・1955年・1958年・1960年・1961年・1962年・1963年・1964年・1966年・1969年・1970年・1973年・1976年・1980年・1981年の映画館名簿では「峰山劇場」。1955年の映画館名簿では木造2階建て、定員1000人、経営者・支配人ともに萩野元枝(オギではなくハギ)。1971年の関西地研住宅地図では「峰劇」。1980年の映画館名簿では経営者・支配人ともに萩野丈夫、鉄筋造2階、400席、邦画・洋画を上映。1982年・1985年の映画館名簿には掲載されていない。1986年のゼンリン住宅地図では巨大な建物に「1階喫茶 ダンス ビューティクリエイティブ、2階東洋ソーイング峰山工場」。跡地は「カトリック峰山礼拝堂」から道路を挟んで東側の民家。最寄駅は京都丹後鉄道宮豊線峰山駅。

1929年6月26日から、峰山町の「峰山劇場」では福知山連隊渡満兵悲劇映画『茂一ヤーイ』を上映している。劇場主の荻野丈夫は収入金を福知山憲兵分隊に送り、さらに渡満兵の中の困窮家庭に送られた。((「映画『茂一ヤーイ』の運上全部を喜捨」『日出新聞』1929年6月28日))

1934年に日本地籍地図編纂社が発行した『峰山町図』には「峰山劇場」が描かれている。((日本地籍地図編纂社・倉田清次郎『峰山町図』日本地籍地図編纂社、1934年))

1935年に峰山町役場が発行した『峰山町全図』(峯山町全圖)には「峰山劇場」が描かれている。((『峰山町全図』峰山町役場、1935年))

1957年の峰山町勢要覧に収録されている「観光と産業の峰山町鳥瞰図」には「峰山劇場」が描かれている。((『みねやま』1957年「観光と産業の峰山町鳥瞰図」『みねやま』1957年))

『地域情報誌 丹後ing』1986年春号には丹後地方の映画館上映案内が掲載されているが、峰山町の映画館は1館も掲載されていない。その代わりに峰山文化会館が掲載されており、1986年4月5日には中原企画が峰山文化会館で『キン肉マン』『キャプテン翼』『ゲゲゲの鬼太郎』を上映予定。((『地域情報誌 丹後ing』1986年春号、第8号、p.46))

** 与謝郡与謝野町
*** 岩滝劇場
所在地 : 京都府与謝郡岩滝町(1941年・1953年)、京都府与謝郡岩滝町(1960年・1963年・1964年)、京都府与謝郡与謝野町岩滝2104-2(岩滝会館時代)
開館年 : 1953年
閉館年 : 1966年
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「岩滝劇場」。1943年・1947年・1949年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「岩滝劇場」。1954年・1955年・1956年・1958年・1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「岩滝劇場」。1964年の映画館名簿では鉄筋造2階建冷暖房付、定員500、経営者は沢田千代蔵、支配人は三田徳松、邦画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1978年のゼンリン住宅地図では「岩滝会館」。1986年のゼンリン住宅地図では「岩滝町会館」。最寄駅は京都丹後鉄道宮豊線岩滝口駅。

昭和初年には与謝郡岩滝町に木造の劇場が建設され、岩滝町で唯一の娯楽機関だったが、1950年6月11日の火災で焼失した。岩滝町は2,631,000円を出資した上で一般市民からの寄付も募り、9,050,000円の資金を調達。旧海軍の鉄骨造の建物の払い下げを受け、1953年に岩滝劇場が開館した。岩滝劇場では演劇の上演や映画の上映が行われたが、テレビの普及で観客数が減少したため休館した。岩滝町が債務を負担し、劇場財産の所有権を岩滝町に移管、社会教育施設の岩滝会館に転換した。455ページには岩滝会館の写真あり。((岩滝町役場『岩滝町誌』岩滝町、1970年、pp.454-455))

昭和初年の岩滝には、町で唯一の娯楽施設である木造の劇場が建設された。1950年6月11日の火災で焼失したが、岩滝町や町民が資金を出し合って再建に取り組んだ。旧日本国海軍の鉄骨造の建物の払い下げを受け、1953年に「岩滝劇場」が開館した。演劇や映画の興行を行ったが、テレビの普及によって観客数が減少して閉館となった。1966年には岩滝劇場の所有権を岩滝町に移し、町所有の社会教育施設である''岩滝会館''として使用した。岩滝会館は580席を有し、各種行事に使用された。(([[岩滝の教育 34 社会教育(2)>>http://isshiki-tex.jp/kyoiku34.htm]] 京都丹後ちりめん織元 一色テキスタイル。「岩滝の教育 社会教育(2)」『岩滝町誌』岩滝町、1970年が原典だとしている。明白な著作権侵害であるため利用は注意。))

岩滝会館は老朽化のために2009年後半に取り壊され、跡地には京都府看護協会による天橋立訪問看護ステーションが建設された。(([[第41回与謝野町議会定例会会議録>>http://www.town-yosano.jp/open_imgs/info/0000007876.pdf]] 与謝野町、2011年12月9日))

*** 市場劇場/四辻市場劇場
所在地 : 京都府与謝郡市場村四辻(1936年)、京都府与謝郡市場村辻369(1941年)、京都府与謝郡市場村字四辻(1953年・1955年)、京都府与謝郡野田川町四辻514(1958年)、京都府与謝郡野田川町四辻(1960年)、京都府与謝郡野田川町(1963年・1964年)、京都府与謝郡野田川町四辻(1966年)
開館年 : 1934年以後1936年以前
閉館年 : 1967年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1941年の映画館名簿では「市場劇場」。1943年・1947年・1949年・1950年・1952年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「市場劇場」。1955年の映画館名簿では木造2階建、定員350、経営者・支配人ともに足立亥之助。1964年の映画館名簿では木造2階建冷暖房付、定員350、経営者が矢野豊雲、支配人が正垣秋男、邦画を上映。1966年・1967年の映画館名簿では「四辻市場劇場」。1968年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「京都北都信用金庫野田川支店」。最寄駅は京都丹後鉄道宮豊線与謝野駅。

『与謝年鑑 昭和二十八年版』の市場村の項には「市場劇場」が掲載されている。「市場劇場 字四辻 電話加悦240番」とある。市場劇場の広告も掲載されている。「娯楽の殿堂 市場劇場 電話四辻240番」とある。((中村留蔵『与謝年鑑 昭和二十八年版』橋立新聞社、1953年、pp.159-160))

1956年現在の四辻にあった「市場劇場」の写真あり。((山添輝一『四辻郷土史』八幡神社社務所、1956年、p.254))

*** 末広座/加悦劇場
所在地 : 京都府与謝郡加悦町(1941年・1943年・1949年)、京都府与謝郡加悦町加悦(1955年・1958年・1960年)、京都府与謝郡加悦町(1963年)、京都府与謝郡加悦町算所93(1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1981年)
開館年 : 1947年3月
閉館年 : 1981年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1947年3月設立。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年・1943年の映画館名簿では「末広座」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1949年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1981年の映画館名簿では「加悦劇場」。1978年のゼンリン住宅地図では「加悦映劇」。1980年の映画館名簿では木造1階、470席、経営者・支配人ともに小柴明、邦画・洋画を上映。1982年の映画館名簿には掲載されていない。1986年のゼンリン住宅地図では跡地に「赤散ミチル」。建物は2010年代に取り壊された。最寄駅は京都丹後鉄道宮豊線与謝野駅。

1931年現在、加悦町における常設の興行場として「末広座」がある。大正中房蔵、吉田徳平、白杉広蔵らによって建設され、新派・旧派の演劇、活動写真、その他の興行を行っている。管理人は溝口岩蔵である。((『加悦町誌』加悦町、1931年、p.386))

『与謝年鑑 昭和二十八年版』の加悦町の項には「加悦劇場」の広告が掲載されている。「松竹 東宝 東映 大映 新東宝 封切場 加悦劇場 与謝郡加悦町 電話加悦112番 156番 222番自宅」とある。((中村留蔵『与謝年鑑 昭和二十八年版』橋立新聞社、1953年、p.183))

2001年現在の「加悦劇場」の写真あり。「読売新聞」の看板が見える。1931年頃の「末広座」の写真あり。「座廣末」の文字が見える。末広座は加悦劇場の前身の建物であり、演劇や映画の興行が行われた。((加悦町・加悦町教育委員会『加悦町 20世紀の記憶』加悦町、2001年、p.13))

加悦町の「加悦劇場」では『おけさ唄えば』(1961年・大映)や『俺が地獄の手品師だ』(1961年・東映)を上映し、ライオンの歯磨き粉に映画招待券を付けた。(([[高山昭和館>>http://blog.kageboshi.main.jp/?day=20130813]] 影絵集団かげぼうし、2013年8月13日))

** 与謝郡伊根町
映画館名簿によると与謝郡伊根町に映画館は存在しなかったと思われる。

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