閉館した映画館を中心とする、日本の映画館の総合データベースです。管理人「hekikaicinema」のみが編集可能。

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* 静岡県西部
** 浜松市
[[浜松市の映画館]]を参照。

** 湖西市
*** 鷲津館
所在地 : 静岡県浜名郡鷲津町
開館年 : 1931年
閉館年 : 不明
1931年(昭和6年)、鷲津横須賀神社の下に、映画劇場「鷲津館」が開場した。定員400人。((湖西市史編さん委員会『湖西市史総合年表 資料編・別巻』湖西市史編さん委員会、1994年、p.389))

*** 小松劇場/新居劇場
所在地 : 静岡県浜名郡新居町浜名138(1953年)、静岡県浜名郡新居町浜名(1955年)、静岡県浜名郡新居町源太山新国通(1958年)、静岡県浜名郡新居町浜名180(1960年)、静岡県浜名郡新居町源太山(1963年)
開館年 : 1936年12月
閉館年 : 1963年以後1966年以前
『全国映画館総覧1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「小松劇場」。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「新居劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1970年のアイゼン住宅地図では跡地に「モーターボート競走会」。跡地は「セブンイレブン新居町浜名店」。

大正時代の「小松劇場」の内部の写真あり。桟敷席が見える。旧「新居劇場」の前で行われている源太山の国道付け替え工事の写真あり。「新居劇」の文字が見える。((新居町企画課『わがまちあらい 古代から明治 大正 昭和へのあゆみ』新居町、1975年))

昭和10年代の新居町新居にあった劇場「小松劇場」の写真あり。1階席・2階席とも大勢の人でにぎわっている。1934年(昭和9年)6月、芸者置屋の新小松が所有していた劇場「新居劇場」が焼失した。新小松は1936年(昭和11年)6月に源太山に新しい劇場を建設し、12月に「小松劇場」が開館した。((『目で見る 湖西・引佐・浜名の100年』郷土出版社、2002年、p.73))

1876年(明治9年)5月、貸座敷業を営んでいた泉町の中野六郎平は、劇場の新築と営業を出願して許可された。1877年(明治10年)4月の芝居は新築された劇場「住吉座」で上演されたと思われる。住吉座は明治大正期の新居町の娯楽の中心であり、1906年(明治39年)頃には中町の荒木庄太郎が住吉座の座主となった。住吉座では芝居・各種講義・浄瑠璃・手品などが行われ、明治30年代後半からは活動写真も上映されるようになった。この後、船待ちにも芝居小屋「港座」が設けられ、芝居・映画会・寄席などが行われた。その後住吉座は「新居劇場」に改称した。時期不明の新居劇場の写真あり。新居劇場の所有者は何度か交代し、最終的には芸者置屋の新小松が所有していたが、1934年(昭和9年)6月25日の火災で焼失した。1936年(昭和11年)6月には新小松によって、源太山に新たな劇場の建設が開始され、同年12月に開場して「小松劇場」と呼ばれた。船町の港座も館内を改修して規模を拡大させ、1936年2月27日に改名披露興行を行った。((新居町史編さん委員会『新居町史 第二巻 通史編 下』新居町、1990年、pp.242-244))

*** 篠原会館
所在地 : 静岡県浜名郡篠原村(1958年)、静岡県浜名郡篠原村9386-3(1960年)、静岡県浜名郡篠原村篠原(1963年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「篠原会館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 入出座
所在地 : 静岡県浜名郡入出村474(1953年・1955年)、静岡県浜名郡湖西町入出(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 明治時代
閉館年 : 1963年以後1966年以前
『全国映画館総覧1955』によると1937年6月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「入出座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1967年(昭和42年)12月28日、湖西町北部で唯一の娯楽施設だった「入出座」が取り壊された。入出座は明治時代に劇場として建設され、後に映画館に改修された。新所=入出=知波田の間に農免道路が建設される際に、道路用地に収容されて取り壊されている。(※取り壊し年月日が書かれているだけであり、閉館した年月日は不明。)((湖西市史編さん委員会『湖西市史総合年表 資料編・別巻』湖西市史編さん委員会、1994年、p.596))

*** 松葉座
所在地 : 静岡県浜名郡舞阪町西町(1958年・1960年・1963年・1966年)
開館年 : 1928年7月
閉館年 : 1969年
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「松葉座」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1970年のアイゼン住宅地図では跡地に空白。跡地は「舞坂宿脇本陣茗荷屋」の北東90mにある民家。「イシガミ時計店」の北50m。最寄駅はJR東海道本線弁天島駅。

1932年(昭和7年)には舞阪町民の出資によって「松葉座」が建設され、町内唯一の劇場だった。花道がある桟敷づくりの劇場であり、芝居・映画・その他演芸・町民の催事などに利用された。1971年(昭和46年)に取り壊された。((舞阪町史編さん委員会『舞阪町史 中巻』舞阪町、1996年、p.345))

1928年(昭和3年)7月には舞阪に劇場「松葉座」が開場した。戦前から戦後の舞阪の文化を支えたが、1969年(昭和44年)3月に取り壊しに着手された。『舞阪町史 中巻』に書かれている存続期間「昭和7年から昭和46年」は誤りである。((舞阪町史編さん委員会『舞阪町史 下巻』舞阪町、1999年、p.1250))

1928年(昭和3年)7月、舞阪に「松葉座」が開場した。1969年(昭和44年)3月、「松葉座」が取り壊された。((『舞阪町史年表 掘拮餾緜立郷土資料館、2002年))

*** 大国座
所在地 : 静岡県浜名郡鷲津町126-7(1955年)、静岡県浜名郡湖西町1289(1958年)、静岡県浜名郡湖西町鷲津(1960年・1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1918年
閉館年 : 1969年以後1973年以前
1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「大国座」。1970年のアイゼン住宅地図では「大国座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はビジネスホテル「くれたけイン浜名湖」。

1918年(大正7年)、鷲津に劇場「大国座」が落成して開演した。((湖西市史編さん委員会『湖西市史総合年表 資料編・別巻』湖西市史編さん委員会、1994年))

** 磐田市
*** 磐田市の映画館
明治中期の磐田には劇場として、旧中泉公園に「照日座」(後の「中泉座」)、見付町に「磐田座」があった。大正時代になると映画が台頭し、1919年(大正8年)には中泉に「中活劇場」が設立された。大正後期には見付町(現・天王町)に「朝日座」が建設され、主に映画館として使用された。戦時中の朝日座ではニュース映画が上映された。((磐田の記録写真集編集会議『磐田の記録写真集』磐田市教育委員会文化財課・磐田市旧見付学校、2002年、pp.156-157))

磐田市にもっとも映画館が多かった時期は1955年(昭和30年)頃であり、東町の「中活劇場」、中町の「松竹劇場」、西町の「花月劇場」、田町の「スバル劇場」、天王町の「見付映画劇場」の5館があった。テレビが普及すると弱小映画館が閉館した。三ヶ野にはマイカーで鑑賞する野外映画劇場(ドライブインシアター)もお目見えしたが継続しなかった。1984年には最後まで残っていた中活劇場が閉館し、磐田市から映画館が姿を消した。((熊切正次『磐田ことはじめ 第二編 現代編』熊切正次、1996年、pp.213-214))

昭和30年代前半の磐田郡竜洋町では民間で常設映画館を開館させる動きがみられた。1959年(昭和34年)には「松竹竜洋劇場」を設立するための株式の申込書が配布され、白羽21番地に冷暖房完備・独立椅子席の劇場が計画されたが、この年の皇太子御成婚を契機にテレビが急速に普及し、劇場の建設は実現しなかった。((竜洋町史編さん委員会『竜洋町史 通史編』磐田市、2009年、pp.843-844))

*** 磐田座/新生劇場
所在地 : 静岡県磐田郡見付町(1930年)
開館年 : 1881年以前
閉館年 : 1951年
1930年の映画館名簿では「磐田座」。1936年・1943年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。

見付西坂町にあった「磐田座」では、1881年(明治14年)にはすでに興行が行われていた。磐田座は本格的な芝居劇場であり、回り舞台や花道や下道もあった。天井は横天井であり、升目の中に呉服店の宣伝が書かれていた。1948年頃に土木建築業者の手にわたり、磐田座から新生劇場に改称、こけら落とし公演には松本幸四郎が招かれた。1951年には天竜二俣に移築された。1955年には新生劇場の跡地に西坂会館が建設された。((磐田市史編さん委員会『磐田市史 通史編下巻 近現代』磐田市、1994年、p.496))

見付宿の西坂には七堂伽藍を備えた蓮光寺があったが、1911年(明治44年)に西光寺に統合されて廃止され、跡地には「磐田座」が開館した。花道と回り舞台のある2階建ての立派な劇場だった。こけら落としには沢村田之助が招かれた。終戦直後には9代目市川海老蔵(後の11代目市川団十郎)一門の松本幸四郎劇団が訪れた。8代目市川八百蔵、市川牡丹、沢村茂美次も訪れている。毎週土曜日には吾妻座から持ち込まれたフィルムで映画が上映され、当日は楽隊が呼び込みを行った。1945年(昭和20年)には周辺で強制建物疎開が行われたが、磐田座は建物疎開も空襲からも免れている。やがて「新生劇場」に改称し、後に天竜市の二俣に消え去った。((磐田史談会『磐田ものがたり』谷島屋書店、1988年、pp.208-209))

*** 掛塚劇場
所在地 : 静岡県磐田郡掛塚町761(1953年・1955年)、静岡県磐田郡竜洋町掛塚(1958年)
開館年 : 1921年8月
閉館年 : 1958年頃
『全国映画館総覧1955』によると1921年8月開館。1930年・1936年・1943年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「掛塚劇場」。1955年の映画館名簿では経営者・支配人ともに高橋伸宗、木造2階、定員650、混合を上映。1958年の映画館名簿では経営者が高橋秀佳、支配人が高橋常雄、木造2階、定員500。1959年・1960年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「旧掛塚郵便局」南110mにある民家。最寄駅はJR東海道本線豊田町駅。

『みんなと倶楽部 掛塚」』第10号・第11号・第14号、2018年には「帝国館」(掛塚劇場)について掲載されているとされる。現物は未確認。((『みんなと倶楽部 掛塚」』第10号・第11号、2018年))

*** 花月劇場/磐田花月劇場
所在地 : 静岡県磐田市西町619(1955年)、静岡県磐田市西町612(1958年)、静岡県磐田市中泉西町612(1960年)、静岡県磐田市中泉西町2715(1962年)
開館年 : 1951年1月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧1955』によると1951年1月開館。1953年・1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年の映画館名簿では「花月劇場」。1960年・1962年の映画館名簿では「磐田花月劇場」。1960年の映画館名簿では経営者・支配人ともに高橋秀佳、木造1階、定員200、大映・新東宝を上映。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「善道寺大樟」北東100mの道路上。最寄駅はJR東海道本線磐田駅。

かつて磐田駅前にあった善導寺の北側に花月劇場があった。戦後に開館した畳敷きの劇場であり、1952年頃には三浦環の『蝶々夫人』などが上演された。昭和30年代後半の区画整理事業で閉館。現在は善導寺の大クスのみが磐田駅前に残っている。((磐田市史編さん委員会『磐田市史 通史編下巻 近現代』磐田市、1994年、p.496))

*** 見付朝日座/朝日座/見付映画劇場
所在地 : 静岡県磐田郡見付町(1930年・1936年)、静岡県磐田郡磐田町見附(1943年)、静岡県磐田市見付(1950年)、静岡県磐田市見付2751(1953年)、静岡県磐田市天王2713(1955年)、静岡県磐田市見付2751(1960年・1962年)、静岡県磐田市見付275(1963年)
開館年 : 1926年3月
閉館年 : 1963年以後1966年以前
『全国映画館総覧1955』によると1926年3月開館。1930年・1936年・1943年の映画館名簿では「朝日座」。1950年の映画館名簿では「見付朝日座」。1953年・1955年の映画館名簿では「朝日座」。1960年の映画館名簿では「朝日座」。1962年の映画館名簿では経営者が春日井斉部、支配人が記載なし、木造2階、定員300、邦画を上映。1962年の映画館名簿では経営者が天野政一、支配人が武内源太郎。1963年の映画館名簿では「見付映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「金剛寺」西北西40mにある建物。最寄駅はJR東海道本線磐田駅。

見付天王町の金剛寺の西隣には「あさひ座」があった。あさひ座は200席ほどの畳敷きの芝居小屋である。((磐田市史編さん委員会『磐田市史 通史編下巻 近現代』磐田市、1994年、p.496))

*** 福田座/福田劇場
所在地 : 静岡県磐田郡福田町(1950年)、静岡県磐田郡福田町1564-1(1953年)、静岡県磐田郡福田町1941(1955年・1958年)、静岡県磐田郡福田町福田1941(1960年)、静岡県磐田郡福田町福田(1963年)、静岡県磐田郡福田町福田1941(1966年)
開館年 : 1921年7月
閉館年 : 1967年頃
『全国映画館総覧1955』によると1921年7月開館。1930年・1936年・1943年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年の映画館名簿では「福田座」。1955年・1958年の映画館名簿では「福田劇場」。1960年の映画館名簿では「福田座」。1963年・1966年・1967年の映画館名簿では「福田劇場」。1967年の映画館名簿では経営者が鈴木晋作、支配人が鈴木正文、木造2階、定員450。1968年・1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「六所神社」の西130mにある雑貨店「Y&K STORE」。最寄駅はJR東海道本線磐田駅。

福田町の商店街の中心は、本町通り映画館「福田座」のある中川通りにあった。菓子店・飲食店・銭湯・遊技場などがあった。福田座は映画館だったが芝居の興行なども行われた。『福島村誌』によると、福田座の前身は1912年(大正元年)に寄席として開館した「大正座」であり、1916年(大正5年)に廃止された。そこで横須賀町の某氏が資金を集め、1920年(大正9年)に福田座を設立したという。((福田町史編さん委員会『福田町史 資料編 民俗』福田町、1999年、p.44))

『福田町史 資料編 民俗』には1932年製の「福田町福田区住民分布現況図」をもとにした商店分布図が掲載されている。「福田座(芝居小屋・映画館)」がある。隣接地には当時から「金友(料理屋)」があり、商店街には当時から「寺井酒店」「カジュウサ(八百屋)」「田島精肉店」「太郎衛門商店(よろず屋)」があった。((福田町史編さん委員会『福田町史 資料編 民俗』福田町、1999年、p.43))

*** 豊浜座/豊浜劇場
所在地 : 静岡県磐田郡豊浜村4420-1(1953年)、静岡県磐田郡豊浜村4420(1955年)、静岡県磐田郡福田町豊浜4420(1958年)、静岡県磐田郡福田町豊浜4420-1(1960年)、静岡県磐田郡福田町豊浜(1963年)、静岡県磐田郡福田町豊浜4420-1(1966年)、静岡県磐田郡福田町豊浜4420(1968年)
開館年 : 1924年9月? 1927年?
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧1955』によると1924年9月開館。1930年・1936年・1943年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1968年の映画館名簿では「豊浜劇場」。1968年の映画館名簿では経営者が加藤兼一、支配人が加藤和儀、木造2階、定員465。1969年の映画館名簿には掲載されていない。

1927年(昭和2年)には磐田郡豊浜村に「豊浜座」が落成した。戦後には映画の時代となって「豊浜映画劇場」に改称された。近隣の村々からも自転車で大勢の観客が集まった。1955年(昭和30年)頃の写真あり。『素浪人奉行』などのポスターが見える。((『写真アルバム 磐周・小笠の昭和』いき出版、2019年、p.85))

1955年(昭和30年)頃の磐田郡福田町にあった「豊浜映画劇場」の写真あり。館内には芝居を上演できる舞台もあった。((『写真アルバム 磐周・小笠の昭和』いき出版、2019年、p.113))

*** 磐田松竹劇場/松竹映画劇/松竹映画劇場/磐田松竹映画劇場/磐田東映劇場/磐田映画劇場
所在地 : 静岡県磐田郡磐田町中泉(1943年)、静岡県磐田市中泉(1950年)、静岡県磐田市中泉402(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1941年1月14日
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1943年の映画館名簿では「磐田松竹映劇」。1950年の映画館名簿では「磐田松竹劇場」。1953年の映画館名簿では「松竹映画劇」(※松竹映画劇場ではない)。1955年の映画館名簿では「松竹映画劇場」。1958年の映画館名簿では「磐田松竹映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「磐田東映劇場」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「磐田映画劇場」。1969年の住宅地図では「東映劇場」。1970年の映画館名簿では経営者が関東共栄興行、支配人が野呂俊弘、木造2階冷暖房付、定員650、東宝・洋画を上映。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は天平通り沿いの居酒屋「foryouジュビロード店」。最寄駅はJR東海道本線磐田駅。

1953年(昭和28年)頃の磐田市中町にあった「松竹劇場」の写真あり。「松竹」の文字が見える。頃頃はまだテレビが普及しておらず、庶民の娯楽と言えば映画だった。((鈴木直之(監修)『写真集 磐田・袋井いまむかし』静岡郷土出版社、1988年、p.42))

磐田市の中町には「松竹劇場」があった。1953年(昭和28年)4月27日、NHKダブルプレゼントショー公開ラジオ番組が松竹劇場で行われた。((磐田の記録写真集編集会議『磐田の記録写真集』磐田市教育委員会文化財課・磐田市旧見付学校、2002年、pp.158-159))

国鉄磐田駅を北上したところの磐田市中泉402-1番地に「磐田東映(松竹)劇場」があった。1941年(昭和16年)1月14日創業。座席数は436席。町の中心街にあったため観客が多かった。なお、現在のセブンイレブン磐田ジュビロード店は中泉400-1番地にある。1953年頃の松竹劇場の写真あり。((磐田市史編さん委員会『磐田市史 通史編下巻 近現代』磐田市、1994年、p.496))

*** スバル劇場/磐田日活劇場
所在地 : 静岡県磐田市久保(1953年)、静岡県磐田市中泉町1355-5(1955年)、静岡県磐田市中泉町1355(1958年)、静岡県磐田市中泉133-51(1960年)、静岡県磐田市中泉町1335(1963年)、静岡県磐田市中泉町1335-5(1966年)、静岡県磐田市中泉2235-5(1969年・1970年)
開館年 : 1946年12月25日? 1947年12月25日?
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧1955』によると1946年12月開館。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「スバル劇場」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「磐田日活劇場」。1969年の住宅地図では「磐田日活劇場」。1970年の映画館名簿では経営者が太陽企業、支配人が中野成夫、木造2階冷暖房付、定員590、日活・成人映画を上映。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「中泉歴史公園」北東すぐの民家数軒。最寄駅はJR東海道本線磐田駅。

田町の久保川沿いの西側にあった。1946年12月25日、歌舞伎役者の沢村田之助や9歳だった美空ひばりを招いてこけら落とし公演を行った。こけら落としには長谷川一夫を招こうとしたが、出演料が高額すぎて断念している。1947年から1949年にかけて、藤山一郎、加藤大介、東海林太郎、岡春夫、ディック・ミネ、古賀正男、近江敏郎、市川右太衛門、柳谷金語楼、昔々亭桃太郎、小林旭、小暮美千代、松原操、高峰三枝子、月形竜之介、片岡千恵蔵など、そうそうたる役者を招いている。夏には22時過ぎからナイトショーが行われ、『蜘蛛の巣城』や『七人の侍』などを2本、昼間の半額で観ることができた。1963年8月には日活に貸与され、日活が10年間ほど興行した。((磐田市史編さん委員会『磐田市史 通史編下巻 近現代』磐田市、1994年、p.495))

1947年12月25日のクリスマス、磐田市に芝居小屋「スバル劇場」が開館した。東京のロードショー劇場「スバル座」(「劇場」ではなく「座」)と同じスバルを冠していた。社長は時事通信社出身の鈴木修次、副社長は新聞販売店主の松本文一。先代の中村吉右衛門一座の大歌舞伎がこけら落とし公演であり、スバル劇場は大入り満員となった。当初は歌舞伎・歌謡曲・軽演劇などの実演が多く、やがて映画上映館となった。磐田市政5周年記念式典、5ヶ村合併祝賀式典もスバル劇場で行われた。((「時代再現 磐田のスバル劇場 昭和22年12月25日開場」『磐南文化』磐南文化協会、1994年、第20号、p.107))

中泉座の跡地にはスバル劇場が建設された。磐田市が合併した際のスバル劇場の写真あり。『大砂塵』や『明日の幸福』や『めくら狼』や『赤い山』のポスターが見える。1965年(昭和40年)頃、スバル劇場は磐田日活に改称した。「日活直営 磐田日活」の文字が見える。((磐田の記録写真集編集会議『磐田の記録写真集』磐田市教育委員会文化財課・磐田市旧見付学校、2002年、pp.158-159))

*** 中泉館/中泉中活館/中泉日活館/磐田東宝劇場/東宝劇場/磐田東宝映画劇場/磐田中活劇場/磐田中活
所在地 : 静岡県磐田郡中泉町中町(1930年)、静岡県磐田郡中泉町七軒町(1936年)、静岡県磐田郡磐田町中泉(1943年)、静岡県磐田市中泉(1950年)、静岡県磐田市中泉507(1953年)、静岡県磐田市七軒町504(1955年)、静岡県磐田市中泉504(1958年)、静岡県磐田市中泉507(1960年・1963年・1966年・1969年)、静岡県磐田市七軒町507(1973年)、静岡県磐田市中泉507(1976年・1980年・1982年・1984年・1985年・1986年)
開館年 : 1921年12月28日
閉館年 : 1983年10月
1930年の映画館名簿では「中泉館」。1936年の映画館名簿では「中泉中活館」。1943年の映画館名簿では「中泉日活館」。1950年の映画館名簿では「磐田東宝劇場」。1953年の映画館名簿では「東宝映画劇場」。1955年の映画館名簿では「東宝劇場」。1958年の映画館名簿では「磐田東宝映画劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年の映画館名簿では「磐田中活劇場」。1969年の住宅地図では「中活映画劇場」。1982年の映画館名簿では「磐田中活」。1984年の映画館名簿では「磐田中活劇場」。1985年・1986年の映画館名簿では「磐田中活」。1986年の映画館名簿では経営者が播磨福策、支配人が播磨さと子、木造1階、220席、邦画・洋画を上映。1988年・1990年の映画館名簿には掲載されていない。磐田市最後の従来型映画館。「佐鳴予備校磐田駅前校」の南東のブロック。閉館後の区画整理事業により道路割はかなり変化しているので参考程度に。最寄駅はJR東海道本線磐田駅。

磐田市中泉507番地、大乗院三仭坊(だいじょういんみひろぼう)の西側には「磐田中活劇場」があった。1921年(大正10年)12月28日、東町の有力者による経営で創立。座席数は379席。戦前は芝居が主だったが、戦後は洋画が主となった。1950年にはローレンス・オリビエ主演の『ハムレット』を上映。1955年(昭和30年)以後は株式会社組織だった。磐田市で最後まで残っていた映画館であり、1983年(昭和58年)10月に閉館した。現在、跡地は磐田市の公園となっている。((磐田市史編さん委員会『磐田市史 通史編下巻 近現代』磐田市、1994年、p.495))

1927年に磐田郡中泉町が行った「活動写真と教育に関する調査」によると、東町の「中活劇場」の従業員は映画説明者4人・洋楽手4人・売店員1人だった。観客定員は497人であり、入場料は大人30銭・小人10銭だった。年間入場者数は5万9196人だった。((熊切正次『磐田ことはじめ 第二編 現代編』熊切正次、1996年、p.213))

*** TOHOシネマズららぽーと磐田
所在地 : 静岡県磐田市高見丘1200番地 ららぽーと磐田3階(2010年・2015年・2020年)
開館年 : 2009年7月23日
閉館年 : 営業中
2005年の映画館名簿には掲載されていない。2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「TOHOシネマズららぽーと磐田1-10」(10館)。最寄駅はJR東海道本線磐田駅。

2009年7月23日、磐田市高見丘のららぽーと磐田に「TOHOシネマズららぽーと磐田」が開館した。開館記念式典には、東宝の高井英幸社長、女優の長澤まさみが出席した。長澤は子どもの頃に磐田市民文化会館で映画を観たという。10スクリーン1663席。((「ららぽーと磐田『シネコン』オープン 女優・長沢さんが来館呼びかけ」『静岡新聞』2009年7月24日))

** 袋井市
*** 山梨有楽座/有楽座
所在地 : 静岡県周智郡山梨町(1950年)、静岡県周智郡山梨町山梨965(1953年)、静岡県周智郡山梨町山梨(1958年)、静岡県周智郡山梨町965-1(1960年)、静岡県周智郡山梨町上山梨(1963年)
開館年 : 1950年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1950年の映画館名簿では「山梨有楽座」。1953年の映画館名簿では「有楽座」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「有楽座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

*** センター ホール/センターホール
所在地 : 静岡県磐田郡袋井町1195(1958年)、静岡県袋井市高尾1195(1960年)、静岡県袋井市高尾1175(1963年)
開館年 : 1955年秋
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「センター ホール」。1960年・1963年の映画館名簿では「センターホール」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1955年秋、駅前東通りに「オリオン座」と「センターホール」という映画館2館が同時に開館した。((小杉達(監修)『目で見る 磐田・袋井の100年』郷土出版社、2002年、p.111))

*** オリオン座/袋井オリオン座
所在地 : 静岡県磐田郡袋井町高尾(1958年)、静岡県袋井市高尾1173-1(1960年)、静岡県袋井市高尾1173(1963年)、静岡県袋井市高尾1173-1(1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1955年秋
閉館年 : 1973年以後1976年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「オリオン座」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「袋井オリオン座」。1972年の住宅地図では「オリオン座」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「スナック エスポワール」がある付近。しかし区画整理事業で道路割が完全に変化してるので場所は参考程度に。

昭和30年代の写真あり。『美しき哀愁』と『忠臣蔵』の看板がかかっている。1955年秋、磐田郡袋井町の駅前東通りに「オリオン座」と「センターホール」という映画館2館が同時に開館した。((小杉達(監修)『目で見る 磐田・袋井の100年』郷土出版社、2002年、p.111))

1966年(昭和41年)の袋井市にあった映画館「オリオン座」の写真あり。1955年(昭和30年)、東通りから小路に入った場所に開館した。東通りには映画館「センターホール」もあった。((『写真アルバム 磐周・小笠の昭和』いき出版、2019年、p.116))

*** 東映袋井座/袋井座/袋井ロマンス座/ロマンス座
所在地 : 静岡県磐田郡袋井町(1930年・1936年・1950年)、静岡県磐田郡袋井町高尾2170(1953年)、静岡県磐田郡袋井町高尾1175(1955年・1958年)、静岡県袋井市1175(1960年・1966年・1969年)、静岡県袋井市高尾275(1973年)、静岡県袋井市高尾1195(1977年・1978年)、静岡県袋井市高尾1193(1980年・1985年・1986年)
開館年 : 1922年11月(袋井座)、1974年以後1978年以前(ロマンス座)
閉館年 : 1986年頃
『全国映画館総覧1955』によると1922年11月開館。1930年・1936年・1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「袋井座」。1960年・1963年の映画館名簿では「東映袋井座」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「袋井座」。1972年の住宅地図では「袋井座」。1973年の映画館名簿では木造2階建て380席、経営者は鈴木常一、支配人は中田邦夫、東宝・洋画・成人映画を上映。1976年・1978年の映画館名簿では「袋井ロマンス座」。1978年の映画館名簿では鉄筋コンクリート造平屋建て110席、経営者は鈴木常一、支配人は中田邦夫、邦画・洋画を上映。1980年・1985年・1986年の映画館名簿では「ロマンス座」。1987年・1988年・1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「双葉スポーツ袋井店」と「サロンドシバタ」の間にある建物付近。しかし区画整理事業で道路割が完全に変化してるので場所は参考程度に。袋井市最後の映画館。

1954年(昭和29年)正月の「袋井劇場」の写真あり。「賀正」の文字が見える。「山崎屋商店」のトラック(?)が見える。(※袋井劇場が映画館名簿におけるどの映画館を指すのかは不明)((鈴木直之(監修)『写真集 磐田・袋井いまむかし』静岡郷土出版社、1988年、p.42))

1974年(昭和49年)4月29日、袋井市高尾の繁華街にあるひしだい製茶会社の製茶工場から出火し、映画館「袋井座」・商店・住宅など20棟が全半焼した。袋井座には約100人の観客がいたが、逃げて全員無事だった。((「繁華街の映画館など 昼火事20棟焼く 商店主ら3人重軽傷 静岡・袋井」『朝日新聞』1974年4月30日))

** 掛川市
*** 大浜文化劇場
所在地 : 静岡県小笠郡大浜町報地(1960年・1963年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「大浜文化劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 千浜文化劇場
所在地 : 静岡県小笠郡大浜町千浜(1960年・1963年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「千浜文化劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 山口会館
所在地 : 静岡県掛川市伊達方(1960年・1963年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「山口会館」。1964年の掛川市住宅明細図では「東山口会館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「大頭龍神社」北東70mにある工場用地。最寄駅はJR東海道本線菊川駅。

*** 中央劇場/掛川中央劇場
所在地 : 静岡県小笠郡掛川町掛川(1953年)、静岡県掛川市713-1(1955年)、静岡県掛川市掛川713(1958年)、静岡県掛川市73(1960年)、静岡県掛川市掛川713(1963年)、静岡県掛川市713(1966年)
開館年 : 1950年10月
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1950年の映画館名簿には掲載されていない。『全国映画館総覧1955』によると1950年10月開館。1953年の映画館名簿では「掛川中央劇場」。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「中央劇場」。1964年の掛川市住宅明細図では「中央劇場」。1966年の映画館名簿では「掛川中央劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1991年取り壊し。跡地は「島田掛川信用金庫連雀支店」南南西40mの道路。最寄駅はJR東海道本線掛川駅。

1953年(昭和28年)頃の掛川市にあった「中央劇場」の写真あり。戦後の掛川市には、肴町・連雀町・瓦町に映画館が開館した。連雀町には掛川銀行の建物があったが、1935年に解散すると協和銀行掛川支店となり、戦時中は繊維組合事務所に使用されていた。建物はやがてパチンコ屋の中央会館となった。((『ふるさとの想い出 写真集 明治大正昭和 掛川』国書刊行会、1979年、p.100))

1954年(昭和29年)の掛川市にあった「中央劇場」の写真あり。1889年(明治12年)に設立された掛川銀行は全国有数の大銀行だったが、1935年(昭和10年)に解散してからは建物が繊維組合や商工会に使用され、戦後の1950年(昭和25年)9月に中央劇場の建物となった。ニュース映画と洋画の専門館だったが、昭和30年代後半にパチンコ店「中央会館」に転換された。1991年(平成3年)、都市計画道路の掛川駅松尾線を建設するために取り壊された。((『掛川・菊川・御前崎今昔写真帖』郷土出版社、2007年、p.88))

*** 横須賀座/横須賀映画劇場
所在地 : 静岡県小笠郡横須賀町(1955年)、静岡県小笠郡大須賀町5231(1958年)、静岡県小笠郡大須賀町1457-3(1960年)、静岡県小笠郡大須賀町中本(1963年)、静岡県小笠郡大須賀町横須賀1457-3(1966年・1969年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1963年? 1969年以後1973年以前?
1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「横須賀座」。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「横須賀映画劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

明治大正期の大須賀村には芝居小屋として「翁座」があり、後には活動写真館として「横須賀座」もできた。大須賀町には1963年(昭和38年)まで映画館が1軒あったが、1980年(昭和55年)現在は存在しない。((大須賀町誌編纂委員会『大須賀町誌』大須賀町、1980年、pp.466-467))

1952年(昭和27年)の「横須賀映画劇場」の写真あり。「横須賀映画劇場」の文字が見える。1963年(昭和38年)夏に改装された際の「横須賀映画劇場」の写真あり。「横映」や「YOKOSUKA」の文字が見える。横須賀座/横須賀映画劇場は、戦前・戦後を通じて芝居・浪曲・演芸・映画を興行し、集会場としても活用された。((記念誌編集委員会『写真でつづるふるさと大須賀 大須賀町制30周年記念』大須賀町、1986年、p.75))

1952年(昭和27年)頃の「横須賀座」の写真あり。正面中央上部には「横須賀座」の文字が見えるが、入口上には「松竹・大映・東映 横須賀映画劇場」と書かれている。左右に尖塔のある個性的な建物だったが、1952年以後に改修して「横須賀映画劇場」に改称した。収容人数は小笠郡で最大であり、「南遠の娯楽の殿堂」として親しまれた。1963年(昭和38年)に閉鎖された。((粕谷重範・桑原武(監修)『写真集 掛川・小笠いまむかし』静岡郷土出版社、1988年、p.133))

*** 栄劇場/東映栄劇場/掛川東映栄劇場/掛川栄劇場
所在地 : 静岡県小笠郡掛川町肴町(1953年)、静岡県掛川市239(1955年)、静岡県掛川市掛川239(1960年・1963年・1966年)、静岡県掛川市肴町239(1969年・1973年・1976年)
開館年 : 1950年10月
閉館年 : 1978年3月21日
1950年の映画館名簿には掲載されていない。『全国映画館総覧1955』によると1950年10月開館。1953年の映画館名簿では「掛川栄劇場」。1955年の映画館名簿では「栄劇場」。1960年の映画館名簿では「東映栄劇場」。1963年の映画館名簿では「掛川東映栄劇場」。1964年の掛川市住宅明細図では「掛川東映劇場」。1966年・1969年・1973年・1976年・1978年の映画館名簿では「掛川栄劇場」。1970年の住宅地図では「掛川栄映劇場」(原文ママ)。跡地は「後藤生花店」の西側、「高橋商店」の東側。最寄駅はJR東海道本線掛川駅。

1960年(昭和35ねん)頃の掛川市肴町にあった「栄劇」(えいげき)の写真あり。「大衆娯楽の殿堂 栄劇」の文字が見える。建物脇の街路灯には「肴町通り」と書かれている。『哀愁日記』と『若旦那の御縁談』のポスターが見える。この頃の掛川市街地には約4軒の映画館があったが、1988年(昭和63年)現在は「掛川座」のみである。数年前には都市計画事業によって栄劇の建物も取り壊され、跡地は商店街となっている。((粕谷重範・桑原武(監修)『写真集 掛川・小笠いまむかし』静岡郷土出版社、1988年、p.131))

1954年(昭和29年)頃の掛川市にあった「栄劇場」の写真あり。裏通りの肴町の中央、もともと旅館の姫路屋があった場所に、1950年(昭和25年)9月に開館した。木造2階建てであり、定員は550人だった。第二東映の上映館だった。掛川駅前都市計画事業で代替地をあてがわれたが、経営不振で営業の見通しが立たなかったため、1978年(昭和53年)3月21日に閉館した。建物は取り壊され、跡地は商店街となっている。((『掛川・菊川・御前崎今昔写真帖』郷土出版社、2007年、p.88))

*** 掛川映画劇場/掛川座
所在地 : 静岡県小笠郡掛川町(1930年・1936年・1950年)、静岡県小笠郡掛川町大手1116-4(1953年)、静岡県掛川市大手町1116-4(1955年)、静岡県掛川市大手町1116(1958年)、静岡県掛川市大手町116-2(1960年)、静岡県掛川市大手町126(1963年)、静岡県掛川市大手町1116(1966年)、静岡県掛川市大手町116-2(1969年)、静岡県掛川市大手町1116(1973年)、静岡県掛川市大手町5-9(1976年)、静岡県掛川市大手町1116-2(1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1907年頃
閉館年 : 1991年2月28日
『全国映画館総覧1955』によると1909年8月開館。1930年・1936年・1950年の映画館名簿では「掛川座」。1953年の映画館名簿では「掛川映画劇場」。1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「掛川座」。1964年の掛川市住宅明細図では「掛川座」。1970年の住宅地図では「掛川座」。掛川市最後の映画館。跡地は市営「掛川大手門駐車場」建物東側。最寄駅はJR東海道本線掛川駅。参考文献として『掛川座 ぼくのシネマパラダイス』がある。

1907年(明治40年)頃の劇場「掛川座」の竣工記念写真あり。大手町に新築された。1979年(昭和54年)現在の掛川座は、映画も演劇も上演できる掛川市唯一の劇場である。((『ふるさとの想い出 写真集 明治大正昭和 掛川』国書刊行会、1979年、p.11))

1953年(昭和28年)頃の掛川市大手町にあった映画館「掛川座」の写真あり。江戸時代の掛川藩時代には大手厩と馬場があり、明治初期には掛川監獄があり、明治20年代には米茶取引所も開設された。1900年(明治33年)の掛川大火後には中町遊郭が一時的に移転してきたが、やがて中町遊郭は十九首裏に移転し、掛川座が建設された。桟敷席と枡席を持つ畳敷きの劇場であり、戦後に椅子席に改造された。((『ふるさとの想い出 写真集 明治大正昭和 掛川』国書刊行会、1979年、p.100))

1907年(明治40年)頃には掛川座が建築され、1989年現在もその建物を使用している。1907年(明治40年)頃の掛川座の写真あり。((『写真集 映画黄金期 小屋と名作の風景 下巻』国書刊行会、1989年、p.9))

1953年(昭和28年)頃の「掛川座」の写真あり。『君の名は』の看板が見える。1909年(明治42年)7月10日に開場式が、7月14日に舞台開きが開催された。掛川町大手の有力者によって、厩の跡地の広場に設けられた劇場である。畳敷きの花道、枡席、回り舞台、奈落からせりあがる装置、楽屋、2階席などがあった。格天井には枡形の一つ一つに商店広告が入っていたという。演劇ととともに映画の上映も可能だった。昭和初期には木製ベンチ席となった。((『掛川・菊川・御前崎今昔写真帖』郷土出版社、2007年、p.88))

戦後、掛川市の劇場「掛川座」は椅子席に改造され、映画・芝居・歌謡ショー・浪曲・講演会・諸行事の会場として使用された。1956年には「掛川映画劇場」に改称し、ワイドスクリーンを備えた本格的な映画館となった。1991年(平成3年)2月27日にお別れ興行を開催した。((『掛川・菊川・御前崎今昔写真帖』郷土出版社、2007年、p.88))

1907年(明治40年)頃、芝居小屋として「掛川座」が発足した。昭和初期頃に2代目の田島氏が、1954年(昭和29年)に現在の戸塚興業が経営を引き継いだ。芝居小屋として開館したため、花道や舞台中央の昇降装置もあった。掛川には4軒の映画館があり、東映のやくざ映画や時代劇が中心の栄劇場、洋画専門の中央劇場、日活映画専門の掛川座などというふうにすみ分けられた。掛川座で岸恵子主演の『君の名は』が上映された際には、国鉄掛川駅近くまで観客の行列が続いたという。(([[掛川座の長い歴史の刻印>>http://letterhouse.net/78/mukashizama/m-26.html]] 掛川昔様))

1953年(昭和28年)頃の掛川市にあった「掛川座」の写真あり。『君の名は』と『とのさま街道』が上映されていた。1907年(明治40年)頃に大手町に開館した。花道や回り舞台のある本格的な劇場であり、内部は桟敷と畳敷きだったが、戦後に椅子席に改造された。1988年(昭和63年)現在の掛川市に残る唯一の劇場だが、都市計画事業によって取り壊される予定である。((粕谷重範・桑原武(監修)『写真集 掛川・小笠いまむかし』静岡郷土出版社、1988年、p.130))

1991年(平成3年)2月末、土地区画整理事業のために映画館「掛川座」が閉館する。14歳の美空ひばり、歌手の田畑義夫、女優の高峰三枝子、木暮実千代などが掛川座を訪れた。俳優の伊東四朗は、掛川にあった母親の実家で小中学生時代を過ごしており、「掛川座は私の芸の原点」と語る。((「さよなら掛川座 区画整理で来年2月末に閉館 掛川市」『静岡新聞』1990年11月27日))

掛川市の映画館「掛川座」ではこのほど、閉館を惜しむイベントを開催した。掛川座は1991年(平成3年)2月いっぱいで閉館する。小学生時代に子役で掛川座の公演に出演したという伊東四朗が来館している。閉館理由は土地区画整理事業のため。((「掛川市最後の映画館『掛川座』で閉館を惜しむイベント」『静岡新聞』1990年12月19日))

1991年2月27日をもって、掛川市の映画館「掛川座」が82年の歴史に幕を下ろして閉館した。1909年創立。掛川市の区画整理事業に伴って閉館し、取り壊しが決定している。地方の映画館としては老舗とされる。2月27日には『ラストショー』を上映するさよならイベントが開催され、約300人が参加した。上映後には参加者全員で「蛍の光」を合唱した。((「地方映画館としては老舗の『掛川座』(静岡県掛川市)が(窓)」『日本経済新聞』1991年2月28日))

1991年3月15日号の『朝日ジャーナル』には「掛川座」が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。((「消える映画館 現役最古の『掛川座』 盛大にサヨナラ興行」『朝日ジャーナル』1991年3月15日号、33巻11号、p.85))

掛川市大手町にあった映画館「掛川座」は、1907年(明治40年)に開館し、1990年(平成2年)に閉館した。1991年(平成3年)に取り壊され、跡地は掛川市営駐車場となっている。2001年(平成13年)には静岡県立磐田北高校の教員が掛川座の思い出をつづった書籍『掛川座 ぼくのシネマパラダイス』を出版した。((「映画館の思い出つづる 磐田北高教諭の土屋さんが『掛川座』を出版」2001年11月25日))

村松友視『黄昏のムービー・パレス』には、「掛川座」に関する随筆が掲載されている。((村松友視『黄昏のムービー・パレス』平凡社、1999年))

2006年(平成18年)6月、総合福祉施設として「総合福祉ステーションビル 掛川座」が開業した。名称は映画館の掛川座に因んでいるが、所在地は映画館時代と異なる。

** 菊川市
*** 南映画劇場
所在地 : 静岡県小笠郡小笠町高橋3430(1960年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「南映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 菊水映画劇場
所在地 : 静岡県小笠郡菊川町六郷5(1955年)、静岡県小笠郡菊川町283(1958年)、静岡県小笠郡菊川町半済(1960年・1963年)
開館年 : 1950年7月
閉館年 : 1963年以後1966年以前
『全国映画館総覧1955』によると1950年7月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「菊水映画劇場」。1961年の菊川町住宅明細図では「菊水映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「しずてつストア菊川店」西南西50mにある空き地。最近まで建物が残っていた可能性がある。

*** 平田映画劇場
所在地 : 静岡県小笠郡平田町玉川1128(1953年)、静岡県小笠郡菊川町平田(1955年)、静岡県小笠郡小笠町下平川(1963年)、静岡県小笠郡小笠町下平川1128-1(1966年・1969年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1969年以後1973年以前
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「平田映画劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年の菊川町住宅明細図附小笠町では「平田映画劇場」。1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「平田映画劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「島田掛川信用金庫小笠支店」北北西70mにあるラーメン店「花琵」。最寄駅はJR東海道本線菊川駅。

*** 堀ノ内劇場/堀之内劇場
所在地 : 静岡県小笠郡堀之内町(1950年)、静岡県小笠郡堀之内町240(1953年)、静岡県小笠郡菊川町1(1955年)、静岡県小笠郡菊川町堀之内223(1958年)、静岡県小笠郡菊川町堀之内(1960年・1963年)、静岡県小笠郡菊川町堀之内223(1966年・1969年・1973年・1976年)、静岡県小笠郡菊川町堀之内239(1980年)
開館年 : 1923年9月? 1924年?
閉館年 : 1981年
『全国映画館総覧1955』によると1923年9月開館。1950年の映画館名簿では「堀ノ内劇場」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「堀之内劇場」。1961年の菊川町住宅明細図では「堀ノ内映画劇場」。1973年・1976年の映画館名簿では「堀ノ内劇場」。1980年の映画館名簿では「堀之内劇場」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「駅南1号公園」西側の民家。菊川駅前は1990年代以降の区画整理事業で大きく変化しているので参考程度に。最寄駅はJR東海道本線菊川駅。

1924年(大正13年)、菊川町に劇場「堀之内劇場」が開館した。回り舞台のある本格的な劇場であり、当初は歌舞伎や浪曲などを上演した。1933年(昭和8年)からは映画を上映し、昭和30年代の映画全盛期には多くの映画ファンでにぎわった。1952年(昭和27年)の改装直後の建物の写真、1960年(昭和35年)頃の国鉄菊川駅前に掲示された映画ポスターや看板の写真あり。堀之内劇場はテレビの普及によって57年の歴史に幕を下ろした(※明確な閉館年は書かれていない)。閉館前の3日間は「サヨナラ興行」が行われ、映画ファンで満席になった。1988年(昭和63年)現在の堀之内劇場跡地は駐車場になっている。((粕谷重範・桑原武(監修)『写真集 掛川・小笠いまむかし』静岡郷土出版社、1988年、p.132))

『掛川・菊川・御前崎今昔写真帖』に写真が掲載されている。現物は未確認。((中村肇(監修)『掛川・菊川・御前崎今昔写真帖』郷土出版社、2007年))

** 御前崎市
*** 新谷映画劇場/新谷劇場/新谷文化劇場
所在地 : 静岡県榛原郡御前崎町白羽(1959年・1960年・1961年・1962年)、静岡県榛原郡御前崎町新谷(1963年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年の映画館名簿では「新谷映画劇場」。1959年の経営者・支配人ともに杉浦正二、木造1階、定員185、邦画を上映。1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「新谷劇場」。1963年の映画館名簿では「新谷文化劇場」。1963年の映画館名簿では経営者・支配人ともに杉浦正二、構造・定員・上映作品は記載なし。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の榛南地区住宅明細図附相良町・御前崎町では掲載範囲外。1971年の住宅地図では「劇場」。跡地は「古田屋御前崎店」北北西190mにある空き地。

*** 御前崎座/御前崎劇場
所在地 : 静岡県榛原郡御前崎村(1953年)、静岡県榛原郡御前崎村4407(1955年)、静岡県榛原郡御前崎町4407(1958年)、静岡県榛原郡御前崎町(1960年・1963年)、静岡県榛原郡御前崎町西側(1966年・1969年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1969年頃
1953年・1955年の映画館名簿では「御前崎座」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「御前崎劇場」。1966年の経営者・支配人ともに増田憲、木造1階、定員429、邦画を上映。1969年の経営者・支配人ともに増田憲、構造・定員は記載なし、邦画・洋画を上映。1969年の榛南地区住宅明細図附相良町・御前崎町には跡地に空白。1970年・1973年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 池新田劇場/浜岡劇場/浜岡映画劇場
所在地 : 静岡県小笠郡池新田町東町(1953年)、静岡県小笠郡浜岡町3215-1(1955年)、静岡県小笠郡浜岡町3215(1958年)、静岡県小笠郡浜岡町本町(1960年・1963年)、静岡県小笠郡浜岡町池新田2215(1966年・1969年)
開館年 : 1927年9月
閉館年 : 1969年以後1973年以前
『全国映画館総覧1955』によると1927年9月開館。1953年・1955年の映画館名簿では「池新田劇場」。1958年の映画館名簿では「浜岡劇場」。1960年の映画館名簿では「浜岡映画劇場」。1963年の映画館名簿では「浜岡劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「浜岡映画劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「揚張プロパン」西側の小規模太陽光発電所。定食屋「美津屋」の北。

戦前の浜岡町にあった商店街の地図あり。1997年(平成9年)現在の東町・本町付近。「池新田座」が描かれている。((浜岡人物誌編集委員会『郷土の歴史と沿革 浜岡人物誌 池新田・高松編』浜岡町教育委員会、1997年、p.41))

1951年(昭和26年)頃の「池新田劇場」の写真あり。「池新田劇場」と「IKESHINDEN THEATRE」の文字が見える。昭和初期、小笠郡池新田村の本町に開館した。映画や学芸会などが催され、近郷の人びとを集めた。1949年(昭和24年)には静岡県立池新田高校の演劇部が池新田劇場を利用している。((浜岡町『風紋 浜岡町・閉町記念写真集』浜岡町、2004年、p.121))

** 周智郡森町
*** 明治座
所在地 : 静岡県周智郡森町
開館年 : 明治時代
閉館年 : 1945年以前?
映画館名簿には掲載されていない。

1932年(昭和7年)現在の森町の劇場は「明治座」があるのみである。1931年度(昭和6年度)の「明治座」では、活動写真が104回、演劇が11回、浪花節が5回、計120回の興行が行われた。入場者数は活動写真が計20,452人、演劇が計4,805人、浪花節が計1,191人、総計26,448人だった。((森町尋常高等小学校『郷土誌』森町尋常高等小学校、1932年(1981年復刻)、p.193))

*** 森町劇場
所在地 : 静岡県周智郡森町森(1953年)、静岡県周智郡森町910(1955年・1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1935年8月? 1936年?
閉館年 : 1963年以後1966年以前
『全国映画館総覧1955』によると1935年8月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「森町劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「森町タクシー」。最寄駅は天竜浜名湖鉄道天浜線遠州森駅または戸綿駅。

劇場は「明治座」のほかに「森町劇場」があった。1949年(昭和24年)3月から1950年(昭和25年)2月の第11期営業報告書によると、株式は360株・株主は79名、社長は渡辺徳三郎。((森町史編さん委員会『森町史 通史編 下巻』森町、1998年、p.260))

1936年(昭和11年)に建てられた「森町劇場」の写真あり。戦後に改修された「森町劇場」の写真あり。((森町制100周年記念誌編集委員会『町制100周年記念写真集 森町 むかしといま』森町、1989年、p.87))

*** 森町中央劇場/森中央劇場
所在地 : 静岡県周智郡森町森261-5(1960年)、静岡県周智郡森町261(1963年)、静岡県周智郡森町910(1966年・1969年)
開館年 : 1956年
閉館年 : 1969年以後1973年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「森町中央劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「森中央劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は映画館時代の建物を流用した「スーパーヒラノ」の廃墟。最寄駅は天竜浜名湖鉄道天浜線遠州森駅または戸綿駅。

1959年(昭和34年)の森町にあった「中央劇場」の写真あり。森町にはすでに「森町劇場」があったが、1956年(昭和31年)に森町で2軒目の映画館として中央劇場が開館した。((坪井俊三(監修)『目で見る北遠・周智・浜北の100年』郷土出版社、2002年、p.114))

* 静岡県中部
** 静岡市
[[静岡市の映画館]]を参照。

** 島田市
*** 初倉劇場
所在地 : 静岡県島田市
開館年 : 1961年以前
閉館年 : 1964年以後
映画館名簿には掲載されていない。1961年の島田市住宅明細図初倉版では初倉劇場。跡地は「スーパーカネハチ初倉店」北東50mの「ますだや第2駐車場」と民家。

1964年の島田市にあった映画館「初倉劇場」の写真あり。「初倉劇場」の文字が見える。旧初倉村には2館の映画館があった。((『島田・牧之原・榛原の昭和』いき出版、2017年、p.58))

*** 金谷日活/第二劇場/第二金谷劇場
所在地 : 静岡県榛原郡金谷町金屋河原376(1955年)、静岡県榛原郡金谷町金谷原376(1956年)、静岡県榛原郡金谷町金谷原387(1957年)、静岡県榛原郡金谷町378(1958年)、静岡県榛原郡金谷町宮崎町(1960年)、静岡県榛原郡金谷町栄町(1963年)
開館年 : 1953年12月
閉館年 : 1963年以後1966年以前
『全国映画館総覧1955』によると1953年12月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「金谷日活」。1956年・1957年の映画館名簿では「第二劇場」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「第二金谷劇場」。1961年の金谷町住宅明細図では「金谷第二劇場」。1964年の島田市金谷町住宅明細地図では「第二劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1976年の住宅地図では跡地に「佐塚歯科医院」(当時の佐塚歯科医院は現在と場所が異なる)。跡地は「佐塚歯科医院」南東30mの建物。最寄駅は大井川鉄道大井川本線新金谷駅。

*** 金河座/金谷劇場
所在地 : 静岡県榛原郡金谷町栄町(1953年)、静岡県榛原郡金谷町栄町73(1955年)、静岡県榛原郡金谷町73(1958年)、静岡県榛原郡金谷町栄町(1960年・1963年)、静岡県榛原郡金谷町金谷河原78(1966年)、静岡県榛原郡金谷町栄町(1969年)
開館年 : 1926年1月
閉館年 : 1969年以後1973年以前
『全国映画館総覧1955』によると1926年1月開館。1950年の映画館名簿では「金河座」。1951年・1952年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「金谷劇場」。1961年の金谷町住宅明細図では「金谷劇場」。1964年の島田市金谷町住宅明細地図では「第一劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1976年の住宅地腕は跡地に「ガレージ」。建物は2008年に取り壊された。跡地は「専求院」北北西40mにあるアパート「メゾンプランタン」。最寄駅は大井川鉄道大井川本線新金谷駅。

吉田初三郎『金谷牧之原鳥観図』川崎鉄工場、1931年には「金河座」が描かれている。((吉田初三郎『[[金谷牧之原鳥観図>>https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/detail/004819900.html]]』川崎鉄工場、1931年))

*** 太陽館/島田太陽館
所在地 : 静岡県島田市本通り4914-4(1960年)、静岡県島田市大川町4914-4(1969年)
開館年 : 1945年11月
閉館年 : 1969年以後1973年以前
『全国映画館総覧1955』によると1945年11月開館。1950年・1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「太陽館」。1960年の島田市住宅明細図では「映画劇場 太陽館」。1964年の島田市金谷町住宅明細地図では「映画劇場 太陽館」。1966年・1969年の映画館名簿では「島田太陽館」。1972年の住宅地図では「太陽館」。1976年の住宅地図では跡地に「車庫」。1984年の住宅地図では跡地に駐車場と「公園」。跡地は「福泉寺」南東20mの道路用地。1980年代以後の区画整理事業で道路割が大きく変化しているので参考程度に。

*** 島田オリオン座/島田日活オリオン/島田日活オリオン座
所在地 : 静岡県島田市7-8422(1958年)、静岡県島田市本通り7-8422(1960年)、静岡県島田市本通り7丁目(1963年)、静岡県島田市本通り7-8422(1966年)、静岡県島田市7-8422(1969年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1969年以後1973年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「島田オリオン座」。1960年の島田市住宅明細図では「映画劇場 オリオン座」。1960年・1963年の映画館名簿では「島田日活オリオン」。1964年の島田市金谷町住宅明細地図では「映画劇場 オリオン座」。1966年・1969年の映画館名簿では「島田日活オリオン座」。1972年の住宅地図では跡地は空き地。1976年の住宅地図では跡地に「松野精肉」。跡地は和菓子屋「中村菓子舗」向かいの「岡本住建」。

1961年の島田市本通7丁目にあった向山商店の写真あり。左手にちらりと見えるのは映画館「オリオン座」。日活作品『ろくでなし野郎』の看板が見える。((『島田・牧之原・榛原の昭和』いき出版、2017年、p.55))

*** 島田東映/島田東映劇場
所在地 : 静岡県島田市日ノ出町8028(1958年・1960年・1966年・1969年・1973年・1976年・1977年)
開館年 : 1957年7月27日
閉館年 : 1977年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「島田東映劇場」。1960年の島田市住宅明細図では「東映劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「島田東映」。1964年の島田市金谷町住宅明細地図では「東映劇場」。1966年・1969年・1973年・1976年・1977年の映画館名簿では「島田東映劇場」。1972年・1976年の住宅地図では「東映劇場」。1978年・1980年の映画館名簿には掲載されていない。1970年代後半から1980年代前半の区画整理事業で道路割が大きく変化。跡地は「佐鳴予備校島田本部校」の西20mの道路用地。最寄駅はJR東海道本線島田駅。

1957年7月27日、島田市日之出町に「全映劇場」が開館した。経営者は井上恒雄、支配人は井上良雄。総工費約3200万円。建坪200坪、鉄筋造2階建て、冷暖房完備、客席415。シネスコ装置を有する。上映系統は東映を主にした邦画・洋画の二番館。((「映画館」『キネマ旬報』1957年8月下旬号、184号))

*** 島田第二文化劇場/第二文化劇場/島活会館第二文化/島田第二文化島田スカラ座/スカラ座
所在地 : 静岡県島田市大津通8596-25(1958年・1960年)、静岡県島田市大津通り(1963年・1966年)、静岡県島田市大津通8596-25(1969年・1976年・1980年)、静岡県島田市大津通8569-25(1985年)、静岡県島田市大津通8596-25(1990年)、静岡県島田市大津通8569-25(1995年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1995年以降1998年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「島田第二文化劇場」。1960年の映画館名簿では「第二文化劇場」。1960年の島田市住宅明細図では「第二文化劇場(中野)」。1963年の映画館名簿では「島活会館第二文化」。1966年の映画館名簿では「島田第二文化」。1972年・1976年・1984年の住宅地図では「スカラ座」。1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「島田スカラ座」。1980年・1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「スカラ座」。2000年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「洞源寺」南西70mの道路用地。2000年代以後の区画整理で道路割が大きく変化しているので参考程度に。最寄駅はJR東海道本線島田駅。

*** 実座/島田実座/島田みのる座/みのる座/カンマザールみのる座
所在地 : 静岡県島田市本通6丁目(1953年・1955年)、静岡県島田市6丁目7835(1960年)、静岡県島田市本通6丁目(1963年)、静岡県島田市本通6-7835(1966年)、静岡県島田市6-7835(1969年)、静岡県島田市6丁目7835(1969年)、静岡県島田市本通6-7835(1976年・1995年・2005年・2010年)
開館年 : 1916年
閉館年 : 2010年3月10日
『全国映画館総覧1955』によると1928年3月開館。1950年の映画館名簿では「宝座」(※実座の誤りと思われる)。1953年・1955年・1960年の映画館名簿では「実座」。1960年の島田市住宅明細図では「映画劇場 島田実座」。1963年の映画館名簿では「みのる座」。1964年の島田市金谷町住宅明細地図では「映画劇場 島田実座」。1966年・1969年の映画館名簿では「島田みのる座」。1972年・1976年・1984年の住宅地図では「みのる座」。1973年の映画館名簿では「島田実座」。1976年の映画館名簿では「島田みのる座」。1980年・1985年・1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「みのる座」。2005年・2010年の映画館名簿では「カンマザールみのる座」。跡地は和菓子屋「龍月堂」南南東50mの駐車場。最寄駅はJR東海道本線島田駅。

1916年(大正5年)に芝居小屋として開館した。1950年代に東京で映画関係の仕事をしていた太田修平が引き継いで映画館に改修したが、大正時代の煉瓦張りタイルは残っている。2010年(平成22年)3月10日に閉館した。静岡県に残る唯一の木造映画館だった。最終日の3月10日には山田洋次監督作『男はつらいよ 噂の寅次郎』を上映し、山田監督のトークショーを開催する。((「みのる座、きょう閉館 大型複合施設に押され 島田」『毎日新聞』2010年3月10日))

2010年3月10日、島田市本通の島田みのる座が閉館する。経営は島田興業。1916年竣工の建物の老朽化などが理由。先代の太田修平は山田洋次監督作品『虹をつかむ男』のモデルの一人であることから、閉館日の3月10日には山田洋次監督を迎えた講演会を開催し、島田でロケが行われた『男はつらいよ 噂の寅次郎』のフィルム上映会を行う。木造平屋建て190席。芝居小屋時代の名残である楽屋や回り舞台も残る。「大勢の人が訪れて、実りがあるように」との思いで「実座」と命名された。1959年に映画館に改修した。((「『島田みのる座』廃館へ 大正創業で老朽化 来月、最後の上映会」『静岡新聞』2010年2月18日))

2010年(平成22年)3月10日、島田市の映画館「みのる座」が93年の歴史に幕を閉じて閉館。静岡県内の現存する映画館としてはもっとも古いとされていた。((「2010 しずおか この1年」『中日新聞』、2010年12月23日))

閉館した島田市のみのる座を舞台とする映画の製作が進んでいる。余命僅かとなったみのる座の館主の物語である。題名は『安寧の巣』。製作費はゼロだが、みのる座やフィルムサポート島田の支援を受けている。2010年(平成22年)9月14日から9月24日頃まで現地で撮影し、2011年1月頃の完成を目指す。((「閉館『みのる座』映画で残そう 藤枝出身の俳優 石上亮さん 製作費ゼロ 島田市民が協力」『静岡新聞』、2010年9月、正確な日付不明))

2010年10月23日、島田市の映画館「みのる座」が閉館する。東海道本線島田駅から徒歩約10分、旧東海道沿いに商店が並ぶ本通りから小路を入って突き当りにある。建物のファサードはアール・デコ調であり、券売所には濃紫のタイルが貼られている。築94年の木造建築であり、芝居小屋として建てられた。51年前、東京の配給会社に勤めていた太田修平は、経営難で所有者が手放したみのる座を29歳で引き継いだ。全盛期の島田市には邦画4社の専門館、洋画専門館、ポルノ専門館の6館があり、みのる座は松竹作品の専門館だった。太田修平は松竹のパーティで山田洋次監督に出会い、50年にも及ぶ交流が始まった。1995年には山田監督が『虹をつかむ男』のロケハンに訪れ、みのる座の両脇の民家が空き家だと知ると「壊せますね」と言ったという。結局『虹をつかむ男』のロケは徳島県の脇町劇場で行われたが、山田監督は完成記者会見で主人公のモデルの一人に太田修平を挙げた。1964年の東京オリンピック後には島田市の映画館が相次いで閉館し、東宝や東映の作品も上映した。息子の太田晴也は音楽大学を出て教師をしていたが、1993年に太田修平から経営を継いだ。上映の中心を子ども向け作品とし、また土日営業に切り替え、落語会やコンサートなどの下士官営業も行った。100周年となる2016年までは営業を続ける予定だったが、2009年2月末には隣接する藤枝市にシネコンが開館し、『ドラえもん』の新作の観客数は前作の3分の1となった。太田晴也が閉館を決定すると、地元の建築士や大工の棟梁が建物の調査に訪れ、屋根裏からは格天井の枠や棟木札、「猿田彦」の木札などが発見された。奈落からは回り舞台の遺構や花道の痕跡も発見された。3月10日の最終興行は『男はつらいよ 噂の寅次郎』であり、山田監督も来館した上映は満員となった。10月23日には地元出身の落語家である三遊亭遊喜の公演を行う。((「庶民文化の『証人』終幕 島田興行社長太田晴也氏」『日本経済新聞』2010年10月18日))

2012年(平成24年)1月5日、島田みのる座の元館主である太田修平が死去した。太田は映画館主を主人公とする山田洋次監督の映画『虹をつかむ男』のモデルとなった。太田は島田市議会議員を4期16年務め、島田市議会議長も務めた。2005年(平成17年)に旭日双光章を受章している。((「太田修平氏死去(おおた・しゅうへい=元島田みのる座館主、元島田市議会議長)82歳」『静岡新聞』2012年1月6日))

2010年11月18日付の日本経済新聞にはみのる座の閉館に関する記事が掲載されている。11月23日の勤労感謝の日には最終興行として地元の落語家の興行が行われたという。現物は未確認。((『日本経済新聞』2010年11月18日))

「カンマーザール島田みのる座」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。((中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年))

2021年1月にWeb OYA-bunko(大宅壮一文庫)で検索したが有意な言及は発見できず。

*** 島田文化劇場/宝塚劇場・文化劇場/島活会館宝塚劇場・島活会館文化劇場/島田宝塚劇場・文化劇場/島田宝塚劇場/島田文化・スカラ座/島田文化
所在地 : 静岡県島田市本通4-8270-1(1953年)、静岡県島田市本通り4-8270(1960年)、静岡県島田市本通4丁目(1963年)、静岡県島田市本通り4-8270-1(1966年)、静岡県島田市4-8270-1(1969年)、静岡県島田市4丁目8270-1(1973年)、静岡県島田市本通り4-8270-1(1976年・1980年・1985年・1990年・1995年・2005年・2010年・2013年)
所在地 : 静岡県島田市本通4-8270-1(1953年)、静岡県島田市本通り4-8270(1960年)、静岡県島田市本通4丁目(1963年)、静岡県島田市本通り4-8270-1(1966年)、静岡県島田市4-8270-1(1969年)、静岡県島田市4丁目8270-1(1973年)、静岡県島田市本通り4-8270-1(1976年・1980年・1985年・1990年・1995年・2005年・2010年)、静岡県島田市本通り4-8270-1 島活会館2階(閉館時)
開館年 : 1945年11月
閉館年 : 2013年頃
『全国映画館総覧1955』によると1945年11月開館。1950年・1953年の映画館名簿では「島田文化劇場」。1955年の映画館名簿では「島田文化劇場」。1960年の映画館名簿では「宝塚劇場・文化劇場」(2館)。1960年の島田市住宅明細図では「映画劇場 宝塚 文化」。1963年の映画館名簿では「島活会館宝塚劇場・島活会館文化劇場」(2館)。1964年の島田市金谷町住宅明細地図では「映画劇場 文化 宝塚」。1966年・1969年の映画館名簿では「島田宝塚劇場・文化劇場」(2館)。1969年の映画館名簿では「島田宝塚劇場」。1972年の住宅地図では「1階文化ホール 2階宝塚」。1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「島田文化」。1976年の住宅地図では「1F文化ホール2F島活」。1984年の住宅地図では「島活会館 1Fパチンコ文化ホール 2F映画館ブンカ」。1998年の映画館名簿では「島田文化・スカラ座」(2館)。2000年の映画館名簿には掲載されていない。2005年・2010年・2012年・2013年の映画館名簿では「島田文化」。2012年の映画館名簿では鉄筋コンクリート造2階建、80席、経営会社が有限会社島活会館、経営者・支配人ともに中野裕二、洋画を上映。2014年・2015年の映画館名簿には掲載されていない。島活会館2階。映画館の建物は衣料品店「島田ユニフォームセンター」が入る島活会館として現存。最寄駅はJR東海道本線島田駅。
閉館年 : 2012年以後2015年以前
『全国映画館総覧1955』によると1945年11月開館。1950年・1953年の映画館名簿では「島田文化劇場」。1955年の映画館名簿では「島田文化劇場」。1960年の映画館名簿では「宝塚劇場・文化劇場」(2館)。1960年の島田市住宅明細図では「映画劇場 宝塚 文化」。1963年の映画館名簿では「島活会館宝塚劇場・島活会館文化劇場」(2館)。1964年の島田市金谷町住宅明細地図では「映画劇場 文化 宝塚」。1966年・1969年の映画館名簿では「島田宝塚劇場・文化劇場」(2館)。1969年の映画館名簿では「島田宝塚劇場」。1972年の住宅地図では「1階文化ホール 2階宝塚」。1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「島田文化」。1976年の住宅地図では「1F文化ホール2F島活」。1984年の住宅地図では「島活会館 1Fパチンコ文化ホール 2F映画館ブンカ」。1998年の映画館名簿では「島田文化・スカラ座」(2館)。2000年の映画館名簿には掲載されていない。2005年・2010年・2012年の映画館名簿では「島田文化」。2012年の映画館名簿では鉄筋コンクリート造2階建、80席、経営会社が有限会社島活会館、経営者・支配人ともに中野裕二、洋画を上映。2015年の映画館名簿には掲載されていない。『ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還』(2003年)を上映したらしい。映画館の建物は衣料品店「島田ユニフォームセンター」が入る島活会館として現存。最寄駅はJR東海道本線島田駅。

1957年7月10日、島田市本通り4丁目に「島活会館」が開館した。島田文化劇場が総工費5000万円で建設していた。鉄骨造3階建てで2館を有する。地上には洋画館「島田文化」(400席)が、地下には東宝・日活・新東宝の上映館「宝塚」(400席)がある。2階の一角は総合店舗となっており、3階には大衆食堂が、屋上には遊園地がある。((「映画館」『キネマ旬報』1957年8月上旬号、182号))

1957年(昭和32年)の島田市の本通4丁目の北側の街並み。「文化劇場」と呼ばれた映画館「宝塚」の写真あり。2006年(平成18年)現在の跡地の写真もあり、「島田ユニフォームセンター」が見える。「ホテルルートイン島田」の2階部分には多目的文化ホールを兼ねた形で「文化」が存続している(※正確に文意を読み取れない)。((『保存版 島田・牧之原・榛原今昔写真帖』郷土出版社、2006年、p.48))

1962年の島田市本通4丁目にあった映画館の写真あり(※館名は記載されていない)。「洋画の文化 邦画の宝塚」の文字が見える。三船敏郎主演の東宝作品『どぶろくの辰』の看板が見える。右側のパーラーとりやはハイカラな西洋料理店であり、給料日・誕生日・デートなど特別な日に利用する人が多かった。((『島田・牧之原・榛原の昭和』いき出版、2017年、p.49))

** 牧之原市
*** 昭和館
所在地 : 静岡県榛原郡相良町(1930年・1936年)
開館年 : 1927年
閉館年 : 1940年頃
1930年・1936年の映画館名簿では「昭和館」。

1927年(昭和2年)、相良町の新丁に活動写真館「昭和館」が開館した。地元の共同出資による経営であり、川田重松が創立代表者格だった。マキノ興業の直営館だった。3階建モルタル仕上げの洋館構えであり、当時としては大建築だった。開館時はサイレント映画であり、波津の諸岡松声などの弁士が映画説明を行っていたが、1929年(昭和4年)頃にはトーキー映画も上映されるようになった。戦時色が強くなった1939年(昭和14年)から1940年(昭和15年)頃に閉館となった。建物は取り壊され、工場用建材として清水市の清水初次郎に売却された。((八木宇三郎・川原崎次郎『城下町相良区史』城下町相良区史刊行会、1986年、p.337))

1927年頃、相良町の新丁に映画劇場「昭和館」が開館した。((名称不明の文献の年表、p.205))

*** 萩間館
所在地 : 静岡県榛原郡相良町萩間
開館年 : 1959年
閉館年 : 1964年
いずれの年代の映画館名簿には掲載されていない。

1959年(昭和34年)、相良町萩間地区に映画劇場「萩間館」が創立された。経営者は大寄の畑庄太郎である。場所は黒子の蛭ヶ谷入口であり、現在は萩間電話交換局と大石鉄工がある場所である。1964年(昭和39年)に閉館した。((相良町『相良町史 通史編 下巻』相良町、1996年、pp.794-795))

*** 地頭方劇場
所在地 : 静岡県榛原郡相良町地頭方992-10
開館年 : 1950年1月7日
閉館年 : 1966年
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「地頭方劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。

1950年(昭和25年)1月7日、相良町地頭方992-10に「地頭方劇場」が創立された。経営者は満州から引き揚げてきた山本八郎であり、定員は250人だった。ただし『増補資料榛原郡誌』には収容人員500人とある。これ以前のこの地区に常設映画館はなく、小学校や公会堂で巡回映画を観ていた。映画上映のほかには、踊りの高松レビュー、奇術の天勝、浪曲の村田英雄らが訪れたこともある。テレビの普及で観客が減少し、1966年(昭和41年)に閉館した。((相良町『相良町史 通史編 下巻』相良町、1996年、p.794))

*** 相良映画劇場
所在地 : 静岡県榛原郡相良町相良149(1960年)、静岡県榛原郡相良町相良(1963年)、静岡県榛原郡相良町相良149(1966年)
開館年 : 1954年12月13日
閉館年 : 1968年2月9日
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「相良映画劇場」。1969年の榛南地区住宅明細図附相良町・御前崎町では「相良映画」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「心月寺」駐車場。

1954年(昭和29年)12月12日(※12月13日ではない)、相良町前浜の心月寺の前に「相良映画劇場」が竣工した。般若寺の小寺だった心月庵の檀徒が心月寺として独立させ、前庭に映画館を設けて付近の繁栄を図ろうとしたのである相良映画劇場は株式会社組織であり、出資者は沢田益男・久保多平・岩堀宇一郎・西谷俊一・鈴木清一など、静岡市の興行師である本間尚男が社長となった。建設費は600万円の予算であり、建坪は120坪だった。10月8日から建設を開始して12月12日に竣工。こけら落としは元松竹歌劇のオリエ津坂およびビクター専属の榎本美佐枝とその楽団である。定員800人の椅子席であり、一日3回上映される。1957年(昭和32年)2月1日には経営権者が戸塚興業に変わった。相生座との兼ね合いもあって、相良映画劇場では東映・大映・新東宝の作品が上映された。1968年(昭和43年)2月9日、火災で焼失したことで閉館となった。((八木宇三郎・川原崎次郎『城下町相良区史』城下町相良区史刊行会、1986年、p.338))

相良町には「相映」があった。正式名称は「相良映画劇場」。1954年、心月寺の前に竣工した。相良町の株主が多い株式組織であり、経営者は静岡市の興業主である本間尚男だった。定員は800であり、椅子席がある近代的な劇場だった。やがて戸塚興業の経営に変わり、1968年に火災で全焼したが再建されなかった。((中村福司『相良町文化事典』相良町教育委員会、1993年、p.107))

1954年(昭和29年)12月13日、相良町前浜の心月寺の前庭に「相良映画劇場」が竣工した。相良映画劇場は株式会社組織であり、出資者は沢田益男・久保多平・岩堀宇一郎・西谷俊一・鈴木清一など、静岡市の興行師である本間尚男が社長となった。建設費は600万円の予算であり、建坪は120坪だった。こけら落としは元松竹歌劇のオリエ津坂およびビクター専属の榎本美佐枝とその楽団である。定員800人(椅子席)だったが、『増補資料榛原郡誌』には収容人員650人とある。1957年(昭和32年)2月1日には経営者が榛原町の戸塚興業に変わった。相生座との兼ね合いもあって、相良映画劇場では東映・大映・新東宝の作品が上映された。1968年(昭和43年)2月9日、火災で焼失したことで閉館となった。((相良町『相良町史 通史編 下巻』相良町、1996年、pp.793-794))

1954年12月、相良町の前浜に「相良映画劇場」が開館した。((名称不明の文献の年表、p.220))

*** 相生座/相良文化劇場
所在地 : 静岡県榛原郡相良町福岡56-2-1(1953年)、静岡県榛原郡相良町福岡(1955年・1958年)、静岡県榛原郡相良町福岡56-1(1960年)、静岡県榛原郡相良町福岡(1963年)
開館年 : 1884年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前? 1980年2月?
『全国映画館総覧1955』によると1937年5月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「相生座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の榛南地区住宅明細図附相良町・御前崎町では「相生座」。1971年のゼンリン住宅地図では「文化劇場」。跡地は「相良保育園」南南西100mにある4軒分の民家。

1884年(明治17年)の相良町絵図には「相生座」の建物が大きく描かれている。御荒神の福富座が廃れた跡地に開館した。1910年(明治43年)12月10日、浜横町に相生座が新築された。収容人員550人であり、ヒノキ造りの回り舞台を備えていた。月に2-3回の興行を行い、興行日には幡や太鼓が町中をふれ回る顔見世が行われた。昭和に入ると映画も上映するようになり、戦後には常設映画館として毎日昼も夜も上映した。劇場の所有者は小島好美だったが、戸塚興業が松竹・日活・東宝の作品を上映していた。1960年(昭和35年)には戸塚興業が相生座を買収し、「相良文化劇場」に改称した。観客が減少したことで、1980年(昭和55年)2月にはついに閉館し、12月には建物が取り壊された。1986年(昭和61年)現在の跡地は駐車場となっている。所在地は相良町福岡56-2-1。((八木宇三郎・川原崎次郎『城下町相良区史』城下町相良区史刊行会、1986年、pp.335-336))

1910年、浜横町に芝居小屋「相生座」が開館した。回り舞台のある大建築であり、三方に2階席があった。定員は550。大正末期から昭和初期には無声映画が上映され、当時は珍しかった男女の恋愛交際の場にもなった。1930年頃にはトーキー映画が登場し、弁士や楽団は不要になってしまった。この頃は浪曲の全盛期であり、映画や芝居の合間には浪曲が演じられた。1935年頃にはレビューが流行し、高松レビューなどが公演を行った。若い女性の踊子が肩を組んで踊り、足を上げるとパンティが見えたりするので、男性には大人気だったが旧制中学校生は入場禁止だった。戦後にテレビが台頭すると映画館の閉館も目立つようになり、1960年には所有者の小島好美が榛原町の戸塚興業に売却した。戸塚興業は「相生座」をいくらか改装し、「相良文化劇場」に改称したが、1979年に閉館して建物を取り壊した。((中村福司『相良町文化事典』相良町教育委員会、1993年、pp.106-107))

1960年(昭和35年)、相良町の「相生座」は榛原町の戸塚興業の直営館となった。1964年(昭和39年)には相生座から「相良文化劇場」に改称した。1980年(昭和55年)2月には約1世紀の歴史の幕を閉じて閉館し、同年12月には建物が取り壊された。1996年(平成8年)現在の跡地は駐車場となっている。((相良町『相良町史 通史編 下巻』相良町、1996年、pp.792-793))

1907年1月4日、相良町の「相生座」で町民大会が開催され、実業の振興策などを協議した。静岡県知事の李家隆介が招かれた。((名称不明の文献の年表、p.194))

*** 大岩座
所在地 : 静岡県榛原郡川崎町静波326(1953年)、静岡県榛原郡川崎町(1955年)、静岡県榛原郡榛原町静波326(1960年)、静岡県榛原郡榛原町静波(1963年・1966年)、静岡県榛原郡榛原町静波326(1969年)、静岡県榛原郡榛原町静波(1973年・1976年・1977年)
開館年 : 1925年12月
閉館年 : 1977年頃
『全国映画館総覧1955』によると1925年12月開館。1953年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1977年の映画館名簿では「大岩座」。1969年の榛南地区住宅明細図附相良町・御前崎町では「オウイワ座」。1969年時点では南東側に「榛原スーパー」があった。1978年・1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ファミリーマート牧之原静波1丁目店」の北西端。

戦前の静波には、1922年に1丁目の辻の東に開館した「川崎劇場」と、1925年に西5丁目に開館した「静波劇場」があったが、両者とも開館から3年ほどで経営が行き詰った。1925年12月、川崎劇場の再建策として株式会社大岩座が設立された。大岩座の広さは150坪。枡席や花道があり、2階席は3段になっていた。昭和初期には演劇と歌舞伎を中心として、高松レビューやレスリングなどの興行が行われた。戦後は浪曲と芝居が中心であり、古川緑波・岡春夫・春日一郎・村田英雄・大津美子などが来演したが、やがて映画が興行の中心となった。初倉の劇場、吉田町の「神戸劇場」や「住吉座」や「吉田座」、相良町の「相生座」、白羽村の「白羽劇場」なども劇場から映画館に移行している。((榛原町史編纂委員会『榛原町史 下巻』榛原町、1991年、pp.735-737))

** 藤枝市
*** 岡部劇場
所在地 : 静岡県志太郡岡部町
開館年 : 1928年以前
閉館年 : 1935年頃
1928年(昭和3年)頃の志太郡岡部町にあった「岡部劇場」で上映された「河西訓導」のチラシ、同じく1928年に岡部劇場で興行された新春歌舞伎公演のポスターの写真あり。岡部劇場は「岡部座」とも呼ばれた。藤相鉄道(後の静岡鉄道駿遠線)駿河岡部駅の駅前にあった。花道や回り舞台を備えた華やかな劇場だったが、1935年(昭和10年)過ぎには姿を消した。((山下二郎(監修)『目で見る志太100年史 焼津市・藤枝市・岡部町・大井川町』静岡郷土出版社、1990年、p.106))

*** 藤枝文化映画館
所在地 : 静岡県藤枝市
開館年 : 1956年7月10日
閉館年 : 1957年5月頃
1955年・1957年・1958年・1960年の映画館名簿には掲載されていない。

1956年(昭和31年)7月10日、藤枝市の静岡鉄道駿遠線(軽便)大手駅の駅前に「藤枝文化映画館」が開館した。開館当時の写真あり。「藤枝文化」「七月十日落成開館」の文字が見える。当時の藤枝市には6館の映画館があり、映画館の黄金期を迎えていた。しかし競争の激化などが理由で、1957年(昭和32年)にはもう閉館した。((『保存版 藤枝・焼津・志太今昔写真帖』郷土出版社、2007年、p.96))

*** 東海劇場
所在地 : 静岡県志太郡青島町青木(1943年)、静岡県志太郡青島町青木51-2(1953年)、静岡県藤枝市青島町青木51(1955年・1958年)
開館年 : 1945年以前
閉館年 : 1957年
1943年の映画館名簿では「東海劇場 休館中」。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「東海劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。

現在の藤枝市前島にあった「東海倶楽部」の昭和初期の写真あり。当初は東海蚕木株式会社の従業員の慰安施設であり、島田の「みのる座」を参考に建設された。現在の藤枝市域では「旭光座」と並ぶ劇場だったが、1957年(昭和32年)に解体されて吉田町に移築された。「部楽倶海東」の文字が見える。((山下二郎(監修)『目で見る志太100年史 焼津市・藤枝市・岡部町・大井川町』静岡郷土出版社、1990年、p.106))

*** 旭光座/藤枝旭光座/藤枝東映旭光座
所在地 : 静岡県志太郡藤枝町(1930年)、静岡県志太郡藤枝町上伝馬(1936年)、静岡県志太郡藤枝町(1950年)、静岡県志太郡藤枝町上伝馬(1953年)、静岡県藤枝市上伝馬(1955年)、静岡県藤枝市鬼岩寺220(1958年)、静岡県藤枝市鬼岩寺221-1(1960年)、静岡県藤枝市鬼岩寺(1963年)、静岡県藤枝市上伝馬(1966年)
開館年 : 1923年、1930年8月
閉館年 : 1967年
『全国映画館総覧1955』によると1930年8月開館。1930年・1936年の映画館名簿では「旭光座」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「旭光座」。1953年・1955年の映画館名簿では「藤枝旭光座」。1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「藤枝東映旭光座」。1961年の藤枝市住宅明細図では「藤枝東映旭光座」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「藤枝警察署上伝馬交番」北西隣にある2区画の月極駐車場。最寄駅はJR東海道本線藤枝駅。

藤枝町の上伝馬の問屋場跡に建てられたとされる「嬉春座」は、1892年(明治25年)の大風で倒壊した。その後「藤枝座」が新築され、日露戦争後の1906年(明治39年)には「戦捷座」に改称した。1919年(大正8年)には「吾妻座」に改称し、芝居と活動写真の連鎖劇などを興行した。吾妻座が旭光座の前身とされる。1923年(大正11年)に「旭光座」が新築され、こけら落としで東西合同大歌舞伎が上演された。東は松本幸四郎、西は中村雁治郎である。花道・回り舞台・枡席を備える本格的な劇場だった。その後、旭光座は江崎浮山によって経営され、1967年(昭和42年)に閉館するまで藤枝市の中心的な劇場だった。((『ふるさとの想い出 写真集明治大正昭和 藤枝』国書刊行会、1980年、p.107))

戦時中の藤枝にあった映画館「旭光座」(きょっこうざ)の写真あり。上伝馬にあった。タイル張りの外壁が白く輝いていたが、敵機の攻撃対象にならないようにコールタールが塗られた。((寺尾賢次・八木洋行(監修)『写真集 焼津・藤枝いまむかし』静岡郷土出版社、1988年、p.159))

戦時中の藤枝にあった「旭光座」の写真あり。上伝馬の「嬉春座」が変遷を重ね、1923年(大正12年)に本格的劇場として旭光座が開館した。芝居も映画も興行した。戦時中であるため外壁にはコールタールが塗られている。((山下二郎(監修)『目で見る志太100年史 焼津市・藤枝市・岡部町・大井川町』静岡郷土出版社、1990年、p.105))

戦後の藤枝市藤枝にあった映画館「旭光座」の写真あり。「市川少女歌舞伎」の看板が見える。一般に上伝馬と呼ばれる旧東海道沿いにあった。1967年(昭和42年)に閉館した。((山下二郎(監修)『目で見る志太100年史 焼津市・藤枝市・岡部町・大井川町』静岡郷土出版社、1990年、p.148))

昭和30年代の藤枝市にあった「旭光座」の写真あり。上伝馬の問屋場跡地にあった。回り舞台・花道・枡席などがある立派な劇場だった。1923年(大正12年)にあったこけら落としでは東西合同大歌舞伎が上演され、東は松本幸四郎、西は中村雁治郎の千両役者が出演した。1955年(昭和30年)頃の数年間には全国で活動していた少女歌舞伎も上演された。藤枝市の娯楽の中心的存在だったが、1966年(昭和41年)に閉館した。((寺尾賢次・八木洋行(監修)『写真集 焼津・藤枝いまむかし』静岡郷土出版社、1988年、p.58))

1960年(昭和35年)1月1日の藤枝市にあった映画館「旭光座」の写真あり。ファサードには「座光旭」と右書きの館名が書かれている。1959年(昭和34年)12月6日公開の『べらんめえ芸者』、1960年(昭和35年)1月15日公開の『丹下左膳 妖刀濡れ燕』などの看板が見える。当時は3本立てが基本であり、チャンバラ映画などが人気があった。映画以外には芝居やレビューなども興行していた。回り舞台や花道があった。((『保存版 藤枝・焼津・志太今昔写真帖』郷土出版社、2007年、p.97))

昭和30年代の藤枝市にあった「旭光座」の写真あり。ファサードには「座光旭」と右書きの館名が書かれている。「市川少女歌舞伎」の看板が見える。上伝馬の問屋場跡地にあり、回り舞台・花道・枡席などがある本格的な劇場だった。1923年(大正12年)にあったこけら落としでは東西合同大歌舞伎が上演され、東は松本幸四郎、西は中村雁治郎の千両役者が出演した。1955年(昭和30年)頃の数年間には全国で活動していた少女歌舞伎も上演された。((『写真アルバム 焼津・藤枝の昭和』いき出版、2017年、p.58))

*** 岡部毎日会館
所在地 : 静岡県志太郡岡部町内谷(1960年・1963年)
開館年 : 1957年12月29日
閉館年 : 1963年以後1966年以前? 1970年?
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「岡部毎日会館」。1966年・1969年の映画館名簿には掲載されていない。1970年の藤枝市住宅明細図では「岡部毎映劇場」。跡地は「しずおか焼津信用金庫岡部支店」の南南東30mの駐車場。最寄駅はJR東海道本線焼津駅。

1957年(昭和32年)12月29日に志太郡岡部町に開館した際の「岡部毎日会館」の写真あり。開館記念の花輪が見える。『有楽町で逢いましょう』と『青い山脈』が上映され、勝新太郎・船越英二・若尾文子が舞台挨拶を行った。1970年(昭和45年)に閉館し、2007年(平成19年)現在の跡地にはコンビニが建っている。((『保存版 藤枝・焼津・志太今昔写真帖』郷土出版社、2007年、p.98))

*** 毎日映画劇場/藤枝毎日映画劇場
所在地 : 静岡県藤枝市喜多町(1957年)、静岡県藤枝市喜多町2978(1958年)、静岡県藤枝市喜多2578(1960年)、静岡県藤枝市喜多町(1963年)、静岡県藤枝市青島喜多町(1966年・1969年)、静岡県藤枝市喜多町(1973年)
開館年 : 1954年8月1日
閉館年 : 1972年
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「毎日映画劇場」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「藤枝毎日映画劇場」。1972年のゼンリン住宅地図では「毎日映画」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「SBS学苑藤枝校」。閉館後の土地区画整理事業で道路割が変化しているので参考程度に。最寄駅はJR東海道本線藤枝駅。

1954年(昭和29年)の藤枝市にあった映画館「毎日映画劇場」の写真あり。花輪がある。『浅草の夜』の看板が見える。現在の藤枝駅前3丁目にあった。通称は「毎映」。1972年(昭和47年)に閉館した。((寺尾賢次・八木洋行(監修)『写真集 焼津・藤枝いまむかし』静岡郷土出版社、1988年、p.56))

1954年(昭和29年)8月1日の藤枝市に開館した際の「毎日映画劇場」の写真あり。『浅草の夜』の大型立体看板が見える。「毎映」とも呼ばれた。2007年(平成19年)現在の藤枝市駅前3丁目、藤枝市文化センターから西に100mほどの場所である。近隣市町村からも観客が訪れた。なお、6町村が合併して藤枝市が発足したのは1954年3月31日のことである。((『保存版 藤枝・焼津・志太今昔写真帖』郷土出版社、2007年、p.96))

1954年(昭和29年)の藤枝市に開館した際の「毎日映画劇場」の写真あり。『浅草の夜』の大型立体看板が見える。通称は「毎映」。1972年(昭和47年)に閉館した。((『写真アルバム 焼津・藤枝の昭和』いき出版、2017年、p.56))

*** テアトル毎日/藤枝テアトル毎日
所在地 : 静岡県藤枝市下伝馬町1062(1957年・1958年)、静岡県藤枝市本町1062(1960年)、静岡県藤枝市下伝馬(1963年・1966年・1969年)、静岡県藤枝市藤枝1-4-12(1973年)
開館年 : 1956年8月11日
閉館年 : 1972年
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「テアトル毎日」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「藤枝テアトル毎日」。1972年のゼンリン住宅地図では「テアトル毎日」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「養命寺」北東50mにある月極駐車場「契約駐車場テアトル毎日」。最寄駅はJR東海道本線藤枝駅。

1956年(昭和31年)の藤枝市にあった映画館「テアトル毎日」の写真あり。開館記念の花輪や『花嫁募集中』の看板が見える。1956年(昭和31年)8月11日に開館し、開館時には石原裕次郎が、1957年(昭和32年)には小林旭が訪れている。2007年(平成19年)現在の下伝馬にあり、周辺に静岡県立藤枝東高校、藤枝北高校、藤枝西高校があったことから、学生の観客でにぎわった。((『保存版 藤枝・焼津・志太今昔写真帖』郷土出版社、2007年、p.97))

*** 寿館/松竹館/藤枝松竹館/藤枝松竹映画劇場/藤枝大毎映画劇場/藤枝大毎劇場/シネマ ゴール
所在地 : 静岡県志太郡藤枝町(1930年)、静岡県志太郡藤枝町千歳(1936年・1943年)、静岡県志太郡藤枝町(1950年)、静岡県志太郡藤枝町若王寺(1953年)、静岡県藤枝市若王子(1955年)、静岡県藤枝市若王子54(1958年)、静岡県藤枝市若王子54-1(1960年)、静岡県藤枝市千歳町(1963年)、静岡県藤枝市若王寺(1966年)、静岡県藤枝市千才区若王寺(1969年)、静岡県藤枝市若王寺(1973年)、静岡県藤枝市藤枝5-9(1976年)
開館年 : 大正時代
閉館年 : 1977年
1930年の映画館名簿では「寿座」(※寿館ではない)。1936年・1943年の映画館名簿では「松竹館」。1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「藤枝松竹館」。1960年の映画館名簿では「藤枝松竹映画劇場」。1961年の藤枝市住宅明細図では「松竹館」。1963年の映画館名簿では「藤枝大毎劇場」。1966年の映画館名簿では「藤枝大毎映画劇場」。1969年の映画館名簿では「藤枝大毎劇場」。1972年のゼンリン住宅地図では「大毎」。1973年の映画館名簿では「藤枝大毎映画劇場」。1973年の映画館名簿では「藤枝大毎劇場」。1967年以前は松竹座という愛称があった。1967年にシネマ・ゴールに改称。1976年の映画館名簿では「シネマ・ゴール」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。建物は1990年焼失。跡地は「千歳公園」西北西50mにある「洞雲寺駐車場」。藤枝市最後の従来型映画館。最寄駅はJR東海道本線藤枝駅。

戦後の藤枝市にあった映画館「松竹館」の写真あり。ファサードに「松竹館」の文字が見える。現在の藤枝5丁目、洞雲寺の前にあった。設立当初は「寿館」という名称だった。1975年(昭和50年)に閉鎖された。((山下二郎(監修)『目で見る志太100年史 焼津市・藤枝市・岡部町・大井川町』静岡郷土出版社、1990年、p.147))

1956年(昭和31年)の藤枝市にあった映画館「松竹館」の写真あり。ファサードに「松竹館」の文字が見える。前身は大正時代に開館した劇場「寿館」であり、無声映画の時代から映画も上映していた。松竹館の後は、「大毎映画劇場」、「シネマゴール」と改称したが、1977年(昭和52年)に閉館した。シネマゴールが閉館したことで藤枝市から映画館がなくなった。((『保存版 藤枝・焼津・志太今昔写真帖』郷土出版社、2007年、p.96))

1938年(昭和13年)の藤枝には演劇の「旭光座」と映画の「松竹館」があったが、併立写真家の江崎浮山は両方を買い取って映画館とした。戦後の映画黄金期にはさらに「毎映」と「テアトル毎日」の2館を建設し、藤枝の映画興行界を独占していた。その後は息子である江崎友次郎が経営を引き継いだが、1970年には古い旭光座を閉館させ、次いでテアトル毎日と毎映も閉館させた。1974年7月7日の七夕豪雨では松竹館の裏手の河川が決壊して浸水したが、改築して映画館を存続させることとし、350席を122席に減らしたうえに、「シネマ・ゴール」に改称した。藤枝市はサッカーが盛んな町であり、江崎友次郎も藤枝市サッカー友の会の会員だっていたことが名称の理由である。スポーツが盛んな健康な町であるということで、シネマ・ゴールではピンク映画もポルノ映画も上映しない方針がある。((「われらの映画館 第113回 シネマ・ゴール」『キネマ旬報』1976年11月上旬号、p.120))

1995年のこのほど、藤枝市郷土博物館で「なつかしの映画館」展が開催されている。藤枝市には最盛期に6館の映画館があったが、1977年(昭和52年)にシネマ・ゴール(旧・松竹館)が閉館したことで、すべての映画館が姿を消した。1956年(昭和31年)に開館した藤枝文化は10か月しか続かなかった。江崎新聞店の経営者である江崎浮山は、最盛期には藤枝市内で4館を経営した。((「映画館のある藤枝を知ってますか 懐かしの劇場を"再現" 写真 ちらし」『静岡新聞』1995年5月5日))

*** 藤枝シネ・プレーゴ
所在地 : 静岡県藤枝市前島1-7-10 BiVi藤枝4階(2010年・2015年)、静岡県藤枝市前島1-7-10 BiVi藤枝4階(現在)
開館年 : 2009年2月28日
閉館年 : 営業中
港町キネマ通り : [[藤枝シネ・プレーゴ>>http://www.cinema-st.com/amuse/a040.html]]
2005年の映画館名簿には掲載されていない。2010年・2015年の映画館名簿では「藤枝シネ・プレーゴ シアター1-7」(7館)。最寄駅はJR東海道本線藤枝駅。

** 焼津市
*** 焼津市の映画館
焼津市文化センター1階展示室にて、焼津市歴史民俗資料館の企画展「懐かしの映画娯楽 焼津の映画館の想い出」が開催されている。焼津の映画館としては1923年(大正12年)開館の焼津座が第1号であり、1996年現在までに計9館が開館した。全盛期には同時に7館があった。昭和60年代に焼津座が閉館したことで、焼津市から映画館がなくなった。((「28日まで焼津市で企画展『懐かしの映画娯楽』」『静岡新聞』1996年7月17日))

1955年(昭和30年)頃の焼津市の西町踏切の脇にあった映画看板の写真あり。「浅草劇場」、「焼津座」、「ヒカリ座」、「湊座」、「オデオン座」で上映中の映画ポスターが掲示されている。((焼津市『やきつべ 市制施行50周年記念写真集』焼津市、2001年、p.159))

*** 大生座/駿南劇場
所在地 : 静岡県榛原郡相川村、静岡県榛原郡大井川町
開館年 : 1916年
閉館年 : 昭和40年代
1930年・1936年・1943年・1950年・1953年・1955年・1960年の映画館名簿には掲載されていない。

1916年(大正5年)、下江留の相良街道(通称として田沼街道)の脇に大生座が建設された。その前身は1914年(大正3年)に建てて芝居などを行っていた掘っ立て小屋である。1916年時点では藤枝-大井川-吉田-榛原間に藤相鉄道(後の静岡鉄道駿遠線)が通じていた。大生座を建てたのは榛原郡相川村下江留(後の榛原郡大井川町下江留、現在の焼津市下江留)の大畑竹蔵であり、任侠派の人物であったが、日ごろは新派劇の脚本や浪曲/漫才の台本を手掛ける才能の持ち主だった。大生座では活動写真、浪花節、漫才、連鎖劇などの工業がおこなわれた。大生座は木造トタン葺きであり、間口は9間・奥行きは15間だった。120畳敷きの劇場であり、200人を収容した。廻り舞台や格天井を有しており、都市部の劇場に匹敵する立派さだった。場内には売店があり、幕間には売り子が予備売りを行った。なお、志太郡青島町(現在の藤枝駅付近)に東海倶楽部が開館したのは大生座の1年後である。戦前の青島町には東海倶楽部が、志太郡藤枝町には旭光座があったため、映画の封切り、浪曲の名人、有名劇団はこの2館に取られてしまい、大生座は二流の劇場とみなされた。((杉谷敏雄『大井川町下江留区史』自費出版、2000年、pp.279-281))

1937年(昭和12年)に支那事変が勃発すると、太平洋戦争が長期化したことで大生座は経営困難となった。終戦間際には東海倶楽部の経営者である江崎新聞店が経営を引き継ぎ、駿南劇場に改称した。映画の興行を主体として、浪曲や漫才の興行も行ったが、3年後の1948年(昭和23年)に閉鎖された。その後はカノーボーリング〔原文ママ〕が建物を使用していた。駿南劇場の建物は1983年(昭和58年)に取り壊された。p.281には駿南劇場時代の写真あり。((杉谷敏雄『大井川町下江留区史』自費出版、2000年、pp.279-281))

2005年現在の大井川町域には、かつて国の公認常設競馬場「藤枝競馬倶楽部相川競馬場」(1909年-1916年)、芝居小屋「大生座/駿南劇場」(1916年-1954年)という娯楽施設があった。戦後にはテレビが普及したことから、駿南劇場は昭和40年代に幕を閉じた。現在のJA大井川相川支店の西側である。『大井川町下江留区史』と同じ駿南劇場の写真あり。(※「1954年」と「昭和40年代」の関係は不明。『大井川町下江留区史』の「1948年」とも整合性が取れないが理由は不明。)((大井川町役場『大井川町制五十周年記念写真集「おおいがわ」』大井川町役場、2005年、p.163))

1955年(昭和30年)の榛原郡大井川町にあった映画館「駿南劇場」の写真あり。1916年(大正5年)、相川村の大畑竹蔵が相良街道(通称は田沼街道)沿いに芝居小屋「大生座」を開館させた。収容人員は200人。木造平屋建てトタン葺きだったが、床面には畳が敷かれ、格天井で花道もついていた。この地域では画期的な劇場であり、人々は弁当持参で来館しては芝居を鑑賞した。昭和に入ると時代劇・浪曲・現代劇・歌劇・映画も興行するようになった。1954年(昭和29年)に「駿南劇場」に改称し、映画の上映が主流となった。昭和40年代に営業を終了し、昭和50年代には建物が取り壊された。((『保存版 藤枝・焼津・志太今昔写真帖』郷土出版社、2007年、p.98))

*** 湊座/焼津湊座/湊映画劇場/ミナト座
所在地 : 静岡県志太郡焼津町(1930年・1936年)、静岡県志太郡焼津町焼津(1943年)、静岡県志太郡焼津町(1950年)、静岡県焼津市昭和通3(1953年)、静岡県焼津市昭和通777(1955年)、静岡県焼津市焼津777(1958年)、静岡県焼津市昭和通777(1960年)、静岡県焼津市焼津777(1963年)
開館年 : 1918年10月
閉館年 : 1961年5月
『全国映画館総覧1955』によると1918年10月開館。1930年・1936年の映画館名簿では「湊座」。1943年・1950年の映画館名簿では「焼津湊座」。1953年・1955年の映画館名簿では「湊映画劇場」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「ミナト座」。1963年の映画館名簿では経営者が東日本興行、支配人が杉山茂、木造1階冷暖房付、定員250、日活・松竹・大映を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は昭和通り沿いの「鈴木薬局」南の衣料品店「大勝堂外商部」駐車場部分。

1953年(昭和28年)の一枚図『焼津市』(職業交通社発行)には「湊劇場」が掲載されている。((『焼津市 第38号』職業交通社、1953年))

1901年(明治34年)、国鉄焼津駅前の米穀配給所付近に芝居小屋「朝日座」が移された。駅前通り付近は茶畑が多くて人家は少なく、経営難に陥ったことから、1923年(大正2年)には昭和通りに移されて「湊座」に改称された。当時の小川新地には「見浜座」(浅草劇場の前身)や「焼津亭」(後に移されて焼津座に)があり、新富町の斯波歯科医院の場所にうかれ節や浪花節などが上演された「志友亭」があった。志友亭の場所は1966年(昭和41年)現在の中川歯科医院の隣である。湊座の開館後まもなくには志友亭が廃業している。湊座の経営者は元焼津市長の高富義一の妻であり、朝日座の経営者である川口新甫の娘だったが、昭和初期には昭和町の有志が共同で買い取って経営を続けた。湊座の開館時の昭和通りはまだ人家も少なかったが、次第ににぎわうようになって小料理屋などが開店した。湊座の前には福井屋料理店が移ってきて、1966年(昭和41年)現在の綿作の場所に家名登という料理店が移ってきた。現在の蒔田印刷店の場所には林家という料理店があり、現在の当り矢パチンコの場所には一寸バーという西洋料理店があった。やがて静岡市の大森楠山が経営者となり、その後は大森楠山の弟が経営者となった。1956年(昭和31年)には大勝堂が湊座を買い受け、東日本興業と賃貸契約を結んで営業を継続したが、1961年(昭和36年)5月に取り壊された。跡地には大勝堂が店舗を増築している。湊座が昭和通りの発展に尽くした功績は大きく評価される。((法月六『昭和通り繁昌記』法月六、1966年、pp.26-28))

昭和初期の焼津にあった映画館「港座」(※湊座ではなく港座)の写真あり。現在の昭和通りにあった。当時は映画が娯楽の王様だった。((寺尾賢次・八木洋行(監修)『写真集 焼津・藤枝いまむかし』静岡郷土出版社、1988年、p.159))

昭和初期の焼津にあった「港座映画劇場」(※湊座ではなく港座)の写真あり。大正町(現・昭和通り)にあった。最盛期の焼津市には7館の映画館があったが、1990年(平成2年)現在はすべて休廃館となった。((山下二郎(監修)『目で見る志太100年史 焼津市・藤枝市・岡部町・大井川町』静岡郷土出版社、1990年、p.105))

1954年(昭和29年)の焼津市にあった映画館「湊座」の写真あり。『荒野の三悪人』の看板が見える。現在の焼津市本町4丁目、昭和通りに面した場所にあった。当時は映画が最大の娯楽であり、1959年(昭和34年)の日本の映画人口は約12億人だった。最盛期の焼津市には8館の映画館があった。((焼津市『やきつべ 市制施行50周年記念写真集』焼津市、2001年、p.158))

*** 浅草劇場/焼津浅草劇場/焼津アサクサ劇場
所在地 : 静岡県志太郡焼津町新浅草(1936年)、静岡県志太郡焼津町(1943年)、静岡県志太郡焼津町浅草(1950年)、静岡県焼津市元町707(1953年・1955年・1958年)、静岡県焼津市焼津707(1960年・1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1928年、1948年6月
閉館年 : 1969年頃
『全国映画館総覧1955』によると1948年6月開館。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1943年・1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「浅草劇場」。1957年の焼津市明細図では「浅草劇場」。1959年の昭和通り名店街庇完成記念焼津市明細図では「浅草劇場」。1958年・1960年の映画館名簿では「焼津浅草劇場」。1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「焼津アサクサ劇場」。1963年の映画館名簿では経営者が東日本興行、支配人が森茂明、木造1階冷暖房付、定員376、日活を上映。1964年の焼津市住宅明細図では「浅草劇場」。1968年の焼津市住宅明細図では「浅草劇場」。1969年の映画館名簿では経営者が東日本興行、支配人が古屋伯泰、木造1階冷暖房付、定員284、松竹・日活を上映。1970年・1973年の映画館名簿には掲載されていない。1972年・1973年のゼンリン住宅地図では跡地に「パチンコ日光」。1984年・1987年・1990年のゼンリン住宅地図では跡地に駐車場。現在の跡地は月極駐車場「有限会社エース貸駐車場」。

焼津の昭和通りが発展するにつれて、飲食店を中心とする歓楽街として浅草地区が生まれ、昭和通りの更なる発展にも寄与した。焼津市長の高富義一は東京の浅草六区を夢見て、観音堂や劇場を核とする楽天地の構想を立てた。1928年(昭和3年)には「見浜座」を浅草地区に移し、「歌舞伎座」と呼んで芝居や演芸を行った。同時に光心寺から観音像を勧請して静岡県の認可も取り、1929年(昭和4年)には後の「浅草劇場」前に観音堂を建立した。これが浅草という名称の由来である。開発前のこの地には田んぼが広がっていたが、飲食店を中心とする立派な歓楽街となった。1957年(昭和32年)、二級国道の開通に伴って浅草劇場は向きが変わった。この劇場の改築の際に観音堂は取り壊され、観音像は光心寺に戻っている。((法月六『昭和通り繁昌記』法月六、1966年、pp.30-32))

焼津市の浅草通りという名称は浅草観音堂があったことに由来し、観音堂の横には「浅草劇場」もあった。昼間でも三味線の稽古の音が聞こえて芸妓が行きかい、大人の風情を感じる通りだった。((寺尾賢次・八木洋行(監修)『写真集 焼津・藤枝いまむかし』静岡郷土出版社、1988年、p.93))

*** オデオン座/焼津オデオン座
所在地 : 静岡県焼津市焼津512(1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1953年12月
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧1955』によると1953年12月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「オデオン座」。1957年の焼津市明細図では「オデオン座」。1959年の昭和通り名店街庇完成記念焼津市明細図では「オデオン座」。1963年の映画館名簿では経営者が東日本興行、支配人が森卯吉、木造1階冷暖房付、定員350、大映・松竹を上映。1964年の焼津市住宅明細図では「オデオン座」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「焼津オデオン座」。1968年の焼津市住宅明細図では「オデオン座」。1969年の映画館名簿では経営者が東日本興行、支配人が古屋伯泰、木造1階冷暖房付、定員280、松竹・日活・成人映画を上映。1970年の映画館名簿では経営者が東海興業、支配人が高野博文、木造1階、定員280、日活・洋画を上映。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1984年・1987年・1990年のゼンリン住宅地図では跡地に駐車場。現在の跡地はアパート「ヴェルディ焼津」。

1960年(昭和35年)頃の焼津市にあった映画館「オデオン座」の写真あり。水校通りにあった東宝の封切館である。美空ひばりが出演した『恋すがた狐御殿』のポスターが見える。((山下二郎(監修)『目で見る志太100年史 焼津市・藤枝市・岡部町・大井川町』静岡郷土出版社、1990年、p.147))

1955年(昭和30年)頃の焼津市にあった映画館「オデオン座」の写真あり。「Odeonza」のネオンが見える。2001年(平成13年)現在の焼津市焼津6丁目にあり、水産高校通りに面していた。((焼津市『やきつべ 市制施行50周年記念写真集』焼津市、2001年、p.159))

1955年(昭和30年)の焼津市にあった映画館「オデオン座」の写真あり。「Odeonza」のネオンが見える。2007年(平成19年)現在の焼津市焼津6丁目にあり、水産高校通りに面していた。焼津市には最大で8館の映画館があった。((『保存版 藤枝・焼津・志太今昔写真帖』郷土出版社、2007年、p.98))

*** 焼津東映劇場/焼津東映
所在地 : 静岡県焼津市焼津618(1957年・1958年)、静岡県焼津市焼津618-1(1960年)、静岡県焼津市焼津618(1963年)、静岡県焼津市焼津618-14(1966年・1969年・1973年)、静岡県焼津市本町6-6-11(1976年・1980年・1985年)
開館年 : 1956年7月13日
閉館年 : 1985年頃
1955年・1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年の焼津市明細図では「東映劇場」。1957年の映画館名簿では経営者が焼津興行(※正しくは興業と思われる)、支配人が岡山博司(※正しくは関山と思われる)、木造1階冷暖房付、定員320。1959年の昭和通り名店街庇完成記念焼津市明細図では「東映劇場」。1957年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「焼津東映劇場」。1964年の焼津市住宅明細図では「東映劇場」。1968年の焼津市住宅明細図では「東映劇場」。1969年の映画館名簿では経営者が焼津興業、支配人が関山博司、木造1階冷暖房付、定員320、東映を上映。1972年・1973年・1979年・1984年のゼンリン住宅地図では「焼津東映」。1980年・1985年の映画館名簿では「焼津東映」。1985年の映画館名簿では経営会社が焼津興業株式会社、経営者が関山博司、支配人が関山幸男、木造1階、331席、東映を上映。1986年・1990年の映画館名簿には掲載されていない。1987年・1988年・1990年のゼンリン住宅地図では跡地に駐車場。跡地は「本町南公園」北西40mにある駐車場。

1956年7月13日、焼津市焼津618に焼津興行株式会社によって「焼津東映劇場」が開館する予定。総工費1300万円。敷地163坪、建坪108坪、木造モルタル造、冷暖房完備、定員370。東映作品を上映する。((「静岡『ロマンス座』落成」『キネマ旬報』1956年8月15日号、第153号))

1958年の焼津市にあった浜通り(現在の八雲通り)から北を見た写真あり。「焼津東映」の立て看板があり、『喧嘩太平記』の告知がある。当時の焼津市には7館もの映画館があった。((『写真アルバム 焼津・藤枝の昭和』いき出版、2017年、p.93))

*** 第二焼津座/焼津東宝ヒカリ座/焼津大映ヒカリ座/焼津ヒカリ座/ヒカリ座
所在地 : 静岡県焼津市焼津678(1955年・1958年)、静岡県焼津市焼津678-9(1960年)、静岡県焼津市焼津678(1963年)、静岡県焼津市焼津678-9(1966年・1969年・1973年)、静岡県焼津市本町6-7-11(1976年・1980年・1985年)
開館年 : 1954年12月
閉館年 : 1985年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1954年12月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「第二焼津座」。1957年の焼津市明細図では「松竹映画ミナト座」(※ヒカリ座ではない)。1960年・1963年の映画館名簿では「ヒカリ座」。1964年の焼津市住宅明細図では「ヒカリ座」。1966年の映画館名簿では「焼津東宝ヒカリ座」。1968年の焼津市住宅明細図では「ひかり座」。1969年の映画館名簿では「焼津大映ヒカリ座」。1969年の映画館名簿では経営者が焼津興業、支配人が関山博司、木造2階冷暖房付、定員290、大映を上映。1972年のゼンリン住宅地図では「ヒカリ座」。1973年・1976年の映画館名簿では「焼津ヒカリ座」。1973年・1979年・1984年のゼンリン住宅地図では「ヒカリ座」。1980年・1985年の映画館名簿では「ヒカリ座」。1985年の映画館名簿では経営会社が焼津興業株式会社、経営者が関山博司、支配人が関山幸男、木造2階、190席、洋画を上映。1986年・1990年の映画館名簿には掲載されていない。1987年・1988年・1990年のゼンリン住宅地図では跡地に駐車場。跡地は「本町南公園」北東50mにある駐車場。

1955年(昭和30年)の焼津市にあった映画館「ヒカリ座」の写真あり。『妻の心』、『チエミの婦人靴』の看板が見える。2001年(平成13年)現在の焼津市本町6丁目、神武通りに面した場所にあった。((焼津市『やきつべ 市制施行50周年記念写真集』焼津市、2001年、p.158))

1955年(昭和30年)の焼津市にあった映画館「ヒカリ座」の写真あり。『妻の心』、『チエミの婦人靴』の看板が見える。2007年(平成19年)現在の焼津市本町6丁目、神武通りに面した場所にあった。神武通りは昭和通りとともに栄えた通りであり、週末には多くの家族連れでにぎわった。((『保存版 藤枝・焼津・志太今昔写真帖』郷土出版社、2007年、p.97))

*** 焼津東海劇場/東海劇場
所在地 : 静岡県焼津市中港184-4(1958年・1960年)、静岡県焼津市中港町145(1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年)、静岡県焼津市中港1-3-20(1985年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1985年頃
1955年・1956年・1957年の映画館名簿には掲載されていない。1957年の焼津市明細図では「東海劇場」。1958年の映画館名簿では「焼津東海劇場」。1959年の昭和通り名店街庇完成記念焼津市明細図では「東海劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「東海劇場」。1964年の焼津市住宅明細図では「東海劇場」。1966年・1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「焼津東海劇場」。1966年の映画館名簿では経営者が東海劇場、支配人が渡辺宗夫、木造1階、定員360、洋画を上映。1968年の焼津市住宅明細図では「東海娯楽ビル」。1970年の映画館名簿では経営者が東海興業、支配人が高野博文、木造1階、定員360、洋画を上映。1972年の住宅地図では東海娯楽ビル2階の「東海劇場」。1973年の映画館名簿では経営会社が東海興業、経営者が渡辺善之助、支配人が高野博文、木造1階冷暖房付、360席、洋画を上映。1973年のゼンリン住宅地図では「東海娯楽ビル 1階喫茶ターキー&東海パチンコ 2階東海劇場 3階東海ビリヤード 4-5階焼津ボウリングセンター 6階東海サウナブロ&ニコースビヤガーデン」。1975年の映画館名簿では経営会社が東海興業、経営者が渡辺善之助、支配人が近藤和子、鉄筋造2階冷暖房付、360席、洋画を上映。1979年のゼンリン住宅地図では「東海娯楽ビル 1階パチンコ東海ホール&ゲームコーナー 2階東海劇場 3階東海ビリヤード&小島興業事務所 6階サウナ」。1980年・1985年の映画館名簿では「東海劇場」。1984年のゼンリン住宅地図では「東海娯楽ビル 1階パチンコニューメトロ 2階東海劇場 3階東海ビリヤード&有限会社松栄」。1985年の映画館名簿では経営者・支配人ともに松永鋭一、鉄筋造6階、216席、にっかつを上映。1986年・1990年の映画館名簿には掲載されていない。1987年・1990年のゼンリン住宅地図では「東海娯楽ビル」があるが映画館は閉館済と思われる。跡地は「セブンイレブン焼津中港店」。

*** 焼津名画座/名画座
所在地 : 静岡県焼津市焼津678-33(1969年・1973年)、静岡県焼津市本町6-8-16(1976年・1980年・1985年・1988年)
開館年 : 1968年頃
閉館年 : 1987年頃
1957年の焼津市明細図では後の映画館の場所に空白。1959年の昭和通り名店街庇完成記念焼津市明細図では後の映画館の場所に「松和堂カステラ」と「紋庄ラジオ店」と「服部水産加工」と「三集青果店」。1964年の焼津市住宅明細図では後の映画館の場所に「服部」(※1軒目)と「昭和堂」(※松和堂ではない)と「マスダカメラ店」と「服部」(※2軒目)と「三集屋青果店」。1966年・1967年・1968年の映画館名簿には掲載されていない。1968年の焼津市住宅明細図では後の映画館の場所に「松和堂カステラ」と「マスダカメラ店」と「服部水産」と「三集屋青果」。1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「焼津名画座」。1969年の映画館名簿では経営者が焼津興業、支配人が記載なし、鉄筋造1階冷暖房付、定員100、洋画を上映。1972年のゼンリン住宅地図では「名画座」。1973年・1979年・1984年・1987年・1988年・1990年のゼンリン住宅地図では「名画座」。1980年・1985年・1988年の映画館名簿では「名画座」。1988年の映画館名簿では経営会社が焼津興業株式会社、経営者が関山博司、支配人が関山幸男、木造1階、154席、成人映画を上映。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「本町南公園」東側の民家。

*** 焼津スカラ座/スカラ座
所在地 : 静岡県焼津市焼津618(1968年・1969年・1973年)、静岡県焼津市本町6-6-7(1976年・1980年・1985年・1988年)
開館年 : 1967年頃
閉館年 : 1988年頃
1957年の焼津市明細図では後の映画館の場所に「鰹水産加工」。1959年の昭和通り名店街庇完成記念焼津市明細図では後の映画館の場所に「鰹水産加工」。1964年の焼津市住宅明細図では後の映画館の場所に「関松化学工業KK」。1966年・1967年の映画館名簿には掲載されていない。1968年の焼津市住宅明細図では後の映画館の場所に「アキヤ」。1968年・1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「焼津スカラ座」。1969年の映画館名簿では経営者が焼津興業、支配人が関山博司、木造2階冷暖房付、定員140、成人映画を上映。1972年のゼンリン住宅地図では「スカラ座(ピンク)」。1973年・1979年・1984年・1987年・1988年・1990年のゼンリン住宅地図では「スカラ座」。1980年・1985年・1988年の映画館名簿では「スカラ座」。1988年の映画館名簿では経営会社が焼津興業株式会社、経営者が関山博司、支配人が関山幸男、木造1階、190席、にっかつ・洋画を上映。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「本町南公園」北西60mにある民家。

*** 焼津座
所在地 : 静岡県志太郡焼津町焼津(1950年)、静岡県焼津市元町(1953年)、静岡県焼津市焼津1001(1955年)、静岡県焼津市焼津612(1958年)、静岡県焼津市焼津612-1(1960年)、静岡県焼津市焼津612(1963年)、静岡県焼津市焼津612-1(1966年・1969年・1973年)、静岡県焼津市本町6-5-11(1976年・1980年・1985年・1988年)
開館年 : 1923年
閉館年 : 1989年
『全国映画館総覧1955』によると1923年1月開館。1930年・1936年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「焼津座」。1953年の映画館名簿では「東宝焼津座」。1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1988年の映画館名簿では「焼津座」。1957年の焼津市明細図では「ヤイヅ座」。1959年の昭和通り名店街庇完成記念焼津市明細図では「焼津座」。1964年の焼津市住宅明細図では「焼津座」。1968年の焼津市住宅明細図では「焼津座(関山博)」。1969年の映画館名簿では経営者が焼津興業、支配人が関山博司、木造1階冷暖房付、定員250、東宝を上映。1972年・1973年・1979年・1984年・1987年・1988年・1990年のゼンリン住宅地図では「焼津座」。1988年の映画館名簿では経営会社が焼津興業株式会社、経営者が関山博司、支配人が関山幸男、木造1階、265席、松竹・東宝を上映。1990年の映画館名簿には掲載されていない。焼津市最初の映画館であり、焼津市最後の映画館だった。跡地は「本町南公園」。

1953年(昭和28年)の一枚図『焼津市』(職業交通社発行)には「焼津座」が掲載されている。((『焼津市 第38号』職業交通社、1953年))

1953年(昭和28年)の焼津市にあった映画館「ヤイヅ座」の写真あり。2001年(平成13年)現在の焼津市本町6丁目にあった。((焼津市『やきつべ 市制施行50周年記念写真集』焼津市、2001年、p.159))

1955年(昭和30年)の焼津市にあった映画館「ヤイヅ座」の上映作品看板の写真あり。2007年(平成19年)現在の焼津市本町2丁目、加藤造園の塀に架けられていた看板である。片岡千恵蔵主演の『復讐の七仮面』のポスターが見える。ヤイヅ座は「ヒカリ座」とともに本町6丁目にあった映画館である。((『保存版 藤枝・焼津・志太今昔写真帖』郷土出版社、2007年、p.98))

1981年(昭和56年)の『焼津商工名鑑』には映画興業を行う唯一の事業所として「焼津興業(株)」が掲載されている。代表者は関山博司、所在地は焼津市本町6-5-11。((『やいづ 焼津商工名鑑 創立30周年記念版』1981年))

1989年8月には「焼津座」が閉館し、焼津市から映画館がなくなった。服部毅一市長の要望によって、焼津座館主の関山氏の協力を得て、1990年からは焼津市文化センターで映画の上映会が開催された。2021年に焼津市歴史民俗資料館で開催された市制70周年記念企画展「ヤイヅ・シネマパラダイス 映画ポスターとまちの記憶」では、焼津座で用いられていた映写機の一部が展示された。((市制70周年記念企画展「ヤイヅ・シネマパラダイス 映画ポスターとまちの記憶」焼津市歴史民俗資料館、2021年))

焼津興行は焼津市で5館の映画館を上映していた。もともと「焼津座」を経営していたが、1951年に東宝専門館の「ヒカリ座」を、1956年に「焼津東映」を、1967年に洋画専門館の「スカラ座」を、1974年に名画座を開館させた。焼津興行が経営する5館は半径100メートルほどの場所にあった。中心館である焼津座にはモニターを設置し、社長が各館の様子をチェックしていた。焼津座は黒澤明監督の『隠し砦の三悪人』で優秀興行賞を受賞し、市川崑監督の『東京オリンピック』の観客数は全国3位となった。((市制70周年記念企画展「ヤイヅ・シネマパラダイス 映画ポスターとまちの記憶」焼津市歴史民俗資料館、2021年))

** 榛原郡吉田町
*** 吉田座/吉田中央劇場
所在地 : 静岡県榛原郡吉田町片岡(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1924年9月
閉館年 : 1963年以後1966年以前
『全国映画館総覧1955』によると1924年9月開館。1958年の映画館名簿では「吉田座」。1960年・1963年の映画館名簿では「吉田中央劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1924年9月、吉田町に「吉田座」が開設された。((『吉田町年代表』吉田町観光協会、p.12))

*** 神戸映画劇場
所在地 : 静岡県榛原郡吉田町神戸(1960年・1963年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1967年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「神戸映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の榛南地区住宅明細図では「神戸劇場」。

1959年の神戸劇場(かんどげきじょう)の写真あり。神戸の交差点近くにあった。1957年頃に建設され、1967年頃まで営業していた。広告看板には初倉地区の商店の名前も見える。跡地には民家が建っており、近くにはJAハイナン神戸支店や吉田町立自彊小学校がある。映画館前の静岡県道79号吉田大東線は交通量の増加により拡幅整備された。((『島田・牧之原・榛原今昔写真帖』郷土出版社、2006年、p.99))

*** 住吉劇場
所在地 : 静岡県榛原郡吉田町住吉(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年)、静岡県榛原郡吉田町住吉2469(1969年)
開館年 : 1926年6月
閉館年 : 1969年以後1971年以前
『全国映画館総覧1955』によると1926年6月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「住吉劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の榛南地区住宅明細図では確認できず「久保田ふとん店」の南側は空白となっている。1971年の住宅地図でも発見できない。

1926年5月、吉田町に「住吉座」が開設された。((『吉田町年代表』吉田町観光協会、p.12))

** 榛原郡川根本町
*** 大井公会堂
所在地 : 静岡県榛原郡中川根村上長尾(1960年)、静岡県榛原郡中川根町上長尾(1963年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「大井公会堂」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 徳山劇場
所在地 : 静岡県榛原郡中川根町徳山(1963年・1966年)
開館年 : 1960年以後1963年以前
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1966年の映画館名簿では「徳山劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 小長井座/小長井劇場
所在地 : 静岡県志太郡東川根村藤川(1956年)、静岡県榛原郡本川根町114(1957年・1958年)、静岡県榛原郡本川根町小長井(1960年・1963年)、静岡県榛原郡本川根町菊川124-1(1966年)
開館年 : 1934年10月頃
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1954年・1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の映画館名簿では「川根小長井劇場」。1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「小長井劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。

戦前と戦後を通じて、「小長井座」は本川根町にあった唯一の映画館・演劇場である。湯山・大井川発電所の建設によって人口が増加したこともあり、1934年(昭和9年)9月から10月頃に東川根村小長井に建てられた。前方にはスクリーン・ステージ・楽屋などがあり、座席は4人用腰かけ椅子が約100人分並んでいた。後方には売店もあった。戦後も約20年間にわたって営業された。
((本川根町史編さん委員会『本川根町史 通史編3 近現代』本川根町、2003年、pp.610-614))

* 静岡県東部
** 沼津市
[[沼津市の映画館]]を参照。

** 富士市
*** 元吉電気館
所在地 : 静岡県吉原市今井本町91(1958年・1960年)
開館年 : 1951年8月
閉館年 : 1960年以後1963年以前
『全国映画館総覧1955』によると1951年8月開館。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「元吉電気館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1962年の吉原市住宅明細図では「元吉原電気館」。跡地は「愛鷹神社」北西120mの駐車場。最寄駅はJR東海道本線・岳南電車吉原駅。

*** 富士文化劇場/富士大映
所在地 : 静岡県富士郡富士町本町5(1953年)、静岡県富士市本町5-35(1955年)、静岡県富士市富士町(1958年)、静岡県富士市本町5-41(1960年)、静岡県富士市本町5(1963年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「富士文化劇場」。1961年の富士市住宅明細図では「富士大映劇場」。1963年の映画館名簿では「富士大映」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は薬局「望月しょうせいどう」北側の「岳南タクシー富士本町のりば」。最寄駅はJR東海道本線・身延線富士駅。

*** 富士電気館/富士東映劇場
所在地 : 静岡県富士郡富士町水戸島(1950年・1953年)、静岡県富士市水戸島234(1955年・1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1950年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「富士電気館」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「富士東映劇場」。1961年の富士市住宅明細図では「富士東映劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は2020年1月廃業の日本料理店「角山」。最寄駅はJR東海道本線・身延線富士駅。

*** 吉永映画劇場/富士岡館/吉原富士岡館
所在地 : 静岡県富士郡吉永村富士岡(1955年)、静岡県吉原市富士岡町(1958年)、静岡県吉原市富士岡町1(1960年)、静岡県吉原市富士岡町(1963年・1966年)
開館年 : 1953年8月
閉館年 : 1966年以後1969年以前
『全国映画館総覧1955』によると1953年8月開館。1953年・1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年の映画館名簿では「吉永映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「富士岡館」。1966年の映画館名簿では「吉原富士岡館」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 吉原電気館/第一電気館/吉原東映(旧)
所在地 : 静岡県吉原市本町(1950年)、静岡県吉原市本町1丁目(1953年・1955年)、静岡県吉原市吉原108(1958年・1960年)、静岡県吉原市吉原本町108(1963年)、静岡県吉原市吉原108(1966年)
開館年 : 1937年7月
閉館年 : 1966年以後1969年以前
『全国映画館総覧1955』によると1937年7月開館。1950年の映画館名簿では「吉原電気館」。1953年・1955年の映画館名簿では「第一電気館」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「吉原東映」。1962年の吉原市住宅明細図では「吉原東映」。1966年の映画館名簿では「吉原東映劇場」。1966年以後1969年以前に100m西に移転。跡地は「スルガ銀行富士吉原支店」北の有料駐車場「三井のリパーク富士吉原2丁目駐車場」東側。最寄駅は岳南電車吉原本町駅または本吉原駅。

1950年頃の吉原の街並みの地図あり。現在の「スルガ銀行富士吉原支店」の北側には「電気館」がある。((『写真に見る富士の今昔 新市20周年記念展』富士市立博物館、1990年、p.20))

昭和30年代の富士市吉原本町1丁目にあった映画館「電気館」の写真あり。『鉄火奉行』の看板が見える。((『写真に見る富士の今昔 新市20周年記念展』富士市立博物館、1990年、p.20))

1955年(昭和30年)の吉原電気館の写真あり。1990年(平成2年)現在の富士市吉原1丁目にあった。『鉄火奉行』の看板が見える。((奈木盛雄・遠藤秀雄(監修)『目で見る 富士・富士宮の100年』郷土出版社、1990年、p.152))

*** 岩淵会館/岩淵劇場
所在地 : 静岡県庵原郡富士川町岩淵(1953年)、静岡県庵原郡富士川町(1955年・1958年)、静岡県庵原郡富士川町岩淵(1963年)、静岡県庵原郡富士川町中ノ郷(1969年)
開館年 : 1947年6月
閉館年 : 1969年以後1973年以前
『全国映画館総覧1955』によると1947年6月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「岩淵会館」。1960年の映画館名簿には掲載されていないが理由は不明。1960年の富士川・蒲原地区明細図では「岩淵映画劇場」。1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「岩淵劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。漢字表記は岩渕劇場とも。跡地は「JR東海道本線富士川駅」出入口正面の建物数軒。最寄駅はJR東海道本線富士川駅。

*** ひよどり劇場/ひよどり映画劇場/吉原ひよどり映画劇場
所在地 : 静岡県吉原市依田原82(1958年)、静岡県吉原市依田原町3-82(1960年)、静岡県吉原市依田原82(1963年)、静岡県吉原市依田原町3-82(1966年)、静岡県富士市依田原82(1969年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1969年以後1973年以前
1960年の映画館名簿では「ひよどり劇場」。1962年の吉原市住宅明細図では「ひよどり劇場」。1963年の映画館名簿では「ひよどり映画劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「吉原ひよどり映画劇場」。1970年の住宅地図では跡地に駐車場。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「寿司聖本店」などが入る「竹村ビル」。最寄駅は岳南電車吉原本町駅。

*** 鷹岡ひかり座/昭和座/鷹岡昭和座/鷹岡昭和館
所在地 : 静岡県富士郡鷹岡町久沢180(1960年)、静岡県富士郡鷹岡町入山瀬84-1-1(1966年)、静岡県富士市鷹岡久沢(1969年・1973年)
開館年 : 1960年以前
閉館年 : 1973年以後1976年以前
1960年の映画館名簿では「鷹岡ひかり座」。1963年の映画館名簿では「昭和座」。1966年・1969年の映画館名簿では「鷹岡昭和座」。1973年の映画館名簿では「鷹岡昭和館」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 吉原日活/岳南劇場
所在地 : 静岡県吉原市今泉75(1960年)、静岡県吉原市和田町2-75(1966年)、静岡県富士市和田町75(1969年・1973年)
開館年 : 1949年12月
閉館年 : 1973年以後1976年以前
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版) - 岳南劇場>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.16342058270574%2C138.6911763246777&z=19]]
『全国映画館総覧1955』によると1949年12月開館。1960年の映画館名簿では「岳南劇場」。1962年の吉原市住宅明細図では「岳南劇場」。1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「吉原日活」。1970年の住宅地図では「吉原日活」。1973年の映画館名簿では「岳南劇場」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「和田町公民館」から道路を挟んで北側の分譲住宅地。最寄駅は岳南電車吉原本町駅または本吉原駅。

昭和30年代の富士市和田町2丁目にあった映画館「岳南劇場」の写真あり。((『写真に見る富士の今昔 新市20周年記念展』富士市立博物館、1990年、p.20))

*** 富士キネマ館/富士キネマ/フジキネマ
所在地 : 静岡県富士市平垣261(1955年・1960年・1963年・1966年・1973年・1976年)
開館年 : 1921年4月
閉館年 : 1976年声緒
『全国映画館総覧1955』によると1921年4月開館。1955年の映画館名簿では「富士キネマ」。1960年・1963年・1966年・1973年・1976年の映画館名簿では「フジキネマ」。1961年の富士市住宅明細図では「キネマ劇場」。1970年の住宅地図では「キネマ劇場」。1977年・1978年・1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は有料駐車場「キネマパーキング」。閉館後の土地区画整理事業で道路割が大きく変化しているので参考程度に。最寄駅はJR東海道本線・身延線富士駅。

1976年の富士市仲町にあった映画館「富士キネマ」の写真あり。「Kinema」の文字が見える。この時点では成人映画の上映館であり、三本立て300円だった。最盛期には洋画の名画が上映されていた。((『写真アルバム 富士・富士宮の昭和』いき出版、2018年、p.75))

*** 第二電気館/吉原第二電気館/名画座/吉原名画座/大富士松竹オスカー/大富士オスカー
所在地 : 静岡県吉原市昭和通163(1960年・1966年・1969年)、静岡県富士市吉原4-18-7(1973年・1976年)
開館年 : 1948年10月
閉館年 : 1978年以後1980年以前
『全国映画館総覧1955』によると1948年10月開館。1950年・1955年の映画館名簿では吉原市に「第二電気館」。同年には富士市に「富士電気館」もあるので混同に注意。1960年の映画館名簿では「吉原第二電気館」。1962年の吉原市住宅明細図では「第二電気館」。1963年の映画館名簿では「名画座」。1966年・1969年の映画館名簿では「吉原名画座」。1970年の住宅地図では「大富士劇場」。1973年の映画館名簿では「大富士オスカー」。1976年の映画館名簿では「大富士松竹オスカー」。1978年の映画館名簿では「大富士オスカー」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「鈴木歯科医院」東側の「カミオ月極駐車場」。最寄駅は岳南電車吉原本町駅または本吉原駅。

昭和30年代の富士市昭和通りにあった映画館「第二電気館」の写真あり。『ブラボー砦の脱出』や『グレン・ミラー物語』の看板が見える。((『写真に見る富士の今昔 新市20周年記念展』富士市立博物館、1990年、p.20))

1955年(昭和30年)頃の吉原市にあった「第二電気館」の写真あり。1990年(平成2年)現在の富士市の昭和通りにあった。邦画の「第一電気館」に対して、洋画専門の封切館だった。『ブラボー砦の脱出』や『グレン・ミラー物語』の看板が見える。((奈木盛雄・遠藤秀雄(監修)『目で見る 富士・富士宮の100年』郷土出版社、1990年、p.152))

*** 富士若草劇場/若草劇場
所在地 : 静岡県富士市平垣8-1(1960年)、静岡県富士市銀座通(1966年)、静岡県富士市本町15-11(1969年・1973年)、静岡県富士市本町14-19(1980年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1980年以後1982年以前
1960年・1963年の映画館名簿では「若草劇場」。1961年の富士市住宅明細図では「若草劇場」。1966年・1973年・1976年の映画館名簿では「富士若草劇場」。1970年の住宅地図では「若草劇場」。1980年の映画館名簿では「若草劇場」。1982年・1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「サンコーポ若草」建物西側。最寄駅はJR東海道本線・身延線富士駅。

*** 東座/吉原東座/吉原東宝東座
所在地 : 静岡県吉原市吉原260(1960年・1966年)、静岡県富士市吉原260-1-1(1969年)、静岡県富士市吉原2-4-1(1973年・1976年・1980年・1985年・1988年)
開館年 : 1872年2月
閉館年 : 1988年以後1990年以前
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版) - 吉原東宝東座>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.163842697126874%2C138.68505820591474&z=19]]
『全国映画館総覧1955』によると1872年2月開館。1962年の吉原市住宅明細図では「東座」。1963年の映画館名簿では「吉原東座」。1970年の住宅地図では「東宝映画館」。1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1988年の映画館名簿では「吉原東宝東座」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「静岡中央銀行吉原支店」東側の「杉山ビル」建物北側。最寄駅は岳南電車吉原本町駅または本吉原駅。

昭和30年代の富士市吉原本町4丁目にあった映画館「東座」の写真あり。1954年(昭和29年)日本公開のアメリカ映画『赤い山』の看板が見える。((『写真に見る富士の今昔 新市20周年記念展』富士市立博物館、1990年、p.20))

昭和30年代の富士市域にあった「東座」の写真あり。1954年(昭和29年)日本公開のアメリカ映画『赤い山』の看板が見える。戦前の吉原では古い小屋で芝居や活動写真などが興行されており、戦後にはこれらの小屋が映画館となった。((渡辺繁治(監修)『保存版 富士・富士宮今昔写真帖』郷土出版社、2008年、p.71))

*** 富士中央劇場/富士中央
所在地 : 静岡県富士市平垣町15(1958年)、静岡県富士市平垣15(1960年・1963年)、静岡県富士市平垣15-9(1966年・1969年・1973年・1976年)、静岡県富士市平垣11-1(1980年)、静岡県富士市平垣本町11-1(1990年・1992年・1993年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1993年以後1995年以前
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版) - 富士中央劇場>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.15668551617418%2C138.6505810912373&z=17]]
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年の映画館名簿では「富士中央劇場」。1961年の富士市住宅明細図では「中央劇場」。1970年の住宅地図では「中央劇場」。1985年・1990年・1992年・1993年の映画館名簿では「富士中央」。1992年の映画館名簿では鉄筋造1階、276席、経営会社が株式会社中央興行、経営者・支配人ともに安部逸雄、松竹・にっかつ・成人映画を上映。1995年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はエステサロン「素肌新館富士店」。最寄駅はJR東海道本線・身延線富士駅。

*** 吉原大映オリオン座/吉原オリオン座
所在地 : 静岡県吉原市和田町17(1960年)、静岡県吉原市和田町7(1966年)、静岡県富士市和田町7(1969年・1973年)、静岡県富士市今泉1-3-6(1976年・1980年・1990年・2000年)
開館年 : 1955年以前
閉館年 : 2000年以後2001年以前
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版) - 吉原オリオン座>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.16395341679302%2C138.68840828497434&z=19]]
1960年の映画館名簿では「吉原大映オリオン座」。1962年の吉原市住宅明細図では「オリオン座」。1963年・1966年・1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「吉原オリオン座」。1970年の住宅地図では「オリオン座」。1980年・1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「吉原オリオン」。2000年の映画館名簿では「吉原オリオン座」。2005年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は静岡県道22号「和田町」交差点南西にある駐車場。最寄駅は岳南電車吉原本町駅または本吉原駅。

昭和40年代の富士市今泉1丁目にあった映画館「オリオン座」の写真あり。((『写真に見る富士の今昔 新市20周年記念展』富士市立博物館、1990年、p.6))

昭和30年代の富士市和田町1丁目にあった映画館「オリオン座」の写真あり。「Orion」の看板がかかる。((『写真に見る富士の今昔 新市20周年記念展』富士市立博物館、1990年、p.20))

1955年の「オリオン座」の写真あり。現在の富士市今泉1丁目にあった。「Orion」の看板がかかる。『赤胴鈴之助 月夜の怪人』の看板が見える。((奈木盛雄・遠藤秀雄(監修)『目で見る 富士・富士宮の100年』郷土出版社、1990年、p.153))

昭和40年代の富士市にあった映画館「オリオン座」の写真あり。「洋画はオリオン」の文字が見え、1955年公開の『エデンの東』や1963年公開の『シャレード』のポスターが見える。((渡辺繁治(監修)『保存版 富士・富士宮今昔写真帖』郷土出版社、2008年、p.72))

1956年秋の富士市の「富士オリオン座」では、ジャン・ギャバン主演のフランス映画『ヘッドライト』、ジェームズ・ディーン主演のアメリカ映画『エデンの東』、マリリン・モンロー主演のアメリカ映画『七年目の浮気』など、立て続けに洋画の話題作が上映された。地元紙「富士ニュース」には「連日満員、熱狂的人気」と報じられた。建物は2001年頃に解体された。((谷田沢彰『わたしのまち 写真館』富士ニュース社、2006年、「オリオン座(今泉1丁目)」p.26))

1965年(昭和40年)5月26日の写真あり。スティーブ・マックイーン主演のアメリカ映画『ハイウェイ』、シルヴィ・ヴァルタン主演のフランス映画『アイドルを探せ』、アメリカ映画『若さでブッ飛ばせ!』の看板が見える。「オリオン座」が開館したのは昭和30年代であり、こけら落としは『有楽町で逢いましょう』だった。映画最盛期には上映を待つ親子連れが映画館の入り口から和田川の橋まで並んでいたこともある。(([[オリオン座>>http://www3.city.fuji.shizuoka.jp/fuji_backnum1/image/pagepdf/0939/0939-12.pdf]] 『広報ふじ』939号、2008年5月5日号、p.12))

1966年頃のオリオン座の写真あり。(([[市制40周年記念富士市写真館特集 フィルムの中の40年>>http://www3.city.fuji.shizuoka.jp/fuji_backnum1/image/pagepdf/0885/0885-02-05.pdf]]『広報ふじ』885号、2006年1月1日号、p.2))

富士市の地図が掲載されており、富士裾野線と富士沼津線の交差点(和田交差点)南側の三角地帯に「オリオン座跡地」とある。(([[六所家総合調査だより>>http://museum.city.fuji.shizuoka.jp/report/rokusyoke2.pdf]] 富士市立博物館、第2号、2008年3月、p.2))

*** 吉原東映劇場/吉原東映(新)
所在地 : 静岡県富士市吉原110(1969年)、静岡県富士市吉原2-9-28(2000年)
開館年 : 1966年以後1969年以前
閉館年 : 2002年頃
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版) - 吉原東映劇場>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.162636103687475%2C138.68807032663847&z=19]]
1966年以後1969年以前に100m東から移転。1969年の映画館名簿では「吉原東映劇場」。1970年の住宅地図では「吉原東映劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていないが理由は不明。1976年の映画館名簿では「吉原東映劇場」。1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2002年の映画館名簿では「吉原東映」。2002年の映画館名簿では鉄筋コンクリート造2階建、72席、経営会社は東急興行、経営者は中井正幸一、支配人は成宮康之、邦画を上映。2003年・2004年・2005年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は茶舗「くぼた園」東側にあるパチンコ店「アミューズメントマカオ吉原店」の廃墟。最寄駅は岳南電車吉原本町駅または本吉原駅。

*** 富士シネ・プレーゴ
所在地 : 静岡県富士市平垣270-10 ショッピングセンターパピー5階(2010年)
開館年 : 1998年12月中旬
閉館年 : 2010年4月16日
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版) - 富士シネ・プレーゴ>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.1533960672533%2C138.65087076981092&z=17]]
1995年の映画館名簿には掲載されていない。2000年・2005年・2010年の映画館名簿では「富士シネ・プレーゴ1-6」(6館)。2015年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は更地。最寄駅はJR東海道本線・身延線富士駅。

1998年(平成10年)12月中旬、JR富士駅前のショッピングセンター「パピー」に富士シネ・プレーゴが開館予定である。運営は映画館興行の日映。総投資額は約3億5000万円。富士市・富士宮市・芝川町を商圏とし、年間15-20万人の動員、年間2億5000万円の売り上げを見込んでいる。((「日映が複合映画館 商店街不振の富士中心部に」『静岡新聞』1998年9月3日))

2010年2月24日の『静岡新聞』には「富士シネ・プレーゴ」が4月に閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。((「富士市の映画館、消滅へ 富士シネ・プレーゴ4月撤退 駅前空洞化が加速」『静岡新聞』2010年2月24日))

2010年4月16日、富士市唯一の映画館「富士シネ・プレーゴ」が閉館した。JR富士駅北口の商業施設「パピー」5階。6スクリーン計658席。1998年に日映が開館させた。年間約30万人の観客があり採算性は合っていたが、パピーが新耐震基準を満たしていないとして立ち退きが決定した。NPO法人のフィルムコミッション富士は映画館の復活を願って署名運動を開始している。((「富士シネ・プレーゴ閉館 12年の歴史に幕 イベントで別れ惜しむ」『毎日新聞』2010年4月17日))

2010年4月16日、富士シネ・プレーゴが12年の歴史に幕を閉じて閉館した。富士市最大のショッピングセンターだったパピー5階に、1998年に日映が開館させた。6スクリーン675席。2008年に核施設であるパピーが耐震性を理由に閉店すると、施設からテナントが続々撤退し、富士シネ・プレーゴが最後まで残っていた。((「富士シネ・プレーゴ閉館 12年の歴史に幕 イベントで別れ惜しむ」『静岡新聞』2010年4月18日))

** 御殿場市
*** 御殿場文化劇場/文化劇場
所在地 : 静岡県駿東郡御殿場町仲町(1953年)、静岡県駿東郡御殿場町仲町14(1955年)、静岡県御殿場市仲町(1958年)、静岡県御殿場市仲町46(1960年・1963年)
開館年 : 1923年
閉館年 : 1963年以後1966年以前
『全国映画館総覧1955』によると1923年開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「文化劇場」。1955年・1958年の映画館名簿では「御殿場文化劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「文化劇場」。1961年の御殿場市住宅明細図では「文化劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は仕出し屋「むびょう」。

1953年の富士登山競争の前日には、全国マラソン連盟の金栗四三会長が「御殿場文化劇場」で講演を行った。((「[[御殿場市と金栗四三>>https://www.city.gotemba.lg.jp/gyousei/kanri/assets/uploads/2019/02/H31.02.20.pdf]]」『広報ごてんば』2019年2月20日号、p.4))

*** 新橋劇場/御殿場新橋劇場
所在地 : 静岡県駿東郡御殿場町(1950年)、静岡県駿東郡御殿場町新橋1994(1953年)、静岡県駿東郡御殿場町新橋2033(1955年)、静岡県御殿場市新橋1994(1960年・1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1924年
閉館年 : 1970年
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版) - 御殿場新橋劇場>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.3007603066431%2C138.9330940437195&z=19]]
『全国映画館総覧1955』によると1924年開館。1950年の映画館名簿では「御殿場新橋劇場」。1953年の映画館名簿では「新橋劇場」。1955年の映画館名簿では「御殿場新橋劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「新橋劇場」。1961年の御殿場市住宅明細図では「新橋劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「御殿場新橋劇場」。1970年の住宅地図では跡地に「マルコシホール」。1971年のゼンリン住宅地図では跡地に「アキヤ」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。現在の跡地は「さかなや駅前店」。最寄駅はJR御殿場線御殿場駅。

1930年11月、御殿場町の「新橋劇場」で開催された琴尺八演奏会の写真あり。1922年3月、御殿場駅の近くに新橋劇場株式会社が創立され、浪花節・芝居・連鎖劇・活動写真・琵琶・魔術などの興行が行われた。1930年の興行日数は活動写真が89日、浪花節2日、その他5日、賃借32日だった。1940年に常設映画館となった。((勝間田二郎(編)『写真集 明治大正昭和 御殿場』国書刊行会、1982年、p.57))

1955年頃の御殿場市にあった劇場通りの写真あり。「新橋劇場」が見える。1922年には新橋劇場が開館し、中田通りが劇場通りと呼ばれるようになった。昭和20年代後半には「マウント劇場」や「中央劇場」が開館し、劇場通りは御殿場随一の繁華街となった。1970年には新橋劇場が閉館し、1989年現在の跡地はパチンコ店が建っている。((芹沢栄一・渡辺好洋(監修)『写真集 御殿場・裾野 いまむかし』静岡郷土出版社、1989年、p.22))

御殿場駅の駅通りの裏手には「マウント劇場」がある。かつては「新橋劇場」もあり、この通りは劇場通りと呼ばれた。えちごや洋品店の東側にある中央ビルが新橋劇場跡地である。新橋劇場の前身はえちごやが経営した「新生座」であり、大正後期に新橋劇場が建てられた。((勝間田二郎『御殿場・裾野・小山 郷土誌 下巻』勝間田二郎、1997年))

1980年の御殿場市にあった劇場通りの写真あり。「新橋劇場」が見える。1922年には新橋劇場が開館し、中田通りが劇場通りと呼ばれるようになった。昭和20年代後半には「マウント劇場」や「中央劇場」が開館し、劇場通りは御殿場随一の繁華街となった。2013年現在の御殿場市にある映画館はマウント劇場のみであり、劇場通りはマイロードに改称している。((渡邊好洋(監修)『保存版 御殿場・裾野・小山今昔写真帖』郷土出版社、2013年、pp.28-29))

*** 御殿場東映富士劇場/富士映画劇場/御殿場富士映画劇場/御殿場東映映画劇場/御殿場東映劇場
所在地 : 静岡県御殿場市新橋2046(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1976年頃
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版) - 御殿場東映劇場>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.3028245365781%2C138.9320479822037&z=19]]
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「御殿場東映富士劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「富士映画劇場」。1961年の御殿場市住宅明細図では「富士映画劇場」。1966年の映画館名簿では「御殿場富士映画劇場」。1969年の映画館名簿では「御殿場東映映画劇場」。1970年の住宅地図では「富士映画」。1973年・1976年の映画館名簿では「御殿場東映劇場」。1977年・1978年・1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「石坂ふとん店」南西の名称不明の駐車場。最寄駅はJR御殿場線御殿場駅。

*** 御殿場中央劇場/中央劇場
所在地 : 静岡県御殿場市新橋1991(1958年)、静岡県御殿場市新橋1999(1960年)、静岡県御殿場市新橋2001(1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1988年以後1990年以前
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版) - 御殿場中央劇場>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.30107333747546%2C138.93244763134692&z=19]]
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「御殿場中央劇場」。1961年の御殿場市住宅明細図では「中央劇場」。1963年の映画館名簿では「中央劇場」。1966年・1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「御殿場中央劇場」。1970年の住宅地図では「中央劇場」。1980年・1985年・1988年の映画館名簿では「中央劇場」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は1階に居酒屋「GOTEN 御殿場店」がある「中央ビル」。最寄駅はJR御殿場線御殿場駅。

*** 御殿場マウント劇場/マウント映画劇場
所在地 : 静岡県駿東郡御殿場町新橋1988(1953年)、静岡県駿東郡御殿場町仲町(1955年)、静岡県御殿場市新橋町1988(1958年)、静岡県御殿場市新橋1988(1960年・1963年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2012年)
開館年 : 1952年7月、1965年(ビル化)
閉館年 : 2012年
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版) - 御殿場マウント劇場>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.30081065434122%2C138.93355001925204&z=19]]
1950年の映画館名簿には掲載されていない。『全国映画館総覧1955』によると1952年7月開館。1953年の映画館名簿では「マウント映画劇場」。1955年の映画館名簿では「御殿場マウント劇場」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「マウント映画劇場」。1961年の御殿場市住宅明細図では「マウント劇場」。1963年の映画館名簿では経営者・支配人ともに加藤茂治、木造1階冷暖房付、定員400、邦画・洋画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1967年の映画館名簿では経営者・支配人ともに記載なし、構造・定員ともに記載なし、洋画を上映。1967年・1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「御殿場マウント劇場」。1968年の映画館名簿では経営者が加藤茂治、鉄筋造3階冷暖房付、定員は記載なし、洋画を上映。1971年の住宅地図では「マウント会館」。1980年の映画館名簿では経営者が加藤茂治、支配人が加藤広孝、鉄筋造3階、400席、洋画を上映。1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2012年の映画館名簿では「マウント映画劇場」。2000年の映画館名簿では経営会社が株式会社マウント劇場、経営者・支配人ともに加藤広孝、鉄筋造4階、256席、邦画・洋画を上映。2012年の映画館名簿では経営会社が株式会社マウント劇場、経営者・支配人ともに加藤広孝、鉄筋造2階、255席、邦画・洋画を上映。2014年・2015年の映画館名簿には掲載されていない。映画館の建物は2020年開業の「マンテンゲストハウス」として現存。建物の正面にはマウント劇場の文字が残っている。最寄駅はJR御殿場線御殿場駅。

1955年頃の御殿場市にあった劇場通りの写真あり。「新橋劇場」が見える。1922年には新橋劇場が開館し、中田通りが劇場通りと呼ばれるようになった。昭和20年代後半には「マウント劇場」や「中央劇場」が開館し、劇場通りは御殿場随一の繁華街となった。((芹沢栄一・渡辺好洋(監修)『写真集 御殿場・裾野 いまむかし』静岡郷土出版社、1989年、p.22))

御殿場駅の駅通りの裏手には「マウント劇場」がある。かつては「新橋劇場」もあり、この通りは劇場通りと呼ばれた。((勝間田二郎『御殿場・裾野・小山 郷土誌 下巻』勝間田二郎、1997年))

1980年の御殿場市にあった劇場通りの写真あり。「新橋劇場」が見える。1922年には新橋劇場が開館し、中田通りが劇場通りと呼ばれるようになった。昭和20年代後半には「マウント劇場」や「中央劇場」が開館し、劇場通りは御殿場随一の繁華街となった。2013年現在の御殿場市にある映画館はマウント劇場のみであり、劇場通りはマイロードに改称している。((渡邊好洋(監修)『保存版 御殿場・裾野・小山今昔写真帖』郷土出版社、2013年、pp.28-29))

** 富士宮市
*** 富士宮市の映画館
まだ映画が活動写真と呼ばれていた時代、富士郡大宮町では3館が営業していた。1917年(大正6年)に開館した南神田の旭館、1920年(大正9年)に開館した南神田の大宮電気館、1920年(大正9年)に開館した松山町の帝国館である。戦後の映画黄金期には7館が営業しており、上記のほかに八光劇場、中央劇場、ロマンス座などがあった。帝国館、第一劇場、東宝映画劇場、東宝劇場と並ぶ文化劇場の写真あり。帝国館は後に東映となった。東宝映画劇場は1982年現在のマルトミ靴店の場所である。文化劇場は現在の有楽座である。((遠藤秀男『写真集 富士宮の百年』1982年、pp.30-31))

大正時代の富士郡大宮町には3館の映画館があった。1917年(大正6年)開館の旭館、1920年(大正9年)開館の大宮電気館、1920年(大正9年)開館の帝国館である。しかし、旭館と電気館は1929年(昭和4年)の大宮町大火で焼失した。戦後には中央劇場やロマンス座などの映画館が開館した。((遠藤秀男『写真集 懐かしの富士宮』羽衣出版、2009年、p.45))

*** 上井出座/上井出映画劇場
所在地 : 静岡県富士郡上井出村(1950年・1953年・1956年)、静岡県富士郡上井出村567(1957年・1958年)、静岡県富士宮市上井出35(1959年)
開館年 : 1950年以前
閉館年 : 1959年頃
1950年の映画館名簿では「上井出上井出座」。1953年の映画館名簿では「上井出映画劇場」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の映画館名簿では「上井出映画劇場」。1957年・1958年の映画館名簿では「上井手」。1959年の映画館名簿では「上井出映画劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。

時期不明の「上井出座」の写真あり。新田橋の西にあり、白糸・北山・猪の頭などからも観客を集めた。((遠藤秀男(編集)『目で見る富士宮の歴史 改訂増補版』緑星社出版部、1977年、p.189))

静岡富士病院の近くには「上井出銀座」という商店街があり、映画全盛期の昭和20年代には映画館「上井出座」もあった。現在は上井出座跡地付近にコンビニがあるだけである。((溝口功一(静岡富士病院院長)「[[編集余滴 静岡富士病院周辺の歴史散歩>>https://www.iryogakkai.jp/2016-70-04/214yoteki.pdf」『国立医療学会誌』2016年4月号、第70巻4号、p.214))

*** 富士宮東宝/東宝映画劇場/東宝劇場/大映劇場
所在地 : 静岡県富士宮市(1950年)、静岡県富士宮市大宮1038(1953年・1955年・1960年)、静岡県富士宮市本町1038(1963年)
開館年 : 1939年8月
閉館年 : 1963年
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版) - 富士宮東宝>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.224139778820046%2C138.61284517452611&z=19]]
『全国映画館総覧1955』によると1939年8月開館。1950年の映画館名簿では「富士宮東宝」。1953年の映画館名簿では「東宝映画劇場」。1955年の映画館名簿では「東宝劇場」。1960年の富士宮市住宅明細図では「富士宮大映」。1960年・1963年の映画館名簿では「大映劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は衣料品店「リトルファッション・ヴィラ」建物西側。最寄駅はJR身延線富士宮駅。

1939年(昭和14年)には富士宮市の本町(現在の大宮町)に「富士宮大映」が開館。1963年(昭和38年)に富士宮大映が閉館。2011年(平成23年)現在の跡地は駐車場。((澤田政彦「黄金期の邦画と富士宮の映画館懐古 昭和20年代から30年代初頭を中心に」『月の輪』富士宮市郷土史同好会、2011年、第26号、pp.10-16))

富士宮市の中心市街地を南北に流れる神田川の東地区にある本町商店街(現在のマイロード)には、東宝系の「文化劇場」と大映専門館の「富士宮大映」が並んでいた。両館ともに富士宮市議会議長や静岡県興行組合連合会長を務めた加瀬沢勇が経営者であり、息子であり元陸軍将校の加瀬沢保が実務を担っていた。両館ともに1939年(昭和14年)に開館した。((澤田政彦「黄金期の邦画と富士宮の映画館懐古 昭和20年代から30年代初頭を中心に」『月の輪』富士宮市郷土史同好会、2011年、第26号、pp.10-16))

昭和30年代の富士宮市にあった映画館「東宝映画劇場」「文化劇場」の写真あり。両映画館が並んでいた。本町通りは富士郡大宮町時代からの繁華街であり、戦前の1939年(昭和14年)に東宝映画劇場が開館すると、戦後の1946年(昭和21年)には隣接地に文化劇場が開館した。((渡辺繁治(監修)『保存版 富士・富士宮今昔写真帖』郷土出版社、2008年、p.72))

富士宮市本町2丁目には、文化劇場と東宝劇場という2つの映画館が並んでいた。時期不明だが両者が並んでいる写真あり。1955年(昭和30年)頃の東宝劇場の写真もあり。文化劇場は1946年(昭和21年)設立であり、東宝劇場は1939年(昭和14年)設立である。((遠藤秀男『写真集 懐かしの富士宮』羽衣出版、2009年、p.47))

富士宮市公式サイトに、昭和30年代の東宝劇場と文化劇場の写真あり。(([[富士宮市70年のあゆみ展>>http://www.city.fujinomiya.lg.jp/citizen/llti2b0000002iai.html]] 富士宮市))

*** 八光劇場/日活劇場/富士宮日活劇場
所在地 : 静岡県富士宮市宮本町1418(1960年)、静岡県富士宮市宮本町(1963年)、静岡県富士宮市宮本町1418(1966年)
開館年 : 1954年4月
閉館年 : 1971年
『全国映画館総覧1955』によると1954年4月開館。1955年・1960年の映画館名簿では「八光劇場」。1960年の富士宮市住宅明細図では「富士宮日活」。1963年の映画館名簿では「日活劇場」。1966年の映画館名簿では「富士宮日活劇場」。跡地は「第一交通本社」。

1954年(昭和29年)には富士宮市の宮本町(現在の宮町)に「8光劇場」(※八光ではなく8光)が開館。1971年(昭和46年)に8光劇場が閉館。2011年(平成23年)現在の跡地は駐車場。((澤田政彦「黄金期の邦画と富士宮の映画館懐古 昭和20年代から30年代初頭を中心に」『月の輪』富士宮市郷土史同好会、2011年、第26号、pp.10-16))

富士宮市の宮本町(現在の宮町)には「8光劇場」(※八光ではなく8光)があった。商店街の発展策として地元の商業者8人が出資して映画館を誘致したが、立地が悪く一時期は不振にあえいだ。洋画・東映・日活・NCC・東和映画の混成プログラムを打ち出すと挽回し、日活の石原裕次郎・赤木圭一郎・宍戸錠・小林旭ら主演の作品には若者の行列ができている。小西常義とロマンス座の支配人である増田新作の共同経営。((澤田政彦「黄金期の邦画と富士宮の映画館懐古 昭和20年代から30年代初頭を中心に」『月の輪』富士宮市郷土史同好会、2011年、第26号、pp.10-16))

昭和30年代の富士宮市にあった映画館「八光劇場」の写真あり。1953年(昭和28年)に開館した映画館である。すでに富士宮市には「帝国館」、「東宝映画劇場」、「第一劇場」、「文化劇場」の4館があった。八光劇場に加えて、「ロマンス座」、「中央劇場」なども開館した。八光劇場は1971年(昭和46年)に閉館した。((渡辺繁治(監修)『保存版 富士・富士宮今昔写真帖』郷土出版社、2008年、p.73))

富士宮市宮本町(現・宮町)には八光劇場があった。1955年(昭和30年)頃の写真あり。((遠藤秀男『写真集 懐かしの富士宮』羽衣出版、2009年、p.47))

*** 富士宮名画座
所在地 : 静岡県富士宮市宮町11-12(1969年)
開館年 : 1966年以後1969年以前
閉館年 : 1969年以後1973年以前
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版) - 富士宮名画座>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.22648746369855%2C138.60752751349185&z=19]]
1969年の映画館名簿では「富士宮名画座」。1970年の住宅地図では「名画座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「第一交通本社」。最寄駅はJR身延線西富士宮駅。

*** 富士宮帝国館/帝国館/富士宮東映劇場
所在地 : 静岡県富士宮市大宮(1953年)、静岡県富士宮市松山町848(1955年)、静岡県富士宮市松山町884(1958年)、静岡県富士宮市松山町884-3(1960年)、静岡県富士宮市松山町884(1963年・1966年)、静岡県富士宮市西町17-3(1969年・1973年)
開館年 : 1920年
閉館年 : 1974年
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版) - 富士宮東映劇場>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.22563952739924%2C138.6050142836449&z=19]]
『全国映画館総覧1955』によると1952年4月開館。1950年の映画館名簿では「富士宮帝国館」。1953年・1955年の映画館名簿では「帝国館」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「富士宮東映劇場」。1960年の富士宮市住宅明細図では「東映劇場」。1970年の住宅地図では「東映劇場」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は2017年8月30日開店の「セブンイレブン富士宮西町店」。最近までパチンコ店の建物が残っていた。最寄駅はJR身延線西富士宮駅。

1925年(大正14年)には富士宮の松山町(現在の西町)に「帝国館」が開館。1955年(昭和30年)に帝国館が閉館。1957年(昭和32年)には帝国館の跡地に「富士宮東映劇場」が開館。1974年(昭和49年)に富士宮東映劇場が閉館。2011年(平成23年)現在の跡地はパチンコ遊技場。((澤田政彦「黄金期の邦画と富士宮の映画館懐古 昭和20年代から30年代初頭を中心に」『月の輪』富士宮市郷土史同好会、2011年、第26号、pp.10-16))

富士宮市の松山通り(現在の西町)には「富士宮東映劇場」があった。もともとは松竹系上映館の「帝国館」だったが、やがて東映専門館に転換して富士宮東映劇場となった。社長は小櫛紹であり、支配人は勤続40年の表彰を受けた内田重高。((澤田政彦「黄金期の邦画と富士宮の映画館懐古 昭和20年代から30年代初頭を中心に」『月の輪』富士宮市郷土史同好会、2011年、第26号、pp.10-16))

1954年(昭和29年)頃の富士宮市にあった映画館「帝国館」の写真あり。『大学は出たけれど』『この広い空のどこかに』の看板が見える。昭和初期から親しまれた。富士宮市西町17-3にあり、2008年(平成20年)現在の跡地はパチンコ店となっている。((渡辺繁治(監修)『保存版 富士・富士宮今昔写真帖』郷土出版社、2008年、p.73))

1920年(大正9年)には帝国館が開館した。1934年の写真あり。『街の灯』(1934年、アメリカ)の看板が見える。1955年頃の帝国館の写真あり。『この広い空のどこかに』(1954年、小林正樹監督)、『大学は出たけれど』(1955年、野村芳太郎監督)、『アパッチ』(1954年、アメリカ)の看板が見える。帝国館は後に東映劇場に改称した。2009年(平成21年)現在の跡地はパチンコ店となっている。((遠藤秀男『写真集 懐かしの富士宮』羽衣出版、2009年、p.46))

*** 富士宮中央劇場
所在地 : 静岡県富士宮市元町957(1960年・1966年)、静岡県富士宮市宮町9-3(1969年・1976年・1980年)
開館年 : 1957年
閉館年 : 1977年
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版) - 富士宮中央劇場>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.225568049856%2C138.60897439912765&z=19]]
1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年の映画館名簿では「富士宮中央劇場」。1970年の住宅地図では「中央劇場」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「エンクルーズ株式会社」東側の空き地。少なくとも2011年まで建物が残っていた可能性がある。JR身延線富士宮駅と西富士宮駅からほぼ等距離。

1957年(昭和32年)には富士宮市の元町(現在の宮町)に「富士宮中央劇場」が開館。1977年(昭和52年)に富士宮中央劇場が閉館。2011年(平成23年)現在の跡地はパチンコ遊技場。((澤田政彦「黄金期の邦画と富士宮の映画館懐古 昭和20年代から30年代初頭を中心に」『月の輪』富士宮市郷土史同好会、2011年、第26号、pp.10-16))

富士宮市の元町(現在の宮町)には「富士宮中央劇場」があった。双葉興行のチェーンであり、社長は阿部正人。松竹系作品・独立系作品・松竹系洋画を上映した。午後10時から年中無休でナイトショーを上映し、昼間の上映回を鑑賞できない商店主らに人気があった。ナイトショーを行っているのは静岡県東部で熱海の映画館と富士宮中央劇場だけだという。((澤田政彦「黄金期の邦画と富士宮の映画館懐古 昭和20年代から30年代初頭を中心に」『月の輪』富士宮市郷土史同好会、2011年、第26号、pp.10-16))

*** 文化劇場/富士宮文化劇場/富士宮有楽座/東宝有楽座
所在地 : 静岡県富士宮市大宮町(1950年)、静岡県富士宮市大宮1050(1953年・1955年・1958年)、静岡県富士宮市本町2丁目(1960年)、静岡県富士宮市大宮1047(1966年)、静岡県富士宮市大宮町10-12(1969年・1973年・1980年)
開館年 : 1946年
閉館年 : 1980年以後1982年以前
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版) - 富士宮文化劇場>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.224139778820046%2C138.61284517452611&z=19]]
1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「文化劇場」。1958年・1960年の映画館名簿では「富士宮文化劇場」。1960年の富士宮市住宅明細図では「文化劇場」。1963年・1966年・1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「富士宮有楽座」。1970年の住宅地図では「有楽座」。1980年の映画館名簿では「東宝有楽座」。1982年・1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は衣料品店「リトルファッション・ヴィラ」建物東端部。最寄駅はJR身延線富士宮駅。

富士宮市の中心市街地を南北に流れる神田川の東地区にある本町商店街(現在のマイロード)には、東宝系の「文化劇場」と大映専門館の「富士宮大映」が並んでいた。両館ともに富士宮市議会議長や静岡県興行組合連合会長を務めた加瀬沢勇が経営者であり、息子であり元陸軍将校の加瀬沢保が実務を担っていた。両館ともに1939年(昭和14年)に開館した。((澤田政彦「黄金期の邦画と富士宮の映画館懐古 昭和20年代から30年代初頭を中心に」『月の輪』富士宮市郷土史同好会、2011年、第26号、pp.10-16))

昭和30年代の富士宮市にあった映画館「東宝映画劇場」「文化劇場」の写真あり。両映画館が並んでいた。本町通りは富士郡大宮町時代からの繁華街であり、戦前の1939年(昭和14年)に東宝映画劇場が開館すると、戦後の1946年(昭和21年)には隣接地に文化劇場が開館した。((渡辺繁治(監修)『保存版 富士・富士宮今昔写真帖』郷土出版社、2008年、p.72))

富士宮市本町2丁目には、文化劇場と東宝劇場という2つの映画館が並んでいた。時期不明だが両者が並んでいる写真あり。文化劇場は1946年(昭和21年)設立であり、東宝劇場は1939年(昭和14年)設立である。((遠藤秀男『写真集 懐かしの富士宮』羽衣出版、2009年、p.47))

富士宮市公式サイトに、昭和30年代の東宝劇場と文化劇場の写真あり。(([[富士宮市70年のあゆみ展>>http://www.city.fujinomiya.lg.jp/citizen/llti2b0000002iai.html]] 富士宮市))

*** ロマンス座/富士宮ロマンス座/東映ロマンス
所在地 : 静岡県富士宮市宝来町(1955年)、静岡県富士宮市宝来町316(1960年・1963年・1966年)、静岡県富士宮市宮町3-4(1969年・1973年・1976年)、静岡県富士宮市宮町5-34(1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1946年、1954年10月
閉館年 : 1992年
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版) - 富士宮ロマンス座>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.22416074436873%2C138.60892611936538&z=19]]
『全国映画館総覧1955』によると1954年10月開館。1955年・1960年の映画館名簿では「ロマンス座」。1960年の富士宮市住宅明細図では「第二東映」。1963年・1966年・1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「富士宮ロマンス座」。1970年の住宅地図では「ロマンス座」。1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「東映ロマンス」。跡地は「静岡県富士山世界遺産センター」北東の駐車場。JR身延線富士宮駅と西富士宮駅からほぼ等距離。

1946年(昭和21年)には富士宮市の宝来町(現在の宮町)に「ロマンス座」が開館。1992年(平成4年)にロマンス座が閉館。2011年(平成23年)現在の跡地は駐車場。((澤田政彦「黄金期の邦画と富士宮の映画館懐古 昭和20年代から30年代初頭を中心に」『月の輪』富士宮市郷土史同好会、2011年、第26号、pp.10-16))

富士宮市の本町通りに続く宝来町(現在の宮町)にあるのが「ロマンス座」であり、市内でもっとも入場料の安い映画館だった。ショーやアトラクションなどの実演も行われている。経営者は増田新作であり、増田は市内7館の親睦機関である館主クラブの責任者を務めている。((澤田政彦「黄金期の邦画と富士宮の映画館懐古 昭和20年代から30年代初頭を中心に」『月の輪』富士宮市郷土史同好会、2011年、第26号、pp.10-16))

*** 松竹座/富士宮第一劇場/第一劇場
所在地 : 静岡県富士宮市栄町228-3(1960年)、静岡県富士宮市栄町228(1963年)、静岡県富士宮市栄町228-3(1966年)、静岡県富士宮市大宮町24-2(1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1946年
閉館年 : 1993年
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版) - 富士宮第一劇場>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.223282108012384%2C138.6117934008023&z=19]]
『全国映画館総覧1955』によると1948年8月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「第一劇場」。1958年の映画館名簿では「富士宮第一劇場」。1960年の映画館名簿では「第一劇場」。1960年の富士宮市住宅明細図では「第一劇場」。1970年の住宅地図では「第一劇場」。1963年・1966年・1969年・1976年の映画館名簿では「富士宮第一劇場」。1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「第一劇場」。跡地は「クリエイトS・D富士宮大宮店」南東のブロック北側の駐車場。最寄駅はJR身延線富士宮駅。

1946年(昭和21年)には富士宮の栄町(現在の大宮町)に「第一劇場」が開館。1993年(平成5年)に第一劇場が閉館。2011年(平成23年)現在の跡地は駐車場。((澤田政彦「黄金期の邦画と富士宮の映画館懐古 昭和20年代から30年代初頭を中心に」『月の輪』富士宮市郷土史同好会、2011年、第26号、pp.10-16))

富士宮市で唯一の洋画専門館は、1939年(昭和14年)開館の「第一劇場」である。本町通りを南に1本下った栄町(現在の大宮町)にあった。社長を務める中野一雄は島田市でも映画館を経営していた。「名画の第一」というスローガンがあり、名作古典映画の鑑賞会やモーニングショーなど斬新な企画を行った。1993年(平成5年)に第一劇場が閉館したことで、富士宮市から映画館がなくなった。((澤田政彦「黄金期の邦画と富士宮の映画館懐古 昭和20年代から30年代初頭を中心に」『月の輪』富士宮市郷土史同好会、2011年、第26号、pp.10-16))

昭和30年代の富士宮市にあった映画館「第一劇場」の写真あり。戦前に「松竹座」として建てられ、1945年の終戦後すぐに『愛染かつら』を上映してにぎわった。戦後には「第一劇場」に改称し、いち早くアメリカ映画の上映を開始、洋画上映館として親しまれた。((渡辺繁治(監修)『保存版 富士・富士宮今昔写真帖』郷土出版社、2008年、p.71))

松竹座は客席数が多かった。5階建て以上である1934年(昭和9年)の建物の写真あり。後に第一劇場に改称した。1955年(昭和30年)頃の第一劇場の写真あり。((遠藤秀男『写真集 懐かしの富士宮』羽衣出版、2009年、p.45))

富士宮市公式サイトに、第一劇場の写真あり。(([[富士宮市70年のあゆみ展>>http://www.city.fujinomiya.lg.jp/citizen/llti2b0000002iai.html]] 富士宮市))

*** イオンシネマ富士宮
所在地 : 静岡県富士宮市浅間町1-8 イオンモール富士宮3階(2015年)
開館年 : 2010年11月19日
閉館年 : 営業中
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版) - イオンシネマ富士宮>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.22163311876743%2C138.61148567627413&z=19]]
2010年の映画館名簿には掲載されていない。2015年の映画館名簿では「イオンシネマ富士宮1-6」(6館)。

2010年11月19日、富士宮市のイオン富士宮ショッピングセンターにイオンシネマ富士宮が開館する。6スクリーン909席。2010年4月にJR富士駅前の富士シネ・プレーゴが閉館してから、約半年間にわたって岳南地域は映画館空白地帯だった。静岡県東中部だけではなく、山梨県南部も商圏に見込んでいる。((「映画空白地帯解消へ 市街地活性化に期待 富士宮にシネコン」静岡新聞、2010年10月19日))

2010年11月19日、富士宮市のイオン富士宮ショッピングセンターにイオンシネマ富士宮が開館する。6スクリーン909席。イオンシネマズの出店は静岡県初。((「3D複合映画館、富士宮で開業、イオン系、きょう」『日本経済新聞』、2010年11月19日))

** 裾野市
*** 裾野キング劇場
所在地 : 静岡県駿東郡裾野町平松474(1953年)、静岡県駿東郡裾野町平松(1955年・1958年)
開館年 : 1947年3月
閉館年 : 1958年頃
『全国映画館総覧1955』によると1947年3月開館。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「裾野キング劇場」。1958年の映画館名簿によると経営者は堀内孫太郎、支配人は堀内昭一、木造2階、定員606、洋画を上映。1959年・1960年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 裾野文化劇場
所在地 : 裾静岡県駿東郡野町(1962年)、静岡県駿東郡裾野町平松(1963年)
開館年 : 1961年頃
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1960年・1961年の映画館名簿には掲載されていない。1962年・1963年の映画館名簿では「裾野文化劇場」。1963年の映画館名簿によると経営者は水田幸雄、支配人は水田雅晴、木造1階、定員366、洋画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 裾野演芸館
所在地 : 静岡県駿東郡裾野町二本松(1955年)、静岡県駿東郡裾野町佐野(1963年・1966年)
開館年 : 1897年5月
閉館年 : 1966年以後1969年以前
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版) - 裾野演芸館>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.17347839751248%2C138.907933333531&z=17]]
『全国映画館総覧1955』によると1897年5月開館。1955年の映画館名簿では「裾野演芸館」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1966年の映画館名簿では「裾野演芸館」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1970年の住宅地図では「裾野演芸館」。跡地は「竹水園工場」北の「服部パーキング」。「秀英予備校裾野駅前校」の北東。

** 駿東郡清水町
*** シネプラザサントムーン
所在地 : 静岡県駿東郡清水町玉川61-2 サントムーン柿田川本館
開館年 : 2007年12月22日
閉館年 : 営業中
12スクリーンのシネコン。

2007年12月22日、駿東郡清水町に映画館「シネプラザサントムーン」が開館する。12スクリーンや計2004席はいずれも静岡県最大級。静岡県東部では5施設目のシネコン。経営は静岡市の静活。((「12スクリーンの映画館あす開業 清水町」『朝日新聞』2007年12月21日))

** 駿東郡小山町
*** 小山町の映画館
駿東郡小山町では、1921年(大正10年)に「小山劇場」が、1925年(大正14年)に「ライオン館」が開館し、映画が観られるようになった。戦後にはライオン館が「小山映画劇場」に改称し、小山劇場が「小山中央劇場」に改称した。そんな中の1951年(昭和26年)、富士紡労働組合が組合員の慰安のために映画館「労働会館」を開館させた。1956年(昭和31年)1月1日の『岳麓新聞』の「正月映画紹介」によると、小山映画劇場が『太陽は日々に新たなり』と『やがて青春』を、中央劇場が『自分の穴の中で』と『無頼の谷』を、小山労働会館が『裏町のお嬢さん』と『沙羅の花の峠』ほかを上映していた。昭和30年代後半から昭和40年代初頭には、テレビの普及などで映画館の観客動員数が減少し、小山町から映画館は姿を消した。((小山町史編さん専門委員会『小山町史 第8巻 近現代通史編』小山町、1998年、p.877))

*** 須走セントラル/須走セントラル劇場
所在地 : 静岡県駿東郡須走村241(1958年)、静岡県駿東郡小山町須走241(1960年)、静岡県駿東郡小山町須走(1963年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「須走セントラル」。1960年・1963年の映画館名簿では「須走セントラル劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 労働会館
所在地 : 静岡県駿東郡小山町小山47(1960年)、静岡県駿東郡小山町小山(1963年・1966年)
開館年 : 1951年
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「労働会館」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 小山劇場/小山中央劇場
所在地 : 静岡県駿東郡小山町藤曲54(1960年)、静岡県駿東郡小山町藤曲(1963年)、静岡県駿東郡小山町落合(1966年)、静岡県駿東郡小山町音渕(1969年)
開館年 : 1921年、1948年1月
閉館年 : 1969年以後1973年以前閉館
『全国映画館総覧1955』によると1948年1月開館。1953年・1955年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「小山中央劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

*** ライオン館/小山映画劇場
所在地 : 静岡県駿東郡小山町藤曲73(1960年)、静岡県駿東郡小山町藤曲(1963年)、静岡県駿東郡小山町落合(1966年)、静岡県駿東郡小山町藤曲73(1969年)
開館年 : 1925年、1930年11月
閉館年 : 1969年以後1973年以前
『全国映画館総覧1955』によると1930年11月開館。1953年・1955年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「小山映画劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1971年のゼンリン住宅地図では「小山劇場」。跡地は「小山町役場」北西120mにある民家。

1955年(昭和30年)頃の駿東郡小山町にあった映画館「ライオン館」の写真あり。「映画劇場」の看板が見える。モダンな建物である。((辻真澄・渡辺好洋(監修)『目で見る 沼津・駿東の100年』郷土出版社、1993年、p.151))

駿東郡小山町では、1921年(大正10年)に「小山劇場」が、1925年(大正14年)に「ライオン館」が開館し、映画が観られるようになった。戦後にはライオン館が「小山映画劇場」に改称し、小山劇場が「小山中央劇場」に改称した。1956年(昭和31年)1月1日の『岳麓新聞』の「正月映画紹介」によると、小山映画劇場が『太陽は日々に新たなり』と『やがて青春』を、中央劇場が『自分の穴の中で』と『無頼の谷』を、小山労働会館が『裏町のお嬢さん』と『沙羅の花の峠』ほかを上映していた。昭和30年代後半から昭和40年代初頭には、テレビの普及などで映画館の観客動員数が減少し、小山町から映画館は姿を消した。((小山町史編さん専門委員会『小山町史 第8巻 近現代通史編』小山町、1998年、p.877))

** 駿東郡長泉町
映画館名簿によると長泉町に映画館は存在しなかったと思われる。

* 伊豆
** 熱海市
*** 熱海市の映画館
1953年(昭和28年)現在の熱海市には、大映系の国際劇場、東宝系の東宝劇場、松竹系のロマンス座の3館の映画館がある。ダンスホールは熱海地区に2軒、和田木に1軒あるが、ホールの設備がある旅館も多い。((熱海市役所『熱海』熱海市役所、1953年、p.169))

1953年(昭和28年)に熱海市役所が刊行した『熱海』には熱海市街地図が掲載されている。主要な施設も記されており、映画館としては「国劇」(熱海国際劇場)、「宝劇」(熱海東宝劇場)、「熱劇」(後の熱海大映)、「ロマンス座」の4館が記されている。((熱海市役所『熱海』熱海市役所、1953年、附図))

*** 電気館
所在地 : 静岡県熱海市
開館年 : 1933年頃
閉館年 : 1944年
跡地は「静岡中央銀行熱海支店」の西側にある「静岡銀行提携駐車場」。

1933年(昭和8年)頃、銀座通りに映画館の電気館が開館した。開館当日の記念写真あり。熱海で初めて無声映画を上映した映画館である。1934年(昭和9年)の丹那トンネル開通式の日には、旗行列の後に『ああ無情』(※どの作品か不明)を上映した。1944年(昭和19年)には本町の火災で電気館が焼失。1950年(昭和25年)の熱海大火後、電気館跡地にはスルガ銀行・静岡銀行・静岡中央銀行・藍沢証券などが建ち、銀座通りは熱海一の繁華街から金融街となった。2006年(平成18年)現在の電気館跡地は駐車場となっている。((土屋寿山(監修)『保存版 三島・熱海・伊豆の国今昔写真帖』郷土出版社、2006年、p.103))

*** 網代映画劇場/網代映画劇場・網代ロマンス座/網代文化劇場
所在地 : 静岡県田方郡網代町(1950年)、静岡県田方郡網代町477(1953年・1955年)、静岡県熱海市網代町477(1958年)、静岡県熱海市網代旭町(1960年)
開館年 : 1945年8月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧1955』によると1945年8月開館。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「網代映画劇場」。1955年の映画館名簿では「網代映画劇場・網代ロマンス座」(2館)。1960年の映画館名簿では「網代文化劇場」。1961年熱海市明細図では「網代文化劇場」。1962年の映画館名簿では経営者・支配人がともに青木初男、木造2階、定員350。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「西島木工所工場」西にある「善修院管理駐車場」。最寄駅はJR伊東線網代駅。

*** 国際劇場/熱海国際劇場
所在地 : 静岡県熱海市本町428(1953年)、静岡県熱海市本町284(1955年)、静岡県熱海市本町428(1960年・1963年・1966年)、静岡県熱海市本町2-27(1969年)
開館年 : 1950年10月
閉館年 : 1969年以後1973年以前
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版)熱海市街地>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.09594980094987%2C139.07268844971952&z=16]]
『全国映画館総覧1955』によると1950年10月開館。1955年の映画館名簿では「国際劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「熱海国際劇場」。1974年の住宅地図では「国際劇場」。跡地は「熱海ニューフジヤホテル」南東側の商店群の中央部。アカデミー劇場の前身館であるとされる。

1953年(昭和28年)の『熱海』に掲載されている熱海市街地図では「国劇」とある。((熱海市役所『熱海』熱海市役所、1953年、附図))

*** 熱海日活
所在地 : 静岡県熱海市渚町2016(1963年)、静岡県熱海市渚町20-7(1969年)
開館年 : 1960年以後1963年以前
閉館年 : 1969年以後1973年以前
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版)熱海市街地>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.09594980094987%2C139.07268844971952&z=16]]
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「熱海日活」。1971年の住宅地図では「熱海日活」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1974年の住宅地図では跡地に「アタミトルコ」。跡地は「魯風人」がある商業ビル東側の駐車場。

*** 大映劇場/熱海大映
所在地 : 静岡県熱海市鶴田966(1955年)、静岡県熱海市旭町2-1325(1966年)、静岡県熱海市清水町5-7(1969年)
開館年 : 1954年8月
閉館年 : 1969年以後1973年以前
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版)熱海市街地>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.09594980094987%2C139.07268844971952&z=16]]
『全国映画館総覧1955』によると1954年8月開館。1955年の映画館名簿では「大映劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「熱海宝塚劇場」と同一番地。1966年・1969年の映画館名簿では「熱海大映」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1971年のゼンリン住宅地図では「京王直営ホテル熱海園 熱海大映劇場」。1974年の住宅地図では跡地に「ホテル熱海園」。跡地は「マルゲン59ビル」。

1953年(昭和28年)の『熱海』に掲載されている熱海市街地図では「熱劇」とある。当時は旭町という地名だった。((熱海市役所『熱海』熱海市役所、1953年、附図))

*** 宝塚劇場/熱海宝塚劇場・熱海大映/熱海東宝劇場
所在地 : 静岡県熱海市鶴田966-1(1955年)、静岡県熱海市鶴田966(1960年・1963年)、静岡県熱海市鶴田966-5(1966年)、静岡県熱海市中央町13-4(1969年)、静岡県熱海市中央町14(1973年)
開館年 : 1937年12月
閉館年 : 1973年以後1976年以前
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版)熱海市街地>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.09594980094987%2C139.07268844971952&z=16]]
『全国映画館総覧1955』によると1937年12月開館。1953年・1955年の映画館名簿では「宝塚劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「熱海宝塚劇場・熱海大映」(2館)。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「熱海東宝劇場」。1971年の住宅地図では東宝会館であるとして「熱海東宝劇場 熱海行業KK」。1974年の住宅地図では熱海東宝会館5階に「熱海東宝劇場」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「国際観光専門学校熱海校」。

1953年(昭和28年)の『熱海』に掲載されている熱海市街地図では「宝劇」とある。当時は旭町という地名だった。((熱海市役所『熱海』熱海市役所、1953年、附図))

*** アタミアカデミー/熱海アカデミー劇場
所在地 : 静岡県熱海市銀座1-24(1973年・1976年)、静岡県熱海市銀座1-4(1980年)
開館年 : 1969年以後1973年以前
閉館年 : 1980年4月25日
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版)熱海市街地>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.09594980094987%2C139.07268844971952&z=16]]
1969年の映画館名簿には掲載されていない。1973年・1976年・1980年の映画館名簿では「アタミアカデミー」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。熱海ニューフジヤホテル地下にあった。1971年の住宅地図ではこの場所に「ニューフジヤホテル」がある。国際劇場の後継館であるとされる。

*** 熱海名画座/熱海日活名画座
所在地 : 静岡県熱海市熱海959-14(1960年)、静岡県熱海市清水町595(1963年)、静岡県熱海市清水町959-14(1966年)、静岡県熱海市清水町1-16(1969年・1973年・1976年・1980年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1980年以後19825年以前
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版)熱海市街地>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.09594980094987%2C139.07268844971952&z=16]]
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「熱海名画座」。1976年・1980年の映画館名簿では「熱海日活名画座」。1982年の映画館名簿には掲載されていない。1974年の住宅地図では「日活名画座」。跡地は初川に架かる清水橋南すぐの「高橋薬局」。

*** テアトル ナギサ/熱海東映テアトルナギサ/熱海ナギサ映画劇場/熱海東映ナギサ
所在地 : 静岡県熱海市渚町2015(1958年)、静岡県熱海市銀座渚2015(1960年・1963年)、静岡県熱海市渚町2015(1966年)、静岡県熱海市渚町10-5(1969年)、静岡県熱海市銀座渚町10-5(1973年・1976年)、静岡県熱海市渚10-5(1980年・1985年・1988年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1988年以後1990年以前
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版)熱海市街地>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.09594980094987%2C139.07268844971952&z=16]]
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「テアトル ナギサ」。1960年の映画館名簿では「熱海東映テアトルナギサ」。1963年の映画館名簿では「熱海東映ナギサ」。1966年・1969年の映画館名簿では「熱海ナギサ映画劇場」。1971年・1974年の住宅地図では「東映ナギサ」。1973年・1976年・1980年・1985年・1988年の映画館名簿では「熱海東映ナギサ」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ローソン熱海渚店」。

*** ロマンス座/熱海ロマンス座
所在地 : 静岡県熱海市銀座382(1953年・1955年・1960年)、静岡県熱海市銀座364(1963年・1966年)、静岡県熱海市銀座8-13(1969年)、静岡県熱海市銀座8-9(1973年・1976年・1980年)、静岡県熱海市銀座8-13(1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年)
開館年 : 1951年11月
閉館年 : 2002年1月19日
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版)熱海市街地>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.09594980094987%2C139.07268844971952&z=16]]
1950年の映画館名簿には掲載されていない。『全国映画館総覧1955』によると1951年11月開館。1953年・1955年の映画館名簿では「ロマンス座」。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・2000年・2005年・2010年の映画館名簿では「熱海ロマンス座」。1971年・1974年の住宅地図では「ロマンス座」。2002年の休館後も映画館名簿には掲載され続けている。跡地には建物が現存。熱海市最後の映画館。

1953年(昭和28年)の『熱海』に掲載されている熱海市街地図では「ロマンス座」とある。((熱海市役所『熱海』熱海市役所、1953年、附図))

熱海ロマンス座が2002年1月19日から休館する。新文化興業の矢田文之社長が2001年12月に69歳で亡くなり、後継者もいないため。支配人は67歳の松浦良吉であり、47年間も映写技師としてフィルムを回してきた。1951年にロマンス座が開館。熱海市に7館あった映画館は相次いで閉館し、最後まで残った。十数年前から伊豆半島を回る移動映画会を開いてきたが、1月20日の伊東市の移動映画会を最後に終了する。((「熱海ロマンス座が休館 移動映画界も終了 社長亡くなり上映困難」2002年1月19日))

2021年1月にWeb OYA-bunko(大宅壮一文庫)で検索したが有意な言及は発見できず。

** 三島市
*** 三島市の映画館
1959年(昭和34年)現在の三島市の映画館としては、「中央」(小中島)、「セントラル」(小中島)、「第一三島」(茶町)、「第二三島」(六反田)、「銀座」(大中島)、「東海」(大中島)、「東映」(伝馬金谷町)の7館がある。このほかには、三島産業物産館でも月数回は映画の興行が催される。((三島市誌編纂委員会『三島市誌 下巻』三島市、1959年、p.681))

大正時代の三島には、六反田(現・広小路町)の「歌舞伎座」、大中島(現・本町)の「堀内座」、小中島(現・中央町)の「大正座」など、5館の劇場があった。昭和に入ると「第1三島館」、「第2三島館」、「富士館」(後のセントラル)、「銀座劇場」の各映画館が人気となった。戦後期に開館した「東海劇場」、「新日本劇場」、「中央劇場」、「東映劇場」を加えて、最盛期の三島市には8館の映画館があった。1985年(昭和60年)には三島市から映画館がなくなった。1997年(平成9年)、梅名に6館の劇場が1か所に集まった「ジョイランドシネマみしま」が開館した。((グラウンドワーク三島『三島アメニティ大百科』三島市、2001年、p.163))

大正時代の三島には、六反田(現・広小路町)の「歌舞伎座」、大中島(現・本町)の「堀内座」、久保町(現・中央町)の「大正座」など、5館の劇場があった。昭和戦前期には「第1三島館」、「第2三島館」、「富士館」(後のセントラル)、「銀座劇場」の各映画館が開館した。戦後期には「東海劇場」、「新日本劇場」、「中央劇場」、「東映劇場」の映画館が開館し、最盛期の三島市には8館の映画館があった。((NPO法人伊豆学研究会伊豆大事典刊行委員会『伊豆大事典』羽衣出版、2010年、p.199))

1928年(昭和3年)に高木工務所が発行した『三島町詳細図』には、活動常設館「三島館」、活動常設館「富士館」の写真が掲載されている。((高木臨松『三島町詳細図』高木工務所、1928年))

静岡県賀茂郡賀茂村長の山本正和は、1951年から1954年に静岡県立田方農業高校に在学した。山本は三島市内に寄宿して高校に通い、当時の三島市に6館あった映画館に入り浸り、在学中の3年間で500本近く鑑賞した。映画館と独自に交渉し、月に1回の田方農業高校生半額デーを設けてもらった。((「田方農高の百年(67)首長 分権時代の町村政担う」『静岡新聞』、2001年9月4日))

*** 三島館/第一三島館
所在地 : 静岡県三島市(1950年)、静岡県三島市茶町1922(1953年・1955年)、静岡県三島市茶町1921(1960年)、静岡県三島市六反田1922(1963年)
開館年 : 1926年頃、1946年1月
閉館年 : 1962年12月11日
1926年頃に三島館として開館。1934年に第一三島館に改称。『全国映画館総覧1955』によると1946年1月開館。1949年12月に東映専門館となる。1950年10月に洋画専門館となる。1950年・1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「第一三島館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1972年・1978年のゼンリン住宅地図では跡地に「三島信用金庫西支店」。現在の跡地は「三島信用金庫西支店」。最寄駅は伊豆箱根鉄道駿豆線三島広小路駅。

三島市西本町1-21(かつての茶町)には「三島館」があった。1926年(大正15年)頃に開館し、1934年(昭和9年)に「第一三島館」に改称した。1962年(昭和37年)12月11日に廃止された。1989年(平成元年)現在は三島信用金庫西支店になっている。((土屋寿山・稲木久男『ふるさと三島 歴史と人情の町』土屋寿山、1989年、pp.235-240))

三島市西若町の青果市場から南に約100mの場所に、伊豆箱根鉄道駿豆線の三島館踏切がある。この踏切をまっすぐ南下すると、現在の三島信用金庫西支店の場所には1962年(昭和37年)まで映画館「第一三島館」があった。((「[[ふるさと探訪 三島の踏切5 三島館踏切>>https://www.city.mishima.shizuoka.jp/kyoudo/publication/pub_tanbou030473.html]]」『広報みしま』2010年8月1日号))

*** 第二三島館
所在地 : 静岡県三島市(1950年)、静岡県三島市六反田1849(1953年)、静岡県三島市六反田1894(1955年)、静岡県三島市六反田1849(1960年・1963年)
開館年 : 1934年、1946年1月
閉館年 : 1964年2月
1934年に開館。『全国映画館総覧1955』によると1946年1月開館。1950年・1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「第二三島館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1972年・1978年・1983年のゼンリン住宅地図では跡地に「パチンコ八億」。現在の跡地はパチンコ店「パチンコ八億」。最寄駅は伊豆箱根鉄道駿豆線三島広小路駅。

三島市広小路町10-2(かつての六反田)には「第二三島館」があった。1934年(昭和9年)に開館し、1964年(昭和39年)2月に廃止された。1989年(平成元年)現在はパチンコ八億になっている。((土屋寿山・稲木久男『ふるさと三島 歴史と人情の町』土屋寿山、1989年、pp.235-240))

*** 大場劇場/東映朝日劇場/三島朝日劇場/太陽朝日座
所在地 : 静岡県三島市大場80(1955年)、静岡県三島市大場79(1960年・1963年)
開館年 : 1938年9月
閉館年 : 1963年以後1966年以前
『全国映画館総覧1955』によると1938年9月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「大場劇場」。1958年の映画館名簿では「東映朝日劇場」。1960年の映画館名簿では「三島朝日劇場」。1963年の映画館名簿では「太陽朝日座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1972年のゼンリン住宅地図では「朝日館」。1978年のゼンリン住宅地図では跡地に「車庫」。現在の跡地は「コーポ コーエイ」。最寄駅は伊豆箱根鉄道駿豆線大場駅。

*** 三島新日本劇場/三島エトアール劇場/エトアール劇場/三島東映劇場/三島国際劇場/三島劇場
所在地 : 静岡県三島市(1950年)、静岡県三島市伝馬町1220(1953年・1955年・1960年・1963年)、静岡県三島市栄町11-27(1966年)
開館年 : 1946年11月? 1947年?
閉館年 : 1964年3月
『全国映画館総覧1955』によると1946年11月開館。1950年の映画館名簿では「三島新日本劇場」。1950年11月に新日本劇場が休館。1953年に新日本劇場跡地に東映専門館のエトアール劇場が開館。1953年の映画館名簿では「三島エトアール劇場」。1954年12月22日にワイドスクリーンを設置して三島東映劇場に改称。1955年の映画館名簿では「エトアール劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「三島東映劇場」。1963年の映画館名簿では木造平屋建て420席、経営者・支配人ともに福田行芳、東映を上映。1963年4月23日に新築していた三島国際劇場が開館。1965年に三島国際劇場から三島劇場に改称したとされる。1966年の映画館名簿では「三島国際劇場」。1966年の映画館名簿では鉄筋コンクリート造平屋建て210席、経営者・支配人ともに福田行芳、洋画を上映。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1972年のゼンリン住宅地図では「東映劇場跡」(※建物が残っていたと思われる)。1978年のゼンリン住宅地図では跡地に空白。1983年のゼンリン住宅地図では跡地に「三嶋大社駐車場」。跡地は「三嶋大社駐車場」南側。最寄駅は伊豆箱根鉄道駿豆線三島広小路駅。

三島市大社町17-1には「新日本劇場」があった。1947年(昭和22年)に開館し、「三島エトアール」に改称した後、1955年(昭和30年)2月に「三島東映劇場」に改称した。1964年(昭和39年)3月に廃止された。1989年(平成元年)現在は三嶋大社の駐車場になっている。((土屋寿山・稲木久男『ふるさと三島 歴史と人情の町』土屋寿山、1989年、pp.235-240))

*** 東海劇場/三島東海劇場
所在地 : 静岡県三島市芝町1-4(1953年・1955年・1960年・1963年)、静岡県三島市芝本町10-38(1966年)
開館年 : 1927年11月、1946年
閉館年 : 1968年1月22日
『全国映画館総覧1955』によると1927年11月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「東海劇場」。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「三島東海劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1972年のゼンリン住宅地図では跡地に「キャバレーニュー東海」。1978年のゼンリン住宅地図では跡地に「地下1階キャバレーニュー東海 1階パチンコ富士 2階料理ふじ」。1983年のゼンリン住宅地図では跡地に「八百半駐車場」。跡地は立体駐車場「ヒロセパーキング」。最寄駅は伊豆箱根鉄道駿豆線三島広小路駅。

三島市芝本町10-36には「東海劇場」があった。1946年(昭和21年)には戦後の三島市でいち早く開館した。しかし戦後の混乱期で経営不振に陥ったため、1947年(昭和22年)から1950年(昭和25年)4月までは三島地区協が完全体を借り受けて、三島労働文化会館という労働組合の拠点となった。組合員とその家族には安価で映画が提供された。1968年1月22日をもって廃止された。1989年(平成元年)現在は八百半の駐車場になっている。((土屋寿山・稲木久男『ふるさと三島 歴史と人情の町』土屋寿山、1989年、pp.235-240))

1968年1月25日の『三島民報』には「東海劇場」の閉館とキャバレー転換を報じる記事が掲載されている。現物は未確認。三島市立図書館が原紙とCD-ROMを所蔵。((『三島民報』1968年1月25日))

*** 中央劇場/三島中央劇場
所在地 : 静岡県三島市(1950年)、静岡県三島市小中島(1953年)、静岡県三島市小中島1743(1955年・1960年)、静岡県三島市小中島本町(1963年)、静岡県三島市本町3-38(1966年・1969年)
開館年 : 1928年1月
閉館年 : 1974年1月28日
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版)三島市街地>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.11871735020862%2C138.9141377104312&z=16]]
『全国映画館総覧1955』によると1928年1月開館。1950年の映画館名簿では「三島中央劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「中央劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「三島中央劇場」。1971年のゼンリン住宅地図では「中央劇場」。1972年のゼンリン住宅地図では「三島中央劇場」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。1978年・1983年のゼンリン住宅地図では跡地に「第一勧業銀行三島支店」。現在の跡地は「みずほ銀行三島支店」。最寄駅は伊豆箱根鉄道駿豆線三島広小路駅。

三島市本町3-38には「中央劇場」があった。1947年(昭和22年)に開館した。1989年(平成元年)現在は第一勧業銀行の建物になっている。((土屋寿山・稲木久男『ふるさと三島 歴史と人情の町』土屋寿山、1989年、pp.235-240))

*** 久楽館/富士館/大勝館/セントラル劇場/三島セントラル劇場
所在地 : 静岡県三島市小中島(1953年)、静岡県三島市大中島(1955年)、静岡県三島市小中島1743(1960年)、静岡県三島市小中島本町(1963年)、静岡県三島市本町2-27(1966年・1969年・1980年)
開館年 : 1926年? 1928年1月?
閉館年 : 1985年8月31日
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版)三島市街地>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.11871735020862%2C138.9141377104312&z=16]]
『全国映画館総覧1955』によると1928年1月開館。1953年・1955年の映画館名簿では「セントラル劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「三島セントラル劇場」。1971年・1972年・1978年・1983年のゼンリン住宅地図では「セントラル劇場」。1980年・1985年の映画館名簿では「セントラル劇場」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はパン屋「グルッペ本町店」。最寄駅は伊豆箱根鉄道駿豆線三島広小路駅。

1926年(昭和元年)には「久楽館」が「富士館」に改称した。三島市初の鉄筋コンクリート造の映画館である。1941年(昭和16年)頃に「大勝館」に改称し、戦後に「セントラル劇場」に改称した。1974年(昭和49年)の三島市にある映画館は銀座劇場とセントラルの2館のみとなった。1985年(昭和60年)8月31日をもって廃止され、三島市から映画館がなくなった。本町2-27(かつての大中島)にあった。((土屋寿山・稲木久男『ふるさと三島 歴史と人情の町』土屋寿山、1989年、pp.235-240))

*** 堀内座/レコード館/ポッポ座/銀座劇場/三島銀座劇場/三島明宝劇場・三島有楽座/明宝劇場・有楽座
所在地 : 静岡県三島市大中島(1953年)、静岡県三島市大中島426(1955年)、静岡県三島市大中島423(1960年・1963年)、静岡県三島市南本町2-2(1966年)、静岡県三島市南本町2-27(1969年・1973年)、静岡県三島市南本町2-2(1976年・1980年・1985年)
開館年 : 1935年?、1945年12月
閉館年 : 1985年8月31日
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版)三島市街地>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.11871735020862%2C138.9141377104312&z=16]]
『全国映画館総覧1955』によると1945年12月開館。1953年・1955年の映画館名簿では「銀座劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「三島銀座劇場」。1971年・1972年のゼンリン住宅地図では「銀座劇場」。1974年3月21日には銀座劇場を分割して明宝劇場と有楽座の2館化。1976年の映画館名簿では「三島明宝劇場・三島有楽座」。1978年・1983年のゼンリン住宅地図では「明宝劇場・有楽座」。1980年・1985年の映画館名簿では「明宝劇場・有楽座」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「焼肉東海苑」専用駐車場。最寄駅は伊豆箱根鉄道駿豆線三島広小路駅。

「堀内座」を映画館に改修して「レコード館」が開館した。堀内座は1935年(昭和10年)に廃止された「三島劇場」の建物を移築したものである。レコード館は戦後になって「ポッポ座」に改称し、その後「銀座劇場」に改称した。1974年(昭和49年)の三島市にある映画館は銀座劇場とセントラルの2館のみとなった。経営者は観客数の減少に対する対策として、銀座劇場の内部を仕切って「明宝劇場・有楽座」の2館に分けた。セントラルを含めた計3館で製作者別系列の上映を行った。1985年(昭和60年)8月31日をもって廃止され、三島市から映画館がなくなった。((土屋寿山・稲木久男『ふるさと三島 歴史と人情の町』土屋寿山、1989年、pp.235-240))

1985年8月25日の『三島民報』には「明宝劇場・有楽座」の閉館を報じる記事が掲載されている。現物は未確認。三島市立図書館が原紙とCD-ROMを所蔵。((『三島民報』1985年8月25日))

*** ジョイランドみしまシネマ
所在地 : 静岡県三島市梅名308-6(2000年・2005年・2010年・2015年)
開館年 : 1997年11月
閉館年 : 営業中
1995年の映画館名簿には掲載されていない。2000年・2005年・2010年・2015年の映画館名簿では「ジョイランドみしまシネマ1-6」(6館)。最寄駅は伊豆箱根鉄道駿豆線大場駅。

1997年11月、三島市に6スクリーンが入った映画館「ジョイランドシネマみしま」が開館した。経営は沼津市に本社を置く東部事業。3階に映画館の6スクリーンがあり、1階はゲームセンターとパチンコ店、2階はボウリング場がある総合娯楽ビルである。静岡県でシネコン(複合映画館)の開館は初となる。浜松市や清水市でもシネコンの建設が計画されている。榛原町に本社を置く戸塚興業は、かつて掛川市などで約20館の映画館を経営していたが、1991年に掛川座を閉館させて映画館経営から完全撤退した。((「生き残りかけ複合映画館 若者に焦点、ビル3階に6スクリーン」『朝日新聞』1997年12月17日))

静岡県東部は半径5km圏内にシネコン3施設がある激戦区である。2008年には静岡県最多の12スクリーンを有する「シネプラザサントムーン」が開館し、「ジョイランドシネマみしま」は大きな影響を受けている。ジョイランドシネマみしまはシネコンでは珍しく入れ替え梨の自由席を採用しており、「同じ作品なら何度も見られる」という。シネプラザサントムーンは単館系作品も積極的に上映して幅広い客層を取り込もうとしている。2006年に沼津駅前に開館した「シネマサンシャイン沼津」は、学生が多い駅前の立地を生かそうと若者向けの作品を増やし、3D上映が可能なスクリーンも増やした。静岡県西部にある3つのシネコンはいずれもTOHOシネマズが運営しており、相乗効果で地域全体の観客動員数の底上げにつながっているという。((「シネコン激戦 複合映画館、県内に9つ・オープン予定2つ 館数『過剰』の声」『朝日新聞』2010年4月3日))

** 伊東市
*** 伊東市の映画館
1951年に再建された伊東劇場は、収容人数1200人で静岡県最大の大きさだった。伊東劇場の隣には洋画専門館のロキシーがあり、さらに松竹館、演舞場、銀映と、伊東市街地には5館の映画館があった。郡部には相良劇場、テアトル(八幡野)、文化館(富戸)、宇佐美座(宇佐美)があった。大衆娯楽のうち最初に衰退したのは映画館であり、1963年10月の5館の入館者数計2万7326人は、前年同月に比べて1万310人も減少した。1館あたりでは1日平均182人という少なさだった。伊東劇場も1970年に閉館。最後まで残ったのは銀映だったが、1987年に32年の歴史の幕を閉じた。((伊東市史編さん委員会『図説 伊東の歴史』伊東市教育委員会、2009年、p.190))

1963年10月の伊東市街地の映画館5館の入場者数は計2万7326人であり、売上高は計482万1700円だった。1962年10月は計3万7636人であり、売上高は539万7000円だったため、入場者数は27%減少、売上高は11%減少となった。1963年の5館の1日平均入場者数は910人であり、1館当たりでは1日平均182人だった。テレビが普及したことや、レジャーブームで娯楽施設が豊富になったことが要因に挙げられる。((「テレビ、娯楽施設に食われ 映画の入場者減る」『伊豆新聞』1963年12月10日))((『ふるさと半世紀 伊豆新聞創刊50周年記念誌』伊豆新聞本社、1998年))

*** キネマホール
所在地 : 静岡県賀茂郡伊東町(1930年)
開館年 : 1920年8月14日
閉館年 : 1945年以前
1930年の映画館名簿では「キネマホール」。1936年の映画館名簿には掲載されていない。

伊東市有数の商店街であるキネマ通りの名前の由来になったのはキネマホールである。1920年(大正9年)8月14日に開館式を行い、まだ映画が「活動写真」と呼ばれていた時代にキネマホールというハイカラな館名を付けた。キネマホールは火災に遭って短命に終わった。((『伊東の近代史を資料で読む』伊東市立伊東図書館、1997年、p.95))

『伊東の歴史と民俗寸描 地元新聞紙上に見る伊東の姿』には、「『キネマホール』その後」、「キネマホール再び 伊東・キネマ通りの発祥」という文章が掲載されている。現物は未確認。((伊東市史編さん委員会『伊東の歴史と民俗寸描 地元新聞紙上に見る伊東の姿』〈伊東市史叢書〉伊東市教育委員会、2000年))

*** 富戸文化劇場
所在地 : 静岡県伊東市富戸町701(1958年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1958年以後1960年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「富戸文化劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 宇佐美劇場
所在地 : 静岡県田方郡宇佐美村(1953年・1955年)、静岡県伊東市宇佐美区宇佐美(1958年)、静岡県伊東市宇佐美城宿(1960年・1963年)
開館年 : 1945年12月
閉館年 : 1963年以後1966年以前
『全国映画館総覧1955』によると1945年12月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「宇佐美劇場」。

*** テアトル八幡野/八幡野テアトル
所在地 : 静岡県田方郡対馬村八幡野(1953年・1955年)、静岡県伊東市対島区八幡野(1958年・1960年)、静岡県伊東市八幡野(1963年)
開館年 : 1951年9月
閉館年 : 1963年以後1966年以前
『全国映画館総覧1955』によると1951年9月開館。1953年の映画館名簿では「八幡野テアトル」。1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「テアトル八幡野」。1963年の映画館名簿では「八幡野テアトル」。跡地は「伊東市八幡野コミュニティセンター」南西130mの民家。最寄駅は伊豆急行線伊豆高原駅。

*** ロキシー劇場/伊東ロキシー/伊東東映ロキシー
所在地 : 静岡県伊東市松原(1953年・1955年)、静岡県伊東市松原町501(1958年)、静岡県伊東市松原猪戸町(1960年)、静岡県伊東市松原501(1963年)
開館年 : 1941年4月
閉館年 : 1963年以後1966年以前
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版)伊東市街地>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=34.972586305124516%2C139.09326920057367&z=16]]
『全国映画館総覧1955』によると1941年4月開館。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「ロキシー劇場」。1960年の伊東市明細図・1963年の伊東市住宅明細図では「映画劇場ロキシー(山田)」。1958年・1960年の映画館名簿では「伊東ロキシー」。1963年の映画館名簿では「伊東東映ロキシー」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1970年の映画館名簿では跡地に「ロキシー駐車場」。現在の跡地はアーケード南端部にある「セントラルビル」であり定食屋「椿や」やガールズバー「ミラージュ」などが入っている。最寄駅はJR伊東線伊東駅。

*** 伊東東映演舞場/伊東日活演舞場
所在地 : 静岡県伊東市松原町602(1958年)、静岡県伊東市松原602(1960年・1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1969年以後1973年以前
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版)伊東市街地>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=34.972586305124516%2C139.09326920057367&z=16]]
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「伊東東映演舞場」。1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「伊東日活演舞場」。1970年のゼンリン住宅地図では「伊東日活」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「手打庵松原店」。最寄駅はJR伊東線伊東駅。

*** 伊東松竹館/テアトルマルマン劇場/テアトル丸万
所在地 : 静岡県伊東市松原(1953年)、静岡県伊東市栄町(1955年・1958年)、静岡県伊東市松原栄町1(1960年・1963年・1966年)、静岡県伊東市松原1-1(1969年)
開館年 : 1930年以前、1941年8月
閉館年 : 1969年以後1973年以前
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版)伊東市街地>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=34.972586305124516%2C139.09326920057367&z=16]]
1930年の映画館名簿では「松竹館」。『全国映画館総覧1955』によると1941年8月開館。1950年の映画館名簿では「伊東松竹館」。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「松竹館」。1960年の映画館名簿では「伊東松竹館」。1960年の伊東市明細図では「映画劇場 第二東映」。1963年の伊東市住宅明細図では「テアトルマルマン」。1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「テアトル丸万」。1970年のゼンリン住宅地図では「テアトルマルマン」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。旅館「山望館」の北西30m。最寄駅はJR伊東線伊東駅。

1965年(昭和40年)頃(※誤りだと思われる)の伊東市にあった映画館「テアトルマルマン劇場」の写真あり。劇場通り(現・中央町通り)にあり、伊東市を代表する映画館だった。『日本侠客伝 白刃の盃』(1967年)や『博奕打ち』(1967年)などの看板が見える。「テアトルマルマン」「THEATRE MARUMAN」などの看板が見える。((佐藤小一郎・友野博(監修)『目で見る 三島・伊豆の100年』郷土出版社、1991年、p.133))

*** 伊東劇場
所在地 : 静岡県伊東市松原(1953年・1955年)、静岡県伊東市松原507(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年)、静岡県伊東市中央町7-2(1973年・1976年)
開館年 : 1918年5月15日
閉館年 : 1970年
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版)伊東市街地>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=34.972586305124516%2C139.09326920057367&z=16]]
『全国映画館総覧1955』によると1950年12月開館であり鉄筋コンクリート造3階建。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「伊東劇場」。1960年の伊東市明細図・1963年の伊東市住宅明細図では「伊東劇場」であり小さな「喫茶マルマン」という建物が併設されている。1970年のゼンリン住宅地図では「伊東劇場」であり小さな「マルマン」という建物が併設されている。1978年の住宅地図では「伊東劇場」であり小さな「マルマン」という建物が併設されている。1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「フリーマーケットベル」の西側の立体駐車場。「チグサ美容室」の向かい。2006年6月24日には敷地北側に「キネマカフェ伊東劇場」が開店したが、2009年12月10日に閉店した。

吉田初三郎『湯の街海の街山の街観光伊東市鳥瞰図』伊東市役所、出版年不明には伊東劇場が「劇場」として描かれている。((吉田初三郎『[[湯の街海の街山の街観光伊東市鳥瞰図>>https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/detail/005529458.html]]』伊東市役所、出版年不明))

1918年(大正7年)5月15日、再築中の伊東劇場が完成し、盛大に舞台開きが開催された。((島田千秋『伊東郷土史年表』島田千秋、1993年、p.170))

伊東劇場は1970年(昭和45年)まで営業を続けた。(※映画館名簿とは閉館時期に6年以上のずれが生じるが理由は不明)((伊東市史編さん委員会『図説 伊東の歴史』伊東市教育委員会、2009年、p.190))

2021年1月にWeb OYA-bunko(大宅壮一文庫)で検索したが有意な言及は発見できず。

*** 伊東銀座映画劇場/伊東銀映オリオン
所在地 : 静岡県伊東市玖須美之内125(1958年)、静岡県伊東市玖須美元竹之内(1960年・1963年)、静岡県伊東市玖須美元竹之内125(1966年・1969年・1973年)、静岡県伊東市銀座元町6-10(1976年・1980年)、静岡県伊東市銀座元町6-11(1985年)
開館年 : 1955年
閉館年 : 1987年4月5日
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版)伊東市街地>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=34.972586305124516%2C139.09326920057367&z=16]]
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「伊東銀座映画劇場」。1960年の伊東市明細図・1963年の伊東市住宅明細図では「映画劇場 伊東銀映」。1970年のゼンリン住宅地図では「伊東銀座映画劇場」。1973年・1976年・1980年・1985年の映画館名簿では「伊東銀映オリオン」。1978年の住宅地図では「銀映オリオン」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。伊東市最後の映画館。跡地は「伊東市商工会議所」。

1956年頃の伊東市にあった「銀映」で撮られた記念写真あり。「銀映」「東映」の文字が見える。中央には俳優の大友柳太郎が映っており、その周りには伊東銀座興業株式会社の役員などがいる。銀映の開館間もない頃には東映と大映を上映し、上映作品は時代劇が多かった。((『写真アルバム 伊豆半島の昭和』いき出版、2016年、p.192))

1987年4月5日、伊東銀映オリオンが32年間の歴史に幕を閉じて閉館する。映画全盛期の1955年、伊東劇場・ロキシー・松竹館・演舞場に次ぐ市内5番目の映画館として、伊東市銀座元町に創業した。1986年8月、伊東銀座興業株式会社の株主総会において、映画人口の減少、建物の老朽化、幼稚園児への環境問題などを理由に閉館を決定。セブンイレブンやスーパーの誘致なども検討されたが、建物は取り壊すことが決定し、726m2の敷地を商工会館の建設地とする案が有力である。増田郁雄社長、資本金1200万円。((「映画衰退に抗せず 伊東銀映あす閉館 ついに "キネマ" の火消える」『伊豆新聞』1987年4月4日))((『ふるさと半世紀 伊豆新聞創刊50周年記念誌』伊豆新聞本社、1998年))

伊東市に最後まで残った映画館は銀映であるが、1987年に32年の歴史の幕を閉じた。((伊東市史編さん委員会『図説 伊東の歴史』伊東市教育委員会、2009年、p.190))

** 下田市
*** 白浜座
所在地 : 静岡県賀茂郡下田町白浜1778(1960年)、静岡県賀茂郡下田町白浜(1963年)、静岡県賀茂郡下田町白浜1778(1966年・1969年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1969年以後1973年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「白浜座」。1971年のゼンリン住宅地図では確認できなかった。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 湊座/下田湊座
所在地 : 静岡県賀茂郡下田町825(1953年・1955年・1958年)、静岡県賀茂郡下田町839(1960年)、静岡県賀茂郡下田町黒船通り(1963年)、静岡県賀茂郡下田町825(1966年)、静岡県賀茂郡下田町黒船通(1969年)
開館年 : 1884年4月19日
閉館年 : 1969年8月26日
『全国映画館総覧1955』によると1907年10月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「湊座」。1955年の映画館名簿では「下田湊座」。1958年の映画館名簿では「湊座」。1960年の映画館名簿では「下田湊座」。1963年の映画館名簿では「港座」。1966年・1969年の映画館名簿では「下田湊座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

1884年4月19日には港座(※湊座ではなく港座)が創業した。((土橋一徳『下田年表 平成16年版』土橋一徳、2004年、p.82))

1969年8月26日には港座(※湊座ではなく港座)が閉館し、娯楽センターと駐車場になった。((土橋一徳『下田年表 平成16年版』土橋一徳、2004年、p.124))

*** 下田黒船センター
所在地 : 静岡県賀茂郡下田町839(1966年)、静岡県賀茂郡下田町白浜黒船通(1969年)、静岡県下田市黒船通り(1973年)、静岡県下田市3-1-4(1976年・1977年)
開館年 : 1963年以後1966年以前
閉館年 : 1977年頃
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版) - 下田黒船センター>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=34.67273715244103%2C138.94202220653756&z=19]]
1963年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1969年・1973年・1976年・1977年の映画館名簿では「下田黒船センター」。1971年・1976年のゼンリン住宅地図では「黒船センター」。1978年・1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はスーパーマーケット「マックスバリュエクスプレス下田銀座店」建物南東角。最寄駅は伊豆急行線伊豆急下田駅。

*** 三幸館/下田三幸館
所在地 : 静岡県賀茂郡下田町(1950年)、静岡県賀茂郡下田町549(1953年)、静岡県賀茂郡下田町下田銀座(1955年・1958年)、静岡県賀茂郡下田町550(1960年)、静岡県賀茂郡下田町下田銀座(1963年)、静岡県賀茂郡下田町550(1966年)、静岡県賀茂郡下田町銀座通(1969年)、静岡県下田市銀座通り(1973年)、静岡県下田市2-11-20(1976年)
開館年 : 1937年12月
閉館年 : 1978年以後1980年以前
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版) - 下田三幸館>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=34.67311215263044%2C138.943183603041&z=19]]
『全国映画館総覧1955』によると1937年12月開館。1950年の映画館名簿では「下田三幸館」。1953年の映画館名簿では「三幸館」。1955年の映画館名簿では「下田三幸館」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「三幸館」。1971年・1976年のゼンリン住宅地図では「三幸館」。1971年時点では右隣には「誠心薬局」が、1976年時点では「尾形薬局」があった。1971年時点・1976年時点で左隣には「藤田呉服店」があった。1971年・1976年時点で現在の立体駐車場の場所には「東京電力沼津支店下田営業所」があった。1973年・1976年・1978年の映画館名簿では「下田三幸館」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「尾形薬局本店」西側の立体駐車場「月極尾形駐車場」東側。最寄駅は伊豆急行線伊豆急下田駅。

** 伊豆市
*** 湯ケ島劇場
所在地 : 静岡県田方郡上狩野村湯ケ島173(1953年・1955年・1958年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1958年以後1960年以前
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「湯ケ島劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿に掲載されている出口劇場との関係は不明。

*** 出口劇場
所在地 : 静岡県田方郡天城湯ケ島町(1963年)
開館年 : 1960年以後1963年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1958年の映画館名簿に掲載されている湯ケ島劇場との関係は不明。1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「出口劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 桂座
所在地 : 静岡県田方郡修善寺町温泉場(1953年)、静岡県田方郡修善寺町桂町(1955年・1958年)、静岡県田方郡修善寺町3463-2(1960年)、静岡県田方郡修善寺町桂町(1963年)
開館年 : 1927年5月
閉館年 : 1963年以後1966年以前
『全国映画館総覧1955』によると1927年5月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「桂座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 伊豆中央劇場/修善寺中央劇場
所在地 : 静岡県田方郡北狩野村528-2(1955年)、静岡県田方郡修善寺町駅前(1958年)、静岡県田方郡修善寺町(1960年・1963年)、静岡県田方郡修善寺町駅前(1966年)、静岡県田方郡修善寺町柏久保(1969年・1973年)
開館年 : 1947年5月
閉館年 : 1973年以後1976年以前
『全国映画館総覧1955』によると1947年5月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「伊豆中央劇場」。1958年の映画館名簿では「修善寺中央劇場」。1960年の映画館名簿では「伊豆中央劇場」。1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「修善寺中央劇場」。1970年・1972年の住宅地図では「中央映画館」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「もりの歯科クリニック」。最寄駅は伊豆箱根鉄道駿豆線修善寺駅。

1972年の修善寺町にあった「中央劇場」の写真あり。『キングギドラ対ゴジラ』『ガメラ対深海怪獣ジグラ』『いなかっぺ大将』の東宝作品3本立てである。修善寺駅の近くにあった。大仁町にあった映画館が閉館すると、近隣では唯一の映画館となった。((『写真アルバム 伊豆半島の昭和』いき出版、2016年、p.3))

*** 演芸館/土肥演芸館/土肥劇場
所在地 : 静岡県田方郡土肥町(1950年)、静岡県田方郡土肥町311(1953年・1955年・1958年・1960年)、静岡県田方郡土肥町土肥(1963年・1966年・1969年)、静岡県田方郡土肥町土肥311(1973年)、静岡県田方郡土肥町311(1976年)、静岡県田方郡土肥町土肥311(1980年)
開館年 : 1926年7月
閉館年 : 1980年以後1982年以前
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版) - 土肥演芸館>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=34.91416031448213%2C138.79122221904913&z=17]]
『全国映画館総覧1955』によると1926年7月開館。1950年の映画館名簿では「演芸館」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「土肥演芸館」。1970年・1973年のゼンリン住宅地図では「演芸館」。1973年・1980年の映画館名簿では「土肥劇場」。1981年のゼンリン住宅地図では「土肥劇場」。1982年・1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「スナック雅」。映画館の建物を転用していると思われる。

** 伊豆の国市
*** 菖蒲座
所在地 : 静岡県田方郡伊豆長岡町古奈(1953年・1955年・1958年)、静岡県田方郡伊豆長岡町54(1960年)、静岡県田方郡伊豆長岡町古奈(1963年)
開館年 : 1912年2月
閉館年 : 1963年以後1966年以前
『全国映画館総覧1955』によると1912年2月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「菖蒲座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

吉田初三郎『伊豆霊湯長岡温泉名所図絵』大和宇平、1923年には「劇場」が描かれている。(※菖蒲座のことはどうかは不明)((吉田初三郎『[[伊豆霊湯長岡温泉名所図絵>>https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/detail/002239267.html]]』大和宇平、1923年))

1951年(昭和26年)6月23日、伊豆長岡町立長岡小学校でナトコ映写機の技術講習会が開催された。ナトコ映写機やフィルムが学校に貸与され、小学校では映画教室の時間が設けられた。1948年(昭和23年)から1953年(昭和28年)にかけて、「あやめ座」・長岡小学校・江間小学校で上映された映画としては、『鐘の鳴る丘』、『風の子』、『村八分』、『ひげのある天使』、『せむしの子馬』、『トランペット少年』、『三太頑張れ』、『水島山の少年』、『にしん』、『あげはちょう』、『消えた子牛』、ウォルト・ディズニー最初の長編色彩漫画『白雪姫』などがある。((伊豆長岡町教育委員会『伊豆長岡町史 下巻』伊豆長岡町教育委員会、2005年、p.520))

*** 大仁劇場
所在地 : 静岡県田方郡大仁町大仁281(1953年・1958年)、静岡県田方郡大仁町(1960年)、静岡県田方郡大仁町大仁(1963年)、静岡県田方郡大仁町(1966年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1966年以後1968年以前
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「大仁劇場」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「大仁劇場」。1968年・1969年の映画館名簿には掲載されていない。1970年・1972年のゼンリン住宅地図では「大仁劇場」。跡地は1992年竣工のマンション「センシブル大仁」。最寄駅は伊豆箱根鉄道駿豆線大仁駅。

** 田方郡函南町
映画館名簿によると函南町に映画館は存在しなかったと思われる。

** 賀茂郡東伊豆町
*** 白田劇場
所在地 : 静岡県賀茂郡東伊豆町白田320-12(1960年)、静岡県賀茂郡東伊豆町白田(1963年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「白田劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 熱川映画劇場/熱川劇場
所在地 : 静岡県賀茂郡城東村奈良本(1955年)、静岡県賀茂郡城東村872(1958年)、静岡県賀茂郡東伊豆町熱川(1960年・1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1951年10月
閉館年 : 1971年以後1973年以前
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版) - 熱川劇場>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=34.81489634709451%2C139.06247105449222&z=17]]
1950年の映画館名簿には掲載されていない。『全国映画館総覧1955』によると1951年10月開館。1955年・1958年の映画館名簿では「熱川映画劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「熱川劇場」。1971年のゼンリン住宅地図では「熱川映画」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「NTT西日本熱川ビル」の120m南東の民家。最寄駅は伊豆急行線熱川駅。

*** 稲取オリオン座/オリオン座
所在地 : 静岡県賀茂郡稲取町801(1959年)、静岡県賀茂郡東伊豆町稲取801(1960年)、静岡県賀茂郡東伊豆町稲取(1963年)、静岡県賀茂郡東伊豆町稲取801(1966年・1969年)
開館年 : 1953年
閉館年 : 1969年以後1971年以前
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版) - 稲取オリオン座>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=34.77111142803758%2C139.04416411271973&z=17]]
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年の映画館名簿では「オリオン座」。1960年の映画館名簿では「稲取オリオン座」。1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「オリオン座」。1969年の映画館名簿では経営者・支配人がともに鈴木恒男、木造1階、定員156、東宝・洋画を上映。1971年の住宅地図では跡地に「鈴木常男」邸。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「静岡銀行稲取支店」北東110mにある民家。最寄駅は伊豆急行線伊豆稲取駅。

1953年には稲取の東町に「オリオン座」が開館し、「中央劇場」と2館体制が続いた。昭和30年代以降の映画は斜陽となり、まずオリオン座が閉館した。平成初期には中央劇場も姿を消した(※平成初期に営業終了したという意味なのか取り壊されたという意味なのかは不明)。((金指徹『稲取風土記 漁師の村の変遷とその発展』金指徹、2010年、pp.214-215))

*** 喜遊座/中央劇場/稲取中央劇場
所在地 : 静岡県賀茂郡稲取町(1950年)、静岡県賀茂郡稲取町清水415(1953年)、静岡県賀茂郡稲取町415(1955年・1958年)、静岡県賀茂郡東伊豆町稲取415(1960年)、静岡県賀茂郡東伊豆町稲取(1963年)、静岡県賀茂郡東伊豆町稲取415(1966年・1969年・1973年・1976年)
開館年 : 1937年7月
閉館年 : 1978年
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版) - 稲取中央劇場>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=34.771058549652366%2C139.04102056375427&z=17]]
『全国映画館総覧1955』によると1937年7月開館。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「稲取中央劇場」。1963年の映画館名簿では「中央劇場」。1966年・1969年・1976年の映画館名簿では「稲取中央劇場」。1971年のゼンリン住宅地図では「稲取中央劇場」。1974年の映画館名簿では経営者が中央興行、木造2階、335席、松竹・東映・東宝・洋画・成人映画を上映。1980年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「東伊豆町いきいきセンター」から道路を挟んで北東の「中央プラザ」。最寄駅は伊豆急行線伊豆稲取駅。

東伊豆町の稲取地区には「オリオン劇場」と「中央劇場」、城東地区には「白田劇場」と「熱川劇場」があったが、昭和40年代初頭には「中央劇場」を除く3館が閉館した。((東伊豆町誌編纂委員会『東伊豆町誌』東伊豆町、1989年、p.65))

明治30年代、稲取の田町に「どんどろ」という芝居小屋が開館し、アメヤ芝居や浪花節の興行が行われた。大正中期には映画の上映も開始された。その後経営者が変わって下清水に移転し、戦後には映画常設館「中央劇場」となった。1931年には字向井に「稲取館」も開館し、中央劇場と稲取館の2館体制が続いたが、1943年には稲取館が閉館した。((金指徹『稲取風土記 漁師の村の変遷とその発展』金指徹、2010年、pp.214-215))

1951年(昭和26年、※ただし映画ポスターは1952-53年)頃の賀茂郡稲取町にあった「中央劇場」の写真あり。『銭形平次捕物控 からくり屋敷』(1953年)や遠山金四郎シリーズの『飛びっちょ判官』(1952年)の写真あり。((佐藤小一郎・友野博(監修)『目で見る 三島・伊豆の100年』郷土出版社、1991年、pp.132-133))

1950年の賀茂郡稲取町にあった「稲取中央劇場」の写真あり。大正時代には喜遊座という芝居小屋だったが、やがて映画館に転換し、無声映画・天然色映画・シネスコープの時代を通じてにぎわった。稲取町唯一の娯楽施設だった。1978年(昭和53年)に閉館すると中央プラザとなり、ヤオハンの衣料部がテナントに入っていた。ヤオハンが旧静岡県立稲取高校跡地に移転すると、2006年(平成18年)現在は福祉関係の事務所が一部を利用している。1950年の写真あり。((大川博和ほか(編)・加藤清志(監修)『保存版 伊東・伊豆・下田今昔写真帖』郷土出版社、2006年、p.64))

** 賀茂郡河津町
*** 峰キネマ
所在地 : 静岡県賀茂郡河津町峰579(1960年)、静岡県賀茂郡河津町峰(1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1969年以後1973年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「峰キネマ」。1971年の住宅地図では確認できなかった。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 河津座
所在地 : 静岡県賀茂郡下河津村谷津(1953年)、静岡県賀茂郡下河津村1280(1955年・1958年)、静岡県賀茂郡河津町谷津(1960年・1963年・1969年)
開館年 : 1923年10月
閉館年 : 1969年以後1973年以前
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版) - 河津座>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=34.74517483134655%2C138.99097606508178&z=17]]
『全国映画館総覧1955』によると1923年10月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「河津座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の映画館名簿では「河津座」。1971年のゼンリン住宅地図では「河津座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「寺林プロパン商会」から道路を挟んで南東の向かい。

*** 天城クラブ
所在地 : 静岡県賀茂郡上河津村湯ヶ野(1953年)、静岡県賀茂郡河津町湯ケ野192-1(1960年)、静岡県賀茂郡河津町湯ヶ野(1963年)、静岡県賀茂郡河津町湯ヶ野192-1(1966年)、静岡県賀茂郡河津町湯ケ野19-1(1969年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1969年以後1973年以前
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版) - 天城クラブ>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=34.776067972083595%2C138.95518760422976&z=17]]
1953年の映画館名簿では「天城クラブ」。1955年・1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「天城クラブ」。1971年のゼンリン住宅地図では「天城クラブ」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「坪井魚店」の7軒南東。

** 賀茂郡南伊豆町
*** 南中座
所在地 : 静岡県賀茂郡南伊豆町下賀茂(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「南中座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

** 賀茂郡松崎町
*** 松崎セントラル劇場/セントラル劇場
所在地 : 静岡県賀茂郡松崎町松崎319(1953年)、静岡県賀茂郡松崎町319(1955年)、静岡県賀茂郡松崎町390(1958年)、静岡県賀茂郡松崎町松崎390(1960年)、静岡県賀茂郡松崎町(1963年)
開館年 : 1950年8月
閉館年 : 1963年以後1966年以前
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版) - セントラル劇場>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=34.75390792943952%2C138.77790573624566&z=17]]
『全国映画館総覧1955』によると1950年8月開館。1953年の映画館名簿では「セントラル劇場」。1955年の映画館名簿では「松崎セントラル劇場」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「セントラル劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1999年のゼンリン住宅地図では跡地に真野節美邸。現在の跡地は民家。

*** 松崎劇場/松崎映画劇場/松崎映劇
所在地 : 静岡県賀茂郡松崎町中(1953年)、静岡県賀茂郡松崎町松崎355(1955年・1958年・1960年)、静岡県賀茂郡松崎町(1963年)、静岡県賀茂郡松崎町355(1969年・1973年・1976年・1985年)、静岡県賀茂郡松崎町松崎355(1990年・1995年・1996年・1997年)
開館年 : 1950年4月
閉館年 : 1997年頃
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版) - 松崎劇場>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=34.75390792943952%2C138.77790573624566&z=17]]
『全国映画館総覧1955』によると1950年4月開館。1953年の映画館名簿では「松崎劇場」。1955年の映画館名簿では「松崎映画劇場」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「松崎劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「松崎劇場」。1973年のゼンリン住宅地図では「松崎劇場」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。1981年のゼンリン住宅地図では跡地に「喫茶メルヘン」。1985年の映画館名簿では「松崎映画劇場」。1995年・1996年・1997年の映画館名簿では「松崎映劇」。1995年のゼンリン住宅地図では「松崎劇場 ファミリー焼肉大門」。1998年・2000年の映画館名簿には掲載されていない。1999年のゼンリン住宅地図では跡地に「2階 ファミリー焼肉大門」。現在の跡地は「ファミリー焼肉大門」。

2021年1月にWeb OYA-bunko(大宅壮一文庫)で検索したが有意な言及は発見できず。

** 賀茂郡西伊豆町
*** 安良里劇場
所在地 : 静岡県賀茂郡賀茂村安良里(1960年・1963年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「安良里劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 宇久須劇場
所在地 : 静岡県賀茂郡賀茂村宇久須312-1(1960年)、静岡県賀茂郡賀茂村宇久須(1963年・1966年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「宇久須劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 田子映画劇場/田子劇場
所在地 : 静岡県賀茂郡田子村255-1(1953年)、静岡県賀茂郡田子村163(1955年)、静岡県賀茂郡西伊豆町田子255(1958年)、静岡県賀茂郡西伊豆町1155-1(1960年)、静岡県賀茂郡西伊豆町田子(1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年)、静岡県賀茂郡西伊豆町田子1155-1(1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年)
開館年 : 1945年
閉館年 : 2010年以後2012年以前
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(全国版) - 田子劇場>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=34.804047684362544%2C138.76444415291746&z=17]]
『全国映画館総覧1955』によると1950年8月開館。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「田子劇場」。1960年の映画館名簿では「田子映画劇場」。1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年の映画館名簿では「田子劇場」。1973年・1981年のゼンリン住宅地図では「田子劇場」。2012年・2015年の映画館名簿には掲載されていない。跡地に映画館時代の建物が現存。1階の「かしわや食堂」は営業中。

伊豆半島の中央部・南部唯一の映画館である田子劇場は、1999年現在でも営業を続けている。100席と小さな映画館であり、戦後すぐの1945年(昭和20年)に開館した。当時は娯楽が乏しい時代であり、立ち見は当たり前、連日盛況だった。カツオ漁船に乗り組んでいた漁師は、漁から戻ると映画を観て一杯やるのが楽しみだった。2代目経営者の真野昭元(65歳)は、合わせて経営している飲食店の収入で食いつないでいる。アクション作品やアニメ作品は観客が多いが、文芸作品は観客が少ないという。((「ぶらりしずおか港町 田子(西伊豆町)」『静岡新聞』1999年9月26日))

「田子劇場」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。((中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年))

2021年1月にWeb OYA-bunko(大宅壮一文庫)で検索したが有意な言及は発見できず。

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