閉館した映画館を中心とする、日本の映画館の総合データベースです。管理人「hekikaicinema」のみが編集可能。

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* 岐阜市
岐阜市については[[岐阜市の映画館]]を参照。

* 大垣市
大垣市については[[大垣市の映画館]]を参照。

* 岐阜地方
** 各務原市
*** 日の丸劇場
所在地 : 岐阜県稲葉郡鵜沼町(1962年)
開館年 : 1961年頃
閉館年 : 1962年頃
1960年・1961年の映画館名簿には掲載されていない。1962年の映画館名簿では「日の丸劇場」。1962年の映画館名簿では木造1階、定員388、経営者が鵜沼土地興業、支配人が長縄知明、大映・松竹・東映を上映。1962年の映画館名簿では「日の丸劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 大一映画館/大一映画劇場
所在地 : 岐阜県稲葉郡蘇原町(1959年・1960年・1962年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1962年頃
1955年・1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年の映画館名簿では「大一映画館」。1960年の映画館名簿では木造1階、定員350、経営者が川島一三二、支配人が高井銑一、大映・松竹・東映を上映。1962年の映画館名簿では「大一映画劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年の松笠書房各務原市住宅明細地図では確認できず。

*** 那加映画劇場/那加劇場
所在地 : 岐阜県稲葉郡那加町(1955年)、岐阜県稲葉郡那加町15(1958年)、岐阜県稲葉郡那加町吾妻町(1960年)、岐阜県稲葉郡那加町(1963年)、岐阜県各務原市那加吾妻町(1966年・1967年)
*** 那加劇場/那加映画劇場
所在地 : 岐阜県稲葉郡那加町(1955年)、岐阜県稲葉郡那加町15(1958年)、岐阜県稲葉郡那加町吾妻町(1960年)、岐阜県稲葉郡那加町(1963年)、岐阜県各務原市那加吾妻町(1966年)
開館年 : 1930年5月
閉館年 : 1967年頃
『全国映画館総覧1955』によると1930年5月開館。1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「那加映画劇場」。1960年の映画館名簿では「那加劇場」。1960年の映画館名簿では木造2階冷暖房付、定員400、経営者が岐阜土地興業、支配人が村瀬省次、東映を上映。1963年の映画館名簿では「那加映画劇場」。1964年の松笠書房各務原市住宅明細地図では「那加東映」。1966年・1967年の映画館名簿では「那加劇場」。1968年・1969年の映画館名簿には掲載されていない。1968年の住宅地図では跡地に「主婦の店」。1981年の住宅地図では跡地に「主婦の店那加東栄店」。1987年の住宅地図では跡地に「フラワーショップ花竜」と空白。跡地は花屋「フラワーショップ那加花竜」と理容店「バーバーアズマ」。最寄駅は名鉄各務原線新那加駅・JR高山本線那加駅。
閉館年 : 1966年以後1968年以前
『全国映画館総覧1955』によると1930年5月開館。1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「那加映画劇場」。1960年の映画館名簿では「那加劇場」。1960年の映画館名簿では木造2階冷暖房付、定員400、経営者が岐阜土地興業、支配人が村瀬省次、東映を上映。1963年の映画館名簿では「那加映画劇場」。1964年の松笠書房各務原市住宅明細地図では「那加東映」。1966年の映画館名簿では「那加劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1968年の住宅地図では跡地に「主婦の店」。1981年の住宅地図では跡地に「主婦の店那加東栄店」。1987年の住宅地図では跡地に「フラワーショップ花竜」と空白。跡地は花屋「フラワーショップ那加花竜」と理容店「バーバーアズマ」。最寄駅は名鉄各務原線新那加駅・JR高山本線那加駅。

那加駅前の楽天地には「那加劇場」があった。那加町制施行記念パンフレットによれば、那加町には劇場1、映画館2、遊技場28があり、那加劇場では芝居や催しなどが行われた。昭和初期の写真あり。((『保存版 ふるさと各務原』郷土出版社、2001年、p.117))

JR高山本線那加駅前の吾妻通には「那加東映」があり、映画の上映や歌謡ショーなどを行っていた。昭和30-40年代の写真あり。1960年公開の『やくざの詩』や『あらくれ●』(●部分は見えない)の看板が見える。((『保存版 ふるさと各務原』郷土出版社、2001年、p.49))

*** 川島劇場
所在地 : 岐阜県羽島郡川島村(1958年)、岐阜県羽島郡川島町(1960年・1963年)、岐阜県羽島郡川島町阿田島(1966年・1967年・1968年・1969年・1970年)
所在地 : 岐阜県羽島郡川島村(1958年)、岐阜県羽島郡川島町(1960年・1963年)、岐阜県羽島郡川島町阿田島(1966年・1967年・1968年・1969年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1955年・1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「川島劇場」。1960年の映画館名簿では木造平屋、定員350、経営者は恩田正雄、支配人は後藤正照、洋画・邦画を上映。1961年・1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「川島劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1967年・1968年・1969年・1970年の映画館名簿では「川島劇場」。1969年の映画館名簿では木造平屋、定員150、経営者は恩田正雄、邦画・洋画を上映。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
閉館年 : 1969年以後1973年以前
1955年・1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「川島劇場」。1960年の映画館名簿では木造平屋、定員350、経営者は恩田正雄、支配人は後藤正照、洋画・邦画を上映。1961年・1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「川島劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1967年・1968年・1969年の映画館名簿では「川島劇場」。1969年の映画館名簿では木造平屋、定員150、経営者は恩田正雄、邦画・洋画を上映。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 中央劇場/那加中央劇場
所在地 : 岐阜県稲葉郡那加町(1960年・1963年)、岐阜県各務原市那加栄町15(1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1981年)
所在地 : 岐阜県稲葉郡那加町(1960年・1963年)、岐阜県各務原市那加栄町15(1966年・1969年・1973年・1976年・1980年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1981年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「中央劇場」。1963年の住宅地図では「中央劇場」。1964年の松笠書房各務原市住宅明細地図では「中央劇場」。1966年・1969年・1976年・1980年・1981年の映画館名簿では「那加中央劇場」。1968年・1969年の住宅地図では「中央劇場」。1980年の映画館名簿では経営者・支配人ともに横山義視、木造1階、248席、にっかつと成人映画を上映。1981年の住宅地図では「那加中央劇場」。1982年・1985年の映画館名簿には掲載されていない。1987年の住宅地図では跡地に「横山ビル 1階リビエール 3階中日本映像各務原営業所」。各務原市最後の従来型映画館。跡地は「松原文具店」東側にある「行政書士長澤肇事務所」が入る建物。最寄駅は名鉄各務原線新那加駅・JR高山本線那加駅。
閉館年 : 1980年以後1982年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「中央劇場」。1963年の住宅地図では「中央劇場」。1964年の松笠書房各務原市住宅明細地図では「中央劇場」。1966年・1969年・1976年・1980年の映画館名簿では「那加中央劇場」。1968年・1969年の住宅地図では「中央劇場」。1980年の映画館名簿では経営者・支配人ともに横山義視、木造1階、248席、にっかつと成人映画を上映。1981年の住宅地図では「那加中央劇場」。1982年・1985年の映画館名簿には掲載されていない。1987年の住宅地図では跡地に「横山ビル 1階リビエール 3階中日本映像各務原営業所」。各務原市最後の従来型映画館。跡地は「松原文具店」東側にある「行政書士長澤肇事務所」が入る建物。最寄駅は名鉄各務原線新那加駅・JR高山本線那加駅。

*** ナビシアター
所在地 : 岐阜県各務原市蘇原六軒町4-10(1986年・1988年)
開館年 : 1985年頃
閉館年 : 1988年以後1990年以前
1985年の映画館名簿には掲載されていない。1986年・1988年の映画館名簿では「ナビシアター」。1987年の住宅地図では「レストラン・シアター あさくま各務原店」。1988年の映画館名簿では経営会社がシンコーホーム、鉄筋造1階、84席、洋画・邦画を上映。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ファミリーマート各務原六軒店」やドラッグストア「ゲンキー 六軒町店」。最寄駅は名鉄各務原線六軒駅。

*** ワーナー・マイカル・シネマズ各務原/イオンシネマ各務原
所在地 : 岐阜県各務原市那加萱場町3-8 イオン各務原ショッピングセンター3階(2010年)、岐阜県各務原市那加萱場町3-8 イオンモール各務原3階(2015年・2020年)
開館年 : 2007年7月28日
閉館年 : 営業中
2010年の映画館名簿では「ワーナー・マイカル・シネマズ各務原1-10」(10館)。2015年・2020年の映画館名簿では「イオンシネマ各務原1-10」(10館)。

2007年末には大阪府の「ワーナー・マイカル・シネマズ東岸和田」が閉館を発表。経営不振によるシネマコンプレックス(シネコン)の閉館は国内初とされる。シネコンが各地に開館したことで、この10年でスクリーン数は70%も増加した。岐阜県内では現在6施設あり、そのほとんどがショッピングセンターとの併設である。2007年7月、イオン各務原ショッピングセンター内に10スクリーンの「ワーナー・マイカル・シネマズ各務原」が開館。東海地区で初めて3Dデジタルシステムを導入した。特に2005年からの3年間は開館ラッシュであり、岐阜県内のシネコンスクリーン数は66に達した。各務原のほかには「大垣コロナシネマワールド」(大垣市)と「TOHOシネマズモレラ岐阜」(本巣市)が開館しており、3施設で32スクリーンが上積みされた。6館のうち5館は商業施設内にある。2007年3月には先駆者の「シネマ・ジャングル」(羽島郡岐南町)が休館した。2008年4月に増床オープンを控える商業施設「マーサ21」(岐阜市)は、あえてシネコンの導入を避けた。「シネックスマーゴ」(関市)が入る商業施設サンサンシティマーゴを運営するサン・ストラッセの広瀬武男社長は、「シネコン自体は赤字。商業施設への集客や広告効果を考えて運営している」と、シネコン経営の厳しさを明かす。((「県内シネコン激増に危機感 複合商業施設の目玉、飽和状態 割引やネット予約で差別化 生き残りへ」『岐阜新聞』2008年2月9日))

2007年7月28日、各務原市那加萱場町にイオン各務原ショッピングセンターがオープンする。シネマコンプレックスなども入る。各務原市を中心に岐阜市なども含めた商圏人口は58万人。((「イオン各務原SC きょう本格オープン 186の専門店並ぶモール型 3割が県内初進出」『岐阜新聞』2007年7月28日))

** 羽島市
*** 八千代劇場
所在地 : 岐阜県羽島郡竹鼻町(1953年)、岐阜県羽島市竹鼻町(1955年・1958年・1960年)
開館年 : 1920年
閉館年 : 1964年
『全国映画館総覧1955』によると1943年11月開館。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「八千代劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1965年の羽島市住宅明細地図では跡地に「主婦の店」。1969年のゼンリン住宅地図では跡地に「主婦の店八千代店」。

*** 朝日館/竹鼻朝日東映/竹鼻東映劇場/竹鼻朝日東映劇場
所在地 : 岐阜県羽島郡竹鼻町(1953年)、岐阜県羽島市竹鼻町(1955年)、岐阜県羽島市竹鼻町上城2624-1(1958年)、岐阜県羽島市竹鼻町(1960年)、岐阜県羽島市竹鼻町上2624(1966年・1969年)
開館年 : 1934年
閉館年 : 1971年
Wikipedia : [[羽島市歴史民俗資料館・羽島市映画資料館>>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E5%B3%B6%E5%B8%82%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%B0%91%E4%BF%97%E8%B3%87%E6%96%99%E9%A4%A8%E3%83%BB%E7%BE%BD%E5%B3%B6%E5%B8%82%E6%98%A0%E7%94%BB%E8%B3%87%E6%96%99%E9%A4%A8]]
『全国映画館総覧1955』によると1933年開館。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「朝日館」。1960年・1963年の映画館名簿では「竹鼻朝日東映」。1965年の羽島市住宅明細地図では「竹鼻朝日東映」。1966年の映画館名簿では「竹鼻東映劇場」。1969年の映画館名簿では「竹鼻朝日東映劇場」。1969年の住宅地図では「朝日劇場(篠田兼吉)」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「羽島市歴史民俗資料館・羽島市映画資料館」。

1941年頃の「朝日館」の写真あり。1934年に開館し、戦後には「東映朝日」に改称した。((『映画黄金期 小屋と名作の風景 下巻』国書刊行会、1989年、p.19))

1944年(昭和19年)と1957年(昭和32年)の「竹ケ鼻朝日館」の写真あり。前者の壁面には防空用の迷彩としてコールタールが塗られており、上原謙や田中絹代の似顔絵も見える。後者には「竹鼻東映」の文字が見え、1958年1月3日公開の東映映画『任侠東海道』の看板が見える。1934年(昭和9年)、御坊瀬戸の上城町に映画館が開館した。当時は無声映画の時代であり、極東シネマや大都の作品が上映された。経営者は井上周吉であり、館主は藤野一夫だった。2階の一部は畳敷きであり、観客席は358席だった。その後トーキー映画の時代となり、東宝や松竹の作品が上映された。館主は1941年(昭和16年)に伏屋義信に、1944年(昭和19年)に篠田兼吉に代わった。1953年(昭和28年)に松竹映画『君の名は』を上映した際には立ち見が出るほどだった。小中学生は保護者同伴でないと鑑賞を禁止されており、そのかわりに学校行事として団体鑑賞が行われた。1957年には増改築されてシネスコが設置され、映写室は3階になった。映画はカラー上映となり、総天然色と喧伝された。この際に「竹鼻東映朝日」に改称され、東映や東宝の作品が上映されるようになった。((竹鼻町史編集委員会『図説 竹鼻の歴史』竹鼻町史刊行委員会、1999年、p.177))

2013年現在の羽島市歴史民俗資料館・羽島市映画資料館がある場所には、1934年に映画館「竹鼻朝日館」が開館し、1958年には「竹鼻朝日東映」に改称した。戦前・戦後を通じて竹鼻地域の代表的な映画館だった。1971年の閉館後も建物はそのままになっていたが、1996年開館の資料館は映画館時代の建物の外観をイメージしている。((平井正春『羽島市の歴史・文化、見て歩き』平井正春、2013年、p.62))

羽島市歴史民俗資料館・映画資料館の調査によると、岐阜県内の映画館は2000年と比べて約半分の8軒にまで減少した。ここ10年間では飛騨地域など映画館のない空白地帯もできており、新作映画を楽しめる環境に地域格差が生じている。2016年12月18日まで、映画資料館では県内の映画館を伝える企画展を開催。映画館が県内各地に点在していたことを地図や年表で紹介している。岐阜新聞の広告欄や業界誌などを基に調べた。東映や日活などの製作会社ができた1950年代に急増し、1960年代には150軒以上があったという。1980年代までに30軒ほどに激減する。((「『君の名は。』聖地飛騨市では見られない 県内映画館8件のみに」『岐阜新聞』2016年10月8日))

*** 羽島劇場
所在地 : 岐阜県羽島市竹鼻町(1960年)、岐阜県羽島市竹鼻町共栄町(1966年・1969年)
開館年 : 1956年4月15日
閉館年 : 1972年
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「羽島劇場」。1965年の羽島市住宅明細地図では「羽島劇場」。1969年の住宅地図では「羽島劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「メゾン大島」。

1956年4月16日の『岐阜新聞』朝刊には「羽島劇場」の完成式に関する記事が掲載されている。現物は未確認。((「羽島劇場完成式」『岐阜新聞』1956年4月16日朝刊))

1956年4月15日、羽島市竹鼻町に「羽島劇場」が開館した。社長は不破周一、支配人は川崎礼二。モルタル木造2階建て。定員300人。((「映画館」『キネマ旬報』1956年6月下旬号、148号))

** 本巣市
*** AMCリバーサイドモール真正16/ユナイテッド・シネマ真正16
所在地 : 岐阜県本巣市政田字下西浦1939 リバーサイドモール本館
開館年 : 2000年3月25日
閉館年 : 2011年2月27日
2000年の映画館名簿には掲載されていない。2005年の映画館名簿では「AMCリバーサイドモール16 1-16」(16館)。2010年の映画館名簿では「ユナイテッド・シネマ真正16 1-16」(16館)。2015年の映画館名簿には掲載されていない。

16スクリーン計3108席のシネコン。2000年にAMCリバーサイドモール真正16として開館し、2004年にユナイテッド・シネマ真正16に改称。リバーサイドモール全体の閉鎖直前の2011年2月27日に閉館した。リバーサイドモールの建物は2017年に解体され、跡地には2017年にイオンタウン本巣が開業している。

*** TOHOシネマズモレラ岐阜
所在地 : 岐阜県本巣市本巣市三橋1100 モレラ岐阜2階(2010年・2015年)
開館年 : 2006年4月29日
閉館年 : 営業中
2005年の映画館名簿には掲載されていない。2010年・2015年の映画館名簿では「TOHOシネマズモレラ岐阜1-12」(12館)。

岐阜県映画協会事務局長の磯谷貴彦(CINEX総支配人)は、「県南部から愛知県北部にかけての地域は全国屈指の映画館激戦区」と語る。2000年3月には本巣市に「AMCリバーサイドモール16」(現・ユナイテッド・シネマ真正16)が開館し、同年11月には岐阜市に「TOHOシネマズ岐阜」が開館し、2003年には関市に「シネックスマーゴ」が開館し、2005年12月には大垣市に「大垣コロナシネマワールド」が開館した。この2006年4月29日には本巣市に12スクリーンの「TOHOシネマズモレラ岐阜」が開館する。中部東宝の標準スクリーン数は10スクリーンであるが、16スクリーンのユナイテッド・シネマ真正16を意識したという。TOHOシネマズモレラ岐阜はTOHOシネマズ岐阜と商圏が重なるが、他社に先を越される前に自社で出店するという防衛出店の意味合いもある。シネコンは「収益面では他のビジネスより厳しく、家賃収入は面積のわりによくない」とされるが、大型商業施設全体への集客効果が期待されている。今後の岐阜県では、イオンの出店計画がある各務原市や、2年前に映画館がなくなった東濃地方が新たなシネコンの出店候補地となっている。2006年4月10日には岐阜市の老舗映画館「衆楽」が閉館した。岐阜県でシネコン以外の映画館は、柳ケ瀬の2館と高山旭座のみとなっている。((「消えゆく街の映画館 シネコン同士 競争の時代へ 県南部 全国屈指の激戦区」『中日新聞』2006年4月5日))

2006年4月29日、本巣市三橋のモレラ岐阜にTOHOシネマズモレラ岐阜がグランドオープンする。TOHOシネマズとしては岐阜県内2番目。12スクリーンと2504席はいずれもTOHOシネマズの既存店最大級である。興行収入6億円を見込む。((「全国最大級の座席数 TOHOシネマズモレラ 年間50万人見込む」『岐阜新聞』2006年4月29日))

** 山県市
*** 美山劇場
所在地 : 岐阜県山県郡美山村岩佐(1966年)、岐阜県山県郡美山町岩佐(1969年・1970年)
開館年 : 1963年
閉館年 : 1966年
1963年・1964年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「美山劇場」。1970年の映画館名簿では経営者が恩田政雄、木造1階、定員150、邦画・洋画を上映。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「吉祥寺」の東90mの民家。メインストリートの東側。

映画館。「吉祥寺」の前。うめむら商店の主人70代、客の女性70代。映画館跡地の隣に住んでおり、嫁に来てから映画を観に行ったことがあるという。

美山町岩佐には常設劇場として「美山劇場」があった。岐阜教映社の直営映画館であり、1963年(昭和38年)にこけら落としを行った。美山劇場は1966年(昭和41年)に閉鎖された。((美山町『美山町史 通史編』美山町、1975年、p.1269))

*** 美山玉豊座
所在地 : 岐阜県山県郡美山村岩佐(1966年)、岐阜県山県郡美山町岩佐(1969年・1970年)
開館年 : 1935年10月
閉館年 : 1974年4月
1963年・1964年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「美山玉豊座」。1970年の映画館名簿では経営者が小森田重郎、木造2階、定員120、邦画・洋画を上映。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「JAぎふ美山南支店」のブロック南東部の民家。

芝居小屋。中洞交差点から橋を渡ってすぐ左側。跡地は民家。読みは「たまとよざ」。

美山町岩佐には常設劇場として「玉豊座」があった。谷合の美園座が岩佐に移転する形で、1935年(昭和10年)10月にこけら落としを行った。玉豊座は1974年(昭和49年)4月に閉鎖され、1975年(昭和50年)現在は取り壊されている。((美山町『美山町史 通史編』美山町、1975年、p.1269))

** 瑞穂市
映画館名簿によると瑞穂市に映画館は存在しなかったと思われる。

** 羽島郡岐南町
*** シネマジャングル
所在地 : 岐阜県羽島郡岐南町印食9-50 APパラディア内(2000年・2005年)
開館年 : 1996年12月14日
閉館年 : 2007年3月
1995年の映画館名簿には掲載されていない。2000年・2005年の映画館名簿では「シネマジャングル1-6」(6館)。2010年の映画館名簿には掲載されていない。

1996年2月23日の『岐阜新聞』朝刊には岐南町の郊外型映画館(※見出しでは館名は不明)が1996年秋に開館するという記事が掲載されている。現物は未確認。((「岐南町に県内初の郊外型映画館 今秋オープン」『岐阜新聞』1996年2月23日朝刊))

1996年9月4日の『毎日新聞』朝刊には岐南町に新タイプの映画館(※見出しでは館名は不明)が1996年11月に開館するという記事が掲載されている。現物は未確認。((「岐南町に新タイプの映画館が11月オープン」『毎日新聞』1996年9月4日朝刊))

岐阜県では初の郊外型劇場として、1996年11月30日には羽島郡岐南町に6スクリーンの「シネマ・ジャングル」が開館する。1500台分の駐車場を持つ。岐阜市柳ケ瀬で「シアターペルル」を経営するペルルグループによる。シネマコンプレックスと呼ばれるこのような劇場は、近年には日本国内にも進出が続いている。最も大きなスクリーンは201席であり、最も小さなスクリーンは80席。6スクリーンで736人席がある。スタジアム式傾斜型シート配列を採用し、車いす用スロープも設けられる。平日でも夜間上映を実施する。3階建の建物の2階以上が映画館であり、1階には書店・CDショップ・レストランが入居する。国道21号と国道22号が交差する岐南インターのすぐ北側。運営するペルルグループは「岐阜市やその周辺部はもろちん、北は郡上郡まで、南は名古屋市まで商圏にしたい」と話す。((「建設が進む娯楽施設 岐南町に11月開館 6映画上映室完備」『中日新聞』、1996年9月4日))

1996年12月14日、岐阜県羽島郡岐南町にシネコンの「シネマジャングル」が開館した。座席数は80席から201席までの6スクリーンであり、東宝系の邦画と洋画を上映する。岐阜市でシアターペルルなど2館を運営する中嶋屋、名古屋市の中部興行の共同経営である。国道21号の岐南インターチェンジからすぐの場所にあり、書店・パチンコ店・ボウリング場などがある総合娯楽施設の一角にある。これまで岐南町や各務原市は映画館がなかった。開館日からは『インデペンデンス・デイ』や『モスラ』などが上映されている。((「シネマファン待望 郊外映画館完成 岐阜県岐南町 一挙に6劇場 午後9時からも1回上映」『中日新聞』1996年12月14日))

1996年12月15日の『岐阜新聞』朝刊には「シネマジャングル」が開館するという記事が掲載されている。現物は未確認。((「岐南町にオープンのシネマジャングル 新型映画館」『岐阜新聞』1996年12月15日朝刊))

2007年末には大阪府の「ワーナー・マイカル・シネマズ東岸和田」が閉館を発表。経営不振によるシネマコンプレックス(シネコン)の閉館は国内初とされる。シネコンが各地に開館したことで、この10年でスクリーン数は70%も増加した。岐阜県内では現在6施設あり、そのほとんどがショッピングセンターとの併設である。2007年7月、イオン各務原ショッピングセンター内に10スクリーンの「ワーナー・マイカル・シネマズ各務原」が開館。東海地区で初めて3Dデジタルシステムを導入した。特に2005年からの3年間は開館ラッシュであり、岐阜県内のシネコンスクリーン数は66に達した。各務原のほかには「大垣コロナシネマワールド」(大垣市)と「TOHOシネマズモレラ岐阜」(本巣市)が開館しており、3施設で32スクリーンが上積みされた。6館のうち5館は商業施設内にある。2007年3月には先駆者の「シネマ・ジャングル」(羽島郡岐南町)が休館した。2008年4月に増床オープンを控える商業施設「マーサ21」(岐阜市)は、あえてシネコンの導入を避けた。「シネックスマーゴ」(関市)が入る商業施設サンサンシティマーゴを運営するサン・ストラッセの広瀬武男社長は、「シネコン自体は赤字。商業施設への集客や広告効果を考えて運営している」と、シネコン経営の厳しさを明かす。((「県内シネコン激増に危機感 複合商業施設の目玉、飽和状態 割引やネット予約で差別化 生き残りへ」『岐阜新聞』2008年2月9日))

** 羽島郡笠松町
*** 大和座
所在地 : 岐阜県羽島郡笠松町
開館年 : 1913年
閉館年 : 1945年以前
1913年(大正2年)羽島郡笠松町の県町の北東角、堤防の下に芝居小屋「大和座」が建設された。大和座では住民の発表会、旅回りの一座の芝居などが行われたが、火災で焼失した。((杉山勇『暮しのようす 大正時代の笠松』自費出版、1990年、p.179))

*** 常盤劇場
所在地 : 岐阜県羽島郡笠松町
開館年 : 1945年以前
閉館年 : 1945年以前
羽島郡笠松町の大池町には活動写真を主とする「常盤劇場」が開館したが、短期間で閉館となった。((杉山勇『暮しのようす 大正時代の笠松』自費出版、1990年、p.182))

*** 笠松東映劇場
所在地 : 岐阜県羽島郡笠松町西宮町(1961年)、岐阜県羽島郡笠松町(1962年)
開館年 : 1960年頃
閉館年 : 1962年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年・1962年の映画館名簿では「笠松東映劇場」。1961年の映画館名簿では木造平屋冷暖房付、定員322、東映を上映。1962年の映画館名簿では木造2階冷房付、定員380、東映を上映。380席は笠松町の3館でもっとも多かった。前年と大きく異なっている理由は不明。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 笠松劇場/笠松映画劇場
所在地 : 岐阜県羽島郡笠松町八幡(1955年)、岐阜県羽島郡笠松町八幡町2(1958年)、岐阜県羽島郡笠松町(1960年・1961年・1962年)、岐阜県羽島郡笠松町八幡町(1964年)
開館年 : 1945年以前、1952年10月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧1955』によると1952年10月開館。1953年・1955年の映画館名簿では「笠松劇場」。1958年・1960年・1962年・1963年・1964年の映画館名簿では「笠松映画劇場」。1963年の松笠書房岐阜市住宅明細地図では「笠松映画劇場」。1964年の映画館名簿では経営者・支配人ともに春日井一美、木造2階、定員324。1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「八幡神社」の北東130mにある戸建て住宅地。最寄駅は名鉄名古屋本線・竹鼻線笠松駅。

吉田初三郎『笠松町鳥観図』発行者不明、発行年不明には「笠松劇場」が描かれている。((吉田初三郎『[[笠松町鳥観図>>https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/detail/002466860.html]]』発行者不明、発行年不明))

羽島郡笠松町の八幡町の北端、奈良津堤の西下に「笠松劇場」が新築開館した。株主は木札を持っていたため無料で入場できた。一般の観客は木戸銭を払い、木札を持って木戸で渡した。下足を預けた後、控え札を持って館内に入場した。笠松劇場の中には売店もあり、また幕間には売り子が客席を回って煎餅・キャラメル・あんぱん・菓子などを売った。座布団や火鉢も有料で借りることができた。坂東好太郎や猫八なども笠松劇場に来演した。後方には警察官の見張席があった。太平洋戦争時には休業し、戦後に閉館した。1990年(平成2年)現在の跡地はアパートやガレージになっている。((杉山勇『暮しのようす 大正時代の笠松』自費出版、1990年、p.179、p.182))

*** 銀座東映劇場/笠松銀映/銀映劇場/笠松銀映劇場
所在地 : 岐阜県羽島郡笠松町西宮町(1960年)、岐阜県羽島郡笠松町(1963年)、岐阜県羽島郡笠松町西宮町(1965年)、岐阜県羽島郡笠松町西宮町7(1966年)
開館年 : 1955年12月29日
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1955年・1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「銀座東映劇場」。1962年の映画館名簿では「笠松銀映劇場」。1963年の映画館名簿では「笠松銀映」。1963年の松笠書房岐阜市住宅明細地図では「銀映会館」。1965年の映画館名簿では「銀映劇場」。1965年の羽島市住宅明細地図では「銀映」。1965年の映画館名簿では経営者が広瀬進次、支配人が小鹿靖博、鉄筋造1階、定員300、邦画・洋画を上映。1966年の映画館名簿では「笠松銀映劇場」。1969年のゼンリン住宅地図では「銀映」と「銀映会館 パチンコ」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「産霊神社」の道路を挟んで東側にある駐車場。南側の「飯田電機店」や、北側の「広喜園」や「青木自転車」は現存。最寄駅は名鉄名古屋本線・竹鼻線笠松駅。

1955年12月29日午前10時、羽島郡笠松町西宮町に映画館「笠松銀映」が開館する。経営者は村瀬進次。10月に着工していた。木造瓦葺、平屋建、約150坪。椅子席が300ある。外壁は耐火建築であり、モルタルが塗られている。映写拡声器はビクターの最新型。松竹と東映の封切館となる。写真あり。((「きょう笠松町 "銀映" が開館」『岐阜タイムス』1955年12月29日、p.6))

** 本巣郡北方町
*** 北方町の映画館
1912年(大正元年)頃には、吉祥寺前の吉田医院のあたりで活動写真の露天上映会があった。大正初期から中期には本町の常磐座で映画が上映されたが、1921年(大正10年)2月の連鎖劇の後に焼失した。((北方町役場総務課『岐阜県北方町 町制施行100年記念要覧』北方町、1989年、pp.31-32))

*** 北方劇場(初代)
所在地 : 岐阜県本巣郡北方町
開館年 : 1924年
閉館年 : 1926年11月
1924年(大正13年)には北方劇場が設立された。岐阜市弥八の美殿座を新町の揖斐線南側に移築したものである。この頃には映画が芝居などと肩を並べるまでに成長していた。関東大震災以前には単純な豪傑の尾上松之助が人気だったが、関東大震災以後には人間像豊かな役者が人気を集め、阪東妻三郎、月形龍之介、大河内伝次郎、市川右太衛門、片岡千恵蔵、栗島すみ子、五月信子、川田芳子などのスターが登場してきた。((北方町役場総務課『岐阜県北方町 町制施行100年記念要覧』北方町、1989年、pp.31-32))

1924年(大正13年)、新町に北方劇場が設立された。棚橋五三郎の個人経営。岐阜市にあった美殿座を移築して改築したものである。1926年(大正15年)11月に焼失した。((『北方町史 通史編』北方町、1982年、p.825))

1924年(大正13年)には新町に北方劇場が新設された。((『北方町 自治会歴史マップ』北方町商工会青年部、2002年、pp.9-10))

*** 北方劇場(2代)
所在地 : 岐阜県本巣郡北方町
開館年 : 1927年
閉館年 : 1940年
映画館ではなく劇場。

北方町では古くから演芸が盛んであり、円鏡寺の境内などで演芸の興行が催されていた。1927年(昭和2年)には北方劇場が建てられたが、1940年(昭和15年)に消失(※焼失ではなく消失とあるが誤字かも)した。1927年の写真あり。北方劇場の跡地には1948年(昭和23年)に北方北保育園が建てられ、1981年(昭和56年)には児童館(※現在の北方町立北方きたこども館)が建てられた。((『「時」の太鼓が見た北方町』、p.9))

1927年(昭和2年)、2代目の北方劇場が戸羽町の幼稚園敷地に西向きで建てられた。入口の2階部分には絵看板がかかり、2階席はコの字型に舞台を囲んでいた。芝居が多く上演され、幕間には落花生やキャラメルが売られた。1940年(昭和15年)の寒い夜に焼失した。((北方町役場総務課『岐阜県北方町 町制施行100年記念要覧』北方町、1989年、pp.32-33))

1927年(昭和2年)1月、株式会社組織で戸羽町に北方劇場が設立された。1928年1月21日に完成した。料金は約50銭。1940年に火災で焼失した。((『北方町史 通史編』北方町、1982年、pp.825-829))

*** 新富座
所在地 : 岐阜県本巣郡北方町
開館年 : 1927年12月16日
閉館年 : 1943年11月22日
1926年(大正15年)に北方劇場(初代)が焼失すると、その東側に和風劇場の新富座が設立された。太平洋戦争終戦まで芝居や映画の興行を行っていたが、芝居は同じ年に新設された北方劇場(2代)のほうが多く、映画は新富座のほうが多かった。トーキー映画の初公演の際には、北方小学校の児童が全員で見学し、切れたフィルムを学校に持ち帰って発生原理を説明する社会科教育も行われた。1943年には北方町が新富座を買収し、町立の公会堂として用いた。その後は徴用され、航空廠の発動機修理工場となった。((北方町役場総務課『岐阜県北方町 町制施行100年記念要覧』北方町、1989年、pp.32-33))

1926年(大正15年)5月5日には新富座が設立許可を受けた。1927年(昭和2年)12月16日に町裏に落成し、12月21日に落成興行を行った。木造亜鉛葺、2階建て。建坪108坪。当初は組合員120人の株式会社組織であり、資本金は1万2000円であったが、経営不振のために岐阜市の柴田光治郎が買収して経営していた。収容人員529人。料金は約30銭。1943年(昭和18年)11月22日には北方警察署長の斡旋により、柴田光治郎から北方町に対して8000円で売却された。ただし同時に、北方町が使用優先権を得たまま、年1000円の賃貸料で柴田光治郎に貸与された。北方町は公会堂として使用したが、1945年2月には陸軍航空廠の依頼で発動機修理工場として徴用された。戦後の1945年10月には補償をして返還されたが、1946年には電気設備などが大垣に移された。((『北方町史 通史編』北方町、1982年、pp.825-829))

*** 北方映画劇場
所在地 : 岐阜県本巣郡北方町(1955年・1960年)、岐阜県本巣郡北方町北方(1964年)
開館年 : 1953年10月
閉館年 : 1957年頃? 1964年頃?
1953年の映画館名簿には掲載されていない。『全国映画館総覧1955』によると1953年10月開館。1955年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「北方映画劇場」。1963年の松笠書房岐阜市住宅明細地図には掲載されていないと思われる。1964年の映画館名簿では経営者が渡辺晋作、支配人が寺井尚美、木造平屋建、250席。1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。1970年の松笠書房岐阜市住宅明細地図では跡地に「北方会館」。跡地は喫茶店/麻雀店「サンパール」。

終戦後から1957年(昭和32年)頃まで、増屋町には北方映画館があった。((北方町役場総務課『岐阜県北方町 町制施行100年記念要覧』北方町、1989年、pp.31-32))

戦後には増屋町の三枡屋の跡地に映画館が開館したが、1982年(昭和57年)現在はパチンコ屋となっている。((『北方町史 通史編』北方町、1982年、pp.825-829))

* 西濃地方
** 海津市
*** 石津劇場
所在地 : 岐阜県海津郡南濃町石津(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1963年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「石津劇場」。1964年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 野寺劇場
所在地 : 岐阜県海津郡平田町野寺(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1963年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「野寺劇場」。1964年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 駒野劇場
所在地 : 岐阜県海津郡南濃町駒野(1960年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1963年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「駒野劇場」。1964年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。1975年のゼンリン住宅地図には掲載されていない。40代と思われる「尾張屋昌常」の主人によると、跡地は「南濃郵便局」南東60mにある駐車場。「千代乃食堂」の南東すぐ。この主人が生まれたことにはもう映画館が存在しなかったが、父親から場所を聞かされたという。

*** 高須劇場
所在地 : 岐阜県海津郡高須町(1953年・1955年)、岐阜県海津郡海津町高須(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1950年以前1953年以前
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館名簿1955』には開館年が記載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「高須劇場」。1964年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。1975年のゼンリン住宅地図では跡地に「臨海木工岐阜事務所」や「渡辺忠夫」邸。

海津市海津図書館に本の返却に来ていた60代と思われる女性によると、跡地は「大垣共立銀行海津支店」南東80mにある駐車場。殿町通り沿い。この女性は高須劇場に芝居を観に行ったことがあり、映画館ではなく劇場と認識していた。海津市立高須小学校の前で出会った80代の男性によると、この劇場では芝居も演劇も興行していた。

*** マルイ劇場
所在地 : 岐阜県海津郡海津町高須(1961年・1964年)
開館年 : 1960年頃
閉館年 : 1964年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年の映画館名簿では「マルイ劇場」。1962年・1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年の映画館名簿では「マルイ劇場」。1964年の映画館名簿では経営者・支配人ともに伊藤三二、木造2階建、定員500。1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。1975年のゼンリン住宅地図では跡地に「丸井石油」。跡地は「出光興産ユートピア高須SS」(マルイ石油店)。場所は海津市立高須小学校の前で出会った80代の男性に聞いた。

*** 今尾劇場
所在地 : 岐阜県海津郡今尾町(1953年・1955年)、岐阜県海津郡平田町今尾(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1950年以前1953年以前
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館名簿1955』には開館年が記載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「今尾劇場」。1964年の映画館名簿では経営者が近藤喜三、支配人が大橋山治、木造2階建、定員500。1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「辻中医院」。

「今尾劇場は、商店街を東に向かってほぼ突き当り、辻中医院がある辺りにあった」山伝食料品店でねこを膝にのせてテレビを見ていた男性(80代?)

「今尾劇場は辻中医院の場所にあった。当時は商店街と県道を結ぶ道が通じておらず、劇場の西側に入口があった。和風建築だった。他の映画館で上映した後にフィルムが回ってくるため、フィルムの表面が傷んで雨のようになっていた。劇場が閉館した後、辻中さんが土地を購入して病院を建てた。余談だが、今尾神社で開催される左義長は人手不足のため、近くに住むベトナム人も参加している」松川饅頭の主人(80代?)

** 養老郡養老町
*** 文化劇場
所在地 : 岐阜県養老郡高田町(1953年・1955年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1955年以後1958年以前
『全国映画館名簿1955』には開館年が記載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「文化劇場」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。1968年のゼンリン住宅地図では跡地に「西脇藁工品店」。1972年のゼンリン住宅地図では跡地に「西脇産業株式会社」。高田劇場跡地にある食料雑貨店「りんごや」の常連客の話では、跡地は高田商店街の南東部にある「川瀬新聞舗」。「養老町国際学習会館」の南。

*** 高田劇場
所在地 : 岐阜県養老郡高田町常盤町26(1953年)、岐阜県養老郡高田町常盤町(1955年)、岐阜県養老郡養老町高田(1958年・1960年・1966年)
開館年 : 1950年1月? 1951年1月? 1951年10月30日?
閉館年 : 1966年以後1969年以前
『全国映画館総覧1955』によると1950年1月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「高田劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1968年のゼンリン住宅地図では跡地に「(建)」。1972年のゼンリン住宅地図では跡地に「スーパーヨーロー」。1980年の『航空住宅地図帳』では跡地に「ヨーロースーパー」。現在の跡地は食料雑貨店「りんごや」とその北側の駐車場。「大晃堂内科医院」から道路を挟んで正面。

1951年10月30日の『岐阜新聞』朝刊には「高田劇場」がこの日に開館するという記事が掲載されている。現物は未確認。((「高田劇場完成 きょう初興行」『岐阜新聞』1951年10月30日朝刊、p.2))

1951年(昭和26年)1月、1978年現在のヨーロースーパーの場所に高田劇場が開館した。映画・芝居・浪曲などの興行を行ったが、10年ほどで閉館した。((養老町『養老町史 通史編 下』養老町、1978年、p.728))

1951年(昭和26年)1月、高田興業株式会社によって高田劇場が竣工し、盛大なこけら落としが行われた。敷地坪251坪、総建坪242坪。収容人数800人。映画や演劇の興行を行っている。((「たか田」編纂委員会『たか田』「たか田」編纂委員会、1954年、pp.65-66))

太平洋戦争後、高田のスーパー養老の前に映画館が開館した。大晃堂の前である。(([[高田の映画館>>http://tagizou.com/main/yoronote/?p=18687]] タギゾウくんの養老ノート))

** 不破郡垂井町
*** 八重垣劇場
所在地 : 岐阜県不破郡垂井町垂井駅前(1958年)、岐阜県不破郡垂井町(1960年・1961年)、岐阜県不破郡垂井町本町(1962年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1962年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「八重垣劇場」。1962年の住宅地図では経営者が田中印刷興業、支配人が松波秀次、木造2階、定員300、邦画・洋画を上映。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1968年の映画館名簿では跡地に「正村会館」。現在の跡地は駐車場。

*** 垂井劇場
所在地 : 岐阜県不破郡垂井町(1955年・1958年・1960年・1963年・1966年)
開館年 : 1936年
閉館年 : 1966年以後1969年以前
『全国映画館総覧1955』には開館年が記載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「垂井劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1968年の映画館名簿では跡地に北から「中村小間物」「安田」「児玉畳店」。現在の跡地は「紫雲閣格納庫」東向かいにある3軒分の民家と空地。

1936年(昭和11年)の不破郡垂井町にあった「垂井劇場」の写真あり。「柳原商事株式会社垂井工場 産業報●厚●大会 従業員家族慰安会」の看板が見える。垂井の泉町には「泉座」という芝居小屋があったが、老朽化によって閉館した。1936年(昭和11年)9月、北横町の東側に「垂井劇場」が開館した。こけら落としには市川段士郎の一座の歌舞伎が興行された。歌舞伎・浪花節・講演会の会場として、後には常設映画館として利用された。小中学生の映画鑑賞会なども行われた。((『垂井の写真集 想いでの20世紀』垂井町文化財保護協会、2000年、p.46))

1914年(大正3年)に不破郡役所が発行した『不破郡案内』には、「劇場 垂井町 泉座」と「劇場 赤坂町 新栄座」の広告が掲載されている。((不破郡役所『不破郡案内 復刻版』岐阜県郷土資料研究協議会、2017年))

1994年に垂井町が発行した『新修垂井町史 史料編』には、年不明の「垂井劇場」の紀の国屋大一座の公演の広告が掲載されている。((垂井町『新修垂井町史 史料編』垂井町、1994年、p.605))

1937年(昭和12年)4月7日には、前年に文楽座から独立した劇団の新義座が垂井町の「垂井劇場」で公演を行っている。(([[新義座>https://www.kagayakerugidayunohoshi.com/006o.html]] 大枝山人覚え書き))

不破郡垂井町のタルイピアセンター内にある垂井町歴史民俗資料館には、壁面の一角に「垂井劇場」の広告が常設展示されている。年末超特別大興行として12月10日(年不明)に五色会による京都名物の舞踊が行われた。((「年末超特別大興行 五色会」垂井劇場))

** 不破郡関ケ原町
*** 関ケ原劇場
所在地 : 岐阜県不破郡関ケ原町(1960年・1963年)、岐阜県不破郡関ケ原町3211-3(1966年・1969年)
開館年 : 1958年以前
閉館年 : 1969年以後1973年以前
1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「関ケ原劇場」。1968年・1969年の住宅地図では「関ケ原劇場」。1971年の住宅地図協会住宅地図では「関ケ原劇場」。1972年のゼンリン住宅地図では「関ケ原劇場」。跡地は「関ヶ原駅前観光交流館」の東80mにある月極駐車場。最寄駅はJR東海道本線関ケ原駅。

** 安八郡神戸町
*** 神戸シネマ
所在地 : 岐阜県安八郡神戸町(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1963年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「神戸シネマ」。1964年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。1974年の住宅地図では跡地に「パチンコ神戸センター」。1993年の住宅地図では跡地に「タシロ薬局」。跡地は「唐崎神社」から宮町通りを挟んで東側の民家。

大正初期頃から神戸町の「信栄座」は、芝居の興行の合間に活動写真も上映し始めた。昭和初期までは無声映画の時代であり、上映時には楽士と弁士がいた。戦後、若い男女は大垣市や岐阜市まで映画を見に行くようになり、どこの映画館も満員だった。((神戸町『美濃神戸ふるさとの暮らし』神戸町、pp.375-376))

** 安八郡輪之内町
*** 大藪劇場/輪之内劇場/世光劇場
所在地 : 岐阜県安八郡大藪町(1955年)、岐阜県安八郡輪之内町20(1958年)、岐阜県安八郡輪之内町(1960年)
開館年 : 1955年以前
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧1955』には開館年が記載されていない。1955年の映画館名簿では「大藪劇場」。1958年の映画館名簿では「世光劇場」。1960年の映画館名簿では「輪之内劇場」。1963年の映画館名簿では「世光劇場」。1964年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。1974年のゼンリン住宅地図では跡地に「長縄吉一邸」と「加納屋」。1993年の住宅地図では跡地に「加納屋」と「安田良太郎邸」。跡地は「輪之内町立大藪小学校」北の「善明寺」の北西100mにある民家。

『輪之内学研究』創刊号には昭和30年代の「大藪本通りお千代保街道沿いの商店街」にあった店舗名が記されており、「世光劇場」も掲載されている。名称として「大藪劇場・世光劇場・輪之内劇場」だったとされ、やがて「丸二自転車商会」になったとされる。劇場時代の代表者は「青木幸助や青年団」だったとされ、丸二自転車商会になってからの代表者は「渡辺與七や渡辺充や渡辺一弘」と記されている。2012年現在でも丸二自転車商会は営業中とされる。((田中国昭「大藪地区本通り商店街略史」『輪之内学研究』輪之内学研究会、2012年、創刊号、p.36))

** 安八郡安八町
*** 安八町ドライブインシアター
所在地 : 岐阜県安八郡安八町
開館年 : 1990年9月22日
閉館年 : 1990年9月22日(単発イベント)
1990年9月22日夜、安八郡安八町大森の三洋電機岐阜事業所駐車場でドライブインシアターが開催された。安八町青年のつどい協議会が主催。特設会場に縦9メートル×横15メートルの大スクリーンが設置され、19時から『ドラえもん のび太とアニマル惑星』と『ロボコップ2』が上映された。ヤングカップルら350台の車が集まった。((「迫力の大画面鑑賞 安八町で『ドライブインシアター』若者らの350台 町青年のつどい協 交流促進へ初企画」『岐阜新聞』朝刊、1990年9月23日、p. 21))

** 揖斐郡揖斐川町
*** 宝来館
所在地 : 岐阜県揖斐郡市場1445(1958年)、岐阜県揖斐郡揖斐川町(1960年・1963年)
開館年 : 1958年以前
閉館年 : 1963年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「宝来館」。1964年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。1976年・1987年のゼンリン住宅地図では跡地に「青年の家」。1994年のゼンリン住宅地図では跡地に「下新町公民館」。跡地は「真教寺」西側の「下新町コミュニティセンター」。

*** 揖斐劇場
所在地 : 岐阜県揖斐郡揖斐町2(1955年)、岐阜県揖斐郡揖斐川町2(1958年)、岐阜県揖斐郡揖斐川町(1960年・1963年)、岐阜県揖斐郡揖斐川町上新町(1964年)
開館年 : 1945年11月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧1955』によると1945年11月開館。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「揖斐劇場」。1964年の映画館名簿では経営者・支配人ともに渡部礼平、木造2階建、364席。1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。1976年の住宅地図では跡地に「川口屋」。1980年の住宅地図では跡地に「スーパーチェーン川口屋揖斐店」。1987年・1994年の住宅地図では跡地に「スーパー川口屋揖斐店」。現在の跡地は「大垣西濃信用金庫揖斐川支店」南東60mにあるガレージのある駐車場。

太平洋戦争後にはトーキー映画の人気が高まり、大和の渡辺礼平は下町にあった乾繭倉庫の建物を映画館とし、映画を上映して連日満員の盛況だった。この流れを見た西濃建設の宗宮和久は仲町に「中央劇場」を新築し、次いで渡辺礼平も上新町に「揖斐劇場」を建設して映画を上映した。やがてテレビの普及で客を奪い合うようになり、中央劇場はパチンコ店に、揖斐劇場はスーパーチェーンに業態転換し、揖斐川町から映画館がなくなった。揖斐中町にあった中央劇場と揖斐上新町にあった揖斐劇場の写真あり。((揖斐川町『揖斐川町史 通史編』揖斐川町、1971年、pp.728-729))

*** 揖斐中央劇場
所在地 : 岐阜県揖斐郡揖斐町中町(1955年)、岐阜県揖斐郡揖斐川町676(1958年)、岐阜県揖斐郡揖斐川町(1960年・1963年)、岐阜県揖斐郡揖斐川町三輪中町(1964年)、岐阜県揖斐郡揖斐川町三輪(1965年)
開館年 : 1953年10月5日
閉館年 : 1965年頃
1953年の映画館名簿には掲載されていない。『全国映画館総覧1955』によると1953年10月開館。1955年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「揖斐中央劇場」。1964年の映画館名簿では経営者が森秀一、支配人が森文子、鉄筋コンクリート造平屋建、定員350。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1976年・1980年の住宅地図では跡地に「駐車場」。現在の跡地は巡礼花街道沿いにある「北野神社」鳥居の西隣。

太平洋戦争後にはトーキー映画の人気が高まり、大和の渡辺礼平は下町にあった乾繭倉庫の建物を映画館とし、映画を上映して連日満員の盛況だった。この流れを見た西濃建設の宗宮和久は仲町に「中央劇場」を新築し、次いで渡辺礼平も上新町に「揖斐劇場」を建設して映画を上映した。やがてテレビの普及で客を奪い合うようになり、中央劇場はパチンコ店に、揖斐劇場はスーパーチェーンに業態転換し、揖斐川町から映画館がなくなった。揖斐中町にあった中央劇場と揖斐上新町にあった揖斐劇場の写真あり。((揖斐川町『揖斐川町史 通史編』揖斐川町、1971年、pp.728-729))

1958年(昭和33年)の揖斐川町にあった「中央劇場」の写真あり。太平洋戦争後にはトーキー映画の人気が高まり、中町に中央劇場が、上新町に揖斐劇場が建てられて映画を上映した。テレビの普及によって観客を奪われて閉館した。右手の鳥居は北野神社である。道路を挟んで正面には「くすり」の看板が見える。((丸山幸太郎(監修)『ふるさと揖斐・本巣・山県』郷土出版社、2012年、p.42))

1953年10月7日の『岐阜タイムス』には、1953年10月5日から「揖斐中央劇場」が開館するという記事が掲載されているとされるが、岐阜新聞データベースで該当ページを見ても記事を発見できず。((「揖斐中央劇場5日から開館」『岐阜タイムス』1953年10月7日、p.4))

** 揖斐郡大野町
*** 大野町の映画館
2005年には揖斐郡大野町を走る名鉄揖斐線が廃線となった。2015年3月現在、揖斐郡大野町の住民有志は旧黒野駅舎を改装した黒野駅ミュージアムにおいて、黒野駅周辺を1/150で再現するジオラマ製作に取り組んでいる。取り壊された映画館(※大野劇場と昭和劇場のどちらの映画館かは不明)や建て替え前の診療所などを再現した。黒野八幡神社は鳥居や神木まで再現している。((「にぎわいの駅周辺再現へ 大野・黒野 有志ジオラマ作り奮闘、来月公開」『中日新聞』2015年3月11日))

*** 大野会館/大野映画劇場/大野劇場
所在地 : 岐阜県揖斐郡大野町(1955年・1958年・1960年・1963年)、岐阜県揖斐郡大野町黒野(1964年)
開館年 : 1947年12月
閉館年 : 1963年
『全国映画館総覧1955』によると1947年12月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「大野会館」。1960年の映画館名簿では「大野映画劇場」。1963年・1964年の映画館名簿では「大野劇場」。1964年の映画館名簿では経営者が松野民男、支配人が松野茂、木造平屋建、300席。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1968年の住宅地図では跡地に「パチンコ大野一番」があると思われる。1976年の住宅地図では跡地に空白。1980年の住宅地図では跡地に駐車場。1987年・1994年の住宅地図では跡地に「ガレージ」。跡地は「十六銀行大野支店」の北東40mにある駐車場。十六銀行大野支店南側には近代建築の「小森医院」がある。

1954年(昭和29年)に大野町商工会が発行した『大野町案内』には「大野会館」の広告と写真が掲載されている。写真には「大野会館」「ONOKAIKAN」の文字が見える。広告には「文化娯楽の殿堂 皆様の映画館」「合名会社ランプ屋百貨店」「電話69番」と記載されている。((大野町商工会『大野町案内』大野町商工会、1954年))

昭和20年代後半、揖斐郡大野町の黒野四つ辻の北東角に「大野会館」が開館した。衣料品店を経営していた松野民男が建てたのである。昭和劇場とは違って映画専門館であり、土間の館内に長床几(ながしょうぎ)を並べただけだった。ほぼ毎日開館し、『青い山脈』などが上映された際には立ち見も出た。テレビが普及すると入場者数が激減し、1963年(昭和38年)に閉館した。(※出典では「1967年(昭和38年)」とある。1967年は1963年の誤りだと判断したが、昭和38年が昭和42年の誤りである可能性もある)((大野町文化財保護協会『大野町の民話と伝承百話』大野町教育委員会、1998年、p.229))

*** 昭和映画劇場/昭和劇場
所在地 : 岐阜県揖斐郡大野町650-4(1958年)、岐阜県揖斐郡大野町(1960年・1963年)
開館年 : 1954年以前
閉館年 : 1963年頃
1950年・1953年・1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「昭和劇場」。1960年の映画館名簿では「昭和映画劇場」。1963年の映画館名簿では「昭和劇場」。1964年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。1968年のゼンリン住宅地図では跡地に「西濃信用金庫」。1976年のゼンリン住宅地図では跡地に「西濃信用金庫本店」。1987年・1994年のゼンリン住宅地図では跡地に「西濃信用金庫」。跡地は「大垣西濃信用金庫大野支店」。

1954年(昭和29年)に大野町商工会が発行した『大野町案内』には「昭和劇場」の広告と写真が掲載されている。写真には洋風のファサードが見える。広告には「児島興行部」「電話大野局11番」と記載されている。((大野町商工会『大野町案内』大野町商工会、1954年))

時期不明の「昭和劇場」の写真あり。戦後まもなく、興行師の児島丑松が日の丸製糸工場跡地に「昭和劇場」を開館させた。1998年(平成10年)現在の西濃信用金庫本店の場所である。芝居と映画の双方を興行し、女剣劇の大江美智子一座なども出演した。小中学校に近かったことから、先生に引率されて児童の名画鑑賞会が行われた。昭和30年代初頭、西濃信用金庫に買収されて取り壊された。((大野町文化財保護協会『大野町の民話と伝承百話』大野町教育委員会、1998年、p.229))

** 揖斐郡池田町
*** 池野劇場(戦前)
所在地 : 岐阜県揖斐郡恩知村池野
開館年 : 不明
閉館年 : 不明
戦後の同名施設とは場所が異なる。

1926年(大正15年)の池野町の「池野劇場」の広告あり。「池の劇場」(※「の」がひらがな)とある。「大東亜キネマ四大名編突如封切」『戦国時代大会』『顔』などの作品の文字が見える。((『広告が語るみの・ひだの近代化』岐阜県歴史資料保存協会、2004年、p.53))

*** 池野劇場(戦後)/池野映画劇場
所在地 : 岐阜県揖斐郡恩知村池野(1955年)、岐阜県揖斐郡池田町池野(1958年)、岐阜県揖斐郡池田町(1960年)
開館年 : 1948年6月
閉館年 : 1961年頃
『全国映画館総覧1955』によると1948年6月開館。1955年・1958年の映画館名簿では「池野映画劇場」。1960年の映画館名簿では「池野劇場」。1963年の映画館名簿では「池野映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1968年の住宅地図では「池野東映」。1980年の住宅地図では跡地に「樋口敬之丞 縫製業」。跡地は池田町役場南100mの寿司屋「一休さん」南の民家。戦前の同名施設とは場所が異なる。

1924年(大正13年)、天神町に6600円の建設費で「池野劇場」が建設され、芝居の興行や活動写真の上映を行った。1929年(昭和4年)には天神町に3000円の建設費で「浪花館」が建設され、浪花節や演芸の興行を行った。太平洋戦争後には上町に「池野劇場」(※戦前の同名施設とは異なる?)が開館し、ニュース映画・劇映画などが週替わりで上映されたが、テレビの普及などで観客が減少し、1961年(昭和36年)頃に閉館した。1972年(昭和47年)に撮影された池野劇場の廃墟の写真あり。山形屋根。((池田町『池田町史 通史編』池田町、1978年、pp.625-627))

* 中濃地方
** 関市
*** 関映画劇場
所在地 : 岐阜県関市大平町(1955年・1958年・1960年)
開館年 : 1945年以前、1948年12月
閉館年 : 1961年12月26日
『全国映画館総覧1955』によると1948年12月開館。1953年・1955年・1960年の映画館名簿では「関映画劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1968年の住宅地図では跡地に「関パチンコホール」。跡地は「新長谷寺仁王門」南東150mにある民家数軒と道路。最寄駅は長良川鉄道線関口駅。

1961年12月26日、関市大平町2の映画館「関映画劇場」が火災で全焼した。暖房室付近から出火し、木造モルタル式一部2階建てトタン葺きの劇場を焼いた。観客約50人は避難して無事だった。関市の繁華街で家屋が密集しているが、外壁がモルタルだったことなどが奏功して類焼はなかった。関映画劇場は1945年12月7日にも全焼している。黒煙を上げて燃える映画館の写真あり。((「関で映画館が全焼 映写中、観客は無事避難」『岐阜日日新聞』1961年12月27日、p.9))

一昨年の暮れ(※正確には昨年の暮れ)、関市太平町通り(※大平町通りではない)にあった「関映画劇場」が焼失した。その後の跡地は空き地のままであり、映画館を再建するかどうかが市民の関心ごとだったが、関映画劇場の小林秀社長は跡地にアパートを建てる計画を練っている。327坪の土地に4階建てアパートを建て、1階はマーケット、2階以上を計45部屋のアパートとする予定。工費は約8000万円であり、1963年8月頃までの完成を目指す。((「関映画劇場の跡に四階建てアパート 一階はマーケット開設」『中濃新聞』1962年12月15日))

*** 栄盛座/跡部劇場
所在地 : 岐阜県武儀郡武芸村跡部(1960年)、岐阜県武儀郡武芸村字跡部(1966年)、岐阜県武儀郡武芸川町跡部(1969年・1970年)
開館年 : 1929年
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1958年・1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「栄盛座」。1960年の映画館名簿では経営者が武藤留吉、支配人が武藤道郎、木造1階、定員382、映写機はミクニ、発声器はナショナル、邦画を上映。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1966年の映画館名簿では経営者が武藤実、木造2階、定員150、映写機はミクニ、発声器は自家製、松竹・大映・東映・日活・洋画を上映。1966年・1969年の映画館名簿では「跡部劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。

昭和20年代の南武芸村跡部の街並みの写真あり。左奥の2階建ては酒屋であり、北に進むと薬局・八百屋・銀行などがあった。この付近には1929年開館の「跡部栄盛座」があり、芝居や映画の興行が行われた。((『写真アルバム 関・美濃・郡上の昭和』樹林舎、2020年、p.117))

*** 千歳座/千年会館/関千年会館/関千年劇場
所在地 : 岐阜県関市千年町(1955年)、岐阜県関市千年町1-21(1958年)、岐阜県関市千年町2-21(1960年・1961年)、岐阜県関市千年町1(1962年)、岐阜県関市千年町2-21(1963年)、岐阜県関市千年町1-22(1964年・1966年・1969年)
開館年 : 1937年9月、1962年12月15日(建て替え)
閉館年 : 1972年5月頃
『全国映画館総覧1955』によると1937年9月開館。1955年の経営者は関土地興業、支配人は後藤重貞、定員900、日活・松竹・洋画を上映。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「千歳座」。1958年の経営者と支配人は後藤裕宣、木造2階、定員700、邦画・洋画を上映。1960年の経営者は後藤裕宣、支配人は後藤胸義、木造2階暖房付、定員700、日活・松竹を上映。1966年の経営者と支配人は後藤裕宣、鉄筋コンクリート造2階建て。1963年頃に木造から鉄筋造に建て替えたと思われる。1964年の映画館名簿では「千年会館」。1966年・1969年の映画館名簿では「関千年会館」。1968年・1969年の住宅地図では跡地に「パチンコ千年会館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。現在の跡地はスーパー「山憲商店関店」。最寄駅は長良川鉄道線刃物会館前駅。

1951年の関市千年町にあった「千歳座」の写真あり。「Chitoseza」の文字や『真珠夫人』の看板が見える。芝居小屋として開館した。1935年に改装され、映画も上映するようになった。((『写真アルバム 関・美濃・郡上の昭和』樹林舎、2020年、p.104))

*** 自由劇場/関東映/関東映劇場
所在地 : 岐阜県武儀郡関町(1950年)、岐阜県関市東栄町(1953年・1955年・1958年)、岐阜県関市栄町1-53(1960年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年)
開館年 : 1946年3月(自由劇場)、1958年7月30日(関東映)
閉館年 : 1981年9月23日
『全国映画館総覧1955』によると1946年3月開館。1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「自由劇場」。1958年7月30日関東映改称。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「関東映」。1966年・1969年・1973年・1976年・1980年の映画館名簿では「関東映劇場」。1968年・1969年の住宅地図では「関東映」。1980年の映画館名簿では木造1階、350席、経営会社は中外興業、経営者は篠田軍治、支配人は高橋昭、邦画と洋画を上映。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「関栄町郵便局」北東110mにある関川西岸の分譲住宅地。北側の道路が名鉄美濃町線の廃線跡であり北西すぐの場所に新関駅があった。最寄駅は長良川鉄道線関駅。

1958年7月30日より、関市栄町1丁目の映画館「自由劇場」が関東映に改称した。岐阜土地興行株式会社の篠田軍治社長が、自由劇場株式会社の高橋照社長から一切の施設を借り受けて、個人で経営することになった。高橋は支配人として経営に参加する。東映・東宝の上映館であり、連日昼夜三本立ての興行を行う。7月30日から8月5日までの上映作品は、東映スコープの『花笠若衆』、東映スコープの『陽気な靴みがき』、東宝スコープの『美女と液体人間』の3本立て。((「『関東映』で新発足 自由劇場を篠田氏経営」『中濃新聞』1958年8月3日))

このほど、関市唯一の映画館だった「関東映」が23年の歴史に幕を閉じて閉館することが決定した。建物の老朽化が理由。ひとまず駐車場として生まれ変わる。中濃路から映画館がなくなる。関市にはかつて「千年会館」「関映画劇場」「関東映」の3館があり、休日や夜間には特ににぎわったが、娯楽の多様化やテレビの普及で斜陽化産業となった。車社会が観客の減少に拍車をかけ、関東映だけが残っていた。1958年に中外興業が「自由劇場」を引き継ぎ、大改装して関東映が開館した。木造モルタル、660m2、350席であり、当時としては立派な劇場だった。再改築して150席に縮小する計画もあったが、建築防災法の関係で叶わなかった。ひとまず9月23日に休館とし、10月には建物を撤去して駐車場とする。建物の再建は白紙である。((「映画の火消える中濃路 唯一の『関東映』が閉館 観客減り建物傷む 再建断念、駐車場に」『岐阜日日新聞』1981年10月1日、p.16))

1981年10月7日付『中部読売新聞』岐阜版朝刊には「関東映」が閉館する際の記事が掲載されている。現物は未確認。((「幕下ろした『関東映』三十余年、関に娯楽文化の灯 上映運動に市民の期待」『中部読売新聞』岐阜版、1981年10月7日))

1981年10月13日付『朝日新聞』岐阜版朝刊には「関東映」が閉館する際の記事が掲載されている。現物は未確認。((「映画の火消える 関市唯一の館『関東映』が廃業 『老朽化ひどく』 大衆本位貫いた30余年」『朝日新聞』岐阜版、1981年10月13日、p.12))

*** 関シネックスマーゴ
所在地 : 岐阜県関市倉知516(2005年・2010年)、岐阜県関市倉知516 サンサンシティマーゴシネマ館(2015年)
開館年 : 2003年11月21日
閉館年 : 営業中
2000年の映画館名簿には掲載されていない。2005年の映画館名簿では「CINEX-MAGO 1-8」(8館)。2010年・2015年の映画館名簿では「関シネックスマーゴ1-8」(8館)。中濃地方初のシネコン。

2003年11月21日、関市倉知に「マーゴシネマ館」が開館する。岐阜県では岐阜市・岐南町・真正町・柳津町に続いて5施設目のシネコンであり、中濃地区では初のシネコンである。8スクリーン計1389席。((「中濃初、シネコンあす誕生 関 映画や娯楽施設一堂に 8スクリーン計1400席」『中日新聞』2003年11月20日))

2003年11月21日、関市倉知に「マーゴシネマ館」が開館する。複合映画館(シネマコンプレックス)とゲームコーナーや飲食店などがある一大アミューズメント施設。中濃地域初のシネコンであり、東濃地域や飛騨地域からの集客も期待される。映画館「シネックス マーゴ」は8スクリーンからなり、最大スクリーンは313席の広さ。シートはスタジアム形式で見やすい。シート最前列とスクリーンの間が広いため、ゆったりと観賞できる。岐阜県内の映画館では初となるペアシートが設けられており、2人で鑑賞したいカップルにお勧め。((「ペアシートでゆったり観賞 マーゴシネマ館あすオープン 中濃初の複合映画館 ゲームコーナー 飲食店など充実」『岐阜新聞』、2003年11月20日))

関市倉知のマーゴ本館北隣に建設途中だった「マーゴシネマ館」が完成。大型ショッピングセンター「サンサンシティマーゴ」を運営するサン・ストラッセが建設していた。2003年11月21日のグランドオープンを前に、11月19日には地元関係者や取引先関係者ら約230人を招いて完成式と内覧会が行われた。中濃地区初のシネマコンプレックスと岐阜県内最大級のアミューズメントを併設している。鉄骨2階建てであり、延床面積は約8500平方メートル。1階は岐阜土地興行が運営する映画館「シネックスマーゴ」であり、8スクリーン計1389席(全指定席)を持つ。((「中濃地区初のシネコン 『マーゴシネマ館』完成」『岐阜新聞』、2003年11月20日))

2003年12月5日の記事。関市の商業施設「サンサンシティマーゴ」に、岐阜市の名鉄新岐阜駅前に次いで岐阜県2店目のスターバックスがオープンする。2003年11月21日に「マーゴシネマ館」が開館したことで商業施設全体の集客力がアップし、安定した利用が見込めると判断した。((「関市にオープン スターバックスコーヒー」『岐阜新聞』、2003年12月5日))

2003年11月19日付『朝日新聞』にはシネックスマーゴが開館する際の掲載されている。現物は未確認。((「複合映画館 集客の核に 中濃で初 関市に21日オープン 飲食・物販店 ゲーム場併設 商圏拡大に期待」『朝日新聞』2003年11月19日))

** 美濃加茂市
*** 古井劇場
所在地 : 岐阜県加茂郡古井町(1953年)、岐阜県美濃加茂市古井町(1955年)
開館年 : 1950年以前1953年以前
閉館年 : 1958年頃
『全国映画館総覧1955』には開館年が記載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「古井劇場」。1955年の映画館名簿では経営者が金子友二、木造2階、定員600。1956年・1957年・1958年・1959年の映画館名簿には掲載されていない。1962年の全商工住宅案内図帳では「古井劇場」。跡地は「若尾助産院」付近。最寄駅はJR高山本線古井駅。

『全国映画館名簿』全国映画館新聞社、1958年では「古井劇場」。

*** 福助座/若嶋座/前進座/日活キネマ/太田日活シネマ
所在地 : 岐阜県加茂郡太田町(1950年・1953年)、岐阜県美濃加茂市太田町(1955年・1958年・1960年・1963年・1964年)、岐阜県美濃加茂市太田町3768(1966年)
開館年 : 明治末期(福助座)、1945年(映画館化)、1950年10月
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧1955』によると1950年10月開館。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「前進座」。1955年の映画館名簿では経営者・支配人ともに野田義親、定員800、混合を上映。1961年・1963年・1964年の映画館名簿では「日活キネマ」。1962年の全商工住宅案内図帳では「前進座」。1966年の映画館名簿では「太田日活シネマ」。1966年の映画館名簿では経営者が堀口興行、支配人が渡辺泰吉、木造2階、定員317、洋画を上映。1967年・1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「太田宿中山道会館」西にある「太田宿中山道会館駐車場」。最寄駅はJR・長良川鉄道美濃加茂駅。

明治30年代の太田町の中町には芝居小屋の「河内座」が開館した。現在の中山道会館の西側である。明治40年代には河内座の南に「福助座」が開館し、大正末期には下古井の日比野鎌三郎が経営を引き継いで「若嶋座」に改称した。1945年(昭和20年)には若嶋座が「前進座」に改称して映画館となった。(([[若嶋座>>http://www.forest.minokamo.gifu.jp/m_dictionary/details.cfm?id=730&indekkusu=46]] 美濃加茂市民ミュージアム))

*** OS劇場/太田ニューOS劇場/太田ニューOS
所在地 : 岐阜県美濃加茂市太田町(1960年)、岐阜県美濃加茂市太田町3563(1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1988年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1988年以後1990年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「OS劇場」。1962年の全商工住宅案内図帳では「OS映画劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「太田ニューOS劇場」。1971年のゼンリン住宅地図では「ニューO・S」。1973年・1976年・1980年・1985年・1988年の映画館名簿では「太田ニューOS」。1980年の映画館名簿では鉄筋造2階、297席、経営会社はニューOS、経営者は岩本重雄、支配人は名古路裕史、東映とにっかつと洋画を上映。1984年のゼンリン住宅地図では「株式会社ニューOS 1階パチンコニューOS 2階映画館ニューOS」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は2015年以前閉店のパチンコ店「ニューOS美濃加茂店」廃墟。最寄駅はJR・長良川鉄道美濃加茂駅。

加茂郡太田町にあった映画館としては「太田館」と「OS劇場」がある。1931年から1932年頃、美濃太田駅の駅前通東に建築に2年ほどかかった太田館(現・太田会館)が開館した。戦後の1956年、OS劇場が開館した。((美濃加茂市『美濃加茂市史 民俗編』美濃加茂市、1978年、pp.287-288))

*** 太田座/太田館/太田東映/太田東映劇場/太田会館
所在地 : 岐阜県加茂郡太田町(1950年)、岐阜県美濃加茂市太田町(1955年・1958年・1960年)、岐阜県美濃加茂市太田町銀座3530(1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年)、岐阜県美濃加茂市太田町4296(1995年・2000年・2002年)
開館年 : 1941年1月
閉館年 : 2002年以後2004年以前
『全国映画館総覧1955』によると1941年1月開館。1950年の映画館名簿では「太田館」。1953年・1955年の映画館名簿では「太田座」。1955年の映画館名簿では経営者が亘竜三、定員700、混合・演を上映。1957年の映画館名簿では「太田館」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「太田東映」。1962年の全商工住宅案内図帳では「太田東映」。1966年の映画館名簿では「太田東映劇場」。1969年・1973年・1976年・1980年・1990年・2000年・2002年の映画館名簿では「太田会館」。1971年のゼンリン住宅地図では「太田会館」。1980年の映画館名簿では木造1階、240席、経営者・支配人ともに亘泰弘、東宝と松竹と洋画を上映。1984年のゼンリン住宅地図では「太田会館 2階タカケンクリーニング スナックダンダン」。2000年の映画館名簿では木造1階、200席、経営者・支配人ともに亘泰弘、邦画と洋画を上映。2004年・2005年の映画館名簿には掲載されていない。美濃加茂市最後の映画館。跡地は「シンコー薬局美濃太田店」。最寄駅はJR・長良川鉄道美濃加茂駅。

加茂郡太田町にあった映画館としては「太田館」と「OS劇場」がある。1931年から1932年頃、美濃太田駅の駅前通東に建築に2年ほどかかった太田館(現・太田会館)が開館した。戦後の1956年、OS劇場が開館した。((美濃加茂市『美濃加茂市史 民俗編』美濃加茂市、1978年、pp.287-288))

** 美濃市
*** 美濃市の映画館
1902年8月23日に竣工した「小倉座」は、近隣では随一の大劇場だった。歌舞伎・新派劇・剣劇・活動写真と多様な興行を行い、講演会や選挙演説の会場にもなった。昭和30年代には建物の老朽化などで工業も減少し、1965年頃に取り壊された。泉町の北裏通り国道と並行した道の中ほどにあった。大正末年に国鉄が開業して広岡町筋ができると、中ほどに「錦館」が開館した。1928年には常設映画館となって毎日上映を行い、小倉座は劇場、錦館は映画館として並列していた。戦後には経営者が後退し、「文映」に改称した。昭和30年代にはパチンコ店となり、近くに「赤玉会館」が新築された。赤玉会館は娯楽の変遷やテレビの普及とともに姿を消した。((『美濃市史 通史編 下巻』pp.378-381))

*** 錦館/美ノ町文化映劇/美濃文化劇場/美濃劇場
所在地 : 岐阜県武儀郡美濃町(1950年・1953年・1955年)、岐阜県美濃市広岡町(1958年・1960年・1961年・1962年)
開館年 : 1928年、1948年12月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧1955』によると1948年12月開館。1950年の映画館名簿では「美ノ町文化映劇」。1953年・1955年の映画館名簿では「美濃文化劇場」。1958年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「美濃劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が吉田栄次郎、支配人が小森伊右衛門、木造2階暖房付、定員450、邦画を上映。1968年の住宅地図では跡地に「パチンコモナミ会館」。跡地は岐阜県道80号・岐阜県道281号広岡町交差点東角にある月極駐車場「プラザ貸駐車場」。

『保存版 関・美濃・郡上の今昔』郷土出版社、2010年、p.149では「文映」について言及されている。現物は未確認。((『保存版 関・美濃・郡上の今昔』郷土出版社、2010年、p.149))

『美濃市史 通史編 下巻』美濃市、1980年、pp.378-380では「小倉座」や「錦館」について言及されている。現物は未確認。((『美濃市史 通史編 下巻』美濃市、1980年、pp.378-380))

1928年(昭和3年)、武儀郡美濃町の広岡町の一角に、常設映画館として「錦館」が開館した。にしきやの主人が建てたので錦館という名称になった。太平洋戦争後には経営者が変わって「文映」に改称したが、昭和30年代にパチンコ店に転換された。((市原三三『ふるさと美濃市 明治大正よもやま話』市原三三、1981年、pp.32-33))

*** 牧谷映画劇場/牧谷座
所在地 : 岐阜県美濃市御手洗町957(1958年)、岐阜県美濃市御手洗(1960年・1961年)、岐阜県美濃市御手洗町(1962年)、岐阜県美濃市御手洗957(1963年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1963年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「牧谷座」。1960年の映画館名簿では経営者が家田重五郎、支配人が家田酉三、木造2階、定員255、松竹・東映・大映を上映。1961年・1962年の映画館名簿では「牧谷映画劇場」。1963年の映画館名簿では「牧谷座」。1964年・1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 小倉座
所在地 : 岐阜県武儀郡美濃町(1953年)、岐阜県美濃市美濃町(1955年)、岐阜県美濃市美濃町1891(1958年)、岐阜県美濃市泉町(1960年・1963年)
開館年 : 1902年8月23日、1947年1月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧1955』によると1947年1月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「小倉座」。1960年の映画館名簿では経営者が酒井好次、支配人が堀小市、木造3階、定員800、大映・洋画を上映。1964年・1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。映画館ではなく演劇場だったとされる。1968年の住宅地図では跡地に空白。1969年の住宅地図では「小倉座」。跡地は「美濃市文化会館」の東100mにある月極駐車場「小倉座駐車場」。

吉田初三郎『美濃町鳥観図絵』村井酒造店、出版年不明には「小倉座」が描かれている。((吉田初三郎『[[美濃町鳥観図絵>>https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/detail/002239606.html]]』村井酒造店、出版年不明))

1937年(昭和12年)4月8日には、前年に文楽座から独立した劇団の新義座が、美濃町の「小倉座」で公演を行っている。(([[新義座>https://www.kagayakerugidayunohoshi.com/006o.html]] 大枝山人覚え書き))

『美濃市史 通史編 下巻』美濃市、1980年、pp.378-380では「小倉座」や「錦館」について言及されている。現物は未確認。((『美濃市史 通史編 下巻』美濃市、1980年、pp.378-380))

1914年(大正3年)の小倉座の写真あり。1902年(明治35年)8月23日、美濃市の劇場「小倉座」(おぐらざ)が竣工して開場興行を行った。開場興行には初代中村雁治郎、中村福助、中村芝雀などの著名な歌舞伎役者が出演し、「本朝廿四孝」や「鎌倉三代記」などが演じられた。明治大正期には近郷随一の立派な劇場であり、岐阜市や名古屋市の劇場と比べても恥ずかしくないものだった。美濃市における娯楽の殿堂であり、歌舞伎・新派劇・映画・奇術・選挙演説会など様々に利用された。現在は1981年(昭和56年)であるが、小倉座の建物はつい先年まで存在した。((市原三三『ふるさと美濃市 明治大正よもやま話』市原三三、1981年、pp.31-32))

1902年、美濃町の御嶽新道の中ほどから東に入った横町に劇場「小倉座」が新築された。加治屋町の願念寺の坂の下にあった「富元座」が閉館してから、美濃町に久々に登場した興行を行える芝居小屋だった。8月23日、関西大歌舞伎を招いて「小倉座」のこけら落とし公演が行われ、「本朝二十四孝」や「鎌倉三代記」などが演じられた。こけら落とし公演は大入り満員であり、下足が山積みにされていたとされる。小倉座は近郷随一の劇場であり、明治末期の小倉公園近代化整備もあって周辺はさらに発展した。1965年、老朽化が理由で取り壊された。((市原三三『小倉山小倉公園物語』市原三三、1996年、pp.49-50))

1923年には"憲政の神様" 尾崎行雄が、1924年には"弁論の雄" 永井柳太郎が「小倉座」で講演会を開催した。いずれも美濃町の町民が押し寄せて盛況であり、小倉座の木戸が壊れるほどだった。((市原三三『小倉山小倉公園物語』市原三三、1996年、pp.111-112))

*** 昭和会館
所在地 : 岐阜県美濃市大矢田町(1960年)、岐阜県美濃市大矢田(1964年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1964年頃
1958年・1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「昭和会館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年の映画館名簿では「昭和会館」。1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 赤玉会館/美濃赤玉映画劇場/美濃赤玉映劇
所在地 : 岐阜県美濃市広岡町(1964年)、岐阜県美濃市車市場(1965年)、岐阜県美濃市2631(1966年・1969年)、岐阜県美濃市広岡町2631-2(1973年)
開館年 : 1963年頃
閉館年 : 1973年以後1976年以前
1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年・1965年の映画館名簿では「赤玉会館」。1966年・1969年の映画館名簿では「美濃赤玉映画劇場」。1968年・1969年の住宅地図では「赤玉会館 映画 喫茶 パチンコ ビリヤード」。1973年の映画館名簿では「美濃赤玉映劇」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はお好み焼き店「美名美」が入る雑居ビル「ニューアカダマ」。広岡町交差点の北北西50m。映画館の建物が現存。「喫茶赤玉」の[[公式サイト>>http://j47.jp/akadama/]]がある。

** 可児市
*** 東雲座/ひかり映画劇場
所在地 : 岐阜県可児郡広見町(1950年・1953年・1955年)、岐阜県可児郡可児町広見(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1887年(劇場として)、1955年? 1960年?(映画専門館として)
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧1955』には開館年が記載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「東雲座」。1962年の可児町全商工住宅案内図帳では「東雲座」。1963年の映画館名簿では「ひかり映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1971年のゼンリン住宅地図では「ひかり劇場」。跡地は「西福寺」の南西90mにある2010年代前半に竣工した分譲住宅地。

昭和初期の広見にある「東雲座」では週2-3回の頻度で映画が上映され、上映のたびに恵那の大井にある配給元から映写機が持ち込まれた。ざぶとんや火鉢が5銭程度で貸し出された。1935年(昭和10年)には1階に映写室が設置され、しだいに単なる劇場から映画館としての性格を強めた。1955年には映写室を2階に移動させた。1960年には花道などを撤去して映画専門館に改修され、東雲座からひかり劇場に改称した。しかしテレビが普及するにあたって客足が減り、1965年頃に閉館となった。((『可児町史 通史編』可児町、1980年、p.1264))

1887年(明治20年)の広見村には芝居小屋として東雲座が開館。1955年(昭和30年)3月には桝席を長椅子席に改修するなどしてリニューアルオープン。1965年(昭和40年)以後に閉館した。1955年のリニューアルオープン時の写真あり。((中島勝国『目で見る 可児・加茂の100年』郷土出版社、1990年、p.134))

** 郡上市
*** 郡上市の映画館
郡上郡白鳥町の本町通りの南部には、劇場「白鳥劇場」があった。やがて美濃白鳥駅前付近に映画館「スワン」が開館し、2つの映画館が断続的に映画を上映した。1972年(昭和47年)には白鳥町から映画館がなくなった。((白鳥町教育委員会『白鳥町史 通史編 下巻』白鳥町教育委員会、1977年、p.525))

&fukidashi(){''「嵐璃橘之丞」案内板''~~''劇場のこと''~~日吉町一帯は、かつて裏田と呼ばれ、19世紀末より20世紀前半(明治中期〜昭和前期)にかけて歓楽街として栄えた。20世紀初め(明治35年頃)、その一角に当時県下一の規模を誇る八幡座(やわたざ)が開業し賑わったが、1927(昭和2)年5月、座より出火し、日吉町、大阪町一帯を猛火に包む大火となり、座は全焼した。3年後、この近くに八幡劇場が開業し、後、人間国宝になった2世中村鴈治郎が杮落としの舞台に立った。太平洋戦争末期、軍需工場として移築されたが、戦後再建され、また日吉劇場も開業し、この一帯は映画演劇のメッカとして栄えた。((和田昌三(編)『「嵐 璃橘之丞」物語』八幡座・嵐会、2008年、p.31))}

*** 大島座
所在地 : 岐阜県郡上郡白鳥町大島(1960年・1962年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1962年頃
1958年・1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「大島座」。1961年の映画館名簿には掲載されていない。1962年の映画館名簿では「大島座」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 日吉劇場
所在地 : 岐阜県郡上郡八幡町(1953年・1955年)、岐阜県郡上郡八幡町日吉町(1958年)、岐阜県郡上郡八幡町(1960年・1962年)、岐阜県郡上郡八幡町日吉(1963年)
開館年 : 1947年5月
閉館年 : 1964年11月
『全国映画館総覧1955』によると1947年5月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「日吉劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1964年11月初頭、郡上郡八幡町の映画館「日吉劇場」、郡上郡白鳥町の映画館「スワン劇場」が相次いで閉館した。ポスターやスターの写真などが撤去されている。これにより、郡上郡の常設映画館は八幡町と白鳥町の1館ずつとなった。ここ2-3年でテレビが普及し、また青年世代が都会に出てしまったことも影響している。両館ともに今後の利用方法が未決定。日吉劇場の写真あり。((「映画館二つが閉鎖 八幡町 白鳥町 客足めっきり減る」『岐阜日日新聞』1964年11月6日、p.10))

*** スワン劇場
所在地 : 岐阜県郡上郡白鳥町大字白鳥(1958年)、岐阜県郡上郡白鳥町(1960年・1962年)、岐阜県郡上郡白鳥町大字白鳥(1963年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1964年11月
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「スワン劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1964年11月初頭、郡上郡八幡町の映画館「日吉劇場」、郡上郡白鳥町の映画館「スワン劇場」が相次いで閉館した。ポスターやスターの写真などが撤去されている。これにより、郡上郡の常設映画館は八幡町と白鳥町の1館ずつとなった。ここ2-3年でテレビが普及し、また青年世代が都会に出てしまったことも影響している。両館ともに今後の利用方法が未決定。日吉劇場の写真あり。((「映画館二つが閉鎖 八幡町 白鳥町 客足めっきり減る」『岐阜日日新聞』1964年11月6日、p.10))

*** 喜楽座
所在地 : 岐阜県郡上郡和良村沢(1965年)
開館年 : 1963年以後1965年以前
閉館年 : 1965年頃
1963年の映画館名簿には掲載されていない。1965年の映画館名簿では「喜楽館」。1965年の映画館名簿では経営者・支配人ともに池戸喜一、木造、階数記載なし、定員400、邦画・洋画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 白鳥劇場
所在地 : 岐阜県郡上郡白鳥町(1950年・1958年・1960年・1963年)、岐阜県郡上郡白鳥町1055(1966年)
開館年 : 1951年4月
閉館年 : 1972年
1950年の映画館名簿では「白鳥劇場」。1953年・1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「白鳥劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。

1951年(昭和26年)4月には郡上郡白鳥町に「白鳥劇場」が完成した。完成時の写真あり。テレビの普及に押され、白鳥劇場は1972年(昭和47年)に閉館した。((白鳥町『写真に残った白鳥 我がふるさと』白鳥町、1986年、p.53))

*** 八幡劇場/郡上八幡劇場
所在地 : 岐阜県郡上郡八幡町日吉町1066(1966年)
開館年 : 1930年、1946年12月
閉館年 : 1966年以後1969年以前
『全国映画館総覧1955』によると1946年12月開館。1950年・1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「八幡劇場」。1966年の映画館名簿では「郡上八幡劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1927年に八幡座(読みは「はちまんざ」ではなく「やわたざ」)が火災で焼失したため、1930年に八幡劇場が開館した。

1902年(明治35年)には郡上郡八幡町日吉町に、岐阜県下最大の規模を持つ劇場「八幡座」が開館した。この頃には女形の嵐璃橘之丞が八幡座で公演を行い、八幡町を挙げて熱狂した。1927年(昭和2年)には大火で八幡座が全焼し、1930年(昭和5年)に劇場「八幡劇場」が開館した。戦争末期の1944年(昭和19年)には軍需工場を建設するために八幡劇場が廃業し、各務原市に移築された。戦後の1948年(昭和23年)から1949年(昭和24年)頃には八幡劇場が再建され、また劇場「日吉劇場」も開館した。1960年(昭和35年)にはバイパス工事のために八幡劇場が閉館した。またこの後には日吉劇場も閉館した。2006年(平成18年)には嵐璃橘之丞の碑が旧八幡劇場前に移築された。((和田昌三(編)『「嵐 璃橘之丞」物語』八幡座・嵐会、2008年、p.38))

1937年(昭和12年)4月9日には、前年に文楽座から独立した劇団の新義座が郡上八幡町の八幡劇場で公演を行っている。(([[新義座>https://www.kagayakerugidayunohoshi.com/006o.html]] 大枝山人覚え書き))

1950年(昭和25年)3月9日、郡上郡八幡町の八幡劇場で劇団「前進座」の公演が行われた。((有代和夫(編)『写真で見る郡上百年』郷土出版社、1984年、p.153))

吉田初三郎『美濃郡上八幡』岐阜県八幡町役場、1933年には「八幡劇場」が描かれている。((吉田初三郎『[[美濃郡上八幡>>https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/detail/004854196.html]]』岐阜県八幡町役場、1933年))

新美南果『郡上の八幡名勝案内』岐阜県八幡町、発行年不明には八幡劇場が「劇場」として描かれている。((新美南果『[[郡上の八幡名勝案内>>https://iiif.nichibun.ac.jp/YSD/detail/005742150.html]]』岐阜県八幡町、発行年不明))

*** 白鳥町のドライブインシアター
1977年5月28日夜、郡上郡白鳥町向小駄良の金剛寺公園広場に東海地方初のドライブインシアター(野外自動車映画劇場)がオープンする。経営は白山観光グループ株式会社。郡上郡には常設映画館が1館もなく、高校生らは岐阜市まで出かけて映画を鑑賞している。スクリーンは5.5m×16m。その他の施設は入場券発売所と売店。トイレは既存のものを使用する。当面は土曜日と日曜日の夜19時30分から22時まで上映する。マイクロバスを映写室に改造。音響はカーラジオで受信する。入場料は乗車人数に関係なく1台1500円。((「東海地方初のドライブ・イン・シアター 白鳥町の金剛寺公園 車の中から映画見よう」『岐阜日日新聞』1977年5月28日、p.13))

** 加茂郡八百津町
*** 栄座/八百津栄座
所在地 : 岐阜県加茂郡八百津町(1950年・1953年・1955年)、岐阜県加茂郡八百津町港町(1958年・1960年・1963年)、岐阜県加茂郡八百津町3961(1966年・1969年)
開館年 : 1933年以前
閉館年 : 1969年以後1973年以前
『全国映画館総覧1955』には開館年が記載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「栄座」。1966年・1969年の映画館名簿では「八百津栄座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1976年のゼンリン住宅地図では八百津町八百津3961に「十一屋」であり北側に駐車場。跡地は和菓子屋「梅屋」の南東40mの空き地。

1933年(昭和8年)現在の加茂郡八百津町には、黒瀬下町に劇場「栄座」がある。座主は同地の纐纈久太郎、興行主は錦織村伊岐津志の小倉繁太郎。演劇・義太夫・浪花節・映画など、あらゆる興業に使用されている。((可児桝太郎『汎八百津』可児桝太郎、1933年))

** 加茂郡富加町
*** 友栄座
所在地 : 岐阜県加茂郡富加村(1956年・1958年・1960年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1961年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年・1961年の映画館名簿では「友栄座」。1961年の経営者は各務喜七、支配人は磯野弥三郎、木造2階、定員600。1962年・1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「富加駅」北150mにある衣料品店「井友」。最寄駅は長良川鉄道線富加駅。

1923年には国鉄越美南線が開通し、松林の原野が広がっていた加茂野駅に人が集まった。1932年から1933年頃にカネ友が建てた倉庫の一部を改造し、劇場「友栄座」が開館した。友栄座は株式経営で盛んに興行を行った。加茂野駅前には料理屋3軒、芸妓置屋、パチンコ店3軒、玉突場もあり、この地域の商業や娯楽の中心となった。((富加町史編集委員会『富加町史 下巻 通史編』富加町、1980年、p.473))

** 加茂郡川辺町
*** 川辺座/飛水会館
所在地 : 岐阜県加茂郡川辺町中川辺(1960年・1961年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1961年頃
1958年・1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1961年の映画館名簿では「飛水会館」。1961年の映画館名簿では経営者が佐藤円次郎、支配人が熊沢美利、木造2階、定員700。1962年・1963年の映画館名簿には掲載されていない。1971年のゼンリン住宅地図では跡地に「田原医院」や「中央公会堂」。現在の跡地は「田原医院」。

それまでの「美川座」に変わり、大正から昭和に移ると浦町(現・田原医院)に「川辺座」が開館した。浦町街道によって東西に長い木造建築であり、小屋の西側には木戸銭を払う窓口があった。館内の土間には駄菓子の出店があり、下足を預けて木札を受け取った。収容人員は数百人であり、左端には舞台に直結した花道があった。戦後しばらくの川辺町に劇場はなかったが、やがて川辺座の場所に飛水会館(川辺町公民館)が開館し、芝居の上演場・映画の上映場・選挙投開票場などとして使用された。※建物をそのまま使用したのか新築したのかは不明。「川辺町の芝居小屋の変遷」地図が掲載されており、「豊昇座」「美川座」「川辺座」「飛水会館(町営公民館)」の位置がプロットされている。((堀井兼一「川辺町の芝居小屋」『川辺学研究』川辺学研究会、第2号、2017年、pp.9-26))

** 加茂郡七宗町
*** 神富座
所在地 : 岐阜県加茂郡七宗村神渕(1958年・1960年・1962年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1962年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「神富座」。1962年の住宅地図では経営者・支配人ともに渡辺康芳、木造2階、定員500、邦画を上映。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

** 加茂郡坂祝町
映画館名簿によると坂祝町に映画館は存在しなかったと思われる。

** 加茂郡白川町
映画館名簿によると白川町に映画館は存在しなかったと思われる。

** 加茂郡東白川村
映画館名簿によると東白川村に映画館は存在しなかったと思われる。

** 可児郡御嵩町
*** 伏見劇場
所在地 : 岐阜県可児郡伏見町(1953年・1955年)
開館年 : 1925年12月4日
閉館年 : 1959年9月
『全国映画館総覧1955』には開館年が記載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「伏見劇場」。1955年の映画館名簿では経営者が佐藤興三郎、定員600、混合・演を上映。1958年の映画館名簿には掲載されていない。

1956年(昭和31年)現在の公衆の娯楽施設としては「伏見劇場」がある。テレビは普及しつつあるが、特定の家庭に限られている。((伏見町誌編纂委員会『伏見町誌』御嵩町伏見支所、1956年、p.603))

1925年(大正14年)12月4日、可児郡伏見村に「伏見劇場」が開館した。伏見宿本陣跡から街道を挟んで北あたりにあった。1959年(昭和34年)9月の伊勢湾台風で建物が倒壊し、そのまま閉館に追い込まれた。((御嵩町史編さん室『御嵩町史 通史編 下』御嵩町、1990年、pp.792))

『ふるさとの回想』に掲載された升倉みさをさんの話。「伏見劇場」が開館したのは1925年頃だったと思う。現在の伏見中町にある洞谷商会の北100mの場所に新築された。伏見劇場は株式組織であり、西町の桑問屋の後沢万太郎が社長を務めた。伏見劇場は農村の娯楽として繁昌し、各種団体の総会その他にも利用された。テレビの普及によって次第に客足が落ち、1959年(昭和34年)9月26日の伊勢湾台風で多大な被害を受けたことで閉館した。伏見劇場だけでなく、広見町の東雲座、兼山町の末広座、御嵩町の曙座も現在では閉館の運命をたどっている。((御嵩町史編さん室『御嵩町史 通史編 下』御嵩町、1990年、pp.793))

*** 曙座
所在地 : 岐阜県可児郡御嵩町(1950年・1953年・1955年・1958年・1960年)
開館年 : 1914年8月24日
閉館年 : 1960年頃
『全国映画館総覧1955』には開館年が記載されていない。1930年・1936年・1943年・1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「曙座」。1960年の映画館名簿では経営者が森島さと、支配人が森島仲一、木造2階、定員1030、邦画・洋画を上映。1961年・1962年・1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「中山道みたけ館」の南南東100mにあるアパート「リゾームハウスA・リゾームハウスB」。最寄駅は名鉄広見線御嵩駅。

当初の「曙座」は昭和町北部の願興寺北方にあり、明治時代後期には可児郡唯一の劇場だった。1904年(明治37年)12月には可児郡農友会が主催して、曙座で第1回可児郡農産物品評会が開催されている。1914年(大正3年)8月24日には御嵩市街地の中心部である元町の街道筋に新築移転した。新築された曙座には回り舞台、花道、せり、囃場、浄瑠璃場などがあった。1階も2階も畳敷きの桟敷席であり、約700人を収容した。歌舞伎の興行のほかに活動写真の上映も可能な、この地域の大娯楽施設だった。1956年(昭和31年)には畳敷きの枡席がコンクリート土間の固定椅子席に改修され、「日之出劇場」に改称されて映画専門館となった。亜炭景気の衰退やテレビの普及が原因で、日之出劇場は1968年(昭和43年)に閉館した。建物は電気部品の御嵩シルバー株式会社の工場に転用されたがやがて廃墟となり、1989年(平成元年)9月に解体された。((御嵩町史編さん室『御嵩町史 通史編 下』御嵩町、1990年、pp.790-791))

1904年、御嵩町の「曙座」で初の農友会品評会が開催された。1913年、御嵩町の北部にあった曙座劇場が元町に移転した。((御嵩町文化財保護審議会『図録 御嵩町の文化遺産』御嵩町教育委員会、2003年、pp.204-205))

御嵩町の「曙座」から転換した御嵩シルバー工場の写真あり。曙座は1914年から昭和30年代初頭まであった。((御嵩町文化財保護審議会『図録 御嵩町の文化遺産』御嵩町教育委員会、2003年、p.167))

*** 東濃シネマ劇場
所在地 : 岐阜県可児郡御嵩町(1958年・1960年・1961年・1962年・1963年)
開館年 : 1956年
閉館年 : 1963年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1961年・1962年・1963年の映画館名簿では「東濃シネマ劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が早川秀夫、支配人が田中保、木造1階建冷暖房付、定員300、電話が御嵩343、東映・大映・日活を上映。1964年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「名鉄広見線御嵩駅」駅舎の西北西90mにある「御嵩町営月極駐車場」。最寄駅は名鉄広見線御嵩駅。

1956年(昭和31年)には御嵩駅のすぐ西側に、映画専門館として「東濃シネマ劇場」が開館した。これによって御嵩町には2つの映画館がある映画ブームの時代があった。御嵩町の亜炭産業の衰微に合わせて、わずか数年後には閉館した。((御嵩町史編さん室『御嵩町史 通史編 下』御嵩町、1990年、p.793))

1956年、亜炭景気の影響で映画専門館「日の出劇場」と「東濃シネマ」ができた。1968年、日の出劇場が閉館して工場に変わった。((御嵩町文化財保護審議会『図録 御嵩町の文化遺産』御嵩町教育委員会、2003年、pp.205-206))

*** 日之出映画劇場/御嵩日之出映画劇場
所在地 : 岐阜県可児郡御嵩町1536(1958年)、岐阜県可児郡御嵩町(1960年・1961年・1962年)、岐阜県可児郡御嵩町1536(1963年・1966年)
開館年 : 1956年
閉館年 : 1968年
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1961年・1962年・1963年の映画館名簿では「日之出映画劇場」。1960年の映画館名簿では経営者・支配人ともに小倉充夫、木造2階建冷暖房付、定員550、電話が御嵩358、松竹・東宝・新東宝を上映。1966年の映画館名簿では「御嵩日之出映画劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「中山道みたけ館」の南南東100mにあるアパート「リゾームハウスA・リゾームハウスB」。最寄駅は名鉄広見線御嵩駅。

1956年、亜炭景気の影響で映画専門館「日の出劇場」と「東濃シネマ」ができた。1968年、日の出劇場が閉館して工場に変わった。((御嵩町文化財保護審議会『図録 御嵩町の文化遺産』御嵩町教育委員会、2003年、pp.205-206))

* 東濃地方
** 土岐市
*** 土岐津座
所在地 : 岐阜県土岐市土岐津町882(1958年)、岐阜県土岐市土岐津町(1960年)
開館年 : 1922年2月18日
閉館年 : 1962年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「土岐津座」。1960年の映画館名簿では経営者が虎沢健造、木造2階、定員500、大映を上映。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1976年の住宅地図では跡地に「アキ」。土岐市街地に3館あった映画館のうちの1館。

1934年現在、土岐津町土岐口字上田には劇場「土岐津座」がある。虎沢亮一が管理する土岐津町唯一の劇場であり、演劇・義太夫・浪花節・活動写真などの興行に用いられている。『土岐津』(土岐津町、1934年)に収録されている「岐阜県土岐郡土岐津町全図」には「劇場」が描かれている。((『土岐津』土岐津町、1934年))

1922年2月18日、土岐津町の上田町に株式会社組織の「土岐津座」が開館した。演劇・義太夫・浪花節・映画などの興行が行われた。1933年頃の管理者は虎沢亮一。土岐津唯一の劇場だった。((土岐津町誌編纂委員会『土岐津町誌』土岐市土岐口財産区、1999年、p.1206、p.年表66))

*** 泉館/トキワ泉館
所在地 : 岐阜県土岐郡泉町(1950年・1953年・1955年)、岐阜県土岐市泉町(1958年・1960年)、岐阜県土岐市泉町久尻468(1964年)
開館年 : 1935年12月1日
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧1955』には開館年が記載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「泉館」。1960年の映画館名簿では経営者が伊藤三三、支配人が青山貞一、木造2階暖房付、定員702、邦画・洋画を上映。1963年の映画館名簿では「トキワ泉館」。1964年の映画館名簿では「泉館」。1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年・1976年の住宅地図では跡地に「泉館アパート」。土岐市街地に3館あった映画館のうちの1館。

1935年12月1日、新土岐津に常設館「泉館」が開館した。演劇・義太夫・浪花節・映画などの興行が行われた。土岐津唯一の劇場だった。((土岐津町誌編纂委員会『土岐津町誌』土岐市土岐口財産区、1999年、p.1209))

*** 陶栄座/駄知陶栄座
所在地 : 岐阜県土岐郡駄知町(1950年・1953年・1955年・1958年)、岐阜県土岐市駄知町栄町(1960年)、岐阜県土岐郡駄知町(1963年)、岐阜県土岐市駄知町栄2196(1966年)
開館年 : 1937年以前
閉館年 : 1964年頃
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(土岐市駄知町)>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.32701079554916%2C137.2266151235998&z=17]]
『全国映画館総覧1955』には開館年が記載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「陶栄座」。1966年の映画館名簿では「駄知陶栄座」。1969年の住宅地図では「陶栄座」。跡地は2012年9月に閉店したスーパー「サンマートトーエー」の廃墟。旧駄知町に2館あった映画館のうちの1館。旧駄知町には東濃鉄道駄知線(1972年休止・1974年廃線)が通じていた。

1937年(昭和12年)4月18日には、前年に文楽座から独立した劇団の新義座が駄知町の陶栄座で公演を行っている。(([[新義座>https://www.kagayakerugidayunohoshi.com/006o.html]] 大枝山人覚え書き))

1955年頃の駄知町に新装開館した映画館「陶栄座」の写真あり。「TOEIZA」の文字や花輪が見える。陶栄座は芝居小屋として開館し、1955年頃に映画館に改装された。映画業界が衰退するとともに、東栄座はスーパーマーケットに着目し、主婦の店の傘下にある「スーパー陶栄」に転換した。1989年現在の写真あり。「主婦の店トーエー」の文字が見える。((『多治見・土岐・瑞浪いまむかし』岐阜郷土出版社、1989年、pp.78-79))

かつて駄知町には芝居小屋兼映画館として「陶栄座」(とうえいざ)があり、1964年(昭和29年)頃までは地歌舞伎を上演していた。((「[[だち歌舞伎研究会が駄知歌舞伎を復活【助六を駄知小で】>>http://tononews.blog.fc2.com/blog-entry-6847.html]]」『東濃ニュース 土岐市・瑞浪市版』2018年11月24日))

*** 中央劇場/中映劇場/下石日活劇場
所在地 : 岐阜県土岐郡下石町(1955年)、岐阜県土岐市下石町1257(1958年)、岐阜県土岐市下石町(1960年・1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1953年4月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧1955』によると1953年4月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「中央劇場」。1955年の映画館名簿では経営者が水野美喜造、木造2階、定員500、混合を上映。1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「中映劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が梶田源之丞、支配人が林政美、木造平屋建冷暖房、定員295、邦画を上映。1965年の映画館名簿では「下石日活劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の住宅地図では跡地に「マルケイパチンコ」。1976年の住宅地図では跡地に「倉庫」。現在の「株式会社マルクニ・イトウ」東に映画館の建物が現存。

*** 陶盛座/下石陶盛劇場
所在地 : 岐阜県土岐郡下石町(1950年・1953年・1955年)、岐阜県土岐市下石町(1966年)
開館年 : 1882年5月(陶盛座)、1965年頃(下石陶盛劇場)
閉館年 : 1967年頃
『全国映画館総覧1955』には開館年が掲載されていない。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「陶盛座」。1955年の映画館名簿では経営者が水野美喜造、木造2階、定員500、混合・演を上映。1956年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1967年の映画館名簿では「下石陶盛劇場」。1966年の映画館名簿では経営者が中山定吉、支配人が木田静子、木造2階、定員253。松竹・大映・東映・日活・洋画を上映。1968年・1969年の映画館名簿には掲載されていない。1976年の住宅地図では跡地に浅野正義邸や中山定春邸。

下石町清水には劇場がある。1882年(明治14年)5月に「窯元座」として創設され、後に「陶盛座」に改称した。林理市が管理し、波多野一九三が興行主を務めている。演劇・義太夫・浪曲・映画などの興行を一年中行っている。((桃井勝『郷土下石 資料編1』桃井勝、1969年、p.138 ※原本は1936年刊行?))

下石町の劇場としては、清水に1882年(明治14年)創設の「窯元座」があり、後に「陶盛座」に改称した。1936年頃には林理市が管理し、波多野一九三が興行主だった。戦後には中山が興行していた。戦後の下石町には別に映画館が開館し、陶盛座と2館で興行していたが、1984年現在は両館とも閉館した。1984年現在(?)の陶盛座の写真あり。((下石町誌編纂委員会『ろくろの里 下石町誌』下石陶磁器工業協同組合、1984年、pp.350-351、p.445))

*** 妻木劇場
所在地 : 岐阜県土岐郡妻木町(1950年・1953年・1955年)、岐阜県土岐市妻木町1404-1(1958年)、岐阜県土岐市妻木町(1960年・1963年)、岐阜県土岐市妻木町1404-1(1966年・1969年)、岐阜県土岐市妻木町妻木町14-4-1(1973年)
開館年 : 1931年(劇場)、1942年(映画館化)
閉館年 : 1968年? 1973年以後1976年以前?
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(土岐市妻木町)>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.31281938329495%2C137.1906156902719&z=17]]
『全国映画館総覧1955』によると1942年開館。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「妻木劇場」。1969年の住宅地図では「妻劇」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「土岐市立妻木公民館」(しろやま公民館)北140mにある空き地。旧妻木町には東濃鉄道駄知線(1972年休止・1974年廃線)が通じていた。

1932年、妻木劇場が設立された。((『郷土 妻木』土岐市立妻木小学校、1975年、p.115))

妻木町栄町1405番地には「妻木劇場」があった。1931年、白石仲之丞ら出資者らの努力によって、東濃信用金庫の角を西に10メートルほど行った右路地奥に建設された。一部1階建てであり、畳敷きだった。こけら落とし公演には中村扇雀などの歌舞伎役者が来演した。1941年までは旅回り一座などの芝居が中心であり、しばしば無声映画が上映されて弁士が活躍した。1941年以降は映画が主となり、小中学生は許可映画や引率映画があった。テレビの普及が理由で1968年に閉館し、1975年に取り壊された。妻木劇場の前の路地には、飲食店・ゲーム屋・駄菓子屋など10軒ほどがあった。昭和30年代が全盛期であり、妻木劇場と同じような歩みで消えていった。((妻木小PTAやぶさめっ子委員会『ふるさと妻木ふれあいマップ』土岐市立妻木小学校PTA 妻木町青少年育成会 土岐市立妻木小学校、p.148、p.151))

*** 土岐津大映劇場/大映劇場/トキツ東映/トキツ東映劇場/トキツ大映劇場
所在地 : 岐阜県土岐郡泉町(1950年)、岐阜県土岐郡土岐津町(1953年・1955年)、岐阜県土岐市泉町542(1958年)、岐阜県土岐市泉町久尻(1960年)、岐阜県土岐市泉町542(1963年)、岐阜県土岐市泉町久尻542(1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1946年10月
閉館年 : 1970年6月
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(土岐市中心部)>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.35875520399925%2C137.18247491972716&z=17]]
『全国映画館総覧1955』によると1946年10月開館。1950年の映画館名簿では「土岐津大映劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「大映劇場」。1960年の映画館名簿では「トキツ東映」。1960年の映画館名簿では経営者が伊藤三三、支配人が青山貞一、木造2階、定員600、邦画を上映。1963年の映画館名簿では「トキワ東映」。1966年の映画館名簿では「トキツ東映劇場」。1969年の映画館名簿では「トキツ大映劇場」。1969年の住宅地図では「土岐津大映」。1976年の住宅地図では「トキツ大映(休館)」。跡地は土岐駅前郵便局南南西100mにある「株式会社アヅマ管理月極駐車場」西側。

1969年末から1970年5月までに、多治見税務署管内に11館あった映画館のうち3館が閉館し、近いうちにはさらに1館が閉館する。多治見・土岐・瑞浪・笠原・可児のエリアには1966年から11館の映画館があったが、1969年11月に笠原町の「笠原劇場」が閉館し、1970年2月に多治見市の「多治見日活」が閉館し、1970年4月に多治見市の「榎元座」が閉館した。6月には土岐市の「トキツ大映」も閉館する予定。((「時代の変化見るよう 多治見税務署管内11館が7館に 映画館の廃館続く」『東濃新報』1970年5月25日、p.1))

*** 駄知陶宝会館/陶宝会館
所在地 : 岐阜県土岐市駄知町小川町(1960年)、岐阜県土岐市駄知1868-1(1966年・1969年・1973年)、岐阜県土岐市駄知町小川町(1976年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1977年
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(土岐市駄知町)>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.32701079554916%2C137.2266151235998&z=17]]
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「陶宝会館」。1966年・1969年の映画館名簿では「駄知陶宝会館」。1969年の住宅地図では「陶宝会館」。1976年・1977年の映画館名簿では「陶宝会館」。1978年・1980年の映画館名簿には掲載されていない。土岐市最後の映画館。跡地は「駄知陶磁器工業協同組合」の50m北東にある建物。旧駄知町に2館あった映画館のうちの1館。旧駄知町には東濃鉄道駄知線(1972年休止・1974年廃線)が通じていた。

*** イオンシネマ土岐(仮称)
所在地 : 岐阜県土岐市
開館年 : 2022年以降
閉館年 : 開館前
2014年8月26日、土岐市はイオンモールが同市に出店する多機能複合商業施設の店舗計画の概要を発表した。東濃地域唯一となる映画館やスポーツクラブなども入る予定。岐阜県内でイオンモールは大垣市と各務原市の2店があるが、敷地面積では既存2店を上回って県内最大となる見込み。2019年に開業予定。同市の土岐口財産区が所有する中山鉱山(同市土岐津町土岐口)の跡地と周辺地区の利活用事業で、イオンモールが事業予定者として正式に選定された。私設の敷地面積は約20万平方メートル。((「映画館や総合スーパー 土岐市イオンモール店舗計画 19年度の開業を目指す」『岐阜新聞』、2014年8月27日))

岐阜県土岐市土岐津町にイオンモール土岐の建設を進めているイオンモールは、投資計画の見直しや建築資材の高騰などが理由で、開業を2019年度から2021年度以降に変更した。延期や撤退ではないことを強調している。イオンモール肺音を中核とする商業施設であり、岐阜県には大垣市と各務原市にある。((「イオン土岐 開業遅れ 予定19年度から21年以降に」『中日新聞』2018年4月28日))

** 瑞浪市
*** 寿座/釜戸劇場
所在地 : 岐阜県瑞浪市釜戸町(1953年・1955年)、岐阜県瑞浪市釜戸3636-1(1958年)、岐阜県瑞浪市釜戸(1960年)、岐阜県瑞浪市釜戸町(1963年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧1955』には開館年が記載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「寿座」。1955年の経営者は紀国屋、支配人は永島喜助、600席。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「釜戸劇場」。1962年の瑞浪市全商工住宅案内図帳では「釜戸劇場」。1964年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は土岐川に架かる大島橋南詰の空き地。最寄駅はJR中央本線釜戸駅。

1955年頃の瑞浪市釜戸町にあった映画館「釜戸館」の写真あり。洋風のファサードが見える。((瑞浪市民図書館『なつかしの写真集 瑞浪市史料集 第3号』瑞浪市民図書館、1996年、p.171))

1955年頃の瑞浪市釜戸町にあった映画館「釜戸館」の写真あり。洋風のファサードが見える。1955年公開の松竹作品『あっぱれ腰抜け珍道中』の看板が見える。戦後、土岐川を南に渡った大島橋のたもとに映画専門館「寿座」が開館した。嵐寛寿郎主演の『鞍馬天狗』や東千代之助主演の時代劇などを上映した。2009年現在の跡地は空き地となっている。跡地の写真あり。((安藤貞男(監修)『多治見・土岐・瑞浪の今昔』郷土出版社、2009年、p.172))

*** 常盤座/瑞浪映画劇場/瑞浪東映劇場
所在地 : 岐阜県土岐郡瑞浪町(1950年・1953年)、岐阜県瑞浪市瑞浪町(1955年)、岐阜県瑞浪町寺河戸1132(1958年)、岐阜県瑞浪市寺河戸町(1960年)、岐阜県瑞浪町寺河戸1132(1963年・1964年)
開館年 : 1907年、1943年11月
閉館年 : 1965年
『全国映画館総覧1955』によると1943年11月開館。1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「瑞浪映画劇場」。1955年の映画館名簿では経営者・支配人ともに永島久吉、木造2階、定員485、混合を上映。1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「瑞浪東映劇場」。1962年の瑞浪市全商工住宅案内図帳では「瑞浪映画劇場」。1963年の映画館名簿では経営者が永島産業、支配人が永島久吉、木造2階冷暖房付、定員909、東映を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1949年の瑞浪市にあった映画館「瑞浪映画劇場」の写真あり。「瑞浪映画劇場」の文字、「松竹東宝セントラル映画封切場」の文字が見える。明治末期開館の「常磐座」(盤ではなく磐)が前身であり、1949年に改装して瑞浪映画劇場となった。後に「瑞浪東映」に改称し、1965年まで営業した。瑞浪市街地には瑞浪映画劇場のほかに、「東濃会館」、「オレンヂ座」、「ブルー劇場」などの映画館があったが、1977年にはすべて閉館した。瑞浪映画劇場の跡地は駐車場となり、2009年現在はときわ交流センターが建っている。((安藤貞男(監修)『多治見・土岐・瑞浪の今昔』郷土出版社、2009年、p.172))

1955年頃の瑞浪市寺河戸町にあった「常盤座」における日本舞踊の公演の写真あり。常盤座は1907年に建てられた。1948年には「瑞浪映画劇場」に改称し、その後「瑞浪東映」に改称した。1965年に閉館した。((『写真アルバム 東濃の昭和』樹林舎、2018年、p.87))

1951年の土岐郡瑞浪町(現・瑞浪市寺河戸町)にあった「瑞浪映画劇場」の写真あり。1951年4月1日にここで瑞浪土岐町合併式典が行われた際の写真であり、中部日本新聞社の車が停まっている。「東宝新東宝セントラル映画封切り場」の文字が見える。『続 佐々木小次郎』の看板が見える。明治時代に開館した「常盤座」が前身。1948年に改称して「瑞浪映画劇場」に改称し、その後「瑞浪東映劇場」に改称した。((『写真アルバム 東濃の昭和』樹林舎、2018年、p.113))

1961年4月5日に瑞浪市の映画館「瑞浪東映劇場」で開催された公民館合唱団演奏会の写真あり。「TONO KAIKAN」の文字が見える。((瑞浪市民図書館『なつかしの写真集 瑞浪市史料集 第3号』瑞浪市民図書館、1996年、p.25))

*** 寿座/陶映画劇場
所在地 : 岐阜県瑞浪市陶町(1955年)、岐阜県瑞浪市陶町401(1960年・1963年)、岐阜県瑞浪市陶町猿爪401(1966年)
開館年 : 1953年以後1955年以前
閉館年 : 1966年以後1969年以前
『全国映画館総覧1955』には開館年が記載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「寿座」。1955年の映画館名簿では経営者が竹内喜七、支配人は記載なし、定員560、混合を上映。1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「陶映画劇場」。1962年の瑞浪市全商工住宅案内図帳では「陶映画劇場」。1969年のゼンリン住宅地図では「陶映画劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は本町発展会の「新星商店」西側の路地を1軒分入った西側の民家。旧陶町(すえちょう)唯一の映画館。

*** 東濃会館
所在地 : 岐阜県土岐郡瑞浪町(1950年・1953年)、岐阜県瑞浪市瑞浪町(1955年)、岐阜県瑞浪市寺河戸町1096(1958年)、岐阜県瑞浪市寺河戸町(1960年)、岐阜県瑞浪市寺河戸町1096(1963年・1966年)
開館年 : 1946年10月
閉館年 : 1966年以後1969年以前
『全国映画館総覧1955』によると1946年10月開館。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「東濃劇場」。1962年の瑞浪市全商工住宅案内図帳では「東濃会館 映画劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の住宅地図では跡地に「主婦の店瑞浪店」。

1946年8月24日の『朝日新聞』岐阜版朝刊には「東濃会館」が開館するという記事が掲載されている。現物は未確認。((「東濃会館建築 土岐郡瑞浪町に」『朝日新聞』岐阜版、1946年8月24日朝刊、p.2))

1964年頃の瑞浪市の竜門通りにあった映画館「東濃会館」の写真あり。「TONO KAIKAN」の文字が見える。((瑞浪市民図書館『なつかしの写真集 瑞浪市史料集 第3号』瑞浪市民図書館、1996年、p.25))

1966年の瑞浪市寺河戸町にあった「東濃会館」の写真あり。「TONO KAIKAN」の文字が見える。1946年に開館した。竜門通りの東詰にあり、手前にはコリントゲームやスマートボールを置く遊技場があった。((『写真アルバム 東濃の昭和』樹林舎、2018年、p.165))

*** 瑞浪ブルー劇場/ブルー劇場
所在地 : 岐阜県瑞浪市寺河戸町1131(1966年)、岐阜県瑞浪市寺河戸町1133(1969年・1973年)、岐阜県瑞浪市寺河戸町1132(1976年)
開館年 : 1965年
閉館年 : 1977年
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(瑞浪市中心部)>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.36844923534088%2C137.25277091207727&z=17]]
1962年の瑞浪市全商工住宅案内図帳には掲載されていない。1966年・1967年の映画館名簿には掲載されていない。1968年・1969年・1973年の映画館名簿では「瑞浪ブルー劇場」。1968年の映画館名簿では経営社が永島産業、支配人が永島喜一郎、鉄筋1階冷暖房付、200席。1969年のゼンリン住宅地図では「ブルー劇場」。1974年の航空住宅地図帳では「ユニー瑞浪店 2階ブルー劇場 3階麻雀東」。1976年の住宅地図では「ブルー劇場」であり西隣の「東海ユニー瑞浪店」とは別施設として描かれている。1976年・1978年の映画館名簿では「ブルー劇場」。1983年の住宅地図では跡地に「駐車場」。瑞浪市最後の映画館。跡地は「瑞浪市地域交流センターときわ」。

1968年の瑞浪市寺河戸町にあった映画館「ブルー劇場」の写真あり。「洋画専門館ブルー劇場」の文字が見える。『拳銃無頼』と『猿の惑星』の看板が見える。1977年の「ブルー劇場」の写真あり。『トラック野郎』やナイトショウ『痴漢連絡船』の看板が見える。ブルー劇場は1965年に開館し、主に洋画を上映した。「オレンジ座」と同じ1977年に閉館した。((『写真アルバム 東濃の昭和』樹林舎、2018年、p.167))

*** 瑞浪オレンジ座/オレンジ座
所在地 : 岐阜県瑞浪市寺河戸町1132(1958年)、岐阜県瑞浪市寺河戸町(1960年)、岐阜県瑞浪市寺河戸町1131(1963年・1966年)、岐阜県瑞浪市寺河戸町1132(1969年・1973年・1976年)
開館年 : 1957年
閉館年 : 1977年
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(瑞浪市中心部)>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.36844923534088%2C137.25277091207727&z=17]]
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「オレンジ座」。1962年の瑞浪市全商工住宅案内図帳では「オレンジ座」。1963年の映画館名簿では経営者が永島産業、支配人が永島久吉、木造1階冷暖房付、定員400、松竹・東宝・洋画を上映。1966年の映画館名簿では経営会社が永島産業、木造3階冷暖房付、定員320、邦画を上映。経営会社は恵那郡明智町の明智オレンジ座と同一。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「瑞浪オレンジ座」。1969年のゼンリン住宅地図では「オレンヂ座」。1974年の航空住宅地図帳では「オレンジ座」。1976年の住宅地図では「オレンジ座」。1976年・1978年の映画館名簿では「オレンジ座」。1983年の住宅地図では跡地に「駐車場」。瑞浪市最後の映画館。跡地は「瑞浪市地域交流センターときわ」。

1965年頃の瑞浪市にあった映画館「オレンジ座」の写真あり。((瑞浪市民図書館『なつかしの写真集 瑞浪市史料集 第3号』瑞浪市民図書館、1996年、p.25))

1963年頃の瑞浪市にあった映画ポスターを見る子どもたちの写真あり。映画全盛期の国鉄瑞浪駅前には、「瑞浪東映」「オレンジ座」「ブルー劇場」「東濃会館」があった。1977年までにすべて閉館した。((『写真アルバム 東濃の昭和』樹林舎、2018年、p.86))

1962年の瑞浪市寺河戸町にあった「オレンジ座」の写真あり。「完全冷房」の文字が見える。お盆特別番組『愛染かつら』の看板が見える。1957年に開館した。1977年に閉館した。((『写真アルバム 東濃の昭和』樹林舎、2018年、p.166))

** 恵那市
*** 若宮座
所在地 : 岐阜県恵那郡中野方村
開館年 : 明治時代
閉館年 : 戦後
中野方にあった「若宮座」の昭和初期の写真あり。中野方には「曙座」と「若宮座」という常設の劇場がふたつあり、地芝居が盛んにおこなわれた。明治から昭和の初期にかけて、「若宮座」では村人が競って劇を熱演した。太平洋戦争の激化にともなって軍需工場の倉庫となったが、戦後は劇団や地芝居の上演や映画の上映で利用された。((吉田三郎・宮崎光雄(監修)『保存版 ふるさと中津川・恵那』郷土出版社、2010年、p.160))

*** 万歳座/万才座
所在地 : 岐阜県恵那郡大井町(1953年)、岐阜県恵那市大井町(1955年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1955年以後1958年以前
『全国映画館総覧1955』には開館年が記載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「万歳座」。1955年の映画館名簿では「万才座」。1955年の映画館名簿では経営者が原道次郎、木造2階、定員700。1958年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 常盤座
所在地 : 岐阜県恵那郡明知町(1953年)、岐阜県恵那郡明智町(1955年・1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1919年
閉館年 : 1963年頃(映画館名簿から消える)、1974年11月24日(最終興行)
『全国映画館総覧1955』には開館年が記載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「常盤座」。1960年の映画館名簿では経営者が近藤新一、支配人が水野三三、木造1階、定員855、大映・新東宝・洋画を上映。1964年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「尾崎医院」東の6軒分の民家とその中央部の道路。

明智町の娯楽施設としては、1919年(大正8年)に芝居小屋の「常盤座」が開館し、近隣の村々から客を集めた。戦後の1954年(昭和29年)には「明知映画劇場」が開館し、また1955年(昭和30年)初頭には「ハッピー劇場」が開館した。((『明智町誌』明智町、1960年、p.254))

明智町には劇場・芝居小屋として「常盤座」があった。1919年、恵南6ヶ町村民の有志から株式を募り、名古屋市の「明治座」を移築して開館した。歌舞伎・演芸・浪曲・村芝居・演説会などが行われたが、1974年9月の株主総会で解体が決定した。1974年11月24日に明智町歌舞伎保存会が主催して行われた「常盤座最終記念歌舞伎大会」の興行で幕を閉じた。瑞浪市日吉に移築された。((あけち百年編纂委員会『あけち百年 明智町町制施行百周年記念写真集』明智町、1990年、pp.84-85))

1975年3月には明智町にあった「常盤座」が取り壊された。((『明智町誌 補遺編』明智町、1975年、p.15、p.274))

常盤座跡地からすぐの場所にある喫茶天久の常連客の男性(70代?)と店員の女性(70代?)に聞くと、「明智町には常盤座、明映(めいえい)、ハッピーの3軒の映画館があった。常磐座はクリーニング店の近くにあった。建物は瑞浪市に移築されている。明映は南北街道と中馬街道が交わる辻の南東角にあった。ハッピーは明智文化センターの南西、川の西側付近にあった。(常盤座の近くに明智オレンジ座という映画館がなかったか聞くと)オレンジ座という映画館は知らない」

*** ハッピー劇場
所在地 : 岐阜県恵那郡明智町457(1958年)、岐阜県恵那郡明智町(1960年・1963年)
開館年 : 1955年初頭
閉館年 : 1963年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「ハッピー劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が山本隆之助、支配人が山本英行、木造2階、定員380、大映・日活・洋画を上映。1964年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。

明智町の娯楽施設としては、1919年(大正8年)に芝居小屋の「常盤座」が開館し、近隣の村々から客を集めた。戦後の1954年(昭和29年)には「明知映画劇場」が開館し、また1955年(昭和30年)初頭には「ハッピー劇場」が開館した。((『明智町誌』明智町、1960年、p.254))

*** 岩村劇場
所在地 : 岐阜県恵那郡岩村町(1958年・1963年)
開館年 : 1934年以前
閉館年 : 1963年頃
1950年・1953年・1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「岩村劇場」。1959年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「岩村劇場」。1964年・1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「グループホームいわむらの憩」東側の道路上。最寄駅は明知鉄道岩村駅。

往時の柳町通りの地図があり、「岩村劇場」も掲載されている。昭和初期は演劇や映画の盛んな時代であり、岩村町の柳町にはカフェー・ビリヤード・料亭・小料理屋・居酒屋・うどん屋・芸者置屋・西洋料理店などがあった。柳町通りの正面には岩村劇場があり、映画・演劇・歌舞伎などが行われた。興行日には遠山村(後の山岡町)をはじめとする近隣自治体からも観客を集め、若者らは「岩村と言わずに柳町に行こう」といったものである。((歴史掘りおこし委員会『歴史掘りおこし読本』城下町ホットいわむら、2008年、p.132))((いわむら郷土読本編集委員会『岩村郷土読本 総括編』いわむら郷土読本編集委員会、2015年、p.79))

1940年代前半の恵那郡岩村町柳町にあった「岩邑劇場」(岩村ではなく岩邑)における素人歌舞伎の写真あり。歌舞伎や演劇の上演のほかに、映画の上映も行われた。周辺にはカフェー、歌舞伎座、玉突き場などの娯楽施設があった。((『写真アルバム 東濃の昭和』樹林舎、2018年、p.221))

1937年(昭和12年)4月14日には、前年に文楽座から独立した劇団の新義座が岩村町の「岩村劇場」で公演を行っている。(([[新義座>https://www.kagayakerugidayunohoshi.com/006o.html]] 大枝山人覚え書き))

1934年(昭和9年)に行われた「岩邑劇場」(岩村ではなく岩邑)の祝賀会の写真あり。岩邑劇場は恵那郡岩村町柳町にあった。当時、周辺には歌舞伎座や玉突場などがあり、娯楽施設が建ち並んでいた。((吉田三郎・宮崎光雄(監修)『保存版 ふるさと中津川・恵那』郷土出版社、2010年、p.162))

2021年10月にグループホームいわむらの憩付近を歩いていた女性(60〜70代)に尋ねたところ、「私が1974年に岩村町にやってきた際、グループホームの場所には『水半』という旅館があった。その前に映画館があったかどうかは知らない」
*** 山岡座/鶴岡座
所在地 : 岐阜県恵那郡鶴岡村(1953年・1955年)、岐阜県恵那郡山岡町鶴岡(1958年・1960年・1963年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧1955』には開館年が記載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「鶴岡座」。1955年・1958年の映画館名簿では「鶴7岡座」。1960年の映画館名簿では「山岡座」。1963年の映画館名簿では「鶴岡座」。1964年の東濃版住宅案内図では「山岡劇場」。1964年・1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。1967年のゼンリン住宅地図では「山岡劇場」。岐阜県道33号下手向交差点北東170mに映画館の建物が現存。最寄駅は明知鉄道明知線山岡駅。

*** 上村劇場
所在地 : 岐阜県恵那郡上矢作町(1964年)
開館年 : 1963年頃
閉館年 : 1964年頃
1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年の映画館名簿では「上村劇場」。1964年の映画館名簿では経営者が小木曽千秋、支配人は近藤遠一、木造2階建、定員500。1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 明智劇場/明智映画劇場
所在地 : 岐阜県恵那郡明智町(1958年・1960年・1963年・1964年)
開館年 : 1954年
閉館年 : 1964年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「明智劇場」。1960年の映画館名簿では経営者・支配人ともに佐々木善平、木造平屋建、定員350、邦画を上映。1963年の映画館名簿では「明智映画劇場」。1964年の映画館名簿では「明智劇場」。1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。

明智町の娯楽施設としては、1919年(大正8年)に芝居小屋の「常盤座」が開館し、近隣の村々から客を集めた。戦後の1954年(昭和29年)には「明知映画劇場」が開館し、また1955年(昭和30年)初頭には「ハッピー劇場」が開館した。((『明智町誌』明智町、1960年、p.254))

*** オレンジ座/明智オレンジ座
所在地 : 岐阜県恵那郡明智町(1964年・1965年)、岐阜県恵那郡明智町876-2(1966年・1967年・1968年)
開館年 : 1963年頃
閉館年 : 1968年頃
1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年・1965年の映画館名簿では「オレンジ座」。1964年の東濃版住宅案内図では「明智オレンジ座」。1964年の映画館名簿では経営者・支配人ともに永島久吉、木造2階建、650席。1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「明智オレンジ座」。1966年の映画館名簿では木造2階暖房付、定員280、経営者は永島産業、支配人は時村博幸、邦画を上映。経営会社は瑞浪市の瑞浪オレンジ座と同一。1967年・1968年・1970年のゼンリン住宅地図では「明智オレンジ座」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「尾崎医院」東で「大正時代館」南の「アイセイ薬局明智店」。最寄駅は明知鉄道明智駅。

*** 三万石劇場/三万石会館/恵那三万石会館
所在地 : 岐阜県恵那郡岩村町(1959年・1960年・1961年・1962年・1964年・1965年)、岐阜県恵那郡岩村町269(1966年・1967年・1968年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1968年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年の映画館名簿では「三万石劇場」。1960年の映画館名簿では「三万石会館」。1961年の映画館名簿では「三万石劇場」。1962年の映画館名簿では「三万石会館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年の東濃版住宅案内図では「三万石会館」。1964年・1965年の映画館名簿では「三万石会館」。1966年・1967年・1968年の映画館名簿では「恵那三万石会館」。1967年・1968年のゼンリン住宅地図では「三万石会館」。1968年の映画館名簿では経営者が岩村土地興業、支配人が岩出善次、木造1階、定員200、邦画を上映。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1970年のゼンリン住宅地図では跡地に「日通ソーコ」。跡地は「岩村郵便局」南30mにある公園「本町ポケットパーク」。最寄駅は明知鉄道岩村駅。

岩村町観光協会の方に聞くと、「岩村町には三万石会館と岩村劇場のふたつがあった。三万石会館は映画館であり、岩村劇場は昔ながらの劇場だった。桝形から柳町を南に向かうと、突き当りに岩村劇場があった。現在は老人ホームがある辺りである。岩村劇場は三万石会館よりも早く閉館した。三万石会館には小学生の時に入ったことがある。閉館後の建物は家具屋の倉庫となり、現在は本町ポケットパークとなっている。岩村郵便局の角を南に曲がった先である。昔の岩村郵便局の建物はモルタル造であり、現在の岩村郵便局の1軒南に残っている」

*** オリオン座
所在地 : 岐阜県恵那市大井町(1955年・1958年・1960年・1963年)、岐阜県恵那市大井町271(1964年)
開館年 : 1951年5月
閉館年 : 1967年頃
『全国映画館総覧1955』によると1951年5月開館。1953年の映画館名簿に掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「オリオン座」。1955年の映画館名簿では経営者が林高嶺、支配人は中神市三、木造1階、定員300、上映作品は混合。1962年の恵那市全商工住宅案内図帳では「オリオン座」。1964年の東濃版住宅案内図では「オリオン座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1968年のゼンリン住宅地図では「オリオン座」。1970年の住宅地図では「主婦の店バロー」。跡地は文具店「松林堂」などが入る「丸大ビル」とその東側の駐車場。最寄駅はJR中央本線恵那駅。

恵那市には2館の映画館があった。『夜明け前』(1953年公開)の映画看板がかかるオリオン座の写真あり。((恵那市企画財政課『恵那市30年の歩み』恵那市、1984年、p.11))

1951年(昭和26年)には恵那市大井町中央通りに映画専門館のオリオン座が開館。通りよりやや奥まった位置にあった。ファサード上部に「ORION」のロゴが入り、その下に大きく「オリオン座」の看板が掲げられた。『夜明け前』の映画看板がかかる写真あり。大井町中央通りの商店街近代化事業によって周囲は様変わりしたが、オリオン座付近にあった松林堂や清進堂は新築の建物で2006年時点でも営業を続けている。((吉田三郎・安藤利道(監修)『中津川・恵那の今昔』郷土出版社、2006年、p.105))

1953年の恵那郡大井町にあった専門館「オリオン座」の写真あり。「オリオン座」と「ORION」の文字が見える。島崎藤村原作の『夜明け前』と『黒豹』の2本立てである。1951年、大井町の中央通りに開館した。ファサードは木造モルタル造。1953年時点では入場料は55円だった。((『写真アルバム 東濃の昭和』樹林舎、2018年、p.177))

1951年(昭和26年)に中央通り1の通りの奥に映画館のオリオン座が開館した。『夜明け前』(1953年公開)の映画看板がかかるオリオン座の写真あり。p.712には「1949年頃より1967年頃まで映画館」とある。((恵那市史編纂委員会『恵那市史 通史編 第3巻(1)上 近現代(政治経済)』恵那市、1993年、p.709))

*** 大栄座/大井劇場
所在地 : 岐阜県恵那郡大井町(1950年・1953年)、岐阜県恵那市大井町(1955年)、岐阜県恵那市大井町224-3(1958年)、岐阜県恵那市大井町(1960年・1963年)、岐阜県恵那市大井町224-3(1966年・1969年)
開館年 : 1909年
閉館年 : 1971年12月
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(恵那市中心部)>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.452896423430545%2C137.40806213775454&z=17]]
1950年の映画館名簿では「大栄座」。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「大井劇場」。1962年の恵那市全商工住宅案内図帳では「大井劇場」。1964年の東濃版住宅案内図では「大井東映」。1968年・1970年のゼンリン住宅地図では「大井東映」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。恵那市最後の映画館。跡地は「大井プラザ名店街」。最寄駅はJR中央本線恵那駅。

1971年12月15日の『岐阜新聞』朝刊には「大井劇場」が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。((「記事名不明」『岐阜新聞』1971年12月15日朝刊、p.13))

1971年12月21日の『朝日新聞』岐阜版朝刊には「大井劇場」が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。((「記事名不明」『朝日新聞』岐阜版、1971年12月21日朝刊、p.13))

幕末から明治にかけて、2006年現在の恵那市立第一大井小学校の校地には「大栄座」という名前の芝居小屋があった。1909年には現在地に新築移転して「大井劇場」(通称大栄座)となり、戦前は歌舞伎や講演会にも使われた。1936年11月には大同電力笠置発電所の竣工披露式の会場となっている。戦後は映画上映がメインとなった。1971年に閉館。建物は改築され、1階は喫茶店などの入る大井プラザ名店街に、2階はボーリング場となったが、2006年時点で2階は家具展示場である。((吉田三郎・安藤利道(監修)『中津川・恵那の今昔』郷土出版社、2006年、p.108))

1960年頃の恵那郡大井町にあった映画館「大井東映」の写真あり。「大井東映」の文字が見える。『水戸黄門』と『お姐ちゃんに任しとキ!』の看板が見える。当時の大井町には2館の映画館があり、大井東映は2018年現在の大井プラザ名店街の場所にあった。戦前に開館し、主に東映の作品を上映して1967年頃まで営業していた。大井東映の裏には銭湯もあった。((『写真アルバム 東濃の昭和』樹林舎、2018年、p.176))

1990年現在の旭町には「大栄座」(大井劇場)があった。通りの突き当りが大栄座であり、写真の手前で銀座通りと交差している。((吉田三郎・安藤利道(監修)『目で見る 中津川・恵那の100年』岐阜郷土出版社、1990年、p.82))

** 中津川市
*** 中津川市の映画・映画館
中津川市ではこのほど、「私の映画館」という映画鑑賞会が誕生した。会費は大人4000円、高校生3200円。年間最低4回の上映を予定しており、会員同士の交流会なども開催する。このほど開催された第1回上映会では『歌っているのはだれ?』が上映された。((「映画上映わが街で 中津川市で会発足」『岐阜日日新聞』1987年6月19日p.20、1987年6月20日))

1957年(昭和32年)公開の映画『青い山脈』は松林宗恵が監督を務めた。中津川市で3つの映画館を経営していた篠田初太郎が東宝に対してロケ地としての使用を働きかけ、国鉄中央本線で視察に訪れた松林監督が恵那山を背後にした街を見て「イメージにぴったり」と即決した。撮影は1957年(昭和32年)8月に行われている。雪村いづみ、久保明、司葉子、宝田明、淡路恵子、志村喬、草笛光子などが出演した。((「ぎふロケ地巡り 恵那山に抱かれた街 舞台 青い山脈」『岐阜新聞』、2009年9月27日))

*** 中央座
所在地 : 岐阜県恵那郡中津町
開館年 : 1911年-1912年頃
閉館年 : 1932年7月
大正初期の中央座の写真あり。中津川の下町にあった。坂下・馬籠・福岡辺りからも芝居見物に人が訪れたという。建物は1932年(昭和7年)7月に全焼した。((吉田三郎・宮崎光雄(監修)『保存版 ふるさと中津川・恵那』郷土出版社、2010年、p.161))

1911年(明治44年)6月頃、下町の水田の中に建築中の芝居小屋「中央座」の写真あり。中津町を中心に近隣地域唯一の娯楽施設だったが、21年後に焼失した。((東山道彦(監修)『ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 中津川』国書刊行会、1979年、p.80))

中津川の下町にある間酒造店から西へ数10歩、左へ曲ると「中央座」があった。遠く坂下・馬籠・福岡あたりからも、村民が芝居見物に来たという。建物は1932年(昭和7年)7月に全焼した。大正初期の写真あり。((東山道彦(監修)『ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 中津川』国書刊行会、1979年、p.80))

*** 寿座
所在地 : 岐阜県恵那郡阿木村
開館年 : 1892年
閉館年 : 1956年
映画館ではなく芝居小屋。1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿には掲載されていない。

1891年(明治24年)、阿木村川上の「竹の腰の観音堂」横に舞台を建設する工事を開始し、1892年(明治25年)10月に萱葺きの舞台「寿座」が完成した。1928年(昭和3年)の歌舞伎の上演中の写真あり。1956年(昭和31年)の公演を最後に閉館した。((『中津川市史 下巻 現代編2』中津川市、2012年、pp.2186-2187))

1956年(昭和31年)に「寿座」で行われた最後の歌舞伎上演の写真あり。1891年(明治24年)、寄付金を基に阿木川上の竹の腰観音堂続きの土地に舞台の新築が始まり、翌1892年(明治25年)に茅葺きの舞台「寿座」が完成した。1956年(昭和31年)の公演を最後に閉館した。((吉田三郎・宮崎光雄(監修)『保存版 ふるさと中津川・恵那』郷土出版社、2010年、p.163))

*** 安岐座/阿木公会堂
所在地 : 岐阜県中津川市阿木(1964年・1965年)
開館年 : 1860年
閉館年 : 昭和30年代?
1960年・1961年・1962年・1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年・1965年の映画館名簿では「阿木劇場」。1964年の映画館名簿では経営者・支配人ともに森井政次郎、木造2階、邦画を上映。1965年の映画館名簿では経営者・支配人ともに森井政次郎、木造2階、邦画・洋画を上映。1966年・1967年・1968年・1969年の映画館名簿には掲載されていない。1967年・1972年の住宅地図では「公会堂」。跡地は「中津川市立阿木保育園」。最寄駅は明知鉄道明知線阿木駅。

1859年(安政6年)に取り壊した見沢舞台の跡地に、1860年(万延元年)3月に安岐座が完成。1914年(大正3年)には改修工事が行われ、板葺きを瓦葺きに、天井を張り替え、名称を安岐座から阿木公会堂に改称した。戦時中の1944年(昭和19年)には名古屋の陸軍造兵廠が阿木村に疎開し、阿木公会堂の床を取り除いて兵器の建設機械を設置したが、翌年には終戦を迎えたためあまり用をなさずに運び出された。1946年(昭和21年)2月には公会堂として復興し、1950年(昭和25年)には劇場化されて映画も上映されるようになった。テレビが普及すると次第に使われなくなり、やがて貸し倉庫となった。阿木公会堂は1982年(昭和57年)に取り壊され、跡地には1983年(昭和58年)3月に阿木保育園が建設された。((『中津川市史 下巻 現代編2』中津川市、2012年、p.2186))

1933年(昭和8年)には安岐座にて、国鉄明知線の開通を記念した祝宴の写真あり。明治時代中期には恵那郡各地で舞台の改築や新築が行われ、阿木村では安岐座が新築された。((吉田三郎・宮崎光雄(監修)『保存版 ふるさと中津川・恵那』郷土出版社、2010年、p.162))

*** ロビン映画劇場
所在地 : 岐阜県恵那郡福岡村(1960年)
開館年 : 1957年4月
閉館年 : 1961年9月
1955年・1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「ロビン映画劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

恵那郡福岡町唯一の映画館は「ロビン劇場」である。1957年(昭和32年)4月、深谷恵治によって野尻地内に開館した。開館当日の「ロビン映画劇場」の写真あり。花輪が見える。開館日は客席160を上回る観客でにぎわった。テレビの普及などが理由で、1961年(昭和36年)9月に閉館した。((福岡町文化協会『写真でみる福岡町の歴史』福岡町文化協会、1993年、p.133、p.139))

1957年(昭和32年)の開館当日の「ロビン映画劇場」の写真あり。恵那郡福岡町野尻にあった映画館。開館を待ちきれない人でにぎわった。((吉田三郎・宮崎光雄(監修)『保存版 ふるさと中津川・恵那』郷土出版社、2010年、p.164))

*** 蛭川村公民館
所在地 : 岐阜県恵那郡蛭川村(1960年)
開館年 : 1901年(竣工)、1949年(移築)
閉館年 : 1960年頃
Wikipedia : [[蛭子座>>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9B%AD%E5%AD%90%E5%BA%A7]]
1958年・1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「蛭川村公民館」。1960年の映画館名簿では木造2階、定員1200。1961年・1962年・1963年の映画館名簿には掲載されていない。芝居小屋「蛭子座」として現存。中津川市指定有形民俗文化財。

*** 坂下劇場
所在地 : 岐阜県恵那郡坂下町(1960年)、岐阜県恵那郡坂下町747(1963年)、岐阜県恵那郡坂下町(1964年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1964年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「坂下劇場」。1964年の映画館名簿では経営者が篠田初太郎、支配人が林孝、木造2階、定員448、邦画を上映。1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 明治座
所在地 : 岐阜県恵那郡加子母村(1958年・1960年・1962年・1963年)
開館年 : 1894年、1955年以後1958年以前
閉館年 : 1963年頃
Wikipedia : [[かしも明治座>>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8B%E3%81%97%E3%82%82%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%BA%A7]]
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1962年・1963年の映画館名簿では「明治座」。1962年の映画館名簿では経営者・支配人ともに安江巳郎、木造2階、定員800。1964年・1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。建物は芝居小屋「かしも明治座」として現存。岐阜県指定有形民俗文化財。

1995年に小学館から刊行された『全国「芝居小屋」巡り』には、岐阜県加子母村の「明治座」が掲載されている。((サライ編集部・明石和美『全国「芝居小屋」巡り』小学館、1995年))

*** 落合公会堂
所在地 : 岐阜県中津川市落合949(1963年)、岐阜県中津川市落合(1964年)
開館年 : 1962年頃
閉館年 : 1964年頃
1960年・1961年・1962年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1964年の映画館名簿では「落合公会堂」。1964年の映画館名簿では経営者が伊藤義助、支配人が上田卓郎、木造2階、定員300、邦画・洋画を上映。1965年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 豊国座
所在地 : 岐阜県中津川市苗木(1963年)
開館年 : 1895年以
閉館年 : 1963年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の中津川市全居住者明細図帳では「豊国座」。1963年の映画館名簿では「豊国座」。1964年の東濃版住宅案内図では跡地に「恵北紙工」。1964年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。実質的には映画館ではなく歌舞伎芝居小屋。跡地は「V・drug 苗木店」南東80mにある空き地。最寄駅はJR中央本線中津川駅。

*** 大山座/大山劇場
所在地 : 岐阜県恵那郡付知町(1953年・1955年)、岐阜県恵那郡付知町大門町(1958年)、岐阜県恵那郡付知町(1960年)、岐阜県恵那郡付知町大門町(1963年)
開館年 : 1908年1月
閉館年 : 1963年以後1966年以前
『全国映画館総覧1955』には開館年が記載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「大山劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1855年(安政2年)3月には庄屋の田口慶郷が万人講を募り、護山神社の境内に籠所一宇を建立して、祭礼時には舞台として利用していた。1879年(明治12年)頃、倉屋神社の裏に移築されて「森本座」に改称された。1908年(明治41年)1月、三区大門町に移築されて「大山座」に改称された。戦後には「大山劇場」として1974年現在に至っている。大山劇場の写真あり。上部が半円形の特徴的なファサードが見える。((付知町『付知町史 通史編史料編』付知町、1974年))

*** 松竹座/中津川東映劇場
所在地 : 岐阜県中津川市中津川町(1955年)、岐阜県中津川市(1958年)、岐阜県中津川市東太田町(1960年・1963年)
開館年 : 1937年
閉館年 : 1963年頃? 1968年以後190年以前?
『全国映画館総覧1955』によると1937年開館。1955年の映画館名簿では「松竹座」。1955年の映画館名簿では経営者が篠田興行社、支配人が篠田初太郎、木造2階、定員513、映写機がローヤル、発声器がウェスタン。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「中津川東映劇場」。1958年の中津川市全居住者明細図帳では「東映劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が篠田興行社、支配人が市川好夫、木造2階、定員415、映写機がローヤル、発声器がウェスタン、東映を上映。1964年の東濃版住宅案内図では「東映劇場」。1964年・1966年の映画館名簿には掲載されていない。1967年・1968年のゼンリン住宅地図では「東映劇場」。1970年のゼンリン住宅地図では跡地に空白。跡地は「三菱UFJ銀行中津川支店」北にあるブロック中央部の建物。最寄駅はJR中央本線中津川駅。

中津川市東太田町には東映劇場があった。1957年の写真あり。『喧嘩笠』の看板が見える。((吉田三郎・安藤利道(監修)『目で見る 中津川・恵那の100年』岐阜郷土出版社、1990年、p.157))

*** 中津劇場
所在地 : 岐阜県中津川市栄町437(1958年)、岐阜県中津川市栄町(1960年)、岐阜県中津川市437(1963年)、岐阜県中津川市栄町5-18(1966年・1967年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1967年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1967年の映画館名簿では「中津劇場」。1958年の中津川市全居住者明細図帳では「中津劇場」。1964年の東濃版住宅案内図では「中津劇場 栄土地興業」。1967年・1968年のゼンリン住宅地図では跡地に「主婦の店」。1968年・1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は駐車場「恵那漁協管理有料月極駐車場」。最寄駅はJR中央本線中津川駅。

*** 旭座/旭映画劇場/中津川旭映画劇場
所在地 : 岐阜県中津川市中津町(1953年)、岐阜県中津川市中津川町(1955年)、岐阜県中津川市1740(1958年)、岐阜県中津川市花木町(1960年)、岐阜県中津川市中津町1740(1963年)、岐阜県中津川市新町3-21(1966年)
開館年 : 1840年(劇場)、1951年6月(映画館)
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧1955』によると1951年6月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「旭映画劇場」。1958年の中津川市全居住者明細図帳では「旭映画劇場」。1964年の東濃版住宅案内図では「旭映画劇場 篠田興行社」。1966年の映画館名簿では「中津川旭映画劇場」。1967年・1968年のゼンリン住宅地図では「旭映画劇場」。1967年・1969年の映画館名簿には掲載されていない。1970年のゼンリン住宅地図では跡地に「アキヤ」。跡地は「ふるさとにぎわい広場」北西にある2009年竣工のマンション「ポレスター中津川新町」。最寄駅はJR中央本線中津川駅。

1951年(昭和26年)頃の旭座の写真あり。1840年(天保11年)に開館した歴史ある劇場である。大正時代には映画と芝居の双方を興行するようになり、戦後には本格的な映画館に改修された。((吉田三郎・安藤利道(監修)『目で見る 中津川・恵那の100年』岐阜郷土出版社、1990年、p.157))

1904年(明治37年)から1905年(明治38年)頃の出征家族慰問会の公演中の「旭座」の舞台の写真あり。天保11年(1849年)5月、現在の中津川市花木町に旭座が竣工した。この地方の唯一の劇場として栄えた。舞台では中津名物の川上文楽の演出であろうか。観客も女性が多いようである。((東山道彦(監修)『ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 中津川』国書刊行会、1979年、p.81))

1917年(大正6年)4月22日と23日の午後5時から、東京芸術座の松井須磨子が「旭座」で当時流行の「復活」カチューシャを演じた。入場料50銭。その時の中津町役場宛に「今度御地におうかがい申し上げますについては首尾よく演じ了せますやう御ひゐき御見物のほどひとへにお願い申し上げます。東京芸術座すま子」と肖像入りのエハガキが届いた。1918年(大正7年)11月に島村抱月が急死すると、松井須磨子は1919年(大正8年)1月に自殺した。1917年4月の写真あり。((東山道彦(監修)『ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 中津川』国書刊行会、1979年、p.81))

1950年-1951年頃に映画館「旭座」が開館した際の写真あり。戦後になると芝居劇場の旭座の観客数が減少したため、映画館に改修された。まだテレビが一般化しておらず、娯楽に飢えた観客で毎日のように満員となった。((東山道彦(監修)『ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 中津川』国書刊行会、1979年、p.81))

1950年-1951年頃に映画館「旭座」が開館した際の写真あり。戦後になると芝居劇場の旭座の観客数が減少したため、映画館に改修された。まだテレビが一般化しておらず、娯楽に飢えた観客で毎日のように満員となった。((吉田三郎・宮崎光雄(監修)『保存版 ふるさと中津川・恵那』郷土出版社、2010年、p.163))

*** 付知映画劇場/付知劇場
所在地 : 岐阜県恵那郡付知町(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)、岐阜県恵那郡付知町広野林(1966年)
開館年 : 1923年、1945年
閉館年 : 1969年
『全国映画館総覧1955』によると1945年開館。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「付知劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「付知映画劇場」。1966年の映画館名簿では「付知劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。

下付知字大新田にあった永徳座はやがて大新座に改称し、郡下最高の舞台と称された。1898年(明治31年)頃に大新座で付知初の映画の上映が行われている。1919年(大正8年)に漏電で焼失すると、1923年(大正12年)3月に再建されて付知劇場となった。1969年(昭和44年)12月1日の「浪曲名人会」の興行を最後に閉館した。付知劇場の跡地には近代建築の豊演堂医院が建っている。1969年の最後の演芸の際の写真あり。((付知町『付知町史 通史編史料編』付知町、1974年、pp.713-714))

閉館直前の1968年の写真あり。大正時代に開館した「付知劇場」では素人歌舞伎などが行われた。1968年に閉館となった。((吉田三郎・宮崎光雄(監修)『保存版 ふるさと中津川・恵那』郷土出版社、2010年、pp.164-165))

1969年(昭和44年)の恵那郡付知町にあった劇場「付知劇場」の写真あり。もともと下付知には明治時代に建てられた「永徳座」があり、後に「大新座」に改称した。大新座は恵那郡で最高の舞台と称されたが、1919年(大正8年)に焼失した。1923年(大正12年)には大新座の跡地に「付知劇場」が建てられ、村芝居(素人歌舞伎)の公演が行われた。建物の老朽化や公演数の減少などが理由で、1969年(昭和44年)が最終公演となった。((『写真アルバム 東濃の昭和』樹林舎、2018年、p.口絵15))

1937年(昭和12年)4月15日には、前年に文楽座から独立した劇団の新義座が付知町の「付知劇場」で公演を行っている。(([[新義座>https://www.kagayakerugidayunohoshi.com/006o.html]] 大枝山人覚え書き))

*** グリン映画劇場/グリーン映画劇場/中津川グリーン劇場
所在地 : 岐阜県中津川市緑町(1960年・1963年)、岐阜県中津川市太田町2-6-34(1966年・1969年・1973年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1973年頃
地図 : [[消えた映画館の記憶地図(中津川市中心部)>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=1Jgfce3m6n2UaQxpDKLu4o5dNGbllBPR2&ll=35.49988705574883%2C137.50531336781012&z=17]]
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「グリン映画劇場」。1958年の中津川市全居住者明細図帳では「グリン劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「グリーン映画劇場」。1964年の東濃版住宅案内図では「グリーン劇場」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「中津川グリーン劇場」。1967年・1968年・1970年の住宅地図では「グリーン劇場 2階喫茶緑園」。1974年・1976年の映画館名簿には掲載されていない。中津川市最後の映画館。跡地は「カレーナンハウス」。最寄駅はJR中央本線中津川駅。

2002年10月3日付『読売新聞』岐阜版には中津川市の映画館に関する記事が掲載されており、「中津川グリーン劇場」の写真が掲載されている。現物は未確認。

* 飛騨地方
** 高山市
*** 国府会館
所在地 : 岐阜県吉城郡国府邑広瀬(1955年)、岐阜県吉城郡国府村広瀬町(1960年)、岐阜県吉城郡国府村(1962年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1962年頃
1953年・1955年・1960年・1962年の映画館名簿では「国府会館」。1962年の住宅地図では経営者が尾関庄三郎、支配人が森下高徳、木造2階、定員577、邦画・洋画を上映。1963年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 朝日座
所在地 : 岐阜県吉城郡上宝村在家(1960年・1963年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「朝日座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 久々野座
所在地 : 岐阜県大野郡久々野町(1960年)、岐阜県大野郡久々野町387-6(1963年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「久々野座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。読みは「くぐのざ」。

*** 喜多座劇場
所在地 : 岐阜県高山市桜町(1955年)、岐阜県高山市桜町328(1960年)
開館年 : 1953年3月
閉館年 : 1965年
『全国映画館総覧1955』によると1953年3月開館。1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「喜多座劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「獅子会館」南の民家。『日本商工業別明細図』根元弘、1954年ではこの場所に喜多座。

宮川に架かる鍛冶橋の昭和30年代の写真あり。鍛冶橋の西詰北側には掲示板があり、「高山会館」、「喜多座」、「京映」、「昭楽座」のポスターが見える。当時の鍛冶橋付近は高山でもっともにぎわう場所だった。((道下淳(監修)『保存版 ふるさと飛騨』郷土出版社、2010年、p.57))

上記の映画館の他に「喜多座」という劇場があったが、1965年に閉館した。現在の獅子会館辺りにあった。(([[映画「遠い雲」3(昭和の面影11)>>http://takayama9600.blog.fc2.com/blog-date-201607.html]] 高山機関区製作ブログ、2016年7月2日))

*** 高根映画劇場
所在地 : 岐阜県大野郡高根村(1966年)
開館年 : 1966年以前
閉館年 : 1966年以後1969年以前
1966年の映画館名簿では「高根映画劇場」。

*** ハッピー劇場/高根ハッピー劇場
所在地 : 岐阜県大野郡白川村(1963年)、岐阜県大野郡高根村上ヶ洞414(1969年)
開館年 : 1966年以前
閉館年 : 1969年以後1973年以前
1963年の映画館名簿では大野郡白川村に「ハッピー劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では大野郡高根村に「高根ハッピー劇場」。移転したのか別施設なのかは不明。

*** 高山会館
所在地 : 岐阜県高山市朝日町(1955年・1960年)、岐阜県高山市朝日町2-4(1966年)
開館年 : 1949年9月
閉館年 : 1967年10月
『全国映画館総覧1955』によると1949年9月開館。1950年・1953年・1955年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「高山会館」。1967年の住宅地図では「映画劇場高山会館」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1973年のゼンリン住宅地図では跡地に「主婦の店」。1984年のゼンリン住宅地図では跡地に「主婦の店高山中央店」。現在の跡地は「まちなか屋台でこなる横丁」やその東側の飲食店街。最寄駅はJR高山本線高山駅。

宮川に架かる鍛冶橋の昭和30年代の写真あり。鍛冶橋の西詰北側には掲示板があり、「高山会館」、「喜多座」、「京映」、「昭楽座」のポスターが見える。当時の鍛冶橋付近は高山でもっともにぎわう場所だった。((道下淳(監修)『保存版 ふるさと飛騨』郷土出版社、2010年、p.57))

高山会館はかつて国技館という名称だった。1967年10月に閉館した。最終上映は『マーメイド作戦』と『剣豪パルダヤンの逆襲』の2本立て。跡地は主婦の店中央店となり、2016年現在はでこなる横丁になっている。(([[映画「遠い雲」3(昭和の面影11)>>http://takayama9600.blog.fc2.com/blog-date-201607.html]] 高山機関区製作ブログ、2016年7月2日))

*** 京極映画劇場/高山京極日活劇場/高山京極大映劇場/高山京極大映/京極大映
所在地 : 岐阜県高山市下一之町102(1955年・1960年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年)
開館年 : 1950年以前
閉館年 : 1985年8月30日
『全国映画館総覧1955』には開館年が記載されていない。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「京極映画劇場」。1966年の映画館名簿では「高山京極日活劇場」。1967年の住宅地図では「日活映画劇場」。1969年の映画館名簿では「高山京極日活劇場」。1973年のゼンリン住宅地図では「日活映画劇場」。1973年の映画館名簿では「高山京極大映劇場」。1976年の映画館名簿では「高山京極大映」。1980年の映画館名簿では「京極大映」。1980年の映画館名簿では木造1階、376席、経営会社は大五興行、経営者は荒井清太郎、支配人は桑原実、邦画を上映。1984年のゼンリン住宅地図では「高山京極大映 日活映画劇場 東映」。1985年の映画館名簿では「高山京極大映」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は有料駐車場「いちのまちパーキング」の事務所付近。最寄駅はJR高山本線高山駅。

1985年8月30日の『朝日新聞』岐阜版朝刊には「高山京極大映」が開館するという記事が掲載されている。現物は未確認。((「記事名不明」『朝日新聞』岐阜版、1984年8月30日朝刊、p.19))

1985年9月1日の『中日新聞』岐阜版朝刊には「高山京極大映」が開館するという記事が掲載されている。現物は未確認。((「記事名不明」『中日新聞』岐阜版、1984年9月1日朝刊、p.12))

宮川に架かる鍛冶橋の昭和30年代の写真あり。鍛冶橋の西詰北側には掲示板があり、「高山会館」、「喜多座」、「京映」、「昭楽座」のポスターが見える。当時の鍛冶橋付近は高山でもっともにぎわう場所だった。((道下淳(監修)『保存版 ふるさと飛騨』郷土出版社、2010年、p.57))

1964年4月には京極映画劇場が高山京極日活劇場に改称。やがて京極大映に改称し、1985年8月30日に閉館した。最終上映作品は『ビルマの竪琴』。2016年現在はいちのまちパーキングになっている。(([[映画「遠い雲」3(昭和の面影11)>>http://takayama9600.blog.fc2.com/blog-date-201607.html]] 高山機関区製作ブログ、2016年7月2日))

*** 昭楽座/高山東映劇場/高山有楽座/有楽座
所在地 : 岐阜県高山市神田町1-1(1960年・1969年・1973年・1976年・1980年)
開館年 : 1929年、1941年9月
閉館年 : 1988年8月31日
『全国映画館総覧1955』によると1941年9月開館。1950年・1953年・1955年・1960年の映画館名簿では「昭楽座」。1963年の映画館名簿では「高山東映」。1966年の映画館名簿では「高山東映劇場」。1967年の住宅地図では「高山東映劇場」。1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「高山有楽座」。1973年のゼンリン住宅地図では「高山有楽座」。1980年の映画館名簿では「有楽座」。1980年の映画館名簿では木造1階、414席、経営会社は大五興行、経営者は荒井清太郎、支配人は水野供雄、洋画を上映。1984年のゼンリン住宅地図では「高山有楽座」。1985年の映画館名簿では「高山有楽座」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「高山シティホテル フォーシーズン」。最寄駅はJR高山本線高山駅。

1988年8月17日の『中日新聞』岐阜版朝刊には「有楽座」が8月末をもって閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。((「高山の映画館有楽座 今月末で幕」『中日新聞』岐阜版、1988年8月17日朝刊))

1929年の「昭楽座」の舞台開きの写真あり。1988年の「有楽座」の最終日の写真あり。「8月6日ヨリ8月31日マデ 敦煌」「最後の上映作品! 敦煌」の文字が見える。1929年5月3日に映画常設館としての許可が出された。経営者は国技館と同じく尾関正三郎だった。1938年3月12日には、松竹京都撮影所の俳優である堀正夫や久松美津江が舞台挨拶を行った。1996年現在は取り壊され、跡地はホテルの駐車場となっている。((『保存版写真集 高山100景いまむかし』郷土出版社、1996年、pp.116-117))

宮川に架かる鍛冶橋の昭和30年代の写真あり。鍛冶橋の西詰北側には掲示板があり、「高山会館」、「喜多座」、「京映」、「昭楽座」のポスターが見える。当時の鍛冶橋付近は高山でもっともにぎわう場所だった。((道下淳(監修)『保存版 ふるさと飛騨』郷土出版社、2010年、p.57))

1960年4月に「昭楽座」から「高山東映」に改称。1967年12月には高山会館が閉館したことで高山東映から「有楽座」に改称。1988年8月31日に閉館した。最終上映作品は『敦煌』。2016年現在は高山シティホテル・フォーシーズンが建っている。(([[映画「遠い雲」3(昭和の面影11)>>http://takayama9600.blog.fc2.com/blog-date-201607.html]] 高山機関区製作ブログ、2016年7月2日))

*** 高山旭座オスカー1・ミラノ2/高山旭座オスカー1・ミラノ2・ウエスト3・サウス4
所在地 : 岐阜県高山市三福寺町359-1(1990年・1995年・2000年・2005年・2010年)
開館年 : 1984年12月22日(2館)、1998年7月11日(4館化)
閉館年 : 2014年8月31日
Wikipedia : [[高山旭座>>https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E6%97%AD%E5%BA%A7]]
1984年のゼンリン住宅地図では後の映画館の場所に水田。1985年の映画館名簿には掲載されていない。1990年・1995年の映画館名簿では「高山旭座オスカー1・ミラノ2」(2館)。2000年の映画館名簿では鉄筋コンクリート造1階、120席と160席と120席と120席、経営者はいずれも吉田栄次、支配人はいずれも牛丸昭則、いずれも邦画と洋画を上映。2000年・2005年・2010年の映画館名簿では「高山旭座オスカー1・ミラノ2・ウエスト3・サウス4」(4館)。2015年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は2015年3月開店の「ファミリーストアさとう三福寺店」。最寄駅はJR高山本線高山駅。

1984年12月22日、高山市三福寺町に映画館「高山旭座」が開館する。2館が同居している複合映画館。高山旭座を建てたのは吉城郡古川町で「旭座」を経営していた吉田栄次(46)。古川町は人口が少なく、消防法の改正で施設の大規模改修を迫られたことから、旭座を閉館させて高山市に進出した。鉄骨コンクリート造一部2階建て。566m2。内部には100席のオスカー1と140席のミラノ2の2館がある。2はドルビー方式の4チャンネルステレオシステム。映写機は2館同時に上映できるフルオート方式。オスカー1のオープニング作品は『グレムリン』、ミラノ2のオープニング作品は『ゴーストバスターズ』。((「双子映画館『高山旭座』きょうオープン 車いすもOK」『岐阜日日新聞』1984年12月22日、p.16))

1998年7月11日、高山市の映画館「高山旭座」の本館脇に2スクリーンを持つ別館が開館する。名称はウエスト3とサウス4。既存の2スクリーンと合わせて計4スクリーンとなる。1984年に開館し、飛騨地方唯一の映画館である。最新の機器を導入しており、継ぎ目も穴もない1枚スクリーンについて牛丸支配人は「全国初ではないか」としている。2スクリーンとも117席。ウエスト3は(アメリカ版)『ゴジラ』、サウス4は『タイタニック』がオープニング作品。((「最新映画、より多く 高山旭座別館きょうオープン 機器充実、臨場感豊かに 第1弾『ゴジラ』『タイタニック』」『中日新聞』1998年7月11日))

2014年秋にも、高山市三福寺町の映画館「高山旭座」が閉館することが明らかになった。飛騨地域唯一の映画館だった。昭和初期に吉城郡古川町(現・飛騨市古川町)に芝居小屋として開館し、太平洋戦争前後に映画館に転換、1984年に古川町から高山市に移転した。当時は駐車場付きの郊外型映画館は珍しかったため話題になった。その後別館も開館した。1997年に上映した『タイタニック』では、半年間に約3万人を集客した。富山県にできたシネマコンプレックスや少子化の影響で、2013年の来館者はピークの約10万人から約5万人にまで減っていた。閉館後の跡地には、スーパーマーケット「ファミリーストアさとう」(同市石浦町)が出店予定という。((「高山旭座、今秋にも閉館 飛騨地域唯一の映画館 跡地にスーパー出店へ」『岐阜新聞』、2014年6月27日))

2014年8月31日には高山市三福寺町の映画館「高山旭座」が閉館する。8月23日から、最後のロードショー『もういちど』の上映が始まる。高山市在住のカメラマンである古川誠が撮影監督として参加している。1984年に吉城郡古川町(現・飛騨市古川町)から高山市に移転し、現在は飛騨地域で唯一の映画館である。閉館の理由は来館者の減少など。((「『高山旭座』きょうから最終上映 満員の劇場『もういちど』」『岐阜新聞』、2014年8月23日))

2014年まで高山市にあった映画館「高山旭座」が閉館してから、飛騨地域には映画館がない状態が続いている。飛騨地域の映画ファンが足を運ぶ映画館は、富山県富山市の「TOHOシネマズファボーレ富山」や岐阜県各務原市の「イオンシネマ各務原」などであるが、おずれも高山市中心部から車で1時間30分以上かかる。1984年に開館した高山旭座は2つの建物に4スクリーンを有し、デジタル映写機も設置していた。最盛期には年間10万人近くの観客数があったが、2000年代には飛騨地域以外のシネコンに押されて観客数が半減していた。2016年頃から杉浦正子は「つきいちシネマ」として月1回の上映会を開催している。公民館やコミュニティスペースを借り、自前のスピーカーやプロジェクターで簡易シアターを作り上げる。社会はドキュメンタリーなどを中心に開催し、各回10-20人が集まる。鑑賞後には参加者同士で作品の意見交換を行っている。((「映画館ゼロの飛騨地域 『鑑賞したい』動く住民 難しい新作 『君の名は。』で上映実現」『中日新聞』2019年12月15日))

2021年1月にWeb OYA-bunko(大宅壮一文庫)で検索したが有意な言及は発見できず。

** 飛騨市
*** 旧神岡地区の映画館
昭和20年代の神岡町では映画が流行した。本町に「中央劇場」(現在の飛騨信用組合神岡支店)、千歳に「船津劇場」(現在の福祉会館)があり、それぞれ映画が上映されていた。邦画も上映されたが、西部劇など洋画の上映が圧倒的に多かった。両映画館ともに1か月平均約9本の映画が上映され、1954年から1955年1月までの『週刊町報』(現在の『広報かみおか』)には上映案内が掲載された。1954年の映画館の入場料は40円であり、たばこ1箱、年賀はがき8枚と同じ値段だった。両映画館のほかには、三井金属鉱業株式会社が所有する会館でも鉱山慰安映画が上映され、東町の神岡会館、栃洞の銀嶺会館、東茂住の上平会館、大津山の大津山会館、土会館、跡津集会所、金木戸集会所などがあった。鉱山慰安映画は神岡鉱山の文化活動の一環として週2回上映された。神岡会館では従業員やその家族が1回10円で観ることができ、銀嶺会館・大津山会館・上平会館では会員制で映画を観ることができた。栃洞会館で子供向け作品が上映されると、栃洞小学校や栃洞中学校の児童生徒が先生に引率されて観に行くことがあり、この際の銀嶺会館は貸し切りとなった。戦中や戦後の銀嶺会館では多くの芸能人の公演も行われている。上平会館では月5回から6回の頻度で鉱山慰安映画が上映された。1949年1月からはアメリカ映画も上映され、『凸凹宝島騒動』や『凸凹スパイ騒動』『海賊キッド』などが上映された。((飛騨市教育委員会『神岡町史 通史編2』飛騨市教育委員会、2008年、pp.333-334))

昭和30年代に西里通りの柿下旅館から撮影した写真あり。1955年公開の『二十四時間の恐怖』の看板が見える。当時の神岡町には、船津劇場(船劇)と中央劇場があり、神岡鉱山でも頻繁に映画が上映されていた。((『写真アルバム 飛騨の昭和』樹林舎、2015年、p.183))

1952年の神岡町船津の街並み。左端には神岡町役場・円城寺、手前には本町の街並みがあり、「中央劇場」も見える。向こうの東町にある白い建物は「神岡会館」である。((『保存版 ふるさと飛騨』郷土出版社、2010年、p.50))

昭和20年代から30年代には特に映画が流行し、神岡町には「船津劇場」と「中央劇場」があった。また、神岡鉱業株式会社の東町・栃洞・茂住・大津山などの会館でも盛んに上映された。((飛騨市教育委員会『神岡町史 写真編』飛騨市教育委員会、2010年、p.297))

*** 古川旭座(初代)
所在地 : 岐阜県吉城郡古川町上気多字釜之上
開館年 : 1887年11月16日
閉館年 : 1936年
古川劇場との競合を避けて1936年に閉館し、建物は漬物工場に転換された。しかし数年後には土地と建物を古川町農業協同組合に売却し、高山市に進出して京極映画劇場(京映)の経営に乗り出した。

*** 大正座/船津劇場
所在地 : 岐阜県吉城郡神岡町千歳(1955年)、岐阜県吉城郡神岡町(1960年・1963年)、岐阜県吉城郡神岡町船津1791(1966年・1969年)
開館年 : 昭和初期以前、1944年8月
閉館年 : 1969年以後1973年以前
『全国映画館総覧1955』によると1944年8月開館。1953年の映画館名簿では「船津劇場」。1955年の映画館名簿では「舟津劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「船津劇場」。1967年の住宅地図では「船津劇場」。1973年のゼンリン住宅地図では「船津会館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地には鉄筋コンクリート造3階建ての飛騨市神岡町福祉会館(神岡福祉会館)があったが、2015年度(平成27年度)に取り壊された。現在の跡地は「大津神社」参道脇の駐車場。

1970年の「船津劇場」の写真あり。広報ネガ。1948年に「大正座」が船津劇場に改称した。((飛騨市教育委員会『神岡町史 写真編』飛騨市教育委員会、2010年、p.297))

吉城郡神岡町にあった「大正座」は演芸場だった。後に「船津劇場」に改修し、1989年(平成元年)現在は福祉会館となっている。昭和初期の写真あり。((丸山茂(監修)『目で見る飛騨の100年』岐阜郷土出版社、1989年、p.101))

*** 神岡会館
所在地 : 岐阜県吉城郡神岡町(1955年・1963年)、岐阜県吉城郡神岡町東町(1966年・1969年)
開館年 : 1951年9月
閉館年 : 1973年以後1976年以前
『全国映画館総覧1955』によると1951年9月開館。1955年の映画館名簿では「神岡会館」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「神岡会館」。1973年のゼンリン住宅地図では「神岡会館」。跡地は「V・drug神岡店」。

1975年頃の「神岡会館」の写真あり。『神岡鉱山写真史』による。神岡会館は1951年竣工。鉱山慰安映画が上映され、1回10円で観ることができた。((飛騨市教育委員会『神岡町史 写真編』飛騨市教育委員会、2010年、p.297))

1951年12月28日付『毎日新聞』には、「神岡会館」が竣工したとする記事が掲載されている。現物は未確認。((「鉱山人慰安の神岡会館完工」『毎日新聞』1951年12月28日、p.4))

*** 銀嶺会館/神岡銀嶺会館
所在地 : 岐阜県吉城郡神岡町栃洞(1955年・1960年)、岐阜県吉城郡神岡町栃洞(1963年)、岐阜県吉城郡神岡町栃洞(1966年・1969年)
開館年 : 1951年12月? 1952年7月?
閉館年 : 1973年以後1976年以前
『全国映画館総覧1955』によると1951年12月開館。1955年・1960年の映画館名簿では「銀嶺会館」。1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「神岡銀嶺会館」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。山上に築かれた栃洞地区にあった。栃洞地区全体が廃墟となっているが、銀嶺会館の建物は現存している。

1952年7月20日付『毎日新聞』岐阜版朝刊には、神岡鉱山に「銀嶺会館」が建ったとする記事が掲載されている。現物は未確認。((「神岡鉱山に銀嶺会館建つ」『毎日新聞』岐阜版、1952年7月20日朝刊、p.4))

*** 中央劇場/神岡中央劇場
所在地 : 岐阜県吉城郡神岡町本町1926(1976年)
開館年 : 1950年8月
閉館年 : 1978年4月
『全国映画館総覧1955』によると1950年8月開館。1955年の映画館名簿では「神岡中央劇場」。1960年の映画館名簿では「中央劇場」。1963年・1966年・1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「神岡中央劇場」。1967年の住宅地図では「中央劇場」。神岡町最後の映画館。1967年の住宅地図では「中央劇場」。1973年のゼンリン住宅地図では「中央劇場」。跡地は「飛騨信用組合神岡支店」駐車場。南側の「小林書店」は1967年からある。

1978年4月いっぱいで、神岡町唯一の映画館「チュー劇」が閉館する。大坪政長社長。神岡町が発足した1950年、中央劇場として開館した。神岡町は鉱山特需に沸き、360席は連日満員となる人気だった。船津劇場、神岡会館と並んで娯楽の殿堂だった。東京の歌舞伎座が訪れたこともあり、岩井半四郎の演劇が上演されたこともある。船津劇場と神岡会館が相次いで閉館し、1965年にはチュー劇のみとなった。しかし、過疎化が急激に進行し、人気映画のフィルムが早期に入手できない条件などもあって、観客数は激減していた。数年間は赤字が続いており、閉館が決定した。写真あり。((「神岡町唯一の映画館『チュー劇』今月限りで閉館 "孤軍奮闘"も及ばず 過疎化とフィルム入手難」『岐阜日日新聞』1978年4月22日、p.12))

1950年に本町の「中央劇場」がこけら落とし公演を行った際の写真あり。((飛騨市教育委員会『神岡町史 写真編』飛騨市教育委員会、2010年、p.297))

*** 古川劇場
所在地 : 岐阜県吉城郡古川町(1950年・1953年・1955年・1960年・1963年)、岐阜県吉城郡古川町上気多367(1966年・1969年)
開館年 : 1935年4月1日
閉館年 : 1971年
1950年・1953年・1955年・1960年・1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「古川劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「JAひだ古川支店」と餅屋「新名屋」の間。最寄駅はJR高山本線飛騨古川駅。

1934年(昭和9年)には吉城郡古川町に「古川劇場」が完成し、芝居や映画の興行を行った。1935年(昭和10年)頃の写真あり。2階席もあった。座席は桟敷席だったが、映画が主流になると椅子席に代わった。かつては大横町の突き当り付近にも「旭座」という劇場があり、盛んに芝居の興行を行っていたが、古川劇場の開館後には衰退した。昭和30年代後半には古川町に別の映画館が開館し、古川劇場と別の映画館とで観客が分散した。昭和50年代中頃に映画人気が低迷すると、古川劇場の建物は取り壊された。2006年(平成18年)現在の跡地はスナック みちくさとJA飛騨古川支店の駐車場になっている。((『保存版 飛騨の今昔』郷土出版社、2006年、p.81))

1935年(昭和10年)には吉城郡古川町に「古川劇場」が開館した。客席は畳敷きであり、芝居の上演や映画の上映を行った。昭和30年代には観客数が低迷し、昭和40年代中頃に閉館した。1935年の写真あり。((道下淳(監修)『保存版 ふるさと飛騨』郷土出版社、2010年、p.217))

*** 古川新映会館/古川旭座(2代)
所在地 : 岐阜県吉城郡古川町(1963年)、岐阜県吉城郡古川町一之町49-1(1966年・1973年・1976年)、岐阜県吉城郡古川町一之町12-35(1980年)
開館年 : 1959年7月13日(新映会館)、1971年(旭座)
閉館年 : 1966年(新映会館)、1984年6月(旭座)
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1966年の映画館名簿では「古川新映会館」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1973年のゼンリン住宅地図では「旭座(吉田栄次)」。1973年・1976年・1980年の映画館名簿では「古川旭座」。1980年の映画館名簿では木造1階、256席、経営者は吉田栄次、支配人は牛丸昭則、邦画と洋画と成人映画を上映。古川町最後の映画館。1984年に高山市に開館した高山旭座の前身館。跡地は「上人塚」がある「まつり広場」。最寄駅はJR高山本線飛騨古川駅。

1984年6月6日付『朝日新聞』岐阜版朝刊には古川町唯一の映画館である「古川旭座」が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。((「古川町の旭座 唯一の映画館閉館」『朝日新聞』岐阜版、1984年6月6日朝刊、p.19))

** 下呂市
*** 下呂ボウリングセンター
2015年3月末、下呂市の下呂温泉街にある下呂ボウリングセンターが閉館する予定。ボウリングブームのさなかの1971年に開業した。14レーンに加えて、ゲームコーナーやビリヤード台などもあり、ブーム中には数時間待ちになることもあった。当時は下呂温泉の旅館内や萩原町にもボウリング場があった。現在は飛騨地方でもっとも古いボウリング場だった。ボウリングのピンを並べる装置はアメリカから輸入したもの。楓の木材で作られたレーンは現在では珍しい。外観は開業当時とさほど変わらない。全国最高齢ボウラーの吉野幸作は亡くなる直前まで下呂ボウリングセンターに通っていたが、2014年4月6日に死去した。((「最高齢ボウラー吉野さん死去から1年 下呂ボーリングセンター 来月末で閉館へ」『中日新聞』2015年2月3日))

*** オリオン会館
所在地 : 岐阜県下呂市湯之島876-1
開館年 :
閉館年 : 2007年
映画館ではなくストリップ劇場。河鹿通り。2019年1月時点で建物は残っている。

*** 相生座
所在地 : 岐阜県益田郡下呂町宮地300(1958年)、岐阜県益田郡下呂町宮地(1960年)、岐阜県益田郡下呂町宮地300(1963年)
開館年 : 1895年、1955年以後1958年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「相生座」。1960年の映画館名簿では経営者が宮地区管、支配人が各務英一、木造2階、定員600、邦画・洋画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。相生座の客席は瑞浪市の美濃歌舞伎博物館 相生座に移築されている。

*** 大和座
所在地 : 岐阜県益田郡下呂町1597(1958年)、岐阜県益田郡下呂町(1960年)、岐阜県益田郡下呂町1597(1963年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1963年以後1966年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「大和座」。1960年の映画館名簿では経営者が和佐区管、支配人が細江弥五郎、木造2階、定員560、邦画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 萩原劇場
所在地 : 岐阜県益田郡萩原町(1953年・1955年)、岐阜県益田郡萩原町803(1958年)、岐阜県益田郡萩原町(1960年・1963年)、岐阜県益田郡萩原町萩原(1964年)、岐阜県益田郡萩原町(1965年)
開館年 : 1922年11月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が記載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「萩原劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が尾関庄三郎、支配人が森田正、木造2階暖房付、定員860、邦画・洋画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1922年11月、「萩原劇場」ができた。1923年、劇場の「楽笑館」(後のミサト館)ができた。((萩原町教育委員会文化資料室『萩原の史話 近代編』〈萩原文庫 第14集〉萩原町、1992年、p.301))

1922年11月、萩原町の有志によって劇場の「萩原劇場」が開館した。演劇や寄席の興行を行い、映画の流行に合わせて映画の上映も行った。萩原劇場は昭和40年代に閉館した。((萩原町史編集室『萩原町史 第4巻 近代編(下)』萩原町教育委員会、1998年、p.1621))

*** 楽笑館/ミサト館
所在地 : 岐阜県益田郡萩原町364(1958年)、岐阜県益田郡萩原町(1960年・1963年)
開館年 : 1923年
閉館年 : 1963年
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「ミサト館」。1960年の映画館名簿では経営者が吉田敏雄、支配人が田堀一美、木造2階暖房付、定員316、大映・日活・東宝を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

現在の萩原上区の中田医院の向かい付近。1923年(大正12年)、演芸場「楽笑館」が開館して寄席や演芸の興行を行った。しかし萩原劇場と競合しており、松竹株式会社は解散、1943年12月には富永木製品ガス薪工場となった。1951年4月にはダンスホールに改装された。1953年3月には高山市の京映の経営者が改装し、常設映画館「ミサト館」が開館した。ミサト館は1963年に火災に遭って閉館した。((萩原町史編集室『萩原町史 第4巻 近代編(下)』萩原町教育委員会、1998年、p.1621))

下呂市萩原町の商店街有志が、「大正より昭和初期までの萩原の町並図」を作成した。当時の萩原は高山方面から美濃方面に向かう益田街道などがある交通の要所であり、最盛期の商店街には120軒ほどの商店があった。宿屋、馬車宿、映画館「楽笑館」、呉服屋、生糸屋、髪結屋、銭湯などがあった。地図は星雲会館のロビーに設置される予定。((「萩原町商店街 栄えた足跡 大正、昭和初期を古地図風に再現 馬車宿や呉服屋ぎっしり」『岐阜新聞』2017年10月22日、p.24))

1922年11月、「萩原劇場」ができた。1923年、劇場の「楽笑館」(後のミサト館)ができた。((萩原町教育委員会文化資料室『萩原の史話 近代編』〈萩原文庫 第14集〉萩原町、1992年、p.301))

萩原上区の「みさと館」付近で起こった大火の写真あり。((萩原町教育委員会文化資料室『目で見るわが町の歩み』〈萩原文庫 第9集〉萩原町、1986年、p.28))

*** 金山劇場
所在地 : 岐阜県益田郡金山町(1958年・1960年・1963年・1964年・1965年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1965年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「金山劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が田口真一郎、支配人が田口亮之助、木造2階建、定員900、邦画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「金山郵便局」。最寄駅はJR高山本線飛騨金山駅。

[[旅ぐるたび>>https://gurutabi.gnavi.co.jp/a/a_359/]]によると跡地は金山郵便局。

*** 下呂劇場
所在地 : 岐阜県益田郡下呂町湯之島(1953年・1955年・1958年)、岐阜県益田郡下呂町(1960年)、岐阜県益田郡下呂町湯之島(1963年・1966年)
開館年 : 1950年4月
閉館年 : 1966年以後1969年以前
『全国映画館総覧1955』によると1950年4月開館。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「下呂劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が下呂劇場、支配人が桑原泰、木造2階冷暖房付、定員600、邦画・洋画を上映。1969年の映画館名簿には掲載されていない。

*** 朝六座/小坂朝六座
所在地 : 岐阜県益田郡小坂町656(1958年)、岐阜県益田郡小坂町(1960年)、岐阜県益田郡小坂町656(1963年)、岐阜県益田郡小坂町小坂565(1966年・1969年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1969年以後1973年以前
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「朝六座」。1960年の映画館名簿では経営者が橋本文平、支配人が橋本博夫、木造2階暖房付、定員694、邦画・洋画を上映。1966年・1969年の映画館名簿では「小坂朝六座」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。益田郡最後の映画館。

** 大野郡白川村
*** ハッピー劇場
所在地 : 岐阜県大野郡白川村平瀬43(1958年)、岐阜県大野郡白川村平瀬(1960年)、岐阜県大野郡白川村平瀬43(1963年)、岐阜県大野郡白川村平瀬396(1964年)、岐阜県大野郡白川村平瀬(1965年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1965年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「ハッピー劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が田口一造、支配人が是森邦夫、木造平屋建、定員350、邦画・洋画を上映。1963年の映画館名簿では経営者が田口一造、支配人が池崎良一、木造平屋建、定員280、映写機・発声器ともにトーア7号。洋画を上映。1966年の映画館名簿で大野郡高根村字上ヶ洞414に掲載されている高根ハッピー劇場との関係は不明。

*** 御母衣劇場
所在地 : 岐阜県大野郡白川村牧(1958年)、岐阜県大野郡白川村御母衣(1960年)、岐阜県大野郡白川村牧(1963年)、岐阜県大野郡白川村御母衣字牧(1964年)、岐阜県大野郡白川村御母衣(1965年)
開館年 : 1955年以後1958年以前
閉館年 : 1965年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「御母衣劇場」。1960年の映画館名簿では経営者が田口一造、支配人が池崎良一、木造平屋建、定員397、邦画・洋画を上映。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

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