閉館した映画館を中心とする、日本の映画館の総合データベースです。管理人「hekikaicinema」のみが編集可能。

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一宮市の映画館。一宮市以外の尾張地方の映画館については[[尾張西部の映画館]]と[[尾張東部の映画館]]を参照。
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* 旧一宮市
** 一宮市の映画館
1953年の商工名鑑には、映画館として「一宮松竹映画劇場」、「一宮日活映画劇場」、「一宮東宝劇場」、「八百菊映画劇場」の4館が掲載されている。~~一宮松竹--代表者は堀江康正--住所は公園通1-10~~一宮日活--代表者は柳川保之助--住所は御朱印地町2~~一宮東宝--代表者は市村正三--住所は新柳通3-18~~八映-------代表者は伊藤勤--住所は上本町通5-35。((『一宮商工名鑑 昭和28年版』一宮市役所経済部商工課、1953年、p.233))

1957年の商工名鑑には、映画館として「一宮松竹映画劇場」、「株式会社日活映画劇場」、「一宮東宝劇場」、「八百菊映画劇場」、「菊映画劇場」、「ステーション劇場」、「奥町劇場」、「オリエンタル劇場」、「萩原劇場」、「浅井映画劇場」の10館が掲載されている。~~一宮松竹-----------代表者は松波義一--住所は公園通1-10~~一宮日活-----------代表者は大須賀寿郎--住所は御朱印地町2~~一宮東宝-----------代表者は鷲津宗夫--住所は新柳通3-13~~八映---------------代表者は伊藤勉--住所は上本町通5-35~~菊映---------------代表者は伊藤菊次郎--住所は常念町9~~ステーション劇場--代表者は武縄淳--住所は長良町2-79~~奥町劇場-----------代表者は加藤信禧--住所は奥町芝原29~~オリエンタル劇場--代表者は足立八百--住所は奥町貴船~~萩原劇場-----------代表者は堀田茂--住所は萩原町萩原135~~浅井映画劇場------代表者は大野ゑい--住所は浅井町前野字郷前。((『一宮商工名鑑 昭和32年版』一宮市役所経済部商工課、1957年、p.363))

一宮市内で繊維産業が全盛を誇った昭和30-40年代には市内の映画館数が10館を超え、週末には繊維会社に勤める女性などで満員になった((「繊維の街に映画館再び 伝馬通3丁目商店街 手作りで上映会 きょう『無法松の一生』」中日新聞、2000年7月8日))。その後の客数は減少の一途であり、10年前(1990年)に中心市街地にあった最後の映画館が閉館した((「繊維の街に映画館再び 伝馬通3丁目商店街 手作りで上映会 きょう『無法松の一生』」中日新聞、2000年7月8日))

通っていた小学校は第三国民学校から神山小学校となった。生れ育ったのは一宮駅南の新生。封切りのたびに、長くて大きな四谷踏切を渡った。千歳通りの「東映」に向かうのである。映画館は、大江の「菊映」が多かったと思う。裕次郎と小林旭が登場した昭和30年代は日活がすごかった。御朱印町にあった「一宮日活」は、いつも立ち見の状態で、その熱気がまた楽しかった。日活を見て、公園通りの松竹に行くといった、映画ざんまいの一日は、最高の幸福だった。休日には、集団就職で働く「織姫さん」(織物工場の女性従業員を親しみを込めてこうよんでいた)の姿もたくさん見られた。あの頃の一宮の街中にはほかにも、東町の「大映」、新柳通の「東宝」、「松竹」と同じビルの「テアトル」、駅北の「ステーション劇場」、駅西の「国際劇場」などが開館し、旧尾西市の起には、「あずま起劇場」、「起映画劇場」、「尾西映画劇場」があり、これらの映画館が「一宮文化」のひとつを形作っていたように思える。

1987年8月30日の『一宮タイムス』の「映画ガイド」には一宮菊映、一宮東映、一宮東宝、尾西市開明シネラマパワーの4館が掲載されている。一宮菊映では『ハチ公物語』が、一宮東映では『名門多古西応援団』と『シャコタンブギ』と『新宿純愛物語』が、一宮東宝では『ラッコ物語』が、尾西シネラマパワーでは『白い指のオナニー』と『欲情させられた女』と『本番アイドル歌手編』が上映されており、一宮東宝は「愈々本日限り」とも表記されている。((「映画ガイド」『一宮タイムス』1987年8月30日))

1988年11月23日の『一宮タイムス』の「映画ガイド」には一宮菊映、一宮東映、尾西市開明シネラマパワーの3館が掲載されている。一宮東映では『姐御』が、尾西シネラマパワーでは『本番愛撫』と『Eカップ満乳』と『色きちギャル』が上映されており、一宮菊映は「閉館」と表記されている。((「映画ガイド」『一宮タイムス』1988年11月23日))

1990年4月8日の『一宮タイムス』の「映画ガイド」には一宮東映、尾西市開明シネラマパワーの2館が掲載されている。一宮東映では「東映まんがまつり」として『ドラゴンボールZ』と『魔法使いサリー』と『悪魔くん』が、尾西シネラマパワーでは『くいこみ』と『若妻復讐セックス』と『強烈なレイプ』が上映されており、一宮東映の欄には「本日限り」とも表記されている。((「映画ガイド」『一宮タイムス』1990年4月8日))

** 舞鶴座/日吉座
所在地 : 愛知県一宮市
開館年 : 1902年
閉館年 : 1912年頃
一宮市内に演芸専門館が登場するのは1877年(明治10年)頃からであり''日吉座''、''明治座''、''歌舞伎座''、''真澄座''などがあった。1902年(明治35年)に下馬町(現在の本町4丁目名古屋銀行西側)に開設された''舞鶴座''は、1906年(明治39年)に''日吉座''に改称。国鉄東海道線一宮駅が現在地に移転して駅前から岩倉街道が新設される際、''日吉座''は城屋敷18番地に移転した。移転先で新築された''日吉座''は収容人数720人の中規模演芸場。客席興行が主体であり落語・講談ファンで繁昌したが、1912年(大正元年)9月の台風の被害で再建されることなく廃業した。移転後の''日吉座''は、現在の本町4丁目「ぷらっと横丁」の一角でアーケード街。((松本勝二・平田伸夫(監修)『写真集 一宮・尾西・木曽川いまむかし』名古屋郷土出版社、1989年、p.114))

** 朝日座
所在地 : 愛知県一宮市上本町通5(1943年)、愛知県一宮市新町21
開館年 : 1921年
閉館年 : 1945年
1943年の映画館名簿では「朝日座」。1943年の映画館名簿では興行主が大映、定員が488。戦後には朝日座の跡地に八百菊映画劇場(八映)が開館した。

1921年(大正10年)3月、一宮市北東部の発展を期して新町21番地に「朝日座」が開館。設立者は京都の今井和一郎であり、朝日座は活動写真の常設館だった。収容人員は950人。当初の興行管理人(支配人)は小沢由太郎だったが、1924年(大正13年)には株式会社とし、持主名義を取締役の柴田為一郎とした。同年には上本町線(道路)を新設するために、隣接地の上本町通5丁目に移転した。1945年(昭和20年)7月の一宮空襲では朝日座も焼失した。朝日座は一宮初の映画館であり、尾上松之助、坂東妻三郎、片岡千恵蔵、市川右太エ門、嵐寛寿郎らの映画で多くの人々を楽しませた。((松本勝二『史録いちのみや』郷土出版社、1986年、p.146))

1921年(大正10年)には一宮市新町に朝日座が開館。一宮市初の映画常設館である。1924年(大正13年)に都市計画で上本町路線が新設されたのを機に、やや北側に移転した。移転後の開館当日の朝日座に集まった観客を現在の一真堂書店前あたりから撮影した写真あり。1945年(昭和20年)には一宮空襲で建物が焼失し、戦後には朝日座跡地に寄席の八百菊劇場が開館した。((松本勝二・平田伸夫(監修)『写真集 一宮・尾西・木曽川いまむかし』名古屋郷土出版社、1989年、p.116))

1921年(大正10年)3月開館の朝日座は、一宮初の映画館だった。尾上松之助、坂東妻三郎、片岡千恵蔵などの主演作品でにぎわった。朝日座は一宮空襲で焼失している。((「特集 映画館のない町」『City-1』1990年8月号、第12号、pp.23-37))
1921年(大正10年)3月開館の朝日座は、一宮初の映画館だった。尾上松之助、坂東妻三郎、片岡千恵蔵などの主演作品でにぎわった。朝日座は一宮空襲で焼失している。((「特集 映画館のない町」『City-1』第12号、pp.23-37))

** 弥生館
所在地 : 愛知県一宮市中宮町2丁目
開館 : 1923年
閉館 : 1945年
1923年(大正12年)、中宮町2丁目の歌舞伎座跡に''弥生館''が開館した。中町方面の発展を期しており、設立発起人は今枝久兵衛、木村甚九郎、佐藤忠左右衛門。建物は鉄筋コンクリート造2階建だったが、鉄筋コンクリート造の映画館は一宮初である。収容人員650人。名義人は今枝久兵衛。映画は松竹作品が主であり、栗島すみ子などの人気が高かった。当時の活動写真常設館は一般的に1日2回興行だったが、弥生館では1日3回上映されたこともあった。2年前に開館していた''朝日座''とは激しく競争した。当時は日活と松竹の二社が主要な映画製作会社であり、''朝日座''が日活、''弥生館''が松竹の上映館だった。((松本勝二『史録いちのみや』郷土出版社、1986年、p.146))

一宮市立豊島図書館が刊行した『所蔵写真目録 2 明治・大正・昭和の一宮 有隣舎』に弥生館の写真あり。原典は1927年『続一宮市史全』。((一宮市立豊島図書館『所蔵写真目録 2 明治・大正・昭和の一宮 有隣舎』一宮市立豊島図書館))。同じく『所蔵写真目録 3 明治・大正・昭和の一宮 歴代市長』にも弥生館の写真あり。同じ写真だがトリミング範囲が異なる。((一宮市立豊島図書館『所蔵写真目録 3 明治・大正・昭和の一宮 歴代市長』一宮市立豊島図書館))。

1927年(昭和2年)の写真あり。1923年(大正12年)開館の弥生館は、一宮初となる鉄筋コンクリート造2階建ての映画館。松竹の現代映画が中心であり、栗島すみ子の『枯れすすき』は人気を呼び、通常は1日2回のところを1日3回上映された。弥生館は一宮空襲で焼失している。((「特集 映画館のない町」『City-1』1990年8月号、第12号、pp.23-37))
1927年(昭和2年)の写真あり。1923年(大正12年)開館の弥生館は、一宮初となる鉄筋コンクリート造2階建ての映画館。松竹の現代映画が中心であり、栗島すみ子の『枯れすすき』は人気を呼び、通常は1日2回のところを1日3回上映された。弥生館は一宮空襲で焼失している。((「特集 映画館のない町」『City-1』第12号、pp.23-37))

1927年の一宮市にあった活動写真常設館「弥生館」の写真あり。中宮町2丁目の「歌舞伎座」跡地に開館し、映画館としては一宮市初の鉄筋コンクリート増だった。収容人数は650人。主に松竹作品を上映した。1945年の空襲によって焼失した。((『写真アルバム 一宮市の百年』樹林舎、2021年、p.164))

** 友楽館
所在地 : 愛知県一宮市大志
開館 : 1923年
閉館 : 1945年
1923年(大正12年)、公園通1丁目に「友楽館」が開館した。一宮市東南部の発展を期しており、発起人は林利雄、滝多賀男、田中鉄三郎などである。木筋コンクリート造、客席は4階まであった大規模な劇場であり、1200人以上を収容した。当時一宮市にあった3館(朝日座・弥生館・友楽館)のうち最大であった。支配人は本多吉次郎であり、奇抜な興行振りは多くの市民に親しまれて来た。映画以外の寸劇またはレビューなどを組入れて、映画切替の間を埋めていた。主として松竹系の映画が多かったが、俳優を舞台に招いて挨拶させるなど、新しい興行策で繁栄を極めた。1945年7月の一宮空襲で焼失した。戦後は「一宮映画劇場」となった。((松本勝二『史録いちのみや』郷土出版社、1986年、p.146))

1923年(大正14年)11月、現在の公園通(本町通4丁目)に常設の活動写真館として「友楽館」が開館した。1945年(昭和20年)7月の一宮空襲で焼失した。戦後、跡地には「一宮松竹劇場」と「テアトル一宮」が開場した。((岩野見司(監修)『ふるさと一宮』郷土出版社、2011年、p.144))

一宮市立豊島図書館が刊行した『所蔵写真目録 2 明治・大正・昭和の一宮 有隣舎』に友楽館の写真あり。原典は1927年『続一宮市史全』。((一宮市立豊島図書館『所蔵写真目録 2 明治・大正・昭和の一宮 有隣舎』一宮市立豊島図書館))。

** 花岡劇場
所在地 : 愛知県一宮市
開館 : 1932年
閉館 : 1953年
基本的には演劇場。

一宮料理業組合によって、1931年(昭和6年)11月には広畑町に花岡劇場が着工し、1932年(昭和7年)6月1日に竣工した。木造2階建で防火のため外壁は着色モルタル塗、屋根はスレート葺としその建坪は361坪、収容人員、1500人を上回った。名義人は沢木明一、興行管理人は都築常三郎があたった。このこけら落としには関西大歌舞伎、実川延若が来演し華々しい門出であった。歌舞伎の殿堂として東西の有名一座が来演し、地方劇場としては賑やかな劇場であった。太平洋戦争時にも被害を受けることなく、終戦後には焼け野原と化した一宮でたった一つの娯楽施設として大きな使命を果たした。八百菊伊藤菊次郎氏によって、興行、経営され、特に構成音楽協会によって一流の芸能人が来宮し、すさみきった戦後の焼跡に明るい希望を与えたものだった。映画が台頭した1953年(昭和28年)に閉館した。((松本勝二『史録いちのみや』郷土出版社、1986年、p.147))

1932年(昭和7年)には劇場の花岡劇場が開館。各地から多方面の興行師や役者を迎え、戦前は一流の歌舞伎等も上演された。1945年(昭和20年)7月の一宮空襲をまぬがれており、1947年(昭和22年)には長谷川一夫が来演した。映画黄金時代に取り壊され、別の場所で映画館として事業は引き継がれている。((松本勝二(編著)『写真集 思い出のアルバム 昭和の一宮』郷土出版社、1983年、p.136))

一宮市立豊島図書館が刊行した『所蔵写真目録 3 明治・大正・昭和の一宮 歴代市長』に花岡劇場の写真あり。((一宮市立豊島図書館『所蔵写真目録 3 明治・大正・昭和の一宮 歴代市長』一宮市立豊島図書館))。

** 北栄館
所在地 : 愛知県一宮市
開館 : 1935年? 1943年?
閉館 : 1945年
1959年・1965年・1970年の住宅地図には掲載されていない。1950年・1955年・1960年の映画館名簿には掲載されていない。基本的には劇場。

1943年(昭和18年)8月、一宮市北部の発展策として杉戸町3丁目に北栄館が建設された。太田藤吉、築城国次郎など、30数人が発起人。木筋コンクリート建で、収容人員は420名、小型な寄席として開館されたが、映画館をも兼ねて北部にあって人気を集めていた。''北栄館''は市の中心を外れた条件としては不利な立場にあり好ましい成績を得ることはできなかった。ただ大きな記録として、オリンピック映画、美の祭典を独占上映した。演芸館としては市民に印象の少ない演芸館であった。((松本勝二『史録いちのみや』郷土出版社、1986年、p.148))

今ではこの北栄館も一宮市民には懐かしい映画館となった。((松本勝二(編著)『写真集 思い出のアルバム 昭和の一宮』郷土出版社、1983年、p.136))

1935年(昭和10年)、一宮市北部の発展のために30人ほどが発起人となり、杉戸町に「北栄館」が開館した。寄席と映画館を兼ねており、オリンピック映画『美の祭典』は独占上映した。北栄館は一宮空襲で焼失している。((「特集 映画館のない町」『City-1』1990年8月号、第12号、pp.23-37))
1935年(昭和10年)、一宮市北部の発展のために30人ほどが発起人となり、杉戸町に「北栄館」が開館した。寄席と映画館を兼ねており、オリンピック映画『美の祭典』は独占上映した。北栄館は一宮空襲で焼失している。((「特集 映画館のない町」『City-1』第12号、pp.23-37))

** 一宮東宝劇場
所在地 : 愛知県一宮市
開館 : 1937年
閉館 : 1945年
一宮市御朱印地町にあった満寿美座が閉館した後、1937年(昭和12年)10月には映画専門館の東宝劇場が開館した。戦前の一宮市にあった映画館4館の1つである。PCL映画、日活現代映画などを上映した。当時はすでにトーキー時代を迎えており、新しい感覚の映画館として若い層に人気を集めて行った。この時代日本はすでに支那事変下であり、徐々に軍事映画の作品が多くなり、坂東妻三郎の『将軍と参謀と兵』、小林勇の『五人斥候兵』などが上映されて人気を博した。一宮市に原節子の映画を紹介した劇場でもある。1945年(昭和20年)7月の一宮空襲で被害を受けて閉館した。((松本勝二『史録いちのみや』郷土出版社、1986年、p.148))

1937年(昭和12年)には一宮東宝劇場が開館したが、1945年(昭和20年)の一宮空襲で焼失している。跡地には一宮日活映画劇場が開館した。((「特集 映画館のない町」『City-1』1990年8月号、第12号、pp.23-37))
1937年(昭和12年)には一宮東宝劇場が開館したが、1945年(昭和20年)の一宮空襲で焼失している。跡地には一宮日活映画劇場が開館した。((「特集 映画館のない町」『City-1』第12号、pp.23-37))

** 一宮東映(初代)
所在地 : 愛知県一宮市千歳通2(1955年)
開館 : 1954年
閉館 : 1961年
地図 : [[「消えた映画館の記憶地図」一宮市付近>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=13fjGXjwANiUO7A-Y9cfGVgSA8ec&ll=35.3250847950696%2C136.764263280833&z=13]]
1959年の住宅地図では「一宮東映」。1960年の全商工住宅案内図帳では「一宮東映」。1955年・1960年の映画館名簿では「一宮東映」。1963年の全商工住宅案内図帳ではまだ「一宮東映」があり、2か所に「一宮東映」が記されているが理由は不明。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1966年の住宅地図協会ポータブル住宅地図では跡地に「千代田生命一宮営業所」。1970年の全商工住宅案内図帳では跡地に「千代田生命一宮営業所」。1970年のゼンリン住宅地図では跡地に「朝日生命保険相互一宮支社」。1985年の住宅地図では跡地に空白。跡地は「朝日生命ビル」。

1954年(昭和29年)8月、「八百菊」の愛称を持つ伊藤菊次郎によって「一宮東映」が開館し、「八百菊映画劇場」系列の中で東映作品の専門館として運営された。東映作品が人気を得ていった時代であり、中村錦之助、里見浩太朗、東千代之助などを一宮の時代劇ファンに紹介した。1961年(昭和36年)5月に閉館した。((松本勝二『史録いちのみや』郷土出版社、1986年、p.148))

** 一宮国際劇場/一宮メトロ劇場
所在地 : 愛知県一宮市八幡通(1956年)、愛知県一宮市八幡通3-3(1957年・1958年)、愛知県一宮市八幡通3(1959年)、愛知県一宮市八幡町3-3(1960年・1961年・1962年)、愛知県一宮市八幡通3-3(1963年)
開館年 : 1955年? 1957年5月?
閉館年 : 1963年以後1966年以前
地図 : [[「消えた映画館の記憶地図」一宮市付近>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=13fjGXjwANiUO7A-Y9cfGVgSA8ec&ll=35.3250847950696%2C136.764263280833&z=13]]
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年・1958年・1959年・1960年・1961年・1962年の映画館名簿では「一宮国際劇場」。1959年の住宅地図では「一宮国際劇場」。1960年・1963年の全商工住宅案内図帳では「国際劇場」。1963年の映画館名簿では「一宮メトロ劇場」。1966年の住宅地図協会ポータブル住宅地図では跡地に「パチンコマルコセンター」。1966年・1969年の映画館名簿には掲載されていないが理由は不明。1970年の全商工住宅案内図帳では跡地に「カネスエ駅西店」。1985年の住宅地図では跡地に「フレッシュスーパーAワン一宮店」。映画館の建物は「八丁商会月極駐車場」として現存。

1957年(昭和32年)5月、一宮駅の駅西地区の発展策として、神山に「国際劇場」が開館した。1971年(昭和46年)3月に閉館したとされるが資料に乏しい。その初期には名古屋の今枝隆義や松波義一が経営に関与していたとされる。((松本勝二『史録いちのみや』郷土出版社、1986年、p.149))

1960年の一宮市神山にあった映画館「一宮国際劇場」の写真あり。『拳銃無頼帖 電光石火の男』や『太平洋の嵐』の看板が見える。一宮駅の西側にあった映画館である。((『写真アルバム 一宮市の百年』樹林舎、2021年、p.166))

** オリエンタル劇場/オリエンタル映画劇場/一宮オリエンタル劇場
所在地 : 愛知県一宮市奥町貴船(1959年)、愛知県一宮市奥町字貴船40(1960年)、愛知県一宮市奥町字貴船(1963年)、愛知県一宮市奥町貴船40(1966年・1968年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1967年11月頃
地図 : [[「消えた映画館の記憶地図」一宮市付近>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=13fjGXjwANiUO7A-Y9cfGVgSA8ec&ll=35.3250847950696%2C136.764263280833&z=13]]
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年の映画館名簿では「オリエンタル劇場」。1960年・1963年の全商工住宅案内図帳では「オリエンタル劇場」。1963年の映画館名簿では「オリエンタル映画劇場」。1966年の住宅地図協会ポータブル住宅地図では「オリエンタル劇場」。1966年・1968年の映画館名簿では「一宮オリエンタル劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1970年の全商工住宅案内図帳では跡地に空き家。跡地は「貴船神明社」南西のマンション「コーポ貴船」。最寄駅は名鉄尾西線奥町駅。

1967年11月10日付『一宮タイムス』映画上映案内によると、「奥町 オリエンタル」の同日の上映作品は『学生妻』『異常な体験』『〇番地の女』の三本立。1967年11月11日付『一宮タイムス』映画上映案内には掲載されていない。((「映画上映案内」『一宮タイムス』1967年11月10日))

1967年(昭和42年)には「奥町オリエンタル」が閉館した。((「特集 映画館のない町」『City-1』1990年8月号、第12号、pp.23-37))
1967年(昭和42年)には「奥町オリエンタル」が閉館した。((「特集 映画館のない町」『City-1』第12号、pp.23-37))

** 萩原劇場
所在地 : 愛知県中島郡萩原町萩原(1955年)、愛知県一宮市萩原町1357(1968年)
開館年 : 1927年10月下旬
閉館年 : 1967年
地図 : [[「消えた映画館の記憶地図」一宮市付近>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=13fjGXjwANiUO7A-Y9cfGVgSA8ec&ll=35.3250847950696%2C136.764263280833&z=13]]
1960年・1963年の全商工住宅案内図帳では「萩原劇場」。1965年の住宅地図では「萩原劇場」。1960年・1963年・1966年・1968年の映画館名簿では「萩原劇場」。1966年の住宅地図協会ポータブル住宅地図では「萩原劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1970年のゼンリン住宅地図では「萩原劇場」。1970年の全商工住宅案内図帳では跡地に「尾西スーパーマーケット」。1981年の航空住宅地図帳では跡地に巨大な空き家。現在の跡地は民家。跡地には『一宮市萩原町史』の記述を出典にして萩原町郷土史研究会が監修した案内板が立てられている。

1927年10月下旬、「萩原劇場」が新築された。同年12月26日には公会堂が落成している。公会堂は和洋折衷の堂々たる建築であり、建築費は数万円、建築には3年を費やしている。((川瀬寛治『萩原町誌』萩原町教育会、1930年、p.62))

1927年(昭和2年)、回り舞台のある劇場として開館した。歌舞伎、芝居、歌謡ショー、プロレス、映画などの興行が行われた。1967年(昭和42年)に閉館した。((萩原町史編纂委員会『[[一宮市萩原町史>>https://blogs.yahoo.co.jp/sambar_water/36207135.html]]』萩原町史編纂委員会、1969年))

俳優・歌手の舟木一夫(本名は上田成幸)の父親である上田栄吉は、戦後に萩原劇場を購入して小屋主(支配人)となり、舟木一夫は「ワカ」「ボン」などと呼ばれて育った。萩原劇場はやがて劇場から映画館に転身し、時代劇や娯楽映画を上映するようになった。少年時代の経験から、舟木一夫は時代劇映画の役者を夢見た。(([[役者(前編)>>https://www.necoweb.com/neco/sp/funaki/column/000375.html]] 舟木一夫オン・ザ・ロード2014))

一宮市議会議長の三浦正義(75)の父親の三浦義太郎は萩原劇場の社長であり、歌手の舟木一夫(本名は上田成幸)の父親である上田栄吉は萩原劇場の興行師だった。舟木一夫が歌手を志望して上京した際には、三浦義太郎が支援を行った。萩原劇場は1927年に有志が出資して開館した劇場である。((「からすの子 ふるさと恋し、いい歌い手に」『中日新聞』1998年9月9日))

2010年には一宮尾西歴史民族資料館に、萩原劇場の看板、ファサードのイラスト、劇場があった当時の周辺の地図などが展示された。(([[萩原劇場>>https://www.youtube.com/watch?v=PC1tz0o4JoM]] YouTube))

「萩原劇場」の閉館年は不明である。「閉館した年もわからないとは情けない」(本文を引用)。((「特集 映画館のない町」『City-1』1990年8月号、第12号、pp.23-37))
「萩原劇場」の閉館年は不明である。「閉館した年もわからないとは情けない」(本文を引用)。((「特集 映画館のない町」『City-1』第12号、pp.23-37))

1956年の萩原町の商工会員名簿を確認したが萩原劇場は掲載されていないと思われる。((『中島郡沿革 商工要覧 1956』中島郡商工連合会、1955年))

** 東一宮東映劇場/一宮東東映会館/一宮ひがし映画劇場
所在地 : 愛知県一宮市川田町
開館 : 1958年
閉館 : 1967年
地図 : [[「消えた映画館の記憶地図」一宮市付近>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=13fjGXjwANiUO7A-Y9cfGVgSA8ec&ll=35.3250847950696%2C136.764263280833&z=13]]
1959年の住宅地図では「東一宮東映劇場」。1960年の全商工住宅案内図帳では「東一宮東映劇場」。1960年の映画館名簿では「東一宮東映劇場」。1963年の全商工住宅案内図帳では「一宮松竹映劇」。1963年の映画館名簿では「一宮ひがし日活」。1966年の住宅地図協会ポータブル住宅地図では「一宮松竹映劇」。1966年の映画館名簿では「一宮ひがし映画劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1970年の全商工住宅案内図帳では跡地に「国民金融公庫」。1970年のゼンリン住宅地図では跡地に「一宮国民金融公庫」。1985年の住宅地図では跡地に「国民金融公庫一宮支店」。跡地は跡地は「名鉄東一宮ハイツ」南西30mにある「日本政策金融公庫一宮支店」。

1958年(昭和33年)6月、解体された「一宮松竹」の資材をもって川田町に「一宮東東映」が開館した。「一宮松竹」の系列の映画館であり、名義者は松波義一だった。東映作品を上映する二番館であり、一宮東部の発展に寄与した。1967年(昭和42年)4月に閉館した。((松本勝二『史録いちのみや』郷土出版社、1986年、p.149))

** 浅井劇場/浅井東映
所在地 : 愛知県一宮市浅井町前野(1960年)
開館年 : 1955年
閉館年 : 1967年以後1969年以前
地図 : [[「消えた映画館の記憶地図」一宮市付近>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=13fjGXjwANiUO7A-Y9cfGVgSA8ec&ll=35.3250847950696%2C136.764263280833&z=13]]
1960年・1963年の全商工住宅案内図帳では「浅井映劇」。1960年の映画館名簿では「浅井劇場」。1963年の映画館名簿では「浅井東映」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1970年のゼンリン住宅地図では跡地に「パチンコ浅井センター」。1971年の住宅地図では跡地に「浅井パチンコセンター」。現在の跡地は「平安会館浅井斎場」。

1955年(昭和30年)、小林興業が葉栗郡浅井町/一宮市浅井町(葉栗郡浅井町が一宮市に編入されたのは1955年のことであるため、映画館建設時の自治体名は不明)前野地内に「浅井映画劇場」を開館させた。『一宮市浅井町史』が刊行された1967年(昭和42年)現在も興業を続けている。なお、葉栗郡浅井町には1930年から1938年まで「浅井劇場」という名称の劇場があった。((一宮市浅井町史編纂委員会『一宮市浅井町史』一宮市役所浅井支所、1967年、p.660))

「浅井映画館」の閉館年は不明である。「閉館した年もわからないとは情けない」(本文を引用)。((「特集 映画館のない町」『City-1』1990年8月号、第12号、pp.23-37))
「浅井映画館」の閉館年は不明である。「閉館した年もわからないとは情けない」(本文を引用)。((「特集 映画館のない町」『City-1』第12号、pp.23-37))

** 奥町劇場/奥町東映/奥町東映劇場
所在地 : 愛知県中島郡奥町芝原28(1953年・1955年)、愛知県一宮市奥町芝原28(1958年)、愛知県一宮市奥町芝原(1960年)、愛知県一宮市奥町芝原28(1963年・1966年・1968年)
開館年 : 1935年11月3日
閉館年 : 1968年5月31日
地図 : [[「消えた映画館の記憶地図」一宮市付近>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=13fjGXjwANiUO7A-Y9cfGVgSA8ec&ll=35.3250847950696%2C136.764263280833&z=13]]
1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「奥町劇場」。1960年・1963年の全商工住宅案内図帳では「奥町東映」。1960年・1963年の映画館名簿では「奥町東映」。1966年・1968年の映画館名簿では「奥町東映劇場」。1966年の住宅地図協会ポータブル住宅地図では「奥田東映」(※奥田は奥町の誤字と思われる)。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1971年の全商工住宅案内図帳では跡地に空白。1976年の航空住宅地図帳では跡地に「グランド」。現在の跡地は美容院「ヘアーサロンサツキ」を含む約10軒分の民家。最寄駅は名鉄尾西線奥町駅。

1935年11月3日、「奥町劇場」が落成した。写真あり。((『奥町誌』奥町教育会、1936年))

1968年5月31日付『一宮タイムス』映画上映案内によると、「奥町東映」の同日の上映作品は『泣きどころ』『赤い肉』『続 悪徳』の三本立。1968年6月1日付『一宮タイムス』映画上映案内によると、「奥町東映」は「休館」。((「映画上映案内」『一宮タイムス』1968年5月31日))

1956年の奥町の商工会員名簿には奥町劇場が掲載されているがオリエンタル劇場は掲載されていない。奥町劇場の代表者は加藤信禧。((『中島郡沿革 商工要覧 1956』中島郡商工連合会、1955年、p.19))

** 一宮ステーション劇場/一宮ステーション東映
所在地 : 愛知県一宮市長良町1-19(1955年)、愛知県一宮市長良町2(1969年)
開館 : 1955年7月
閉館 : 1972年12月22日頃
地図 : [[「消えた映画館の記憶地図」一宮市付近>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=13fjGXjwANiUO7A-Y9cfGVgSA8ec&ll=35.3250847950696%2C136.764263280833&z=13]]
1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1960年の映画館名簿では「一宮ステーション劇場」。1959年の住宅地図では「ステーション劇場」。1960年・1963年の全商工住宅案内図帳では「ステーション劇場」。1963年の映画館名簿では「一宮ステーション東映」。1966年の住宅地図協会ポータブル住宅地図では「第二東映 ステーション劇場」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「一宮ステーション映画劇場」。1970年の全商工住宅案内図帳では「第二東映 ステーション劇場」。1970年のゼンリン住宅地図では「一宮ステーション劇場」。1974年・1976年の映画館名簿には掲載されていない。1985年の住宅地図では跡地に駐車場。跡地は「秀英予備校一宮本部公」西の月極有料駐車場。

1955年(昭和30年)7月には一宮駅北側の長良町に「ステーション劇場」が開館した。名義人は矢田三左右衛門。興行管理は松波義一。1972年(昭和47年)9月に閉館した。((松本勝二『史録いちのみや』郷土出版社、1986年、p.149))

1972年12月22日の『一宮タイムス』「映画案内」。「ステーション映劇」の欄には「22日まで 成人映画指定 『蛇女の熱い肌』『絶妙のテクニック』『温泉セックス風呂』」「男子従業員募集 18〜45迄」と書かれている。((『一宮タイムス』1972年12月22日))

1972年12月23日の『一宮タイムス』「映画案内」。「ステーション映劇」の欄には「閉鎖」と書かれている。((『一宮タイムス』1972年12月23日))

** 一宮日活映画劇場/一宮日活劇場
所在地 : 愛知県一宮市御朱印地町2(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館 : 1946年
閉館 : 1972年1月18日頃? 1973年?
地図 : [[「消えた映画館の記憶地図」一宮市付近>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=13fjGXjwANiUO7A-Y9cfGVgSA8ec&ll=35.3250847950696%2C136.764263280833&z=13]]
1959年の住宅地図では「一宮日活」。1960年の全商工住宅案内図帳では「一宮日活」。1953年・1955年・1960年の映画館名簿では「一宮日活映画劇場」。1963年の全商工住宅案内図帳では「一宮日活」。1966年の住宅地図協会ポータブル住宅地図では「一宮日活」。1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「一宮日活劇場」。1970年の全商工住宅案内図帳では「一宮日活」。1970年のゼンリン住宅地図では「一宮日活」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。1985年の住宅地図では跡地に「本町パーキングビル」。跡地は「一宮本町パーキングビル」。

戦後の1946年(昭和21年)5月、御朱印地町にあった「一宮宝塚劇場」跡に「一宮日活映画劇場」が開館した。日活の直営館であり、洋画や日活作品が中心だった。1960年(昭和35年)4月には鉄筋コンクリート造の建物を新築し、収容人数は1200人となった。一宮市の中心地にあったことから繁栄を極め、石原裕次郎、長門裕之、小林旭などを一宮市民に紹介した。晩年は洋画専門館であったが、1973年(昭和48年)後半には閉館した。その後本町通商店街の駐車場ビルとなった。((松本勝二『史録いちのみや』郷土出版社、1986年、p.148))

1950年頃の一宮市本町にあった映画館「一宮日活映画劇場」の写真あり。ゲイリー・クーパーとイングリッド・バーグマン主演作『サラトガ本線』の看板が見える。1946年から1973年まで、御朱印地町2丁目にあり、ほぼ洋画専門館だった。1960年4月には鉄筋コンクリート造の建物に建て替えられ、収容人数は1200人となった。跡地は本町パーキングビルとなった。((『写真アルバム 一宮市の百年』樹林舎、2021年、p.166))

1960年の正月に撮られた、一の宮本町にあった映画館「一宮日活」の写真。正面には石原裕次郎の手書き看板があり、開場を待つファンが行列をつくっている。書店「蛍光堂」の店主である平出雅則さん(71)は、「今でも、日活の映画館前の本屋ですって言うと、通じるお年寄りが多いんだよね」と話す。一宮日活は午後10時ごろまで上映を行い、繊維会社に集団就職した女性従業員の観客も多かった。映画を観るついでに本を買う客のために夜遅くまで営業したという。観客数の減少によって一宮日活も閉館し、商店街の有志十数人が一宮日活の土地を買い取って立体駐車場ビル「本町パーキングビル」を建設した。4階建てで161台収容できる。((「写真でみる尾張いまむかし 一宮・本町パーキングビル 大衆の夢咲いた『日活』」中日新聞、2009年11月15日))

1960年(昭和35年)の写真あり。一宮市大志。戦後には御朱印地町(現在の本町3丁目)に「日活映画劇場」が開館した。石原裕次郎・小林旭・赤木圭一郎・浅丘ルリ子・吉永小百合らの活躍で日活映画が黄金時代を築いた昭和30年代には、常に大勢の観客が詰めかけた。織物工場で働く女性の観客も多かった。((岩野見司(監修)『ふるさと一宮』郷土出版社、2011年、p.144))

1964年頃に一宮市役所から南を望む写真あり。中央の建物は映画館「一宮日活映画劇場」(一宮日活)である。吉永小百合や浅丘ルリ子など日活の4大女優が共演した『若草物語』の看板が見える。((『写真アルバム 一宮市の百年』樹林舎、2021年、p.119))

一宮市立豊島図書館『所蔵写真目録 4』には望楼(一宮市役所?)から一宮市街地南部を見た写真がある。中央に「日活劇場」が映っている。日活劇場の左手(東側)の道は人形町。戦後すぐ(1945年-1947年頃)だと思われるが撮影年は不明。((一宮市立豊島図書館『所蔵写真目録 4 明治・大正・昭和の一宮 戦中・戦後 町村合併』一宮市立豊島図書館))。

一宮市立豊島図書館『所蔵写真目録 8』には1960年正月の「日活映画館」の写真が2枚あり。小林旭主演『銀座旋風児 黒幕は誰だ』(1959年)と石原裕次郎主演『男が命を賭ける時』(1959年)のポスターが見える。((一宮市立豊島図書館『所蔵写真目録 8』一宮市立豊島図書館))。

1972年1月18日の『一宮タイムス』「映画案内」。「一宮日活」では『色暦 女浮世絵師』と『花芯の誘い』を上映。((『一宮タイムス』1972年1月18日))

1972年1月19日の『一宮タイムス』「映画案内」。「一宮日活」の欄がなくなっている。((『一宮タイムス』1972年1月19日))

** 一宮映画劇場/一宮松竹映画劇場/一宮松竹映劇・一宮宝塚
所在地 : 愛知県一宮市公園通1-10(1955年)、愛知県一宮市公園通1(1969年・1973年)
開館 : 1946年、1958年(ビル化)
閉館 : 1973年3月30日
地図 : [[「消えた映画館の記憶地図」一宮市付近>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=13fjGXjwANiUO7A-Y9cfGVgSA8ec&ll=35.3250847950696%2C136.764263280833&z=13]]
1953年・1955年・1960年・1963年の映画館名簿では「一宮松竹映画劇場」。1959年の全商工住宅案内図帳では北側に「一宮松竹映劇」、南側に「一宮宝塚」。1963年の全商工住宅案内図帳では南側に「一宮テアトル松竹」、北側に「一宮宝塚」。1966年の映画館名簿では「一宮テアトル松竹・一宮宝塚劇場」。1966年の住宅地図協会ポータブル住宅地図では南側に「一宮テアトル松竹」、北側に「一宮宝塚」。1969年・1973年の映画館名簿では「テアトル一宮・一宮松竹劇場」(2館)。1970年の全商工住宅案内図帳では北側に「一宮松竹」(※一宮宝塚ではない)、南側に「一宮テアトル松竹」。1970年のゼンリン住宅地図では「一宮宝塚・一宮テアトル松竹」。1974年・1976年の映画館名簿には掲載されていない。1985年の住宅地図では跡地に駐車場。跡地は「三井住友海上火災保険一宮第一支社」。

1946年(昭和21年)12月、松波義一によって公園通1丁目の友楽館跡に、「一宮映画劇場」が開館した。当時劇場建設については戦前の権利者が優先したもので、本多楽水氏名義を、豊橋映画合同株式会社代表松波義一に譲渡してなったもので、後この豊橋映画合同株式会社は尾張部、三河部に分かれ劇場建設後に解散した。1950年(昭和25年)には「一宮松竹映画劇場」に改称したが、建物は1957年(昭和32年)に解体された。((松本勝二『史録いちのみや』郷土出版社、1986年、p.148))

1957年(昭和32年)に閉館した旧「一宮松竹」の建物を解体後、1958年(昭和33年)9月には鉄筋コンクリート造2階建の建物を新築し、1階に「一宮宝塚劇場」が、2階に「一宮松竹映画」が開館した。収容人員は両館ともに1200人であり、一宮宝塚劇場は東宝作品を、一宮松竹映画は松竹作品を一宮市内で独占的に上映した。経営者の松波義一は東海地方の映画業界でよく知られた人物であり、松波が手掛ける映画館は豊橋、岡崎、大垣、津島、小牧、一宮と数十館にのぼった。一宮松竹は1973年(昭和48年)10月に閉館した。((松本勝二『史録いちのみや』郷土出版社、1986年、p.149))

1961年頃に一宮市役所庁舎望楼から南を望んだ写真あり。右の巨大な建物は映画館「一宮宝塚劇場・一宮テアトル松竹」のビルである。中央は旧国道22号である。((『写真アルバム 一宮市の百年』樹林舎、2021年、p.119))

1961年頃の一宮市本町にあった映画館「一宮松竹」の写真あり。出入り口の扉に「完全冷」と書かれている。一般家庭に冷房装置が普及する前のことだった。((『写真アルバム 一宮市の百年』樹林舎、2021年、p.165))

1958年と1970年の一宮市本町にあった映画館「一宮宝塚劇場」と「一宮松竹映画」の写真あり。1958年開館。鉄筋コンクリート造2階建てであり、1階が一宮宝塚劇場、2階が一宮松竹映画だった。一宮市に置いて一宮宝塚劇場は東宝作品を、一宮松竹映画は松竹作品を独占的に上映した。((『写真アルバム 一宮市の百年』樹林舎、2021年、p.164))

1973年3月30日をもって、一宮市公園通1にある映画館「一宮松竹」と「テアトル一宮」が閉館した。株式会社一宮松竹が経営。「日活劇場」に続き、1972年暮れには「ステーション劇場」が廃館している。一宮市の映画館は5館にまで減少した。1923年に現在地に「友楽館」として開館し、1945年に戦災で焼失した後、いちはやく再建された。1957年には現在のビルとなり、一宮松竹とテアトル一宮を併設する形となった。テアトル一宮には70ミリフィルムと35ミリフィルム併用の映写機がある。なお、現在の「マスミ劇場」が改装されて松竹作品の上映館となり、4月中旬に営業を開始する予定である。((「また映画館が消える 30日限り閉館 『一宮松竹』と『テアトル一宮』」『一宮タイムス』1973年3月31日))

1973年3月30日の『一宮タイムス』の映画案内。「一宮松竹」では『花と龍(一部二部一挙上映)』を上映。「テアトル一宮」では『レマゲン鉄橋』『ガンマン大連合』『続 夜の大捜査線』を上映。((「映画案内」『一宮タイムス』1973年3月30日))

1973年3月31日の『一宮タイムス』の映画案内。「一宮松竹」と「テアトル一宮」の欄がなくなっている。((「映画案内」『一宮タイムス』1973年3月31日))

** 八百菊映画劇場/八百菊劇場/一宮八映/一宮大映/一宮大映劇場
所在地 : 愛知県一宮市本町通5-35(1969年・1973年)
開館年 : 1945年
閉館年 : 1974年1月6日
地図 : [[「消えた映画館の記憶地図」一宮市付近>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=13fjGXjwANiUO7A-Y9cfGVgSA8ec&ll=35.3250847950696%2C136.764263280833&z=13]]
1953年の映画館名簿では「八百菊映画劇場」。1955年の映画館名簿では「八百菊劇場」。1959年の住宅地図では「八映」。1960年の全商工住宅案内図帳では「大映劇場」。1960年の映画館名簿では「一宮八映」。1963年の全商工住宅案内図帳では「大映劇場」。1963年の映画館名簿では「一宮大映」。1966年の住宅地図協会ポータブル住宅地図では「一宮大映劇場」。1966年・1969年の映画館名簿では「一宮大映劇場」。1970年の全商工住宅案内図帳では「一宮大映劇場」。1970年のゼンリン住宅地図では「大映劇場」。1974年の映画館名簿では「一宮八映劇場」。1975年・1976年の映画館名簿には掲載されていない。1985年の住宅地図では跡地に駐車場。跡地は「百五銀行一宮支店」西側の「名鉄協商パーキング」。

1945年(昭和20年)には一宮空襲で朝日座の建物が焼失し、戦後には朝日座跡地に寄席の八百菊劇場が開館した。1946年(昭和21年)には洋画専門映画館の八百菊映画劇場となり、「八映」の名で市民に親しまれた。一宮大映という名称だった記事もある。「八映」は大映専門館として、1974年(昭和49年)1月まで営業を続けた。大映の人気とともに興隆し、大映の斜陽と共に衰退した映画館のひとつであった。1989年時点の跡地は「市役所北」交差点の八百菊貸店舗にあたる。((松本勝二・平田伸夫(監修)『写真集 一宮・尾西・木曽川いまむかし』名古屋郷土出版社、1989年、p.116))

1945年(昭和20年)12月、伊藤勤によって寄席劇場の八百菊劇場が設立された。翌1946年(昭和21年)7月には洋画専門館の八百菊映画劇場(通称八映)となり、1955年(昭和30年)には一宮大映に改称した。1961年(昭和36年)1月6日には火災で全焼し、同年11月に鉄筋コンクリート造の劇場が開館。一宮大映のまま興行したが、当時は映画の乱立時代であり、東宝作品や松竹作品も上映した。1966年(昭和41年)に洋画専門館に転じ、再び八百菊映画に改称。その後はまた大映映画専門館となり、1974年(昭和49年)1月6日に閉館した。((松本勝二『史録いちのみや』郷土出版社、1986年、p.148))

1961年に一宮市役所から北を望んだ写真あり。中央の白い建物は映画館「大映劇場」である。((『写真アルバム 一宮市の百年』樹林舎、2021年、p.119))

1974年1月6日をもって、一宮市にある映画館「八映」が休館した。伊藤勤社長。洋画の名作を中心に上映し、学生などの洋画ファンに親しまれていた。1972年の一宮市には9館の映画館があったが、その後閉館が相次いでいる。1973年3月末には「一宮松竹」と「一宮テアトル」が閉館し、今回は八映が休館したことで残るのは4館となった。((「『八映』ついに閉館 洋画ファンに惜しまれ」『一宮タイムス』1974年1月8日))

** マスミ映画劇場/一宮松竹マスミ劇場
所在地 : 愛知県一宮市西之町(1963年・1966年・1969年)、愛知県一宮市松降1-8-12(1976年・1980年)
開館 : 1960年4月
閉館 : 1982年4月? 1982年12月以降?
地図 : [[「消えた映画館の記憶地図」一宮市付近>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=13fjGXjwANiUO7A-Y9cfGVgSA8ec&ll=35.3250847950696%2C136.764263280833&z=13]]
1959年の住宅地図には掲載されておらず住宅地。1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の全商工住宅案内図帳では「マスミ映劇」。1963年の映画館名簿では「マスミ映画劇場」。1966年の住宅地図協会ポータブル住宅地図では「マスミ映劇」。1966年の映画館名簿では「一宮マスミ松竹映画劇場」。1969年の映画館名簿では「一宮マスミ映劇」。1970年の全商工住宅案内図帳では「マスミ映劇」。1970年のゼンリン住宅地図では「マスミ映劇」。1976年・1980年の映画館名簿では「一宮松竹マスミ劇場」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。1985年の住宅地図では跡地に駐車場。跡地は「一宮市スケート場駐車場」。

1960年(昭和35年)4月、一宮松竹の系列館として、一宮市松降の真清田神社東に「マスミ映画劇場」が開館した。収容人員は300人。松竹の二番館だった。名義人は松波義一。1982年(昭和57年)4月に閉館した。((松本勝二『史録いちのみや』郷土出版社、1986年、p.149))

1973年3月31日の『一宮タイムス』の映画案内。「マスミ映劇」の欄には「31日まで」「日活ポルノ・成人向」とあり、『裸の履歴書』『深夜の享楽』『尼寺淫の門』を上映。((「映画案内」『一宮タイムス』1973年3月31日))

1973年4月3日の『一宮タイムス』の映画案内。「マスミ映劇」の欄には「改装のため休館」とある。((「映画案内」『一宮タイムス』1973年4月3日))

1973年4月20日の『一宮タイムス』の映画案内。「マスミ映劇」では『同棲時代』と『としごろ』を上映。上映再開日に関する記載なし。((「映画案内」『一宮タイムス』1973年4月20日))

1982年12月28日の『一宮タイムス』の映画案内。「松竹マスミ」では『男はつらいよ 花も嵐も寅次郎』と『次郎長青春篇 つっぱり清水港』を上映。((「映画案内」『一宮タイムス』1982年12月28日))

** 一宮東宝映画劇場/一宮東宝劇場
所在地 : 愛知県一宮市新柳通3-12(1966年・1969年)、愛知県一宮市本町3-6-7(1976年・1980年・1985年)
開館 : 1946年
閉館 : 1987年8月31日
地図 : [[「消えた映画館の記憶地図」一宮市付近>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=13fjGXjwANiUO7A-Y9cfGVgSA8ec&ll=35.3250847950696%2C136.764263280833&z=13]]
1953年の映画館名簿では「一宮東宝劇場」。1955年の映画館名簿では「一宮東宝映画劇場」。1959年の住宅地図では「一宮東宝」。1960年・1963年の全商工住宅案内図帳では「一宮東宝」。1966年の住宅地図協会ポータブル住宅地図では「一宮東宝」。1960年・1963年・1966年・1969年・1976年・1980年・1985年の映画館名簿では「一宮東宝劇場」。1970年の全商工住宅案内図帳では「一宮東宝」。1970年のゼンリン住宅地図では「一宮東宝」。1985年の住宅地図では「一宮東宝劇場」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「東進衛星予備校愛知一宮校」。

1946年(昭和21年)10月、東宝の直営館として新柳通に「一宮東宝映画劇場」が開館した。開館当日には作曲家の古賀政男がここで演奏を行ったが、このことはあまり多くの人には知られていない。開館当時は洋画専門館だったが、各社の映画を上映した。1951年(昭和26年)10月に東宝の系列会社である中部興行の直営館となった。三船敏郎、志村隆などの主演作を上映して人気を得た。1986年現在も興行を続けている。((松本勝二『史録いちのみや』郷土出版社、1986年、p.148))

1987年(昭和62年)8月31日をもって、一宮市本町3-6にある映画館「一宮東宝映画劇場」が閉館する。1946年(昭和21年)10月に東宝の直営館として開館し、同日には作曲家の古賀政男が本館で来演している。1961年(昭和36年)10月には東宝の傍系会社の直営館となった。昭和50年代前半には娯楽が多様化し、ビデオが普及したり、新作映画がテレビで放送される時代になったことから、観客数が減少していた。現在の一宮市には一宮東宝、一宮東映、菊映の3館のみとなっていた。((「一宮東宝ついに閉館 映画の不振、淋しく」『一宮タイムス』1987年8月12日))

** 一宮菊映/一宮菊映劇場/菊映
所在地 : 愛知県一宮市常念町9(1963年・1969年)、愛知県一宮市大江1-12-7(1976年・1980年・1985年)
開館 : 1953年、1964年(ビル化)
閉館 : 1988年11月25日
地図 : [[「消えた映画館の記憶地図」一宮市付近>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=13fjGXjwANiUO7A-Y9cfGVgSA8ec&ll=35.3250847950696%2C136.764263280833&z=13]]
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1959年の住宅地図では「菊映」。1960年の全商工住宅案内図帳では「菊映」。1960年・1963年の映画館名簿では「一宮菊映」。1963年の全商工住宅案内図帳では「菊映」。1966年の映画館名簿では経営者が伊藤義郎、支配人が滝博治、木造1階冷暖房付、320席、洋画を上映。1966年の住宅地図協会ポータブル住宅地図では「菊映会館」。1966年の映画館名簿では経営者が菊映興業、支配人が滝博治、鉄筋3階冷暖房付、288席、洋画を上映。1966年・1969年・1976年・1980年の映画館名簿では「一宮菊映劇場」。1970年の全商工住宅案内図帳では「菊映会館」。1970年のゼンリン住宅地図では「菊映」。1980年の映画館名簿では経営会社が菊映興業、経営者・支配人ともに鷲見英昭、鉄筋2階、266席、洋画・成人映画を上映。1985年の映画館名簿では「菊映」。1985年の住宅地図では「菊映」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は1964年竣工で5階建ての「パールプラザ2」。

1953年(昭和28年)、解体された「花岡劇場」の資材を用いて、伊藤菊次郎によって常念町に寄席の「菊劇場」が開館した。1955年(昭和30年)には鉄筋コンクリート造の菊ビルが新築され、4月には同ビル内に洋画専門館の「一宮菊映映画劇場」が開館した。1986年(昭和61年)現在も興行を続けている。名義人は伊藤義郎。((松本勝二『史録いちのみや』郷土出版社、1986年、p.148))

1988年(昭和63年)11月25日、一宮市大江1-13にある映画館「菊映」が閉館する。1945年の一宮空襲では花岡劇場が焼け残り、花岡劇場を引き継ぐ形で劇場の「菊劇場」として開館、1958年(昭和33年)に映画館に転換した。女性向けの洋画などを上映し、繊維工場で働く女工の人気を集めた。昭和50年代にはレジャーが多様化し、1981年(昭和56年)頃からは家庭にビデオが普及したことから、観客数は全盛期の1/100である1日20-30人となっていた。一宮市の映画館は昭和30年代には11館もあったが、1987年(昭和62年)夏には一宮東宝が閉館し、菊映と一宮東映だけになっていた。なお、菊映の閉館日は11月25日であるが、11月20日から上映を打ち切っている。((「消えた映画の灯り 菊映ついに閉館 残るは東映だけ」『一宮タイムス』1988年11月23日))

** 一宮中央劇場/一宮中央東映劇場/一宮東映劇場
所在地 : 愛知県一宮市東町50(1963年・1966年・1969年・1976年・1980年・1985年)、一宮市松降1-3-28(1990年)
開館 : 1961年2月
閉館 : 1990年4月8日
地図 : [[「消えた映画館の記憶地図」一宮市付近>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=13fjGXjwANiUO7A-Y9cfGVgSA8ec&ll=35.3250847950696%2C136.764263280833&z=13]]
1959年の住宅地図では「一宮中央劇場建設用地」とある。1960年の全商工住宅案内図帳では「一宮中央劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の全商工住宅案内図帳では「一宮東映」。1963年の映画館名簿では「一宮中央劇場」。1966年の住宅地図協会ポータブル住宅地図では「一宮東映」。1966年・1969年・1976年の映画館名簿では「一宮中央東映劇場」。1970年の全商工住宅案内図帳では「一宮東映」。1970年のゼンリン住宅地図では「一宮東映」。1985年の住宅地図では「一宮東映」。1985年・1990年の映画館名簿では「一宮東映劇場」。跡地は月極駐車場「トーエイパーキング」。

1961年(昭和36年)2月、伊藤菊次郎によって東町に「一宮中央劇場」が開館した。洋画専門館として開館したが、1961年(昭和36年)5月に「駅前東映」が閉館したことで、「一宮東映」に改称して東映作品の専門館となった。名義人長崎勇氏だった。1986年(昭和61年)現在も週1、2回の定体を持って興行を続けている。((松本勝二『史録いちのみや』郷土出版社、1986年、p.148))

1961年頃の一宮市にあった各館の映画看板の写真あり。「東映、「菊映」(八百菊)、「日活」、「東宝」などの看板が並んでいる。東映で公開されていた『家光と彦佐と一心太助』の看板が目立つ。((『写真アルバム 一宮市の百年』樹林舎、2021年、p.150))

1990年4月8日、一宮市唯一の映画館「一宮東映」が閉館する。昭和30年代には一宮市内に11館の映画館があったが、映画ファンの減少、ビデオブーム、名古屋や岐阜に客を取られるなどして、人口26万の織物の年でついにゼロとなる。1987年頃までは3館があり、一宮東映も正月や春夏休みの客足でまずまず採算が取れていた。1987年に一宮東宝が、1988年に一宮菊映が閉館すると、平日で10-30人、日曜日でも50-60人まで客数が減少した。小島支配人は「駐車場施設がなくニーズに合わなかった。若い人は名古屋や岐阜に行ってしまう。ショッピングなどプラスアルファの魅力がない」と話す。((「映画館が消える! 26万都市一宮から ビデオ普及ファン激減 きょう限り」『中日新聞』1990年4月8日))

1990年4月8日をもって、一宮市唯一の映画館である一宮東映が閉館する。松降一丁目。小島潤二支配人。一宮市は名古屋市や岐阜市に近いうえに、一宮東映と競合する映画館が相次いで閉館したことでも客足が遠のいた。1961年2月、青果市場の跡地に個人経営の一宮中央劇場として開館。映画黄金期の当時は中心市街地に11館の映画館があった。映画ブームの終焉に加えて、繊維産業の低迷で女子工員などの若者が減り、さらに名古屋市や岐阜市の映画館に客が流れた。1980年には東映の直営館となり一宮東映に改称したが、ロードショー作品も赤字になる始末だった。1988年に一宮東宝と一宮菊映の2館が閉館すると、観客数の減少が深刻となり、平日で20人前後、休日でも100人未満となったことで、1989年末に閉館が決定した。一宮映画サークルの青山直樹さんは「映画産業の衰退もあるが、町自体にも問題がある」と話す。((「26万都市、映画館消える 一宮 若者減りビデオ普及」『朝日新聞』1990年4月8日))

1990年4月8日をもって、一宮市唯一の映画館「一宮東映」が閉館した。昭和30年代には近くにダンスホールもあったが、現在は駅から15分の場所にポツンと1館が存在していた。名古屋市に近い26万都市から映画館が消えたことにショックを隠せない映画ファンもいるが、愛知県内の映画館数は一時期よりも増えており、名古屋市の繁華街にある映画館やミニシアターが健闘している。((「映画館客も“一極集中”、立地優位の名古屋市内、徐々に人気復活」『日本経済新聞』1990年4月13日))

* 尾西地域
** 尾西市の映画館
1955年(昭和30年)当時の起には映画館が「あづま劇場」「起映画劇場」「尾西映画劇場」の3館あり、たいへんなにぎわいを見せていた。小さいがそれぞれの館の写真あり。((『わがまち尾西 尾西市制50年史』一宮市尾西歴史民俗資料館、2006年、p.14))

1956年の尾西市の商工会員名簿には「映画館」の欄に「起劇場」と「起映画館」と「三条座」がある。起劇場の代表者は記載なし、所在地は起栄町。起映画館の代表者は伊藤日出雄、所在地は起伝馬町。三条座の代表者は大島正一、所在地は三条。((『中島郡沿革 商工要覧 1956』中島郡商工連合会、1955年、p.60))

*** 三条座
所在地 : 愛知県中島郡起町(1943年)、愛知県中島郡起町156(1946年・1950年)、愛知県中島郡起町起156(1953年)、愛知県中島郡起町156(1955年)、愛知県尾西市起町用水添313-1(1958年)、愛知県尾西市起伝馬町313(1959年)、愛知県尾西市起町伝馬313(1960年)
開館年 : 1930年5月8日
閉館年 : 1947年
1930年・1936年・1943年・1946年・1947年の映画館名簿には掲載されていない。

2002年現在の尾西市東五城字備前の神田たばこ店の奥、かつて五色文化服装学院があった場所には「三条座」があった。1929年11月に建設を出願し、1930年4月18日に諸芸場として許可を受けると、同年5月8日に竣工・開館した。1933年5月10日には常設劇場として許可を受け、1940年10月8日には内部に映写室が設けられた。「起劇場」とは異なり、三条座に廻り舞台は設けられていなかった。1945年に一宮市街地が一宮空襲で被災すると、一宮市街地が復興するまで三条座は盛況だったが、戦後の1947年に閉館した。((『特別展 尾西の今昔 午年』尾西市歴史民俗資料館、2002年、p.8))

** 起映画劇場
所在地 : 愛知県中島郡起町(1943年)、愛知県中島郡起町156(1946年・1950年)、愛知県中島郡起町起156(1953年)、愛知県中島郡起町156(1955年)、愛知県尾西市起町用水添313-1(1958年)、愛知県尾西市起伝馬町313(1959年)、愛知県尾西市起町伝馬313(1960年)
開館年 : 1938年
閉館年 : 1960年頃
地図 : [[「消えた映画館の記憶地図」一宮市付近>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=13fjGXjwANiUO7A-Y9cfGVgSA8ec&ll=35.3250847950696%2C136.764263280833&z=13]]
1943年・1946年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「起映画劇場」。1960年の全商工住宅案内図帳では「起映劇」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1968年の全商工住宅案内図帳では跡地に「パチンコ起会館」。1979年の住宅地図では跡地に「パチンコ起会館」。跡地は「いちい信用金庫起支店」西200mの呉服店「扇屋」。「起映画館」とも呼ばれた。

尾西市域に最も早くできた劇場は、1910年(明治43年)開業の千歳座である。1925年(大正14年)に経営組織を改変し、「起劇場」に改称すると、主に浪花節や講談の興行で賑わっていた。1938年(昭和13年)になると、名鉄蘇東線起停留所のすぐ傍の起街道沿いに、「起映画劇場」が開館した。地元の人々や地方から乗り物工場へ就職した女子従業員の娯楽の場として繁盛した。1954年(昭和29年)に名鉄蘇東線が廃止されると、映画フィルムの入ったリール巻を運ぶ役割をバスが担い、起停留所の出札所にリール巻を置いておけば、映画館の従業員が取りにくることになっていた。それでバスの運転手は、無料で映画を見ることができたという。1955年(昭和30年)には21世紀映画社製作の『毛織物王国尾西市』という記録映画も封切られ、中部6県の大映系映画館で一斉に上映された。起映画劇場が閉館すると跡地にパチンコ店が開店したが、1989年(平成元年)現在の同所には呉服屋の「扇屋」が営業している。1955年頃の起映画劇場と1989年現在の同地点の写真あり。建物には「起映画」「OKOSHIEIGA」という文字が見える。文章中には「起映画館」という表記も見られる。((松本勝二・平田伸夫(監修)『写真集 一宮・尾西・木曽川いまむかし』名古屋郷土出版社、1989年、p.118))

1950年代後半、尾西市起の起街道沿いにあった映画館「起映画劇場」の写真あり。『森繁よ何処へ行く』『不良少年』の看板が映っている。2011年現在の跡地には呉服店「扇屋」が建つ。当時の起地区は毛織物業で栄えており、九州などから大勢の若い女性が働きにやってきた。彼女らにとって森繁久弥や石原裕次郎ら銀幕のスターは憧れの的。「あづま起劇場」「尾西映画劇場」も合わせて、起地区には3館の映画館があった。繊維産業が陰りを見せると、若い女性従業員らは姿を消し、人通りも寂しくなった。起映画劇場はやがてパチンコ店となり、1981年(昭和56年)に呉服店「扇屋」に変わった。((「写真でみる尾張いまむかし 一宮・起映画劇場 繊維業の若い女性に人気」中日新聞、2011年10月9日))

『浮雲日記』(1952年・東宝)の看板が見える起映画劇場は、改築を済ませている(※つまり1952年以前に改築か)。1952年?の写真あり。((尾西市史編さん委員会『尾西市史 写真編』尾西市、1985年、p.89))

1956年(昭和31年)の写真あり。写真の看板には、東宝作品の森繁久彌主演『森繫よ何処へ行く』、菅原謙次主演『不良少年』、アメリカ映画のジェームズ・スチュアート主演『カービン銃第一号』、グレゴリー・ペック主演『紫の平原』などが映っている。起映画劇場は東宝作品を中心に上映し、また洋画も上映した。((岩野見司(監修)『ふるさと一宮』郷土出版社、2011年、p.146))

昭和30年代の写真あり。『森繁よ何処へ行く』(1956年・東宝)、『不良少年』(1956年・東宝)、『唄祭母恋しぐれ』(1956年・東宝)、『カービン銃第1号』(1956年・アメリカ)、『紫の平原』(1955年・アメリカ)などの看板が映っている。((尾西市史編さん委員会『尾西市史 写真編』尾西市、1985年、p.88))

1938年(昭和13年)、名古屋市の伊藤増次郎が26,000円をもって「起映画劇場」を建設し、11月18日に落成開館した。1955年時点の所在地は起字用水添。((『起町史 下巻』尾西市役所、1955年、p.479))

1952年頃の中島郡起町の栄町の商店街の写真あり。左側には映画館「起映画劇場」がみえる。昭和30年代に建て替えられるまでは木造だった。((『写真アルバム 一宮市の百年』樹林舎、2021年、p.140))

1952年の中島郡起町にあった映画館「起映画劇場」の写真あり。『浮雲日記』の看板が見える。((『写真アルバム 一宮市の百年』樹林舎、2021年、p.167))

1956年の尾西市起にあった映画館「起映画劇場」の写真あり。『森繫よ何処へ行く』の看板が見える。1938年に開館し、蘇東線起停留所近くにあった。((『写真アルバム 一宮市の百年』樹林舎、2021年、p.167))

** 起劇場/あづま起劇場/起東映/起東映画劇場/起東映劇場
所在地 : 愛知県中島郡起町字栄町(1953年・1955年)、愛知県尾西市起栄町(1956年・1957年・1958年)、愛知県尾西市起町用水添(1959年・1960年・1963年・1966年・1969年)
開館年 : 1925年(芝居小屋)、1951年(映画館)
閉館年 : 1969年
地図 : [[「消えた映画館の記憶地図」一宮市付近>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=13fjGXjwANiUO7A-Y9cfGVgSA8ec&ll=35.3250847950696%2C136.764263280833&z=13]]
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「起劇場」。1956年・1957年・1958年の映画館名簿では「あづま起劇場」。1959年の映画館名簿では「起劇場」。1960年の全商工住宅案内図帳では「東劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「起東映」。1966年の映画館名簿では「起東映画劇場」。1968年の全商工住宅案内図帳では「起東映劇場」。1967年・1969年の映画館名簿では「起東映劇場」。1970年・1973年の映画館名簿には掲載されていない。1972年の住宅地図では跡地に「パチンコ劇場」。1979年の住宅地図では跡地に駐車場。跡地は「尾西起郵便局」北180mにある「オコシ健康薬店」と南側の民家。

1952年(昭和27年)の写真あり。1951年(昭和26年)に「あずま起映画劇場」が開館し、東映作品を中心に上映した。開場1周年記念には人気歌手の菅原都々子が来場している。起町の中心部には、「あずま起劇場」、「起映画劇場」、「尾西映画劇場」の3館の映画館があった。((岩野見司(監修)『ふるさと一宮』郷土出版社、2011年、p.146))

もとは千歳座。1910年(明治43年)10月に上田兵次郎や馬場新四郎らが発起人となり、資金3500円をもって千歳座観劇組合を設立し、坪内源三郎を組合長とした。岐阜県養老郡高田町(現・養老郡養老町)の小劇場を移築し、起字用水添に新築開業した。建物が老朽化したことにより、1924年(大正13年)に千歳座観劇組合を解散。さらに資金20,000円をもって、株式組織による起劇場の建設に着手し、1925年(大正14年)4月20日に起劇場が開館した。社長は坪内源三郎、常務取締役は渡辺喜右衛門。このまま1955年に至っている。((『起町史 下巻』尾西市役所、1955年、p.479))

もとは「起劇場」という名称であり、木造の芝居小屋だった。昭和30年代に建て替えた。((尾西市史編さん委員会『尾西市史 写真編』尾西市、1985年、p.88))

1958年(昭和33年)9月24日から30日までの7日間、今年も「起東映」は尾西市内に在住する70歳以上の老人1,400人を無料招待した。((「老人を映画へ無料招待」『広報びさい』1958年10月10日、第46号、p.6))

1969年(昭和44年)には「あづま起東映」が閉館した。((「特集 映画館のない町」『City-1』1990年8月号、第12号、pp.23-37))
1969年(昭和44年)には「あづま起東映」が閉館した。((「特集 映画館のない町」『City-1』第12号、pp.23-37))

1910年、現在の尾西市起町用水添に「千歳座」が開館した。1924年には老朽化によって千歳座が解散し、新たに株式会社組織の「起劇場」が開館した。1951年には木造の芝居小屋が改装され、映画館「あづま劇場」となった。この際にはファサードが新しくなり、内部の桝席が椅子席に変えられている。1971年頃に閉館した。1951年以前の起劇場の1階平面図あり。1951年以後のあづま劇場の写真あり。((『特別展 尾西の今昔 丑年』尾西市歴史民俗資料館、1997年、p.6))

跡地の民家や薬局から道路を挟んですぐの場所に住んでいる女性(70代?)に聞くと、「私が1971年に尾西市に嫁いできたときには、目の前の民家と薬局を合わせた敷地にスーパーがあった。スーパーの前に映画館があったことは知っている。スーパーの後にはパチンコ店となった」

** 尾西映画劇場/国際映劇
所在地 : 愛知県尾西市起町西茜屋4-1(1958年)、愛知県尾西市起西茜屋町4-1(1959年)、愛知県尾西市起町西茜町4-1(1960年・1962年)、愛知県尾西市起町西茜屋41(1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1968年
地図 : [[「消えた映画館の記憶地図」一宮市付近>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=13fjGXjwANiUO7A-Y9cfGVgSA8ec&ll=35.3250847950696%2C136.764263280833&z=13]]
1955年・1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1966年・1968年の映画館名簿では「尾西映画劇場」。1960年の全商工住宅案内図帳では「尾西映画劇場」。1968年の全商工住宅案内図帳では「尾西映画劇場」。1969年・1970年の映画館名簿では「国際映劇」。1972年の住宅地図では「尾西映画劇場」。1976年の映画館名簿には掲載されていない。1979年の住宅地図では跡地に「暁荘」。跡地は集合住宅「暁荘」として現存していたが2019年に取り壊された。跡地は「いちい信用金庫起支店」南西80mの空き地。

中島郡萩原町(現・一宮市)出身の舟木一夫が主演した映画『花咲く乙女たち』(1965年・日活)は、1965年(昭和40年)頃の尾西市を舞台としており、繊維工業で働く女工が数多く登場する。「尾西映画劇場」は女工らの憩いの場となった。昭和30年代の尾西市には織物工場に務める多くの女工がおり、月1-2日の休日には映画館に足を運んだ。尾西市の起地区には尾西映画劇場を含めて3館の映画館があった。尾西映画劇場の建物は2008年現在も残っており、1階は貸し車庫、2階はアパートとして使われている。古びたコンクリートの外壁には尾西映画劇場の文字がうっすら見える。昭和30-40年代の写真あり。((「写真でみる尾張いまむかし 尾西映画劇場 人びとの憩いの場 今も存在感」中日新聞、2008年9月7日))

1968年(昭和43年)には「尾西映画劇場」が閉館した。((「特集 映画館のない町」『City-1』1990年8月号、第12号、pp.23-37))
1968年(昭和43年)には「尾西映画劇場」が閉館した。((「特集 映画館のない町」『City-1』第12号、pp.23-37))

往時の尾西映画劇場の写真あり。((尾西市史編さん委員会『尾西市史 写真編』尾西市、1985年、p.89))

1956年頃の尾西市起にあった映画館「起映画劇場」の写真あり。尾西市発足後の1955年に開館した。閉館後も建物が残っていたが、2018年頃に取り壊された。((『写真アルバム 一宮市の百年』樹林舎、2021年、p.167))

** 尾西シネラマパワー
所在地 : 愛知県一宮市開明名古羅8-1
開館年 : 1980年8月
閉館年 : 2020年12月
地図 : [[「消えた映画館の記憶地図」一宮市付近>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=13fjGXjwANiUO7A-Y9cfGVgSA8ec&ll=35.3250847950696%2C136.764263280833&z=13]]
1979年の航空住宅地図帳では後の映画館の場所に「照明サロンオカモト」。1980年の映画館名簿には掲載されていない。1983年の航空住宅地図帳では「映画シネラマパワー」。1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2015年の映画館名簿では「尾西シネラマパワー」。2021年取り壊し。

1980年(昭和55年)8月、2年前まで西春日井郡西春町で末広館を経営していた加藤信孝が尾西シネラマパワーを開館させた。電機店として建てられた建物の2階を映画館に転用したとされ、建物の1階と3階は映画館ではない。開館当初から成人映画館として営業中。80席の1スクリーン。1936年生まれの加藤信孝は2009年に死去し、加藤の妻が経営を継いでいると思われる。加藤信孝と末広館については「われらの映画館 第115回 西春末広館」『キネマ旬報』1976年12月上旬号を参照。

1987年8月30日の『一宮タイムス』の「映画ガイド」には「一宮菊映」、「一宮東映」、「一宮東宝」、「尾西市開明シネラマパワー」の4館が掲載されている。尾西シネラマパワーでは『白い指のオナニー』と『欲情させられた女』と『本番アイドル歌手編』が上映されている。((「映画ガイド」『一宮タイムス』1987年8月30日))

1988年11月23日の『一宮タイムス』の「映画ガイド」には「一宮菊映」、「一宮東映」、「尾西市開明シネラマパワー」の3館が掲載されている。尾西シネラマパワーでは『本番愛撫』と『Eカップ満乳』と『色きちギャル』が上映されている。((「映画ガイド」『一宮タイムス』1988年11月23日))

1990年4月8日の『一宮タイムス』の「映画ガイド」には「一宮東映」、「尾西市開明シネラマパワー」の2館が掲載されている。尾西シネラマパワーでは『くいこみ』と『若妻復讐セックス』と『強烈なレイプ』が上映されている。((「映画ガイド」『一宮タイムス』1990年4月8日))

2021年1月にWeb OYA-bunko(大宅壮一文庫)で検索したが有意な言及は発見できず。

* 木曽川地域
** 帝国劇場
所在地 : 愛知県葉栗郡木曽川町黒田(1953年・1955年)、愛知県葉栗郡木曽川町黒田東針口92(1958年)、愛知県葉栗郡木曽川町黒田(1960年)
開館年 : 1930年頃
閉館年 : 1959年秋頃
地図 : [[「消えた映画館の記憶地図」一宮市木曽川地区>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=13fjGXjwANiUO7A-Y9cfGVgSA8ec&ll=35.34647962887139%2C136.77503503223681&z=16]]
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1960年の映画館名簿では「帝国劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1970年のゼンリン住宅地図では跡地に「木曽川キリスト教会」。木曽川町初の映画館。跡地は「木曽川キリスト教会」。最寄駅はJR東海道本線木曽川駅。木曽川駅の南西100m。

木曽川町の本町には「帝国劇場」があり、1930年(昭和5年)頃から芝居や映画の興行を行っていた。館内は畳敷きで花道があり、3階まで桟敷席があった。戦後に吉野富子一座が来館した際には、近隣の北方町や浅井町などからも観客が訪れた。1959年(昭和34年)9月26日の伊勢湾台風では大きな被害を受けて閉館した。((木曽川町史編集委員会『木曽川町史』木曽川町、1981年、p.1087))

1957年(昭和32年)にドイツ人宣教師W・ウエレナー師によって木曽川キリスト教会が開設された。D・ホッテンバッハ師の時代に、旧「帝国劇場」(国定興行社の事務所跡)を購入して木曽川キリスト教会の集会所とした。(([[木曽川キリスト教会>>http://www.doumeifukuin.com/kisogawa.html]]))

** 木曽川東映/木曽川東映劇場
所在地 : 愛知県葉栗郡木曽川町(1960年・1963年)、愛知県葉栗郡木曽川町内割田(1964年)、愛知県葉栗郡木曽川町大字内割田字墓東(1966年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1966年
地図 : [[「消えた映画館の記憶地図」一宮市木曽川地区>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=13fjGXjwANiUO7A-Y9cfGVgSA8ec&ll=35.34647962887139%2C136.77503503223681&z=16]]
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「木曽川東映」。1964年の映画館名簿では経営者が萩原勝平、支配人が萩原英二郎、木造平屋建、360席、東映を上映。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1967年の映画館名簿では「木曽川東映劇場」。1965年の住宅地図では「木曽川東映」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1970年のゼンリン住宅地図では跡地に「ユニオン修整」。映画館時代の建物は現存。最寄駅は名鉄名古屋本線新木曽川駅。

戦後の木曽川町内割田字祭勝には「木曽川東映」が開館し、「銀映」とともに映画を中心に興行したが、テレビの普及とともに観客が減少した。1959年(昭和34年)の伊勢湾台風後には「帝国劇場」が閉館したが、その後「銀映」、「木曽川東映」も相次いで閉館した。((木曽川町史編集委員会『木曽川町史』木曽川町、1981年、p.1087))

1966年(昭和41年)には「木曽川東映」が閉館した。((「特集 映画館のない町」『City-1』1990年8月号、第12号、pp.23-37))
1966年(昭和41年)には「木曽川東映」が閉館した。((「特集 映画館のない町」『City-1』第12号、pp.23-37))

** 木曽川銀座劇場/木曽川銀座映画劇場/木曽川銀映劇場
所在地 : 愛知県葉栗郡木曽川町(1960年)、愛知県葉栗郡木曽川町黒田古城15(1963年・1964年)、愛知県葉栗郡木曽川町大字黒田字古城1511(1966年)
開館年 : 1958年以後1960年以前
閉館年 : 1966年? 1968年?
地図 : [[「消えた映画館の記憶地図」一宮市木曽川地区>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=13fjGXjwANiUO7A-Y9cfGVgSA8ec&ll=35.34647962887139%2C136.77503503223681&z=16]]
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「木曽川銀座劇場」。1963年・1964年の映画館名簿では「木曽川銀座映画劇場」。1964年の映画館名簿では経営者が大野彦一、支配人が佐藤一栄、木造平屋建冷暖房付、416席、邦画を上映。1966年・1968年の映画館名簿では「木曽川銀映劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。1970年のゼンリン住宅地図では「銀映」。最寄駅は名鉄名古屋本線新木曽川駅。「ドラッグスギヤマ木曽川店」の西60m。跡地は戸建て住宅地。

戦後の木曽川町黒田宇古城には「銀映」が開館し、「木曽川東映」とともに映画を中心に興行したが、テレビの普及とともに観客が減少した。1959年(昭和34年)の伊勢湾台風後には「帝国劇場」が閉館したが、その後「銀映」、「木曽川東映」も相次いで閉館した。((木曽川町史編集委員会『木曽川町史』木曽川町、1981年、p.1087))

1966年(昭和41年)には「木曽川銀映」が閉館した。((「特集 映画館のない町」『City-1』1990年8月号、第12号、pp.23-37))
1966年(昭和41年)には「木曽川銀映」が閉館した。((「特集 映画館のない町」『City-1』第12号、pp.23-37))

** TOHOシネマズ木曽川
所在地 : 愛知県葉栗郡木曽川町大字黒田字南八ツケ池25-1(開館時)、愛知県一宮市木曽川町黒田南八ツケ池25-1 イオンモール木曽川内(現在)
開館年 : 2004年6月24日
閉館年 : 営業中
地図 : [[「消えた映画館の記憶地図」一宮市木曽川地区>>https://www.google.com/maps/d/edit?mid=13fjGXjwANiUO7A-Y9cfGVgSA8ec&ll=35.34647962887139%2C136.77503503223681&z=16]]
東宝は2004年6月、TOHOシネマズ木曽川を開館させる。((「相次ぐ都心の閉館 どうなる名古屋地区映画館(上)競争激化で独自色模索 繁華街で“復興”目指す 中日本興業 郊外型シネコン充実 東宝 『作品で勝負』名演小劇場」『中日新聞』2004年2月14日))

2004年6月18日、葉栗郡木曽川町にある大型ショッピングセンター「ダイヤモンドシティ・キリオ」が地元住民を対象にプレオープンした。正式オープンは6月24日。クラボウ木曽川工場跡地に建設された。10スクリーン・約1800席のシネコン「TOHOシネマズ木曽川」もプレオープンし、東宝のキャラクターであるゴジラが来館した。運営者は大阪市に本社を置くダイヤモンドシティ。岐阜市南部から愛知県稲沢市周辺の一帯を商圏に見込んでいる。((「ダイヤモンドシティ プレオープンに列 木曽川町『東海最大』の大型店」『中日新聞』2004年6月19日))

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