日本の映画館の総合データベースです。



夕張市

第一神田館
所在地 : 北海道夕張郡夕張町
開館年 : 1917年11月頃
閉館年 : 1922年4月15日

1917年11月頃、旭川市の佐藤市太郎が、夕張町本町4丁目の寄席場を整理して約180坪の常設映画館「第一神田館」を建てた。1959年現在の簗詰病院の場所である。第一神田館は1922年4月15日の火災で全焼した。*1

1917年11月頃、旭川市の佐藤市太郎が、夕張町本町4丁目の寄席場を整理して約180坪の常設映画館「第一神田館」を建てた。1981年現在の簗詰病院の場所である。第一神田館は1922年4月15日の火災で全焼した。*2
第二神田館
所在地 : 北海道夕張郡夕張町
開館年 : 1918年10月頃
閉館年 : 1919年11月30日

1918年10月頃、佐藤市太郎は、夕張町本町3丁目の料理屋だった建物を改造して常設映画館「第二神田館」を開館させた。第二神田館は1919年11月30日の火災で焼失した。1920年春、北海道造営株式会社は第二神田館の跡地に常設映画館「世界館」を建設し、同年末には「遊楽館」に改称した。1923年10月には札幌市の川島保が有楽館を譲り受け、「夕張館」に改称した。1926年2月、宮崎勝次郎が経営者となって「登栄館」に改称した。1932年6月15日、山崎平三郎、伊藤清松、遠藤源治の共同経営となって「夕楽館」に改称した。1936年11月には山崎平三郎の単独経営となった。1944年6月、所有者が伊藤金五郎となった。1949年5月に火災で焼失して廃館となった。1959年現在の労働会館の場所にあった。*3

1918年10月頃、佐藤市太郎は、夕張町本町3丁目の料理屋だった建物を改造して常設映画館「第二神田館」を開館させた。第二神田館は1919年11月30日の火災で焼失した。1920年春、北海道造営株式会社は第二神田館の跡地に常設映画館「世界館」を建設し、同年末には「遊楽館」に改称した。1923年10月には札幌市の川島保が有楽館を譲り受け、「夕張館」に改称した。1926年2月、宮崎勝次郎が経営者となって「登栄館」に改称した。1932年6月15日、山崎平三郎、伊藤清松、遠藤源治の共同経営となって「夕楽館」に改称した。1936年11月には山崎平三郎の単独経営となった。1944年6月、所有者が伊藤金五郎となった。1949年5月に火災で焼失して廃館となった。1981年現在の商工会館の場所にあった。*4

1918年10月竣工の映画館「第2神田館」。所在地は夕張市本町3丁目。佐藤市太郎によって新築開館した。1919年11月30日には本町2丁目と3丁目で72戸が焼ける大火があり、第2神田館も焼失した。*5
夕張館
所在地 : 北海道夕張郡夕張町(1925年)
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1925年以後1927年以前
1925年の映画館名簿では「夕張館」。1927年の映画館名簿には掲載されていない。
登座
所在地 : 北海道夕張郡夕張町本町3丁目(1925年)
開館年 : 1909年6月
閉館年 : 1930年5月11日
1925年の映画館名簿では「登座」。1927年の映画館名簿には掲載されていない。

1909年6月頃、夕張初の常設劇場として平塚某によって「登座」が建てられた。1981年現在の本町3丁目のアマポーラの場所である。1911年8月頃には松本久吉が経営者となった。1930年5月11日の火災で全焼して廃館となった。*6

1909年6月、夕張初の劇場として「登座」が開館したが、1930年5月11日の大火で焼失した。1982年現在のアマポーラの場所である。*7
演芸場/夕張演芸場
所在地 : 北海道夕張郡夕張町本町1丁目(1936年)、北海道夕張郡夕張町本町1(1941年)
開館年 : 1916年11月
閉館年 : 1949年
1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「演芸場」。1941年の映画館名簿では「夕張演芸場」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。

1911年頃、夕張町本町1丁目に東幸太郎によって「大黒座」が建てられた。1981年現在の炭鉱病院横の空き地の場所である。1916年1月4日の火災で全焼した。同年11月、夕張炭鉱によって大黒座跡地に「演芸場」が建てられた。やはり東幸太郎が経営したが、1924年7月には築田郡太郎が経営者となった。1949年5月の大火で全焼して廃館となった。*8

夕張町にあった「夕張演芸場」の写真あり。1909年6月、夕張初の劇場として「登座」が開館したが、1930年5月11日の大火で焼失した。1982年現在のアマポーラの場所である。1912年、本町1丁目の炭鉱病院前に150坪の劇場「大黒座」が開館したが、1916年1月4日に焼失した。1916年11月、夕張炭鉱によって約300坪の演芸場が開館したが、1949年の大火で焼失した。*9
親交館
所在地 : 北海道夕張市楓戸市街(1950年)、北海道夕張市登川市街(1951年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1951年頃
1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1951年の映画館名簿では「親交館」。1952年の映画館名簿には掲載されていない。
世界館/遊楽館/登栄館/夕楽館/夕張夕楽館
所在地 : 北海道夕張郡夕張町(1925年)、北海道夕張郡夕張町本町3丁目(1927年・1930年)、北海道夕張郡夕張町本町(1934年)、北海道夕張郡夕張町本町3(1936年)、北海道夕張郡夕張町(1941年・1943年)、北海道夕張市夕張町(1947年)、北海道夕張市本町(1950年)
開館年 : 1920年春
閉館年 : 1949年5月
1925年の映画館名簿では「遊楽館」。1927年・1930年の映画館名簿では「登栄館」。1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「夕楽館」。1947年・1950年の映画館名簿では「夕張夕楽館」。1953年の映画館名簿には掲載されていない。

1918年10月頃、佐藤市太郎は、夕張町本町3丁目の料理屋だった建物を改造して常設映画館「第二神田館」を開館させた。第二神田館は1919年11月30日の火災で焼失した。1920年春、北海道造営株式会社は第二神田館の跡地に常設映画館「世界館」を建設し、同年末には「遊楽館」に改称した。1923年10月には札幌市の川島保が有楽館を譲り受け、「夕張館」に改称した。1926年2月、宮崎勝次郎が経営者となって「登栄館」に改称した。1932年6月15日、山崎平三郎、伊藤清松、遠藤源治の共同経営となって「夕楽館」に改称した。1936年11月には山崎平三郎の単独経営となった。1944年6月、所有者が伊藤金五郎となった。1949年5月に火災で焼失して廃館となった。1959年現在の労働会館の場所にあった。*10
楓座
所在地 : 北海道夕張市楓戸市街(1950年・1951年・1953年)
開館年 : 1947年以後1950年以前
閉館年 : 1953年頃
1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1951年・1953年の映画館名簿では「楓座」。1954年の映画館名簿には掲載されていない。
清水沢発電所会館/発電所会館
所在地 : 北海道夕張市清水沢町(1956年・1958年)、北海道夕張市清水沢町133(1960年)、北海道夕張市真谷地62(1962年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1962年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年の映画館名簿では「清水沢発電所会館」。1960年・1962年の映画館名簿では「発電所会館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
夕張東映/夕張東映劇場
所在地 : 北海道夕張市本町1丁目(1960年・1962年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1962年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の映画館名簿では「夕張東映」。1962年の映画館名簿では「夕張東映劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
若菜辺会館/若葉劇場/若菜劇場
所在地 : 北海道夕張郡夕張町若菜(1941年)、北海道夕張市若葉町(1947年)、北海道夕張市若菜辺町(1950年・1953年・1955年)、北海道夕張市若菜辺町10(1958年・1960年)、北海道夕張市若菜町10(1963年)
開館年 : 1939年12月10日
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「若菜辺会館」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「若葉劇場」。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「若菜劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。

1939年12月10日、簗田郡太郎が「若葉劇場」を建設した。1943年8月10日には尾崎新吾が譲り受けた。*11
丁末会館
所在地 : 北海道夕張市本町(1960年・1963年)
開館年 : 1959年頃
閉館年 : 1963年頃
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「丁末会館」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
登川会館
所在地 : 北海道夕張市登川町(1959年・1960年・1963年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1963年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年の映画館名簿では「登川会館」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
真谷地会館
所在地 : 北海道夕張市真谷地62(1959年・1960年)、北海道夕張市真谷地(1963年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1963年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年の映画館名簿では「真谷地会館」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
日活館/夕張日活館
所在地 : 北海道夕張郡夕張町本町(1936年)、北海道夕張郡夕張町3丁目(1941年)、北海道夕張郡夕張町(1943年)、北海道夕張市本町3丁目(1947年・1950年)、北海道夕張市本町3(1953年)、北海道夕張市本町3丁目(1955年)、北海道夕張市本町3-80(1958年・1960年)、北海道夕張市本町3丁目(1963年)
開館年 : 1935年10月20日、1949年10月(建て替え)
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「夕張日活館」。1941年・1943年・1947年・1950年・1953年の映画館名簿では「日活館」。1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「夕張日活館」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。

1935年10月20日、函館市の添田武源によって夕張町に「日活館」が開館した。日活館は夕張町で初めてトーキーを上映した映画館である。1936年11月、夕張町の山崎平三郎が添田から譲りうけ、1944年3月には佐藤金五郎が経営者となった。1949年の火災で全焼し、同年10月には建物を再建した。1955年8月1日、北映興業株式会社が経営者となった。*12

1935年10月20日、函館市の添田武源によって夕張町に「日活館」が開館した。日活館は夕張町で初めてトーキーを上映した映画館である。1936年11月、夕張町の山崎平三郎が添田から譲りうけ、1944年3月には佐藤金五郎が経営者となった。1949年の火災で全焼し、同年10月には建物を再建した。1955年8月1日、北映興業株式会社が経営者となった。1981年現在は廃館となってダンスホールとなっている。*13

1935年10月竣工の映画館「日活館」。所在地は夕張市本町3丁目。函館市の添田武源によって新築開館した。1949年に焼失し、その後再建された。*14
演武場/夕張劇場/夕張映画劇場/鹿ノ谷映画劇場/鹿ノ谷劇場/鹿ノ谷映劇
所在地 : 北海道夕張郡夕張町鹿谷(1936年)、北海道夕張郡夕張町鹿ノ谷新町(1941年)、北海道夕張郡夕張町(1943年)、北海道夕張市鹿ノ谷(1947年)、北海道夕張市鹿ノ谷1-5(1950年)、北海道夕張市鹿ノ谷1(1953年・1955年)、北海道夕張市鹿ノ谷町1-27(1958年)、北海道夕張市鹿ノ谷1-20(1960年)、北海道夕張市鹿ノ谷1-24(1963年・1964年)
開館年 : 1929年5月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年の映画館名簿では「演武場」。1941年・1943年の映画館名簿では「夕張劇場」。1947年の映画館名簿では「夕張映画劇場」。1950年の映画館名簿では「夕張劇場」。1953年の映画館名簿では「夕張映画劇場」。1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「鹿ノ谷映画劇場」。1963年の映画館名簿では「鹿ノ谷劇場」。1964年の映画館名簿では「鹿ノ谷映劇」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。

1929年5月、夕張町の原田源一が映画館「演武場」を開館させた。1939年12月1日、尾崎新吾が譲り受けて「夕張映画劇場」に改称した。1952年4月には「鹿の谷映画劇場」に改称した。1956年3月末、木造の建物が火災で全焼した。同年5月10日、一部鉄筋コンクリート造の映画館として再建された。*15

1929年5月、夕張町の原田源一が映画館「演武場」を開館させた。1939年12月1日、尾崎新吾が譲り受けて「夕張映画劇場」に改称した。1952年4月には「鹿の谷映画劇場」に改称した。1956年3月末、木造の建物が火災で全焼した。同年5月10日、一部鉄筋コンクリート造の映画館として再建された。1981年現在は廃館となっている。*16

1929年5月竣工の映画館「演武場」。所在地は夕張市。原田源一によって新築開館した。1939年12月に「夕張映画劇場」に改称した。1952年4月に「鹿の谷映画劇場」に改称した。1956年3月に焼失した。*17

1956年(※2月または3月)17日、夕張市の「鹿ノ谷映劇」が全焼した。原因は煙突の過熱。*18

昭和30年代の夕張市鹿の谷1丁目にあった小路の写真あり。奥に「鹿の谷劇場」があった。昭和30年代の夕張市には17館の劇場があった。*19
新夕張会館
所在地 : 北海道夕張市末広1丁目(1959年)、北海道夕張市末広町(1960年・1963年・1965年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1965年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「新夕張会館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
遠幌会館
所在地 : 北海道夕張市遠幌町(1959年・1960年・1963年・1965年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1965年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「遠幌会館」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。
夕張市立労働会館/労働会館
所在地 : 北海道夕張市本町3丁目(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1965年)
開館年 : 1951年2月3日
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「夕張市立労働会館」。1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「労働会館」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。

1951年2月3日、夕張市によって「労働会館」が建設され、映画部門は佐藤金五郎が経営している。1959年現在の夕張市では唯一の洋画上映館である。*20

1951年2月3日、夕張市によって「労働会館」が建設され、映画部門は佐藤金五郎が経営していた。夕張市唯一の洋画上映館だったが廃館となり、1981年現在は夕張商工会館となっている。*21
清水沢映画劇場/清水沢映劇
所在地 : 北海道夕張市清水沢町(1955年)、北海道夕張市清水沢町27(1958年・1960年)、北海道夕張市清水沢町(1963年)、北海道夕張市清水沢(1966年)
開館年 : 1952年8月13日
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年の映画館名簿では「清水沢映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「清水沢映劇」。1966年の映画館名簿では「清水沢映画劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。

1952年8月13日、夕張市清水沢の北島厳が「清水沢映画劇場」を開館させた。*22

1953年の夕張市にあった「清水沢映画劇場」の写真あり。昭和30年代の夕張市には17館の映画館があり、うち清水沢地区には同時期に3館があった。*23
夕張会館
所在地 : 北海道夕張市福住一区(1953年・1955年)、北海道夕張市福住7(1958年)、北海道夕張市高松8(1960年)、北海道夕張市高松2区(1969年・1970年)
開館年 : 1952年頃、1958年9月(建て替え)
閉館年 : 1970年以後1973年以前
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1952年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1969年・1970年の映画館名簿では「夕張会館」。1959年の映画館名簿では経営者が佐藤金五郎、支配人が梅井大吉、木造2階暖房付、定員700、邦画を上映。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「夕張市石炭博物館」。最寄駅はJR石勝線新夕張駅。
夕張日本劇場
所在地 : 北海道夕張市末広町2丁目(1969年・1970年)
開館年 : 1968年頃
閉館年 : 1970年以後1973年以前
1968年の映画館名簿には掲載されていない。1969年・1970年の映画館名簿では「夕張日本劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。
大夕張劇場/大夕張協和会館
所在地 : 北海道夕張郡夕張町大夕張千歳町(1941年)、北海道夕張市大夕張鹿島町(1947年)、北海道夕張市鹿島町(1950年)、北海道夕張市大夕張鹿島町(1953年)、北海道夕張市鹿島町(1955年)、北海道夕張市鹿島千年町1(1958年)、北海道夕張市鹿島1(1960年)、北海道夕張市鹿島町(1969年)、北海道夕張市大夕張鹿島町(1973年・1974年)
開館年 : 1929年12月7日
閉館年 : 1974年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が掲載されていない。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「大夕張劇場」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「大夕張劇場」。1969年・1973年・1974年の映画館名簿では「大夕張協和会館」。1975年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「鹿島地域雨量観測所」北東400mの交差点北西角。最寄駅はJR石勝線新夕張駅。

1929年12月7日、夕張町に近藤利作が「大夕張劇場」を建て、当初は土曜と日曜のみ営業していた。1940年12月25日、岩見沢町の新田睦吉が経営者となり、1943年6月に常設映画館となった。1949年10月29日、岩見沢市の新田興業株式会社が経営者となった。*24

1929年12月7日、夕張町に近藤利作が「大夕張劇場」を建て、当初は土曜と日曜のみ営業していた。1940年12月25日、岩見沢町の新田睦吉が経営者となり、1943年6月に常設映画館となった。1949年10月29日、岩見沢市の新田興業株式会社が経営者となった。1981年現在は廃館となっている。*25
夕張平和会館/平和会館
所在地 : 北海道夕張市若菜町1(1956年・1958年)、北海道夕張市若菜辺町1(1960年)、北海道夕張市若菜町8(1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1982年)、北海道夕張市若菜町8番(1984年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1984年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1958年・1960年の映画館名簿では「平和会館」。1969年の映画館名簿では「夕張平和会館」。1973年・1975年・1978年・1980年・1982年・1984年の映画館名簿では「平和会館」。1981年の住宅地図では「平和会館」。1984年の映画館名簿では経営者が浦川久治、支配人が牧野利信、鉄筋造1階、120席、邦画・洋画を上映。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「若菜交番」南南西50mの「ショッピングみさわ」など。最寄駅はJR石勝線新夕張駅。
市民会館/夕張市民会館/夕張市民会館シネサロン/アディーレ会館夕張/アディーレ会館ゆうばり
所在地 : 北海道夕張市本町4丁目(1966年・1969年・1973年・1975年)、北海道夕張市本町4(1978年)、北海道夕張市本町(1980年)、北海道夕張市本町4(1982年)、北海道夕張市本町4丁目(1985年・1990年・1995年・2000年)、北海道夕張市本町4丁目36番地(2010年)、北海道夕張市本町4-36(2012年・2014年)
開館年 : 1963年10月
閉館年 : 2014年頃
1963年の映画館名簿には掲載されていない。1966年の映画館名簿では「夕張市民会館」。1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1982年・1985年の映画館名簿では「市民会館」。1984年の映画館名簿では経営者が原田光雄、支配人が佐々木文雄、鉄筋造1階、650席、邦画・洋画を上映。1984年の住宅地図では「夕張市民会館」。1990年・1995年の映画館名簿では「夕張市民会館」。2000年の映画館名簿では「夕張市民会館シネサロン」。2005年の映画館名簿には掲載されていない。2010年の映画館名簿では「アディーレ会館夕張」。2012年・2014年の映画館名簿では「アディーレ会館ゆうばり」。2012年の映画館名簿では経営会社がNPO法人ゆうばりファンタ、経営者が澤田直矢、支配人が阿部新市、鉄筋造1階、580席、邦画・洋画を上映。2015年の映画館名簿には掲載されていない。建物は「夕張市役所」南西30mに現存。最寄駅はJR石勝線新夕張駅。

2004年3月いっぱいで、夕張市唯一の映画館「夕張市民会館シネサロン」が閉館する。1985年、夕張市の直営映画館として夕張市民会館に開館した。50席の小規模映画館であり、毎日3回上映した。自治体が運営する北海道唯一の映画館であるが、年間約400万円の赤字が出ていた。最終上映作品は『ラスト・サムライ』。*26

コメントをかく


利用規約をご確認のうえご記入下さい

Menu

目次

管理人/副管理人のみ編集できます