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所在地 : 福岡県福岡市博多東中洲(1930年・1934年)、福岡県福岡市東中洲町(1936年)
開館年 : 1925年11月19日
閉館年 : 1937年
1930年の映画館名簿では「帝キネ倶楽部」。1934年の映画館名簿では「大衆座」。1936年の映画館名簿では「第二民衆倶楽部」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。
1925年11月19日、博多劇場跡地に帝国キネマ封切館「帝キネ倶楽部」が開館した。1930年12月、帝キネ倶楽部跡地にマキノ封切館「大衆座」が閉館した。1931年2月17日には『権八二重想』を上映中にフィルムに引火し、映写機が焼失する火災があった。1937年には改築されて「演芸館」に改称し、軽演劇のブロック興行劇場に転向した。1944年3月には「多門座」に改称して大衆演劇場となったが、1945年6月19日の福岡空襲で焼失した。戦後には「多門映画劇場」として再建された。*3
開館年 : 1925年11月19日
閉館年 : 1937年
1930年の映画館名簿では「帝キネ倶楽部」。1934年の映画館名簿では「大衆座」。1936年の映画館名簿では「第二民衆倶楽部」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。
1925年11月19日、博多劇場跡地に帝国キネマ封切館「帝キネ倶楽部」が開館した。1930年12月、帝キネ倶楽部跡地にマキノ封切館「大衆座」が閉館した。1931年2月17日には『権八二重想』を上映中にフィルムに引火し、映写機が焼失する火災があった。1937年には改築されて「演芸館」に改称し、軽演劇のブロック興行劇場に転向した。1944年3月には「多門座」に改称して大衆演劇場となったが、1945年6月19日の福岡空襲で焼失した。戦後には「多門映画劇場」として再建された。*3
所在地 : 福岡県福岡市上呉服町15(1941年)、福岡県福岡市上呉服町(1943年)
開館年 : 1940年3月1日
閉館年 : 1945年1月31日
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「福岡第一映画劇場」。1943年の映画館名簿では「第一映画劇場」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
1940年3月1日、福岡市の呉服町交差点そばの地下に洋画専門館「第一映画劇場」が開館した。同年11月30日には福岡市における初の東宝直営館となった。1945年2月1日、企業整備のために休館となった。*4
1940年3月1日、福岡市に「第一映劇」が開館した。1945年2月1日に休館となった。*5
開館年 : 1940年3月1日
閉館年 : 1945年1月31日
1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「福岡第一映画劇場」。1943年の映画館名簿では「第一映画劇場」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
1940年3月1日、福岡市の呉服町交差点そばの地下に洋画専門館「第一映画劇場」が開館した。同年11月30日には福岡市における初の東宝直営館となった。1945年2月1日、企業整備のために休館となった。*4
1940年3月1日、福岡市に「第一映劇」が開館した。1945年2月1日に休館となった。*5
所在地 : 福岡県福岡市博多東中洲(1930年・1934年)、福岡県福岡市東中洲町212-1(1936年)、福岡県福岡市東中洲町(1941年・1943年)
開館年 : 1913年6月19日
閉館年 : 1945年6月
1930年の映画館名簿では「本興座」。1934年・1936年の映画館名簿では「世界館」。1941年の映画館名簿では「はかた新興」。1943年の映画館名簿では「福岡大映劇場」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
1913年6月19日には福岡市に活動常設館「世界館」が開館し、1923年1月7日には中洲大火で焼失した。1927年12月25日に「本興座」として再興され、1930年12月5日には旧称の世界館に改称した。1939年3月1日には「はかた新興」に改称し、1942年10月8日には「福岡大映」に改称し、1945年6月21日には博多日活に改称する予定だった。改称直前の6月19日、福岡大空襲では博多日活、有楽映劇、福岡東宝映劇、休館中の第一民衆倶楽部、演劇場の花月劇場、演劇場の多門座が焼失した。*6
1913年、博多発の常設映画館として東中洲に「世界館」が開館した。土足で入れる椅子席の劇場であり、1階椅子席は2等10銭、2階桟敷席は1等20銭だった。開館時には花電車も出た。*7
1923年1月の東中洲大火で「世界館」が焼失すると、1927年12月25日には跡地に「本興座」が開館した。休館を経て1929年12月に再開館したが、1930年12月には「世界館」として再発足した。*8
1939年3月1日、福岡市の「世界館」が新興キネマの経営となって「はかた新興」に改称した。1942年1月に大日本映画製作株式会社(大映)が発足すると、同年9月24日には大映直営館の「福岡大映劇場」となった。1945年6月21日には日活直営館「博多日活映画劇場」となったが、同月の福岡空襲で建物が焼失して休館となった。戦後には「博多日活映劇」となっている。*9
開館年 : 1913年6月19日
閉館年 : 1945年6月
1930年の映画館名簿では「本興座」。1934年・1936年の映画館名簿では「世界館」。1941年の映画館名簿では「はかた新興」。1943年の映画館名簿では「福岡大映劇場」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
1913年6月19日には福岡市に活動常設館「世界館」が開館し、1923年1月7日には中洲大火で焼失した。1927年12月25日に「本興座」として再興され、1930年12月5日には旧称の世界館に改称した。1939年3月1日には「はかた新興」に改称し、1942年10月8日には「福岡大映」に改称し、1945年6月21日には博多日活に改称する予定だった。改称直前の6月19日、福岡大空襲では博多日活、有楽映劇、福岡東宝映劇、休館中の第一民衆倶楽部、演劇場の花月劇場、演劇場の多門座が焼失した。*6
1913年、博多発の常設映画館として東中洲に「世界館」が開館した。土足で入れる椅子席の劇場であり、1階椅子席は2等10銭、2階桟敷席は1等20銭だった。開館時には花電車も出た。*7
1923年1月の東中洲大火で「世界館」が焼失すると、1927年12月25日には跡地に「本興座」が開館した。休館を経て1929年12月に再開館したが、1930年12月には「世界館」として再発足した。*8
1939年3月1日、福岡市の「世界館」が新興キネマの経営となって「はかた新興」に改称した。1942年1月に大日本映画製作株式会社(大映)が発足すると、同年9月24日には大映直営館の「福岡大映劇場」となった。1945年6月21日には日活直営館「博多日活映画劇場」となったが、同月の福岡空襲で建物が焼失して休館となった。戦後には「博多日活映劇」となっている。*9
所在地 : 福岡県福岡市博多東中洲(1930年・1934年)、福岡県福岡市東中洲町214(1936年・1941年)、福岡県福岡市東中洲町(1943年)
開館年 : 1928年8月1日
閉館年 : 1945年1月
1930年・1934年の映画館名簿では「民衆倶楽部」。1936年・1941年の映画館名簿では「第一民衆倶楽部」。1943年の映画館名簿では「民衆倶楽部」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
1928年6月1日には福岡市の「喜楽館」が「ハカタ館」に改称した。同年8月1日には東亜倶楽部の前田幸作が経営者となって「民衆倶楽部」に改称した。1930年1月26日には門司の末松長策が経営者となり、帝キネの封切館となった。1945年1月に企業整備のために閉館し、同年6月の福岡空襲で建物が焼失した。*10
開館年 : 1928年8月1日
閉館年 : 1945年1月
1930年・1934年の映画館名簿では「民衆倶楽部」。1936年・1941年の映画館名簿では「第一民衆倶楽部」。1943年の映画館名簿では「民衆倶楽部」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
1928年6月1日には福岡市の「喜楽館」が「ハカタ館」に改称した。同年8月1日には東亜倶楽部の前田幸作が経営者となって「民衆倶楽部」に改称した。1930年1月26日には門司の末松長策が経営者となり、帝キネの封切館となった。1945年1月に企業整備のために閉館し、同年6月の福岡空襲で建物が焼失した。*10
所在地 : 福岡県福岡市(1925年)、福岡県福岡市博多東中洲(1930年・1934年)、福岡県福岡市東中洲町(1936年・1941年・1943年)
開館年 : 1915年3月14日
閉館年 : 1945年頃
1925年・1930年・1934年・1936年・1941年の映画館名簿では「寿座」。1943年の映画館名簿では「福岡東宝映劇」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
1904年11月18日、歌舞伎や新派などを上演する芝居小屋「寿座」が開場した。1915年3月14日には活動常設館に転向し、同年12月10日に開館披露宴が催された。トーキー時代に入った1935年には大改装が行われた。1941年5月31日をもって閉館すると、6月7日には東宝直営館の「福岡東宝映画劇場」が開館した。*11
1941年6月7日には福岡東宝映劇が開館した。1945年6月19日、福岡大空襲では博多日活、有楽映劇、福岡東宝映劇、休館中の第一民衆倶楽部、演劇場の花月劇場、演劇場の多門座が焼失した。*12
開館年 : 1915年3月14日
閉館年 : 1945年頃
1925年・1930年・1934年・1936年・1941年の映画館名簿では「寿座」。1943年の映画館名簿では「福岡東宝映劇」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
1904年11月18日、歌舞伎や新派などを上演する芝居小屋「寿座」が開場した。1915年3月14日には活動常設館に転向し、同年12月10日に開館披露宴が催された。トーキー時代に入った1935年には大改装が行われた。1941年5月31日をもって閉館すると、6月7日には東宝直営館の「福岡東宝映画劇場」が開館した。*11
1941年6月7日には福岡東宝映劇が開館した。1945年6月19日、福岡大空襲では博多日活、有楽映劇、福岡東宝映劇、休館中の第一民衆倶楽部、演劇場の花月劇場、演劇場の多門座が焼失した。*12
所在地 : 福岡県福岡市博多東中洲(1930年・1934年)、福岡県福岡市東中洲町268(1936年)、福岡県福岡市東中洲町千日前(1941年)、福岡県福岡市東中洲町(1943年)
開館年 : 1933年7月1日
閉館年 : 1944年4月
1930年の映画館名簿では「東亜倶楽部」。1934年・1936年の映画館名簿では「弁天座」。1941年・1943年の映画館名簿では「日活館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
1926年1月31日、博多に東亜キネマ直営館「東亜倶楽部」が開館した。1933年7月1日、新興キネマ直営館「弁天座」として新発足した。名称は大阪の新興キネマ封切館である弁天座にあやかったものである。1935年11月1日には洋画専門館となったが、関西以西では唯一の洋画専門館だったとされる。開館披露番組はコロムビアの『歌の翼』とユナイトの『噫無情』。戦時中にはニュース映画館となり、1938年3月10日には日活封切館「日活館」となった。1944年4月には軽演劇上演劇場「福岡花月劇場」となったが、1945年6月の福岡空襲で焼失した。戦後の「オークラ劇場」の場所である。*13
開館年 : 1933年7月1日
閉館年 : 1944年4月
1930年の映画館名簿では「東亜倶楽部」。1934年・1936年の映画館名簿では「弁天座」。1941年・1943年の映画館名簿では「日活館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。
1926年1月31日、博多に東亜キネマ直営館「東亜倶楽部」が開館した。1933年7月1日、新興キネマ直営館「弁天座」として新発足した。名称は大阪の新興キネマ封切館である弁天座にあやかったものである。1935年11月1日には洋画専門館となったが、関西以西では唯一の洋画専門館だったとされる。開館披露番組はコロムビアの『歌の翼』とユナイトの『噫無情』。戦時中にはニュース映画館となり、1938年3月10日には日活封切館「日活館」となった。1944年4月には軽演劇上演劇場「福岡花月劇場」となったが、1945年6月の福岡空襲で焼失した。戦後の「オークラ劇場」の場所である。*13
所在地 : 福岡県福岡市東中洲町(1947年)
開館年 : 1946年4月3日
閉館年 : 1952年4月3日
1947年の映画館名簿では「大洋映画劇場」。1950年の映画館名簿には掲載されていない。後継館は大洋映画劇場。最寄駅は福岡市地下鉄空港線・箱崎線中洲川端駅。
開館年 : 1946年4月3日
閉館年 : 1952年4月3日
1947年の映画館名簿では「大洋映画劇場」。1950年の映画館名簿には掲載されていない。後継館は大洋映画劇場。最寄駅は福岡市地下鉄空港線・箱崎線中洲川端駅。
所在地 : 福岡県福岡市大字住吉1604(1953年)、福岡県福岡市住吉1604-2(1955年)
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1955年以後1958年以前
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「末広劇場」。1955年の映画館名簿では「ばら座」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1950年以後1953年以前
閉館年 : 1955年以後1958年以前
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「末広劇場」。1955年の映画館名簿では「ばら座」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 福岡県福岡市東中洲245(1953年・1955年)
開館年 : 1952年10月15日
閉館年 : 1955年以後1958年以前
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「福岡日本劇場」。1955年の映画館名簿では「日本劇場」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。
1951年12月5日、福岡市の那珂川河岸に東宝直営館「東宝劇場」が開館した。1952年10月15日、東宝は戦前の「寿座」跡地に2番目の直営館「福岡日本劇場」も開館させ、東宝劇場は洋画専門館となった。1955年の福岡日本劇場の写真あり。*14
開館年 : 1952年10月15日
閉館年 : 1955年以後1958年以前
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「福岡日本劇場」。1955年の映画館名簿では「日本劇場」。1958年の映画館名簿には掲載されていない。
1951年12月5日、福岡市の那珂川河岸に東宝直営館「東宝劇場」が開館した。1952年10月15日、東宝は戦前の「寿座」跡地に2番目の直営館「福岡日本劇場」も開館させ、東宝劇場は洋画専門館となった。1955年の福岡日本劇場の写真あり。*14
所在地 : 福岡県福岡市上辻堂26(1955年)、福岡県福岡市博多駅前(1958年)、福岡県福岡市上辻堂26(1960年)
開館年 : 1954年9月
閉館年 : 1960年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1954年9月開館。1955年・1958年の映画館名簿では「ナショナル映劇」。1960年の映画館名簿では「ナショナル映画劇場」。1961年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1954年9月
閉館年 : 1960年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1954年9月開館。1955年・1958年の映画館名簿では「ナショナル映劇」。1960年の映画館名簿では「ナショナル映画劇場」。1961年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 福岡県福岡市東中洲町245(1925年)、福岡県福岡市博多東中洲(1930年・1934年)、福岡県福岡市東中洲町245(1936年・1941年)、福岡県福岡市東中洲町(1943年)、福岡県福岡市東中洲(1947年)、福岡県福岡市東中洲245(1950年・1953年・1955年・1958年・1960年)
開館年 : 1925年以前、1954年1月
閉館年 : 1961年4月12日
『全国映画館総覧 1955』によると1954年1月開館。1925年・1930年・1934年・1936年・1941年の映画館名簿では「友楽館」。1943年・1947年・1950年の映画館名簿では「有楽映画劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「有楽映劇」。1958年の映画館名簿では「有楽映画劇場」。1960年の映画館名簿では「有楽映劇」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1973年の住宅地図では跡地に「フクオカ中央有料駐車場」。跡地はマンション「ザ・ライブリー博多福岡」。最寄駅は福岡市地下鉄空港線中洲川端駅。
1913年9月23日には福岡市に活動常設館「電気館」が開館し、1923年1月7日には中洲大火で焼失したが、同年11月11日には「友楽館」として営業を再開した。1941年7月1日には「福岡松竹」に改称し、1942年4月23日には「有楽映劇」に改称した。1945年6月19日、福岡大空襲では博多日活、有楽映劇、福岡東宝映劇、休館中の第一民衆倶楽部、演劇場の花月劇場、演劇場の多門座が焼失した。有楽映劇は1946年1月10日に営業を再開し、1953年4月26日には火災で焼失したが、1953年12月31日に再開館した。1961年4月10日に閉館した。*15
1935年頃の福岡市中洲にあった劇場「友楽館」の写真あり。1935年前後の中洲は歓楽街として繁栄しつつあった。カフェー、料亭、飲食店などが開店し、映画館も6館あった。*16
1946年1月10日、福岡市の千日前に東宝封切館「有楽映劇」が開館した。4月3日、電車通りに洋画封切館「大洋映劇」が開館した。5月30日には住吉南新町に松竹封切館「金竜館」が開館した。6月6日、千代町交差点北東角に洋画封切館「国際映劇」が開館した。7月17日、渡辺通4丁目に洋画封切館「日新映劇」が開館した。1954年の有楽映劇の写真あり。*17
1953年4月26日午後10時45分頃、福岡市東中洲の新東宝直営館「有楽映画劇場」2回表ロビー付近から出火し、消防車42台が総出動して消火作業を行ったが、劇場と3戸が全半焼した。1953年12月31日、鉄骨鉄筋造3階建のビルが再建されて開館した。1961年4月10日に閉館した。*18
1953年4月26日午後10時50分頃、福岡市東中洲千日前の「有楽映画劇場」2階から出火し、映画館、隣接する映画館事務所、新東宝九州支社、日本音響精密福岡営業所が全焼した。また川口靴店、エイコー・レストランが半焼した。損害額は約3000万円。*19
1953年4月26日午後10時50分頃、福岡市東中洲の「有楽映画劇場」2階から出火して劇場が全焼し、隣接する新東宝九州支社、日本音響精密福岡営業所、福岡興行組合事務所なども焼いた。原因は2階のネオンのトランスの漏電とみられる。*20
1961年4月12日をもって、福岡市東中洲245の新東宝直営館「有楽映画劇場」が廃館となった。*21
開館年 : 1925年以前、1954年1月
閉館年 : 1961年4月12日
『全国映画館総覧 1955』によると1954年1月開館。1925年・1930年・1934年・1936年・1941年の映画館名簿では「友楽館」。1943年・1947年・1950年の映画館名簿では「有楽映画劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「有楽映劇」。1958年の映画館名簿では「有楽映画劇場」。1960年の映画館名簿では「有楽映劇」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1973年の住宅地図では跡地に「フクオカ中央有料駐車場」。跡地はマンション「ザ・ライブリー博多福岡」。最寄駅は福岡市地下鉄空港線中洲川端駅。
1913年9月23日には福岡市に活動常設館「電気館」が開館し、1923年1月7日には中洲大火で焼失したが、同年11月11日には「友楽館」として営業を再開した。1941年7月1日には「福岡松竹」に改称し、1942年4月23日には「有楽映劇」に改称した。1945年6月19日、福岡大空襲では博多日活、有楽映劇、福岡東宝映劇、休館中の第一民衆倶楽部、演劇場の花月劇場、演劇場の多門座が焼失した。有楽映劇は1946年1月10日に営業を再開し、1953年4月26日には火災で焼失したが、1953年12月31日に再開館した。1961年4月10日に閉館した。*15
1935年頃の福岡市中洲にあった劇場「友楽館」の写真あり。1935年前後の中洲は歓楽街として繁栄しつつあった。カフェー、料亭、飲食店などが開店し、映画館も6館あった。*16
1946年1月10日、福岡市の千日前に東宝封切館「有楽映劇」が開館した。4月3日、電車通りに洋画封切館「大洋映劇」が開館した。5月30日には住吉南新町に松竹封切館「金竜館」が開館した。6月6日、千代町交差点北東角に洋画封切館「国際映劇」が開館した。7月17日、渡辺通4丁目に洋画封切館「日新映劇」が開館した。1954年の有楽映劇の写真あり。*17
1953年4月26日午後10時45分頃、福岡市東中洲の新東宝直営館「有楽映画劇場」2回表ロビー付近から出火し、消防車42台が総出動して消火作業を行ったが、劇場と3戸が全半焼した。1953年12月31日、鉄骨鉄筋造3階建のビルが再建されて開館した。1961年4月10日に閉館した。*18
1953年4月26日午後10時50分頃、福岡市東中洲千日前の「有楽映画劇場」2階から出火し、映画館、隣接する映画館事務所、新東宝九州支社、日本音響精密福岡営業所が全焼した。また川口靴店、エイコー・レストランが半焼した。損害額は約3000万円。*19
1953年4月26日午後10時50分頃、福岡市東中洲の「有楽映画劇場」2階から出火して劇場が全焼し、隣接する新東宝九州支社、日本音響精密福岡営業所、福岡興行組合事務所なども焼いた。原因は2階のネオンのトランスの漏電とみられる。*20
1961年4月12日をもって、福岡市東中洲245の新東宝直営館「有楽映画劇場」が廃館となった。*21
所在地 : 福岡県福岡市麦野515(1956年)、福岡県福岡市麦野(1957年・1958年)、福岡県福岡市那珂町麦野(1960年)、福岡県福岡市中新町1(1962年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1962年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の映画館名簿では「中央館」。1957年・1958年の映画館名簿では「筑紫文化劇場」。1960年の映画館名簿では「筑紫文化」。1962年の映画館名簿では「筑紫文化映劇」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1962年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の映画館名簿では「中央館」。1957年・1958年の映画館名簿では「筑紫文化劇場」。1960年の映画館名簿では「筑紫文化」。1962年の映画館名簿では「筑紫文化映劇」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 福岡県福岡市上花園町1644(1955年)、福岡県福岡市住吉1604(1960年)、福岡県福岡市花園町(1962年)
開館年 : 1953年6月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年6月開館。1955年の映画館名簿では「ロマン映劇」。1960年の映画館名簿では「柳橋ロマン」。1962年の映画館名簿では「ロマン映劇」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1953年6月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年6月開館。1955年の映画館名簿では「ロマン映劇」。1960年の映画館名簿では「柳橋ロマン」。1962年の映画館名簿では「ロマン映劇」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 福岡県福岡市堅粕町(1958年)、福岡県福岡市西堅粕1-33(1960年)、福岡県福岡市西堅粕町(1961年・1962年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1962年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「堅粕東映」。1961年の映画館名簿では「堅粕東映劇場」。1962年の映画館名簿では「堅粕東映」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1965年の住宅詳細図では「東映ストア 東映映画」。跡地は「IHI運搬機械福岡第一サービスセンター」付近。最寄駅は福岡市地下鉄空港線祇園駅。
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1962年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「堅粕東映」。1961年の映画館名簿では「堅粕東映劇場」。1962年の映画館名簿では「堅粕東映」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1965年の住宅詳細図では「東映ストア 東映映画」。跡地は「IHI運搬機械福岡第一サービスセンター」付近。最寄駅は福岡市地下鉄空港線祇園駅。
所在地 : 福岡県福岡市下人参町193(1957年)、福岡県福岡市人参町193(1958年)、福岡県福岡市下人参町193(1960年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1962年1月9日
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年の映画館名簿では「タカラ映劇」。1958年の映画館名簿では「宝映劇」。1960年の映画館名簿では「タカラ映劇」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
1962年1月9日、福岡市下人参畠町の「タカラ映劇」が全焼した。*22
1962年1月9日午前2時40分頃、福岡市下人参畠町139の「タカラ映劇」裏の看板小屋付近から出火し、モルタル塗り2階建ての劇場が全焼した。*23
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1962年1月9日
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年の映画館名簿では「タカラ映劇」。1958年の映画館名簿では「宝映劇」。1960年の映画館名簿では「タカラ映劇」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
1962年1月9日、福岡市下人参畠町の「タカラ映劇」が全焼した。*22
1962年1月9日午前2時40分頃、福岡市下人参畠町139の「タカラ映劇」裏の看板小屋付近から出火し、モルタル塗り2階建ての劇場が全焼した。*23
所在地 : 福岡県福岡市麦野474(1956年・1957年)、福岡県福岡市銀天町2(1958年)、福岡県福岡市那珂町麦野浦田(1960年)、福岡県福岡市銀天町(1963年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1963年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「那珂映劇」。1965年の住宅地図では「那珂映劇」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「メディケアホーム南福岡」北の駐車場。最寄駅は西鉄天神大牟田線雑餉隈駅。
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1963年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「那珂映劇」。1965年の住宅地図では「那珂映劇」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「メディケアホーム南福岡」北の駐車場。最寄駅は西鉄天神大牟田線雑餉隈駅。
所在地 : 福岡県福岡市竹下町(1956年)、福岡県福岡市竹下町143(1957年・1958年)、福岡県福岡市竹下町134(1960年)、福岡県福岡市竹下町(1963年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1963年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の映画館名簿では「竹下映劇」。1957年・1958年の映画館名簿では「竹下映画館」。1960年・1963年の映画館名簿では「竹下東映」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1963年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の映画館名簿では「竹下映劇」。1957年・1958年の映画館名簿では「竹下映画館」。1960年・1963年の映画館名簿では「竹下東映」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 福岡県福岡市吉塚4(1943年)、福岡県福岡市吉塚町(1947年)、福岡県福岡市吉塚町4丁目780(1950年)、福岡県福岡市吉塚4(1953年)、福岡県福岡市吉塚4-780(1955年)、福岡県福岡市吉塚町3(1958年)、福岡県福岡市吉塚4丁目780(1960年)、福岡県福岡市吉塚町(1963年)
開館年 : 1939年12月25日、1952年11月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1952年11月開館。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「東興館」。1943年の映画館名簿では「吉塚映画劇場」。1947年の映画館名簿では「吉塚中央映画劇場」。1950年の映画館名簿では「吉塚映画劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「吉塚映劇」。1958年の映画館名簿では「吉塚映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「吉塚映劇」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。1965年の住宅詳細図では吉塚町4丁目の現・ひばり吉塚店に「大日光パチンコ」があるが関係は不明。
1939年12月25日、福岡市吉塚本通に松竹二番館「東興館」が開館した。1942年には「吉塚映画劇場」に改称した。*24
開館年 : 1939年12月25日、1952年11月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1952年11月開館。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年の映画館名簿では「東興館」。1943年の映画館名簿では「吉塚映画劇場」。1947年の映画館名簿では「吉塚中央映画劇場」。1950年の映画館名簿では「吉塚映画劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「吉塚映劇」。1958年の映画館名簿では「吉塚映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「吉塚映劇」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。1965年の住宅詳細図では吉塚町4丁目の現・ひばり吉塚店に「大日光パチンコ」があるが関係は不明。
1939年12月25日、福岡市吉塚本通に松竹二番館「東興館」が開館した。1942年には「吉塚映画劇場」に改称した。*24
所在地 : 福岡県福岡市大浜町4(1956年)、福岡県福岡市大浜町4-116(1957年・1958年)、福岡県福岡市大浜町4-118(1960年)、福岡県福岡市大浜町(1963年・1964年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1964年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年の映画館名簿では「みなと映劇」。1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「大浜東映」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1965年の住宅詳細図では発見できず。
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1964年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年の映画館名簿では「みなと映劇」。1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「大浜東映」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1965年の住宅詳細図では発見できず。
所在地 : 福岡県福岡市上祇園町1529(1955年)、福岡県福岡市上祇園町159(1958年・1960年)、福岡県福岡市上祇園町15(1963年・1964年)
開館年 : 1953年12月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年12月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「ハカタ映劇」。1965年の住宅地図では「ハカタ映劇」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「フィル・パーク博多祇園」付近。最寄駅は福岡市地下鉄空港線祇園駅。
開館年 : 1953年12月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年12月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「ハカタ映劇」。1965年の住宅地図では「ハカタ映劇」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「フィル・パーク博多祇園」付近。最寄駅は福岡市地下鉄空港線祇園駅。
所在地 : 福岡県福岡市千代町(1947年・1950年)、福岡県福岡市千代町2(1953年・1955年)、福岡県福岡市千代町3-8(1958年・1960年)、福岡県福岡市千代町5(1963年・1964年)
開館年 : 1946年6月8日
閉館年 : 1964年1月28日
『全国映画館総覧 1955』によると1946年6月開館。1947年の映画館名簿では「国際劇場」。1950年の映画館名簿では「国際映画劇場」。1953年の映画館名簿では「福岡国際映画劇場」。1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「国際映劇」。1965年の住宅詳細図では「国際劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「ラクレイス県庁口」。最寄駅は福岡市地下鉄箱崎線千代県庁口駅。
1946年6月8日、福岡市に「国際映劇」が開館した。1964年1月28日に閉館した。*25
1946年6月6日、福岡市の千代町交差点北東角に洋画封切館「国際映劇」が開館した。8月28日にはセントラル映画社系列となり、『ターザンの猛襲』や『ターザンの黄金』は爆発的なヒットとなった。しかし、東中洲に映画館が増えるとともに立地面の欠点が目立つようになった。1953年10月3日には休館に入り、12月1日には欧米の新旧作品上映館として再開したが、1964年1月28日をもって閉館した。*26
開館年 : 1946年6月8日
閉館年 : 1964年1月28日
『全国映画館総覧 1955』によると1946年6月開館。1947年の映画館名簿では「国際劇場」。1950年の映画館名簿では「国際映画劇場」。1953年の映画館名簿では「福岡国際映画劇場」。1955年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「国際映劇」。1965年の住宅詳細図では「国際劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「ラクレイス県庁口」。最寄駅は福岡市地下鉄箱崎線千代県庁口駅。
1946年6月8日、福岡市に「国際映劇」が開館した。1964年1月28日に閉館した。*25
1946年6月6日、福岡市の千代町交差点北東角に洋画封切館「国際映劇」が開館した。8月28日にはセントラル映画社系列となり、『ターザンの猛襲』や『ターザンの黄金』は爆発的なヒットとなった。しかし、東中洲に映画館が増えるとともに立地面の欠点が目立つようになった。1953年10月3日には休館に入り、12月1日には欧米の新旧作品上映館として再開したが、1964年1月28日をもって閉館した。*26
所在地 : 福岡県福岡市堅粕町西前471(1957年)、福岡県福岡市堅粕町西前47(1958年)、福岡県福岡市堅粕西之前町471(1960年)、福岡県福岡市堅粕町(1963年・1964年)、福岡県福岡市堅粕西の前町(1965年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1965年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年の映画館名簿では「堅粕映画劇場」。1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「堅粕映劇」。1965年の住宅詳細図では発見できず。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1965年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年の映画館名簿では「堅粕映画劇場」。1960年・1963年・1964年・1965年の映画館名簿では「堅粕映劇」。1965年の住宅詳細図では発見できず。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 福岡県福岡市大字住吉839(1955年)、福岡県福岡市簑島本町(1960年・1963年)、福岡県福岡市大字住吉837(1966年)
開館年 : 1954年6月
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年12月開館。1955年の映画館名簿では「寿映劇」。1960年の映画館名簿では「寿東映」。1963年の映画館名簿では「寿映劇」。1965年の住宅詳細図では「寿映劇」。1966年の映画館名簿では「簑島東映映画劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「小柳公園」南西100mの「寿ビル」。最寄駅はJR博多駅。
開館年 : 1954年6月
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年12月開館。1955年の映画館名簿では「寿映劇」。1960年の映画館名簿では「寿東映」。1963年の映画館名簿では「寿映劇」。1965年の住宅詳細図では「寿映劇」。1966年の映画館名簿では「簑島東映映画劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「小柳公園」南西100mの「寿ビル」。最寄駅はJR博多駅。
所在地 : 福岡県福岡市東中洲芳町172(1956年・1957年・1958年・1960年)、福岡県福岡市東中洲172(1963年・1966年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1966年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年の映画館名簿では「中洲毎日館」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「ハリウッド映劇」。1966年の映画館名簿では「福岡ハリウッド映画劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。1973年の住宅地図では「ハリウッド劇場」。跡地はカプセルホテル「グリーンランド中洲店」。最寄駅は福岡市地下鉄空港線中洲川端駅。
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1966年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年の映画館名簿では「中洲毎日館」。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「ハリウッド映劇」。1966年の映画館名簿では「福岡ハリウッド映画劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。1973年の住宅地図では「ハリウッド劇場」。跡地はカプセルホテル「グリーンランド中洲店」。最寄駅は福岡市地下鉄空港線中洲川端駅。
所在地 : 福岡県福岡市東中洲335-1(1950年)、福岡県福岡市東中洲235(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)、福岡県福岡市東中洲235-1(1966年)
開館年 : 1947年10月16日
閉館年 : 1967年1月10日
『全国映画館総覧 1955』によると1950年2月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「玉屋シネマ」。1953年の映画館名簿では「タマヤ・シネマ」。1955年の映画館名簿では「タマヤシネマ」。1958年・1960年の映画館名簿では「タマヤ・ホール」。1963年の映画館名簿では「タマヤホール」。1966年の映画館名簿では「福岡タマヤホール」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。1973年の住宅地図では跡地に「玉屋百貨店」。跡地は「ゲイツビル」建物北端部。最寄駅は福岡市地下鉄空港線中洲川端駅。
1947年10月16日、福岡市に「タマヤシネマ」が開館し、1955年7月2日には「タマヤ・ホール」に改称した。1967年1月10日に閉館した。*27
1947年10月16日、福岡市の玉屋デパート5階に大映封切館「タマヤシネマ」が開館した。1954年のタマヤシネマの写真あり。*28
開館年 : 1947年10月16日
閉館年 : 1967年1月10日
『全国映画館総覧 1955』によると1950年2月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「玉屋シネマ」。1953年の映画館名簿では「タマヤ・シネマ」。1955年の映画館名簿では「タマヤシネマ」。1958年・1960年の映画館名簿では「タマヤ・ホール」。1963年の映画館名簿では「タマヤホール」。1966年の映画館名簿では「福岡タマヤホール」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。1973年の住宅地図では跡地に「玉屋百貨店」。跡地は「ゲイツビル」建物北端部。最寄駅は福岡市地下鉄空港線中洲川端駅。
1947年10月16日、福岡市に「タマヤシネマ」が開館し、1955年7月2日には「タマヤ・ホール」に改称した。1967年1月10日に閉館した。*27
1947年10月16日、福岡市の玉屋デパート5階に大映封切館「タマヤシネマ」が開館した。1954年のタマヤシネマの写真あり。*28
所在地 : 福岡県福岡市(1925年)、福岡県福岡市博多東中洲(1930年)、福岡県福岡市蓮池町(1934年)、福岡県福岡市蓮池町27(1936年・1941年)、福岡県福岡市蓮池町(1943年・1947年・1950年)、福岡県福岡市蓮池町27(1953年・1955年・1958年・1960年・1966年)、福岡県福岡市上呉服町12番14(1967年)
開館年 : 1918年10月30日、1951年12月
閉館年 : 1966年11月18日
『全国映画館総覧 1955』によると1951年12月開館。1925年の映画館名簿では「博多帝国館」。1930年・1934年・1936年・1941年の映画館名簿では「帝国館」。1943年の映画館名簿では「福岡松竹映劇」。1947年・1950年の映画館名簿では「松竹映画劇場」。1953年の映画館名簿では「福岡松映」。1955年の映画館名簿では「蓮池映劇」。1958年の映画館名簿では「蓮池松竹映画劇場」。1960年の映画館名簿では「蓮池松竹」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1965年の住宅地図では「蓮池東映」。1966年・1967年の映画館名簿では「蓮池東映劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は有料駐車場「D-Parking上呉服町第1」。最寄駅は福岡市地下鉄箱崎線呉服町駅。
1918年10月30日、福岡市に活動常設館「帝国館」が開館した。1942年8月1日には「福岡松竹映劇」に改称した。福岡松竹映劇は空襲で焼失せず、1945年8月30日には営業を再開した。1952年12月には「蓮池映劇」に改称し、1956年8月1日には「蓮池松竹映劇」に改称した。1966年11月18日に閉館した。*29
1952年12月16日、福岡市の中洲に「福岡松竹座」が開館した。これに伴い、1943年開館の「福岡松竹映劇」は「蓮池映劇」に改称して大映二番館となった。1954年の福岡市にあった蓮池映画劇場の写真あり。*30
開館年 : 1918年10月30日、1951年12月
閉館年 : 1966年11月18日
『全国映画館総覧 1955』によると1951年12月開館。1925年の映画館名簿では「博多帝国館」。1930年・1934年・1936年・1941年の映画館名簿では「帝国館」。1943年の映画館名簿では「福岡松竹映劇」。1947年・1950年の映画館名簿では「松竹映画劇場」。1953年の映画館名簿では「福岡松映」。1955年の映画館名簿では「蓮池映劇」。1958年の映画館名簿では「蓮池松竹映画劇場」。1960年の映画館名簿では「蓮池松竹」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1965年の住宅地図では「蓮池東映」。1966年・1967年の映画館名簿では「蓮池東映劇場」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は有料駐車場「D-Parking上呉服町第1」。最寄駅は福岡市地下鉄箱崎線呉服町駅。
1918年10月30日、福岡市に活動常設館「帝国館」が開館した。1942年8月1日には「福岡松竹映劇」に改称した。福岡松竹映劇は空襲で焼失せず、1945年8月30日には営業を再開した。1952年12月には「蓮池映劇」に改称し、1956年8月1日には「蓮池松竹映劇」に改称した。1966年11月18日に閉館した。*29
1952年12月16日、福岡市の中洲に「福岡松竹座」が開館した。これに伴い、1943年開館の「福岡松竹映劇」は「蓮池映劇」に改称して大映二番館となった。1954年の福岡市にあった蓮池映画劇場の写真あり。*30
所在地 : 福岡県福岡市東中洲277(1955年・1958年・1960年・1963年・1964年・1965年)、福岡県福岡市中洲5-3-4(1969年)
開館年 : 1946年1月、1954年7月1日
閉館年 : 1969年4月
『全国映画館総覧 1955』によると1954年6月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「福岡日活」。1958年の映画館名簿では「福岡日活劇場」。1960年の映画館名簿では「福岡日活」。1963年・1964年・1965年・1966年・1969年の映画館名簿では「福岡日活劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1973年の住宅地図では「博多城山ホテル」。9階建の日活博多会館にあった。後の城山ホテル。博多日活劇場に次ぐ福岡市での日活直営2号館。跡地は「アクア博多」建物南東部。最寄駅は福岡市地下鉄空港線中洲川端駅。
1954年6月30日、福岡市東中洲の那珂川大橋たもとに9階建の日活博多会館が竣工した。2階から4階には「福岡日活劇場」が入り、「博多日活劇場」に次いで福岡市における日活直営2号館となった。1961年の福岡日活映劇の写真あり。*31
1954年7月1日、福岡市東中洲の博多会館に日活によって「福岡日活劇場」が開館する。オープニングは『国定忠治』と『かくて夢あり』。支配人は綱島兼義。*32
1963年7月28日、福岡市の洋画封切館「福岡日活映劇」が日活封切館に転向する。オープニングは『現代っ子』と『日本の戦争』。*33
1969年2月には「神田日活」が閉館し、4月には「福岡日活」が閉館した。いずれも売却のため。*34
日活の経営不振が理由で、1969年3月をもって福岡市の「福岡日活劇場」が閉館し、入居していた日活博多会館が売却された。*35
開館年 : 1946年1月、1954年7月1日
閉館年 : 1969年4月
『全国映画館総覧 1955』によると1954年6月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「福岡日活」。1958年の映画館名簿では「福岡日活劇場」。1960年の映画館名簿では「福岡日活」。1963年・1964年・1965年・1966年・1969年の映画館名簿では「福岡日活劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1973年の住宅地図では「博多城山ホテル」。9階建の日活博多会館にあった。後の城山ホテル。博多日活劇場に次ぐ福岡市での日活直営2号館。跡地は「アクア博多」建物南東部。最寄駅は福岡市地下鉄空港線中洲川端駅。
1954年6月30日、福岡市東中洲の那珂川大橋たもとに9階建の日活博多会館が竣工した。2階から4階には「福岡日活劇場」が入り、「博多日活劇場」に次いで福岡市における日活直営2号館となった。1961年の福岡日活映劇の写真あり。*31
1954年7月1日、福岡市東中洲の博多会館に日活によって「福岡日活劇場」が開館する。オープニングは『国定忠治』と『かくて夢あり』。支配人は綱島兼義。*32
1963年7月28日、福岡市の洋画封切館「福岡日活映劇」が日活封切館に転向する。オープニングは『現代っ子』と『日本の戦争』。*33
1969年2月には「神田日活」が閉館し、4月には「福岡日活」が閉館した。いずれも売却のため。*34
日活の経営不振が理由で、1969年3月をもって福岡市の「福岡日活劇場」が閉館し、入居していた日活博多会館が売却された。*35
所在地 : 福岡県福岡市東中洲作人町(1953年)、福岡県福岡市東中洲78-1(1955年・1958年・1960年)、福岡県福岡市東中洲78(1963年)、福岡県福岡市東中洲78-1(1966年)、福岡県福岡市中洲2-4-1(1969年・1970年・1971年)
開館年 : 1952年12月16日
閉館年 : 1971年7月18日
『全国映画館総覧 1955』によると1952年12月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「松竹座」。1958年の映画館名簿では「福岡SY松竹座」。1960年の映画館名簿では「SY松竹座」。1963年の映画館名簿では「松竹座」。1966年・1969年・1970年・1971年の映画館名簿では「福岡松竹座」。1972年の映画館名簿には掲載されていない。1973年の住宅地図では跡地に「松竹ボウリング」。跡地は「第21ポールスタービル」。最寄駅は福岡市地下鉄七隈線櫛田神社前駅。
1952年12月16日、福岡市に「福岡松竹座」が開館した。1955年7月30日に「福岡松竹映劇」が開館したため、直前の7月27日には旧福岡松竹座が「SY松竹座」に改称した。1971年7月18日をもって閉館した。*36
1952年12月16日、福岡市の中洲大通り沿いに松竹直営館「福岡松竹座」が開館した。オープニングは松竹大船の『若奥様一番勝負』と松竹歌劇団のレビュー「東京踊り」。建物はサラセン風様式の鉄骨鉄筋造3階建。定員は1700人。*37
1971年11月には大映が全ての従業員を解雇し、12月には倒産した。この前の同年春には福岡大映劇場が松竹に売却され、6月26日には「松竹ピカデリー劇場」として新装開館した。これに伴い、「SY松竹座」は7月18日に閉館している。1971年6月の松竹ピカデリーの写真あり。*38
開館年 : 1952年12月16日
閉館年 : 1971年7月18日
『全国映画館総覧 1955』によると1952年12月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「松竹座」。1958年の映画館名簿では「福岡SY松竹座」。1960年の映画館名簿では「SY松竹座」。1963年の映画館名簿では「松竹座」。1966年・1969年・1970年・1971年の映画館名簿では「福岡松竹座」。1972年の映画館名簿には掲載されていない。1973年の住宅地図では跡地に「松竹ボウリング」。跡地は「第21ポールスタービル」。最寄駅は福岡市地下鉄七隈線櫛田神社前駅。
1952年12月16日、福岡市に「福岡松竹座」が開館した。1955年7月30日に「福岡松竹映劇」が開館したため、直前の7月27日には旧福岡松竹座が「SY松竹座」に改称した。1971年7月18日をもって閉館した。*36
1952年12月16日、福岡市の中洲大通り沿いに松竹直営館「福岡松竹座」が開館した。オープニングは松竹大船の『若奥様一番勝負』と松竹歌劇団のレビュー「東京踊り」。建物はサラセン風様式の鉄骨鉄筋造3階建。定員は1700人。*37
1971年11月には大映が全ての従業員を解雇し、12月には倒産した。この前の同年春には福岡大映劇場が松竹に売却され、6月26日には「松竹ピカデリー劇場」として新装開館した。これに伴い、「SY松竹座」は7月18日に閉館している。1971年6月の松竹ピカデリーの写真あり。*38
所在地 : 福岡県福岡市東中洲(1953年)、福岡県福岡市東中洲57(1955年・1958年・1960年・1963年・1966年)、福岡県福岡市中洲3-1-8(1969年・1970年・1971年)
開館年 : 1950年10月
閉館年 : 1971年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年10月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「テアトル川丈」。1966年・1969年・1970年・1971年の映画館名簿では「福岡テアトル川丈」。1972年の映画館名簿には掲載されていない。1973年の住宅地図では跡地に「川丈ビル」。跡地は「川丈ビル」。最寄駅は福岡市地下鉄空港線中洲川端駅。
開館年 : 1950年10月
閉館年 : 1971年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1950年10月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「テアトル川丈」。1966年・1969年・1970年・1971年の映画館名簿では「福岡テアトル川丈」。1972年の映画館名簿には掲載されていない。1973年の住宅地図では跡地に「川丈ビル」。跡地は「川丈ビル」。最寄駅は福岡市地下鉄空港線中洲川端駅。
所在地 : 福岡県福岡市上本町1(1950年)、福岡県福岡市上東町1(1953年・1955年・1958年・1960年)、福岡県福岡市上東町(1963年)、福岡県福岡市上呉服町11(1969年)
開館年 : 1920年12月12日
閉館年 : 1972年3月20日
Wikipedia : 大博劇場
『全国映画館総覧 1955』によると1953年8月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年の映画館名簿では「大博劇場」。1955年・1958年の映画館名簿では「大博劇場・名画座」(2館)。1960年・1963年の映画館名簿では「大博名画座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の映画館名簿では「福岡大博名画座・福岡大博劇場」(2館)。1965年・1973年の住宅地図では「大博劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「コアマンションルネス呉服町」。最寄駅は福岡市地下鉄箱崎線呉服町駅。
福岡市にあった映画館「大博劇場」、「大博名画座」、前原町にあった「前原日の出館」の写真あり。*39
1953年4月1日、福岡市の演劇場兼映画館「大博劇場」が工費7000万円で改築工事に入り、8月3日には定員1780人の3階建ビルが開館した。開館披露興行は東京歌舞伎であり、その後は映画『不思議の国のアリス』を国内第一封切で上映した。11月には新東宝封切館となった。*40
1953年8月3日、福岡市に「大博劇場」が開館した。1972年3月20日に閉館した。*41
1999年2月23日、福岡市博多区下川端町の博多リバレインに演劇専門劇場「博多座」が完成した。かつて博多区上呉服町には「大博劇場」があり、"芸どころ博多"再興の夢が高まる。大博劇場は1920年に完成し、九州各地から観客が集まった。太平洋戦争の戦災を免れ、1950年代まで歌舞伎の興行でにぎわった。高度成長期には娯楽の多様化とともに斜陽化し、演劇場から映画館となり、1972年に閉館して取り壊された。*42
開館年 : 1920年12月12日
閉館年 : 1972年3月20日
Wikipedia : 大博劇場
『全国映画館総覧 1955』によると1953年8月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年の映画館名簿では「大博劇場」。1955年・1958年の映画館名簿では「大博劇場・名画座」(2館)。1960年・1963年の映画館名簿では「大博名画座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の映画館名簿では「福岡大博名画座・福岡大博劇場」(2館)。1965年・1973年の住宅地図では「大博劇場」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「コアマンションルネス呉服町」。最寄駅は福岡市地下鉄箱崎線呉服町駅。
福岡市にあった映画館「大博劇場」、「大博名画座」、前原町にあった「前原日の出館」の写真あり。*39
1953年4月1日、福岡市の演劇場兼映画館「大博劇場」が工費7000万円で改築工事に入り、8月3日には定員1780人の3階建ビルが開館した。開館披露興行は東京歌舞伎であり、その後は映画『不思議の国のアリス』を国内第一封切で上映した。11月には新東宝封切館となった。*40
1953年8月3日、福岡市に「大博劇場」が開館した。1972年3月20日に閉館した。*41
1999年2月23日、福岡市博多区下川端町の博多リバレインに演劇専門劇場「博多座」が完成した。かつて博多区上呉服町には「大博劇場」があり、"芸どころ博多"再興の夢が高まる。大博劇場は1920年に完成し、九州各地から観客が集まった。太平洋戦争の戦災を免れ、1950年代まで歌舞伎の興行でにぎわった。高度成長期には娯楽の多様化とともに斜陽化し、演劇場から映画館となり、1972年に閉館して取り壊された。*42
所在地 : 福岡県福岡市千代町3-8(1956年・1957年・1958年・1960年)、福岡県福岡市千代町3(1963年・1966年・1969年)、福岡県福岡市東区千代町3(1973年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1973年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の映画館名簿では「日新映劇」。1957年・1958年の映画館名簿では「千代町東映劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「千代町東映」。1965年の住宅詳細図では「千代日活」。1966年・1969年の映画館名簿では「千代町日活映画劇場」。1973年の住宅地図では「千代日活」。1973年の映画館名簿では「福岡千代日活劇場」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はオフィスビル「パピヨン24」建物中央南部。最寄駅は福岡市営地下鉄箱崎線千代県庁口駅。
福岡市にあった映画館「駅前東映劇場」、「ステーションシネマ」、「千代日活劇場」、「富士映劇」の写真あり。「千代町日活」の文字が見える。*43
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1973年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の映画館名簿では「日新映劇」。1957年・1958年の映画館名簿では「千代町東映劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「千代町東映」。1965年の住宅詳細図では「千代日活」。1966年・1969年の映画館名簿では「千代町日活映画劇場」。1973年の住宅地図では「千代日活」。1973年の映画館名簿では「福岡千代日活劇場」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はオフィスビル「パピヨン24」建物中央南部。最寄駅は福岡市営地下鉄箱崎線千代県庁口駅。
福岡市にあった映画館「駅前東映劇場」、「ステーションシネマ」、「千代日活劇場」、「富士映劇」の写真あり。「千代町日活」の文字が見える。*43
所在地 : 福岡県福岡市三社町博多駅構内(1966年)、福岡県福岡市三社町25 ステーションビル(1969年)、福岡県福岡市博多区博多駅中央街1(1973年・1975年・1978年・1980年・1981年)
開館年 : 1965年頃
閉館年 : 1981年頃
1965年の映画館名簿には掲載されていない。1966年の映画館名簿では「ステーションシネマ」。1969年の映画館名簿では「ステーション・シネマ」。1973年・1975年・1978年・1980年・1981年の映画館名簿では「福岡博多ステーションシネマ」。1982年の映画館名簿には掲載されていない。
福岡市にあった映画館「駅前東映劇場」、「ステーションシネマ」、「千代日活劇場」、「富士映劇」の写真あり。ステーションシネマではチャールズ・ブロンソン主演『夜の訪問者』を上映中。*44
開館年 : 1965年頃
閉館年 : 1981年頃
1965年の映画館名簿には掲載されていない。1966年の映画館名簿では「ステーションシネマ」。1969年の映画館名簿では「ステーション・シネマ」。1973年・1975年・1978年・1980年・1981年の映画館名簿では「福岡博多ステーションシネマ」。1982年の映画館名簿には掲載されていない。
福岡市にあった映画館「駅前東映劇場」、「ステーションシネマ」、「千代日活劇場」、「富士映劇」の写真あり。ステーションシネマではチャールズ・ブロンソン主演『夜の訪問者』を上映中。*44
所在地 : 福岡県福岡市上店屋町5(1957年・1958年・1960年)、福岡県福岡市上店屋町(1963年・1966年)、福岡県福岡市店屋町1-2(1969年)、福岡県福岡市博多区店屋町1-2(1973年・1975年・1978年・1980年・1982年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1983年
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「富士映劇」。1966年・1969年の映画館名簿では「店屋富士映画劇場」。1973年・1975年の映画館名簿では「福岡富士映画劇場」。1973年の住宅地図では発見できず。1978年・1980年・1982年の映画館名簿では「福岡富士映劇」。1981年の住宅地図では「パチンコ明盛会館 富士映劇」。1983年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「博多アーバンスクエアービル」北西40mの有料駐車場。最寄駅は福岡市地下鉄箱崎線呉服町駅。
福岡市にあった映画館「駅前東映劇場」、「ステーションシネマ」、「千代日活劇場」、「富士映劇」の写真あり。富士映劇には「いつでもだれでも100円 最低の料金!! 最高の番組!!」の文字が見える。*45
1979年には福岡市の「みなみ東映」が閉館し、1981年には「サンハクト劇場」が閉館し、1983年には「多門日活劇場」や「富士映劇」が閉館した。*46
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1983年
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「富士映劇」。1966年・1969年の映画館名簿では「店屋富士映画劇場」。1973年・1975年の映画館名簿では「福岡富士映画劇場」。1973年の住宅地図では発見できず。1978年・1980年・1982年の映画館名簿では「福岡富士映劇」。1981年の住宅地図では「パチンコ明盛会館 富士映劇」。1983年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「博多アーバンスクエアービル」北西40mの有料駐車場。最寄駅は福岡市地下鉄箱崎線呉服町駅。
福岡市にあった映画館「駅前東映劇場」、「ステーションシネマ」、「千代日活劇場」、「富士映劇」の写真あり。富士映劇には「いつでもだれでも100円 最低の料金!! 最高の番組!!」の文字が見える。*45
1979年には福岡市の「みなみ東映」が閉館し、1981年には「サンハクト劇場」が閉館し、1983年には「多門日活劇場」や「富士映劇」が閉館した。*46
所在地 : 福岡県福岡市東中洲195(1957年・1958年)、福岡県福岡市東中洲195(1960年・1963年・1966年)、福岡県福岡市中洲2-4-18(1969年)、福岡県福岡市博多区中洲2-4-18(1973年・1975年・1978年・1980年・1982年)
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1982年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「中洲映劇」。1966年の映画館名簿では「福岡中洲映画劇場」。1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「福岡中洲映画劇場」。1973年の住宅地図では「中洲映劇」。1978年・1980年・1982年の映画館名簿では「福岡中洲映劇」。1983年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は商業ビル「BEMILANO」建物東側。最寄駅は福岡市地下鉄七隈線櫛田神社前駅。
福岡市にあった映画館「多門日活劇場」、「東映地下劇場」、「中洲映劇」の写真あり。中洲にあった多数の映画館の上映作品を紹介する中洲連合看板の写真あり。*47
開館年 : 1956年頃
閉館年 : 1982年頃
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「中洲映劇」。1966年の映画館名簿では「福岡中洲映画劇場」。1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「福岡中洲映画劇場」。1973年の住宅地図では「中洲映劇」。1978年・1980年・1982年の映画館名簿では「福岡中洲映劇」。1983年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は商業ビル「BEMILANO」建物東側。最寄駅は福岡市地下鉄七隈線櫛田神社前駅。
福岡市にあった映画館「多門日活劇場」、「東映地下劇場」、「中洲映劇」の写真あり。中洲にあった多数の映画館の上映作品を紹介する中洲連合看板の写真あり。*47
所在地 : 福岡県福岡市竹丘町(1958年)、福岡県福岡市竹丘町2丁目(1960年)、福岡県福岡市竹丘町(1963年)、福岡県福岡市竹丘町2丁目(1966年・1969年)、福岡県福岡市博多区竹丘町2丁目(1973年・1975年)、福岡県福岡市博多区竹丘町(1978年)、福岡県福岡市博多区竹丘町2丁目(1980年)、福岡県福岡市博多区竹丘町2-5-5(1982年)、福岡県福岡市博多区竹丘町2-5-6(1984年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1984年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「筑紫東映劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「筑紫東映」。1966年の映画館名簿では「筑紫東映映画劇場」。1969年の映画館名簿では「筑紫東映劇場」。1973年・1975年の映画館名簿では「福岡筑紫東映劇場」。1973年の住宅地図では「筑紫東映」。1978年・1980年の映画館名簿では「福岡筑紫中央劇場」。1982年・1984年の映画館名簿では「福岡筑紫中央映劇」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「大産南福岡ビル」。最寄駅は西鉄天神大牟田線雑餉隈駅。
福岡市にあった映画館「筑紫映劇」、「筑紫東映劇場」、「筑紫日活公楽劇場」の写真あり。*48
1963年10月14日、福岡市竹丘町の「筑紫東映」が半焼した。隣接家屋からの出火による。経営者は吉原雅一郎。定員470人。*49
1963年10月14日、福岡市竹丘町の「筑紫東映」が隣接家屋からの出火で半焼した。経営者は吉原雅一郎。定員470人。*50
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1984年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「筑紫東映劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「筑紫東映」。1966年の映画館名簿では「筑紫東映映画劇場」。1969年の映画館名簿では「筑紫東映劇場」。1973年・1975年の映画館名簿では「福岡筑紫東映劇場」。1973年の住宅地図では「筑紫東映」。1978年・1980年の映画館名簿では「福岡筑紫中央劇場」。1982年・1984年の映画館名簿では「福岡筑紫中央映劇」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「大産南福岡ビル」。最寄駅は西鉄天神大牟田線雑餉隈駅。
福岡市にあった映画館「筑紫映劇」、「筑紫東映劇場」、「筑紫日活公楽劇場」の写真あり。*48
1963年10月14日、福岡市竹丘町の「筑紫東映」が半焼した。隣接家屋からの出火による。経営者は吉原雅一郎。定員470人。*49
1963年10月14日、福岡市竹丘町の「筑紫東映」が隣接家屋からの出火で半焼した。経営者は吉原雅一郎。定員470人。*50
所在地 : 福岡県福岡市銀天町2-1(1962年)、福岡県福岡市銀天町2丁目(1963年・1966年・1969年)、福岡県福岡市博多区銀天町2丁目(1973年・1975年・1978年・1980年)、福岡県福岡市博多区銀天町2-2-18(1985年・1988年)
開館年 : 1961年頃
閉館年 : 1988年頃
1961年の映画館名簿には掲載されていない。1962年の映画館名簿では「日活公楽」。1963年の映画館名簿では「日活公楽劇場」。1966年の映画館名簿では「雑飼日活公楽」。1969年の映画館名簿では「日活公楽劇場」。1973年の住宅地図では「映画日活公楽」。1973年の映画館名簿では「福岡筑紫日活公楽劇場」。1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「福岡日活公楽劇場」。1985年の映画館名簿では「福岡日活公楽」。1989年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「アメックス南福岡」。最寄駅は西鉄天神大牟田線雑餉隈駅。
福岡市にあった映画館「筑紫映劇」、「筑紫東映劇場」、「筑紫日活公楽劇場」の写真あり。*51
開館年 : 1961年頃
閉館年 : 1988年頃
1961年の映画館名簿には掲載されていない。1962年の映画館名簿では「日活公楽」。1963年の映画館名簿では「日活公楽劇場」。1966年の映画館名簿では「雑飼日活公楽」。1969年の映画館名簿では「日活公楽劇場」。1973年の住宅地図では「映画日活公楽」。1973年の映画館名簿では「福岡筑紫日活公楽劇場」。1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「福岡日活公楽劇場」。1985年の映画館名簿では「福岡日活公楽」。1989年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「アメックス南福岡」。最寄駅は西鉄天神大牟田線雑餉隈駅。
福岡市にあった映画館「筑紫映劇」、「筑紫東映劇場」、「筑紫日活公楽劇場」の写真あり。*51
所在地 : 福岡県福岡市東中洲210(1953年)、福岡県福岡市東中洲110(1955年)、福岡県福岡市東中洲210(1958年・1960年・1963年・1966年)、福岡県福岡市中洲4-6-22(1969年)、福岡県福岡市博多区中洲4-6-22(1973年・1975年・1978年)、福岡県福岡市博多区中洲4-6-12(1980年・1985年・1988年)
開館年 : 1951年12月
閉館年 : 1989年8月31日
『全国映画館総覧 1955』によると1951年12月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「福岡東宝」。1958年の映画館名簿では「福岡東宝劇場」。1960年の映画館名簿では「福岡東宝」。1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年の映画館名簿では「福岡東宝劇場」。1973年の住宅地図では「福岡東宝劇場」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「博多エクセルホテル東急」建物北側。最寄駅は福岡市地下鉄空港線中洲川端駅。
1935年頃の福岡市中洲にあった劇場「九州劇場」の写真あり。戦前の福岡市を代表する劇場であり、「大博劇場」と並ぶ大劇場だった。大博劇場は歌舞伎の興行中心だったが、九州劇場は芸術座、新国劇、三浦環の独唱会、中野正剛の演説会など様々な催しに使用された。戦後には「福岡東宝」と「福岡松竹」に二分された。2001年現在の跡地はホテルとなっている。*52
1951年12月5日、福岡市の那珂川河岸に東宝直営館「東宝劇場」が開館した。オープニングはイギリス映画『バグダッドの盗賊』戦前には「九州劇場」があった場所である。開館時には「西日本唯一の完全暖房館」と謳われた。1952年10月15日、東宝は戦前の「寿座」跡地に「福岡日本劇場」も開館させ、東宝劇場は洋画専門館となった。*53
1955年の福岡市中洲にあった映画館「福岡東宝劇場」の写真あり。那珂川の河畔にあった。現在はエクセル東急ホテルがある場所である。昭和30年代の東中洲には21館の映画館があった。*54
1959年9月初旬から、福岡市東中洲にある「福岡東宝」と「大洋映画劇場」が改築に入る。福岡東宝の入口は「博多日活」と同じ通りに変わる。*55
1959年10月28日、福岡市東中洲210の「福岡東宝劇場」(福岡宝塚会館)の改装が完成して営業を再開した。冷暖房完備。椅子席624。*56
福岡市にあった映画館「大洋映劇」(大洋映画劇場)、「松竹ピカデリー」、「福岡東宝映劇」、「グランド映劇」(グランド劇場)の写真あり。*57
1989年には福岡市の「福岡東宝劇場」、「ステーションシネマ」が閉館した。*58
開館年 : 1951年12月
閉館年 : 1989年8月31日
『全国映画館総覧 1955』によると1951年12月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「福岡東宝」。1958年の映画館名簿では「福岡東宝劇場」。1960年の映画館名簿では「福岡東宝」。1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年の映画館名簿では「福岡東宝劇場」。1973年の住宅地図では「福岡東宝劇場」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「博多エクセルホテル東急」建物北側。最寄駅は福岡市地下鉄空港線中洲川端駅。
1935年頃の福岡市中洲にあった劇場「九州劇場」の写真あり。戦前の福岡市を代表する劇場であり、「大博劇場」と並ぶ大劇場だった。大博劇場は歌舞伎の興行中心だったが、九州劇場は芸術座、新国劇、三浦環の独唱会、中野正剛の演説会など様々な催しに使用された。戦後には「福岡東宝」と「福岡松竹」に二分された。2001年現在の跡地はホテルとなっている。*52
1951年12月5日、福岡市の那珂川河岸に東宝直営館「東宝劇場」が開館した。オープニングはイギリス映画『バグダッドの盗賊』戦前には「九州劇場」があった場所である。開館時には「西日本唯一の完全暖房館」と謳われた。1952年10月15日、東宝は戦前の「寿座」跡地に「福岡日本劇場」も開館させ、東宝劇場は洋画専門館となった。*53
1955年の福岡市中洲にあった映画館「福岡東宝劇場」の写真あり。那珂川の河畔にあった。現在はエクセル東急ホテルがある場所である。昭和30年代の東中洲には21館の映画館があった。*54
1959年9月初旬から、福岡市東中洲にある「福岡東宝」と「大洋映画劇場」が改築に入る。福岡東宝の入口は「博多日活」と同じ通りに変わる。*55
1959年10月28日、福岡市東中洲210の「福岡東宝劇場」(福岡宝塚会館)の改装が完成して営業を再開した。冷暖房完備。椅子席624。*56
福岡市にあった映画館「大洋映劇」(大洋映画劇場)、「松竹ピカデリー」、「福岡東宝映劇」、「グランド映劇」(グランド劇場)の写真あり。*57
1989年には福岡市の「福岡東宝劇場」、「ステーションシネマ」が閉館した。*58
所在地 : 福岡県福岡市博多区博多駅中央街5-3(1979年・1980年・1982年・1985年)、福岡県福岡市博多区博多駅中央街1-1(1986年・1988年・1989年)
開館年 : 1977年
閉館年 : 1989年9月1日
1978年の映画館名簿には掲載されていない。1979年・1980年の映画館名簿では「サンハクト映劇」。1981年の住宅地図では「平和会館新博都ビル 地下1階サンハクト映画劇場」。1982年・1985年・1986年・1988年・1989年の映画館名簿では「博多ステーションシネマ」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ホテルクリオコート博多」。最寄駅はJR博多駅。
1977年には福岡市に「サンハクト劇場」が開館した。オープニングはアメリカ映画『カプリコン・1』と『オルカ』の二本立。博多駅筑紫口のサンハクトホテル地下にあり、座席数は190席だった。絨毯敷きのフロア、1脚5万円の椅子、イタリアンタイル張りのトイレなど、豪華さで定評があった。*59
1979年には福岡市の「みなみ東映」が閉館し、1981年には「サンハクト劇場」が閉館し、1983年には「多門日活劇場」や「富士映劇」が閉館した。*60
1989年には福岡市の「福岡東宝劇場」、「ステーションシネマ」が閉館した。*61
1989年9月1日をもって、福岡市の博多駅商店街にある「ステーションシネマ」が閉館した。洋画主体の映画館だった。*62
開館年 : 1977年
閉館年 : 1989年9月1日
1978年の映画館名簿には掲載されていない。1979年・1980年の映画館名簿では「サンハクト映劇」。1981年の住宅地図では「平和会館新博都ビル 地下1階サンハクト映画劇場」。1982年・1985年・1986年・1988年・1989年の映画館名簿では「博多ステーションシネマ」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ホテルクリオコート博多」。最寄駅はJR博多駅。
1977年には福岡市に「サンハクト劇場」が開館した。オープニングはアメリカ映画『カプリコン・1』と『オルカ』の二本立。博多駅筑紫口のサンハクトホテル地下にあり、座席数は190席だった。絨毯敷きのフロア、1脚5万円の椅子、イタリアンタイル張りのトイレなど、豪華さで定評があった。*59
1979年には福岡市の「みなみ東映」が閉館し、1981年には「サンハクト劇場」が閉館し、1983年には「多門日活劇場」や「富士映劇」が閉館した。*60
1989年には福岡市の「福岡東宝劇場」、「ステーションシネマ」が閉館した。*61
1989年9月1日をもって、福岡市の博多駅商店街にある「ステーションシネマ」が閉館した。洋画主体の映画館だった。*62
所在地 : 福岡県福岡市東中洲6-49(1960年)、福岡県福岡市東中洲149(1963年)、福岡県福岡市東中洲6-149(1966年)、福岡県福岡市中洲4-6-25(1969年)、福岡県福岡市博多区中洲4-6-25(1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1988年)
開館年 : 1955年7月30日
閉館年 : 1989年9月15日
1960年の映画館名簿では「福岡松竹」。1963年の映画館名簿では「福岡松竹映劇」。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「福岡松竹映画劇場」。1973年の住宅地図では「福岡松竹映劇」。1985年・1988年の映画館名簿では「福岡松竹劇場」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。建物名は福岡松竹会館。跡地は「博多エクセルホテル東急」建物北東側。最寄駅は福岡市地下鉄空港線中洲川端駅。
1955年7月、「福岡松竹映画劇場」が開館した。*63
1955年7月30日、福岡市の「東宝劇場」南隣に「福岡松竹映劇」が開館した。オープニングは中村登監督作『修禅寺物語』。鉄筋コンクリート造3階建、冷暖房付、定員922人。これに伴って「松竹座」は松竹邦画封切館から松竹洋画封切館に転向した。*64
1955年7月30日、福岡市に「福岡松竹映劇」が開館した。1989年9月15日、福岡松竹は「ピカデリー2」の跡地に移転した。*65
福岡市にあった映画館「福岡東映劇場」、「文化オークラ劇場」、「福岡松竹劇場」、「ニュー大洋映劇」の写真あり。福岡松竹映劇では男はつらいよ大会を開催中である。*66
1989年9月には「福岡松竹会館」が閉館し、「福岡ピカデリー1・2」が「福岡ピカデリー」と「福岡松竹」に改称された。*67
開館年 : 1955年7月30日
閉館年 : 1989年9月15日
1960年の映画館名簿では「福岡松竹」。1963年の映画館名簿では「福岡松竹映劇」。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「福岡松竹映画劇場」。1973年の住宅地図では「福岡松竹映劇」。1985年・1988年の映画館名簿では「福岡松竹劇場」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。建物名は福岡松竹会館。跡地は「博多エクセルホテル東急」建物北東側。最寄駅は福岡市地下鉄空港線中洲川端駅。
1955年7月、「福岡松竹映画劇場」が開館した。*63
1955年7月30日、福岡市の「東宝劇場」南隣に「福岡松竹映劇」が開館した。オープニングは中村登監督作『修禅寺物語』。鉄筋コンクリート造3階建、冷暖房付、定員922人。これに伴って「松竹座」は松竹邦画封切館から松竹洋画封切館に転向した。*64
1955年7月30日、福岡市に「福岡松竹映劇」が開館した。1989年9月15日、福岡松竹は「ピカデリー2」の跡地に移転した。*65
福岡市にあった映画館「福岡東映劇場」、「文化オークラ劇場」、「福岡松竹劇場」、「ニュー大洋映劇」の写真あり。福岡松竹映劇では男はつらいよ大会を開催中である。*66
1989年9月には「福岡松竹会館」が閉館し、「福岡ピカデリー1・2」が「福岡ピカデリー」と「福岡松竹」に改称された。*67
所在地 : 福岡県福岡市銀天町3(1958年)、福岡県福岡市銀天町3-12(1960年)、福岡県福岡市銀天町(1963年)、福岡県福岡市銀天町3丁目(1966年)、福岡県福岡市銀天町3-12(1969年)、福岡県福岡市博多区銀天町3丁目(1973年・1975年)、福岡県福岡市博多区銀天町3丁目、銀天町(1978年)、福岡県福岡市博多区銀天町3丁目(1980年)、福岡県福岡市博多区銀天町3-1-27(1985年・1990年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1990年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「筑紫映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「筑紫映劇」。1966年・1969年の映画館名簿では「筑紫映画劇場」。1973年の映画館名簿では「福岡筑紫映画劇場」。1973年の住宅地図では「筑紫映画劇場」。1975年の映画館名簿では「福岡筑紫映劇」。1978年・1980年の映画館名簿では「福岡筑紫映劇・福岡筑紫東映劇場」(2館)。1985年・1990年の映画館名簿では「筑紫セントラル・筑紫映劇」(2館)。1991年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「サヴォイセントオブガーデン」。最寄駅は西鉄天神大牟田線雑餉隈駅。
福岡市にあった映画館「筑紫映劇」、「筑紫東映劇場」、「筑紫日活公楽劇場」の写真あり。*68
1984年には福岡市に「筑紫映劇」、「筑紫セントラル」、「天神東映ホール」が開館した。*69
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1990年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「筑紫映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「筑紫映劇」。1966年・1969年の映画館名簿では「筑紫映画劇場」。1973年の映画館名簿では「福岡筑紫映画劇場」。1973年の住宅地図では「筑紫映画劇場」。1975年の映画館名簿では「福岡筑紫映劇」。1978年・1980年の映画館名簿では「福岡筑紫映劇・福岡筑紫東映劇場」(2館)。1985年・1990年の映画館名簿では「筑紫セントラル・筑紫映劇」(2館)。1991年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「サヴォイセントオブガーデン」。最寄駅は西鉄天神大牟田線雑餉隈駅。
福岡市にあった映画館「筑紫映劇」、「筑紫東映劇場」、「筑紫日活公楽劇場」の写真あり。*68
1984年には福岡市に「筑紫映劇」、「筑紫セントラル」、「天神東映ホール」が開館した。*69
所在地 : 福岡県福岡市博多区中洲3-6-12(1986年・1990年)
開館年 : 1985年頃
閉館年 : 1990年頃
1985年の映画館名簿には掲載されていない。1986年・1990年の映画館名簿では「中洲シネプラザ」。1986年の映画館名簿では経営会社が澄川興産、経営者が澄川正夫、支配人が大宮久雄、鉄筋造地下、45席、洋画・成人映画を上映。1988年の住宅地図では「1階シネプラザ」(※建物名不明)。1991年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「The BREAKFAST HOTEL 福岡中洲」西20mの有料駐車場「Dパーキング中洲3丁目PS第一」。最寄駅は福岡市地下鉄空港線中洲川端駅。
開館年 : 1985年頃
閉館年 : 1990年頃
1985年の映画館名簿には掲載されていない。1986年・1990年の映画館名簿では「中洲シネプラザ」。1986年の映画館名簿では経営会社が澄川興産、経営者が澄川正夫、支配人が大宮久雄、鉄筋造地下、45席、洋画・成人映画を上映。1988年の住宅地図では「1階シネプラザ」(※建物名不明)。1991年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「The BREAKFAST HOTEL 福岡中洲」西20mの有料駐車場「Dパーキング中洲3丁目PS第一」。最寄駅は福岡市地下鉄空港線中洲川端駅。
所在地 : 福岡県福岡市博多区中洲4-7-21(1982年・1985年・1986年・1990年)
開館年 : 1981年
閉館年 : 1990年頃
1981年の映画館名簿には掲載されていない。1982年の映画館名簿では「福岡中洲新東宝」。1985年・1986年・1990年の映画館名簿では「中洲新東宝劇場」。1986年の映画館名簿では経営会社が九州新東宝、経営者が前田武夫、支配人が記載なし、鉄筋造地下、77席、成人映画を上映。1988年の住宅地図では発見できず。1991年の映画館名簿には掲載されていない。
1981年には福岡市に「大洋シネサロン」、「中洲新東宝劇場」、「オークラ劇場1・2」が開館した。*70
開館年 : 1981年
閉館年 : 1990年頃
1981年の映画館名簿には掲載されていない。1982年の映画館名簿では「福岡中洲新東宝」。1985年・1986年・1990年の映画館名簿では「中洲新東宝劇場」。1986年の映画館名簿では経営会社が九州新東宝、経営者が前田武夫、支配人が記載なし、鉄筋造地下、77席、成人映画を上映。1988年の住宅地図では発見できず。1991年の映画館名簿には掲載されていない。
1981年には福岡市に「大洋シネサロン」、「中洲新東宝劇場」、「オークラ劇場1・2」が開館した。*70
所在地 : 福岡県福岡市明治町2-6-1(1969年)、福岡県福岡市博多区博多駅前1-14(1973年・1975年)、福岡県福岡市博多区博多駅前1-14-3(1978年・1980年・1985年・1986年・1990年・1991年)
開館年 : 1968年頃
閉館年 : 1991年頃
1968年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の映画館名簿では「シネマパレス」。1973年の住宅地図では「シネマパレス」であり北西隣に駅前ミュージックがあった。1973年・1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「福岡駅前東映劇場」。1985年・1986年の映画館名簿では「駅前パレス・駅前にっかつ」(2館)。1986年の映画館名簿では経営会社が澄川興産、経営者が澄川正夫、支配人が吉田博士、鉄筋造4階、駅前パレスが126席で洋画・成人映画を上映、駅前にっかつが168席でにっかつを上映。1990年の映画館名簿では「駅前パレス・駅前シネマ」(2館)。1991年の映画館名簿では「駅前パレス」。1992年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「博多駅前エスビーホテル」。最寄駅はJR博多駅。
福岡市にあった映画館「駅前東映劇場」、「ステーションシネマ」、「千代日活劇場」、「富士映劇」の写真あり。*71
1983年には福岡市に「駅前にっかつ」、「駅前パレス」、「博多にっかつ」(旧多門日活劇場)が開館した。*72
開館年 : 1968年頃
閉館年 : 1991年頃
1968年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の映画館名簿では「シネマパレス」。1973年の住宅地図では「シネマパレス」であり北西隣に駅前ミュージックがあった。1973年・1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「福岡駅前東映劇場」。1985年・1986年の映画館名簿では「駅前パレス・駅前にっかつ」(2館)。1986年の映画館名簿では経営会社が澄川興産、経営者が澄川正夫、支配人が吉田博士、鉄筋造4階、駅前パレスが126席で洋画・成人映画を上映、駅前にっかつが168席でにっかつを上映。1990年の映画館名簿では「駅前パレス・駅前シネマ」(2館)。1991年の映画館名簿では「駅前パレス」。1992年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「博多駅前エスビーホテル」。最寄駅はJR博多駅。
福岡市にあった映画館「駅前東映劇場」、「ステーションシネマ」、「千代日活劇場」、「富士映劇」の写真あり。*71
1983年には福岡市に「駅前にっかつ」、「駅前パレス」、「博多にっかつ」(旧多門日活劇場)が開館した。*72
所在地 : 福岡県福岡市東中洲218(1960年・1963年)、福岡県福岡市東中洲195(1966年)、福岡県福岡市中洲4-3-18(1969年)、福岡県福岡市博多区中洲4-3-18(1973年・1975年・1978年・1980年・1982年・1985年・1988年・1990年・1992年)
開館年 : 1955年7月8日
閉館年 : 1992年4月10日
Wikipedia : 福岡東映
1960年の映画館名簿では「福岡東映・東映地下」(2館)。1963年の映画館名簿では「福岡東映劇場・東映地下映劇」(2館)。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「福岡東映劇場・福岡東映地下劇場」(2館)。1973年の住宅地図では「福岡東映 東映地下映画劇場」。1975年の映画館名簿では「福岡東映劇場・福岡東映パラス」(2館)。1978年の映画館名簿では「福岡東映劇場・福岡東映パラス劇場」(2館)。1980年・1982年・1985年の映画館名簿では「福岡東映劇場・福岡東映パラス」(2館)。1988年・1990年の映画館名簿では「福岡東映劇場・福岡東映パラス劇場」(2館)。1992年の映画館名簿では「福岡東映劇場・福岡東映パラス」(2館)。1992年の映画館名簿では経営会社が東映、経営者が岡田茂、支配人が中川文夫、福岡東映劇場が鉄筋造2階で616席で東映を上映、福岡東映パラスが鉄筋造地下で223席で洋画・東映を上映。1995年の映画館名簿には掲載されていない。後継館は福岡東映プラザ。跡地は福岡東映プラザの福岡東映劇場。最寄駅は福岡市地下鉄空港線中洲川端駅。
「福岡市内映画館MAP」『福岡市の映画と映画館100年の歩み』(1995)。p.61に1971年の写真あり。
1955年7月8日、福岡市東中洲195に東映封切館「福岡東映」と洋画特選館「地下劇場」が開館した。鉄筋造地上3階・地下1階建て。定員は福岡東映が1200、地下劇場が600。総支配人は本郷武郎。施工は鹿島建設。*73
1955年7月8日、福岡市に「福岡東映」が開館した。オープニングは『虚無僧系図』。東映の大川社長らが訪れ、東映スターが挨拶した。初日の観客数は8372人、興行収入は76万9111円。*74
福岡市にあった映画館「多門日活劇場」、「東映地下劇場」、「中洲映劇」の写真あり。中洲にあった多数の映画館の上映作品を紹介する中洲連合看板の写真あり。*75
1992年4月12日をもって、福岡市博多区中洲の映画館「福岡東映劇場」が閉館する。跡地には飲食と映画の複合ビル「福岡東映プラザビル」を建設し、1994年3月の完成を目指す。福岡東映劇場は1955年開館で老朽化していた。福岡東映プラザビルの総工費は約40億円。地下3階・地上9階建てであり、地下が映画館、1階と2階が遊技場、3階から8階が飲食店、9階が事務所となる。*76
1992年4月10日をもって、福岡市博多区中洲の映画館「福岡東映劇場」が37年の歴史に終止符を打って閉館する。地下の「東映パラス」は一足早く3月末で閉館している。1994年には複合ビル地下3階・地上9階建ての「福岡東映プラザビル」として生まれ変わり、288席の映画館が入る。1962年7月8日、福岡東映劇場と東映パラスがそろって開館した。福岡東映劇場が東映作品の封切館、東映パラスが洋画のニ番館・三番館という役割であり、開館時の入場料は福岡東映劇場が80円、東映パラスが55円だった。*77
開館年 : 1955年7月8日
閉館年 : 1992年4月10日
Wikipedia : 福岡東映
1960年の映画館名簿では「福岡東映・東映地下」(2館)。1963年の映画館名簿では「福岡東映劇場・東映地下映劇」(2館)。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「福岡東映劇場・福岡東映地下劇場」(2館)。1973年の住宅地図では「福岡東映 東映地下映画劇場」。1975年の映画館名簿では「福岡東映劇場・福岡東映パラス」(2館)。1978年の映画館名簿では「福岡東映劇場・福岡東映パラス劇場」(2館)。1980年・1982年・1985年の映画館名簿では「福岡東映劇場・福岡東映パラス」(2館)。1988年・1990年の映画館名簿では「福岡東映劇場・福岡東映パラス劇場」(2館)。1992年の映画館名簿では「福岡東映劇場・福岡東映パラス」(2館)。1992年の映画館名簿では経営会社が東映、経営者が岡田茂、支配人が中川文夫、福岡東映劇場が鉄筋造2階で616席で東映を上映、福岡東映パラスが鉄筋造地下で223席で洋画・東映を上映。1995年の映画館名簿には掲載されていない。後継館は福岡東映プラザ。跡地は福岡東映プラザの福岡東映劇場。最寄駅は福岡市地下鉄空港線中洲川端駅。
「福岡市内映画館MAP」『福岡市の映画と映画館100年の歩み』(1995)。p.61に1971年の写真あり。
1955年7月8日、福岡市東中洲195に東映封切館「福岡東映」と洋画特選館「地下劇場」が開館した。鉄筋造地上3階・地下1階建て。定員は福岡東映が1200、地下劇場が600。総支配人は本郷武郎。施工は鹿島建設。*73
1955年7月8日、福岡市に「福岡東映」が開館した。オープニングは『虚無僧系図』。東映の大川社長らが訪れ、東映スターが挨拶した。初日の観客数は8372人、興行収入は76万9111円。*74
福岡市にあった映画館「多門日活劇場」、「東映地下劇場」、「中洲映劇」の写真あり。中洲にあった多数の映画館の上映作品を紹介する中洲連合看板の写真あり。*75
1992年4月12日をもって、福岡市博多区中洲の映画館「福岡東映劇場」が閉館する。跡地には飲食と映画の複合ビル「福岡東映プラザビル」を建設し、1994年3月の完成を目指す。福岡東映劇場は1955年開館で老朽化していた。福岡東映プラザビルの総工費は約40億円。地下3階・地上9階建てであり、地下が映画館、1階と2階が遊技場、3階から8階が飲食店、9階が事務所となる。*76
1992年4月10日をもって、福岡市博多区中洲の映画館「福岡東映劇場」が37年の歴史に終止符を打って閉館する。地下の「東映パラス」は一足早く3月末で閉館している。1994年には複合ビル地下3階・地上9階建ての「福岡東映プラザビル」として生まれ変わり、288席の映画館が入る。1962年7月8日、福岡東映劇場と東映パラスがそろって開館した。福岡東映劇場が東映作品の封切館、東映パラスが洋画のニ番館・三番館という役割であり、開館時の入場料は福岡東映劇場が80円、東映パラスが55円だった。*77
所在地 : 福岡県福岡市東中洲千日前(1960年)、福岡県福岡市東中洲245(1963年・1966年)、福岡県福岡市中洲5-5-1(1969年)、福岡県福岡市博多区中洲5-5-1(1973年・1975年・1978年・1980年・1982年・1985年・1988年・1990年・1992年・1995年)
開館年 : 1957年4月20日
閉館年 : 1997年3月14日
1960年の映画館名簿では「宝塚劇場・スカラ座・東宝シネマ・東宝名画座」(4館)1963年の映画館名簿では「福岡宝塚劇場・スカラ座・東宝シネマ・東宝名画座」(4館)。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年の映画館名簿では「福岡宝塚劇場・福岡スカラ座・福岡東宝シネマ・福岡東宝名画座」(4館)。1973年の住宅地図では「九州サービスセンター 福岡宝塚会館ゲームセンター スカラ座ガンコーナー 東宝名画座 東宝シネマ 東宝グリム」。1980年の映画館名簿では「福岡宝塚劇場・福岡スカラ座・福岡東宝シネマ1・2」(4館)。1982年の映画館名簿では「福岡宝塚劇場・福岡スカラ座・福岡東塚シネマ1・2」(4館)。1985年の映画館名簿では「福岡宝塚劇場・福岡スカラ座・福岡シネマ1・2」(4館)。1988年・1990年・1992年の映画館名簿では「福岡宝塚劇場・福岡スカラ座・福岡シネマ1・2・3」(5館)。1992年の映画館名簿では経営会社が東宝九州興行、経営者が浮島好之、支配人が瀬利茂一と相沢博。1995年の映画館名簿では「福岡宝塚1-5」(5館)。1998年の映画館名簿には掲載されていない。建物名は福岡宝塚会館。跡地は「三井ガーデンホテル福岡中洲」。最寄駅は福岡市地下鉄空港線中洲川端駅。
1957年4月20日、福岡市東中洲に4の映画劇場を包含する「福岡宝塚会館」が開館した。九州随一の劇場ビルであり、4億円の工費をかけて14か月で建設された。株式会社福岡宝塚会館の直営。東宝の佐藤会長、井上取締役、馬淵威雄取締役、奥村茂敏福岡市長、川辺福岡県興行協会会長、藤岡福岡市興行協会会長、山口九州地区東宝館主会代表などが列席した。*78
1957年4月20日、福岡市東中洲245-2に「福岡宝塚会館」が開館した。東宝の直営館。地上7階建て、地下2階建て。地下に特選邦画上映の「東宝シネマ」(定員675人)があり、地上1階から4階に「福岡宝塚劇場」(定員1270人)があり、5階から6階に洋画ロードショー館の「福岡スカラ座」(定員807人)があり、7階に特選洋画の「東宝名画座」(定員807人)がある。7階には東宝九州支社が移転した。*79
福岡市にあった映画館「福岡宝塚会館」の建物の写真あり。壁面には『栄光のル・マン』の垂れ幕が見える。「東宝名画座」、「スカラ座」、「福岡宝塚劇場」、「東宝シネマ」の4館を内包している。*80
1997年3月14日をもって、福岡市博多区中洲の映画館「福岡宝塚会館」が40年の歴史に終止符を打って閉館する。5スクリーンを有し、中洲で最大の集客力を誇る映画館である。最終日には名作『アラビアのロレンス』『2001年宇宙の旅』『ティファニーで朝食を』『用心棒』4本を入場料200円で上映する。かつて芝居小屋「寿座」などがあった場所に、1957年4月に4スクリーン(現在は5スクリーン)を併せ持つビルとして開館した。当時はこのようなビルは全国的に見て珍しく、「映画のデパート」とも呼ばれた。『南極物語』では福岡宝塚会館の最高記録となる15万3349人を集めた。閉館後には天神地区に移転し、3月15日に「天神東宝ビル」が開館する。*81
1997年3月14日をもって、福岡市博多区中洲の映画館「福岡宝塚会館」が中央区天神への移転を前に最終興行を行った。最終日には入場料一律200円の「さよならフェスティバル 想い出の名画祭」が開催され、過去に福岡宝塚会館でヒットした『アラビアのロレンス』や『用心棒』などの名作が上映された。入口にはゴジラや山口百恵の主演作品のパネルも展示された。開演時間は10時だったが、一時間前には100人以上の行列ができた。*82
福岡宝塚会館に言及している雑誌記事として、「福岡宝塚会館の最後の日」『博多独楽』1997年5月、8巻5号がある。現物は未確認。*83
開館年 : 1957年4月20日
閉館年 : 1997年3月14日
1960年の映画館名簿では「宝塚劇場・スカラ座・東宝シネマ・東宝名画座」(4館)1963年の映画館名簿では「福岡宝塚劇場・スカラ座・東宝シネマ・東宝名画座」(4館)。1966年・1969年・1973年・1975年・1978年の映画館名簿では「福岡宝塚劇場・福岡スカラ座・福岡東宝シネマ・福岡東宝名画座」(4館)。1973年の住宅地図では「九州サービスセンター 福岡宝塚会館ゲームセンター スカラ座ガンコーナー 東宝名画座 東宝シネマ 東宝グリム」。1980年の映画館名簿では「福岡宝塚劇場・福岡スカラ座・福岡東宝シネマ1・2」(4館)。1982年の映画館名簿では「福岡宝塚劇場・福岡スカラ座・福岡東塚シネマ1・2」(4館)。1985年の映画館名簿では「福岡宝塚劇場・福岡スカラ座・福岡シネマ1・2」(4館)。1988年・1990年・1992年の映画館名簿では「福岡宝塚劇場・福岡スカラ座・福岡シネマ1・2・3」(5館)。1992年の映画館名簿では経営会社が東宝九州興行、経営者が浮島好之、支配人が瀬利茂一と相沢博。1995年の映画館名簿では「福岡宝塚1-5」(5館)。1998年の映画館名簿には掲載されていない。建物名は福岡宝塚会館。跡地は「三井ガーデンホテル福岡中洲」。最寄駅は福岡市地下鉄空港線中洲川端駅。
1957年4月20日、福岡市東中洲に4の映画劇場を包含する「福岡宝塚会館」が開館した。九州随一の劇場ビルであり、4億円の工費をかけて14か月で建設された。株式会社福岡宝塚会館の直営。東宝の佐藤会長、井上取締役、馬淵威雄取締役、奥村茂敏福岡市長、川辺福岡県興行協会会長、藤岡福岡市興行協会会長、山口九州地区東宝館主会代表などが列席した。*78
1957年4月20日、福岡市東中洲245-2に「福岡宝塚会館」が開館した。東宝の直営館。地上7階建て、地下2階建て。地下に特選邦画上映の「東宝シネマ」(定員675人)があり、地上1階から4階に「福岡宝塚劇場」(定員1270人)があり、5階から6階に洋画ロードショー館の「福岡スカラ座」(定員807人)があり、7階に特選洋画の「東宝名画座」(定員807人)がある。7階には東宝九州支社が移転した。*79
福岡市にあった映画館「福岡宝塚会館」の建物の写真あり。壁面には『栄光のル・マン』の垂れ幕が見える。「東宝名画座」、「スカラ座」、「福岡宝塚劇場」、「東宝シネマ」の4館を内包している。*80
1997年3月14日をもって、福岡市博多区中洲の映画館「福岡宝塚会館」が40年の歴史に終止符を打って閉館する。5スクリーンを有し、中洲で最大の集客力を誇る映画館である。最終日には名作『アラビアのロレンス』『2001年宇宙の旅』『ティファニーで朝食を』『用心棒』4本を入場料200円で上映する。かつて芝居小屋「寿座」などがあった場所に、1957年4月に4スクリーン(現在は5スクリーン)を併せ持つビルとして開館した。当時はこのようなビルは全国的に見て珍しく、「映画のデパート」とも呼ばれた。『南極物語』では福岡宝塚会館の最高記録となる15万3349人を集めた。閉館後には天神地区に移転し、3月15日に「天神東宝ビル」が開館する。*81
1997年3月14日をもって、福岡市博多区中洲の映画館「福岡宝塚会館」が中央区天神への移転を前に最終興行を行った。最終日には入場料一律200円の「さよならフェスティバル 想い出の名画祭」が開催され、過去に福岡宝塚会館でヒットした『アラビアのロレンス』や『用心棒』などの名作が上映された。入口にはゴジラや山口百恵の主演作品のパネルも展示された。開演時間は10時だったが、一時間前には100人以上の行列ができた。*82
福岡宝塚会館に言及している雑誌記事として、「福岡宝塚会館の最後の日」『博多独楽』1997年5月、8巻5号がある。現物は未確認。*83
所在地 : 福岡県福岡市東中洲243(1953年)、福岡県福岡市東中洲234(1955年)、福岡県福岡市東中洲243(1958年)、福岡県福岡市東中洲245(1960年)、福岡県福岡市東中洲243(1963年・1966年)、福岡県福岡市中洲5-4-5(1969年)、福岡県福岡市博多区中洲5-4-5(1973年・1975年・1978年・1980年・1982年・1985年・1988年・1990年・1995年・1998年)
開館年 : 1949年12月28日、1955年9月29日(建て替え)
閉館年 : 1998年4月5日
『全国映画館総覧 1955』によると1951年5月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「公楽映画劇場」。1955年の映画館名簿では「公楽映劇」。1958年の映画館名簿では「福岡公楽劇場」。1960年の映画館名簿では「福岡大映」。1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「福岡大映劇場」。1973年の映画館名簿では「福岡松竹ピカデリー」。1973年の住宅地図では「松竹ピカデリー」。1975年・1978年・1980年・1982年・1985年・1988年の映画館名簿では「福岡松竹ピカデリー1・2」(2館)。1990年・1995年・1998年の映画館名簿では「福岡松竹劇場・福岡松竹ピカデリー」(2館)。1998年の映画館名簿では経営会社が松竹、経営者が奥山融、支配人が田中保、福岡松竹劇場が鉄筋造1階で420席で松竹を上映、福岡松竹ピカデリーが鉄筋造2階で254席で洋画ロードショーを上映。2000年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「リバーフェイス博多」建物南西部。最寄駅は福岡市地下鉄空港線中洲川端駅。
1950年12月、福岡市に「金星劇場」が開館した。1951年12月27日には「福岡公楽劇場」に改称し、1958年8月には「福岡大映劇場」に改称した。1971年6月11日には「松竹ピカデリー」に改称し、1989年9月15日には「福岡ピカデリー」に改称した。*84
1949年12月28日、福岡市の那珂川大橋河岸に「金星劇場」が開館した。オープニングはベティ・デイヴィス主演『花嫁の季節』。戦時中には「日活館」があった場所には「オークラ劇場」が建ち、その西側にあった。1951年12月27日には「福岡公楽劇場」に改称し、1953年には『風と共に去りぬ』を上映した。1955年9月29日、鉄筋コンクリート造4階建のビルに建て替えた。1958年8月には「福岡大映劇場」に改称した。1971年6月には松竹に売却され、「松竹ピカデリー」に改称した。*85
1958年8月1日、福岡市の洋画封切館「福岡公楽映劇」が「福岡大映」に改称して大映封切館に転向する。オープニングは『人肌孔雀』と『鬼火燈籠』の二本立てと、山本富士子・市川雷蔵・川口浩らの実演。工費180万円でネオンの新設などを進めており、約60万円で転向の宣伝に力を注いでいる。経営は公楽会館。*86
福岡市にあった映画館「大洋映劇」(大洋映画劇場)、「松竹ピカデリー」、「福岡東宝映劇」、「グランド映劇」(グランド劇場)の写真あり。*87
1971年11月には大映が全ての従業員を解雇し、12月には倒産した。この前の同年春には福岡大映劇場が松竹に売却され、6月26日には「松竹ピカデリー劇場」として新装開館した。これに伴い、「SY松竹座」は7月18日に閉館している。*88
松竹の直営劇場の動きを見ると、1973年12月に「福岡ピカデリー1・2」が開館し、1974年2月に「川口松竹」が閉館した。*89
1989年9月には「福岡松竹会館」が閉館し、「福岡ピカデリー1・2」が「福岡ピカデリー」と「福岡松竹」に改称された。*90
1998年4月5日をもって、福岡市博多区中洲の映画館「福岡松竹」と「福岡ピカデリー」が閉館する。松竹にとって九州唯一の直営映画館。主な理由は施設の老朽化。1997年3月には同じく中洲にあった「福岡宝塚会館」が閉館して天神地区に移転しており、福岡松竹の閉館によって福岡の映画館地図が大きく塗り替わる。1955年、那珂川沿いの敷地約1100平方メートルに「公楽劇場」として開館した。「福岡大映」という名称を経て、1971年6月に松竹が買収した。地下1階・地上4階建てのビルに、邦画専門の福岡松竹(420席)、洋画専門の福岡ピカデリー(254席)がある。13スクリーンの「AMCキャナルシティ13」が開館したことや、中洲の福岡宝塚会館が天神に移転して天神東宝となったことで、中洲地区の映画観客の吸引力は低下していた。閉館後には建物が取り壊され、土地は大手建設会社に売却されることが決まっている。中洲の映画館は「中洲大洋」など5館となり、松竹の封切作品は中洲大洋で上映される予定。*91
1998年4月5日をもって、福岡市博多区中洲の松竹直営映画館「福岡松竹」と「福岡ピカデリー」が閉館する。主な理由は施設の老朽化。建物は1949年に「福岡金星映劇」として開館し、「公楽劇場」や「福岡大映」に改称した後、70年代に松竹が買収して松竹直営館となった。420席の福岡松竹では邦画を、254席の福岡ピカデリーでは洋画を上映している。1996年に外資系シネコン「AMCキャナルシティ13」が開館したことや、中洲の福岡宝塚会館が天神に移転して天神東宝となったことで、中洲の映画館客数が減少していた。4月6日から松竹作品は「中洲大洋」で上映する予定。*92
1998年4月5日、「福岡ピカデリー」と「福岡松竹」が閉館した。*93
開館年 : 1949年12月28日、1955年9月29日(建て替え)
閉館年 : 1998年4月5日
『全国映画館総覧 1955』によると1951年5月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「公楽映画劇場」。1955年の映画館名簿では「公楽映劇」。1958年の映画館名簿では「福岡公楽劇場」。1960年の映画館名簿では「福岡大映」。1963年・1966年・1969年の映画館名簿では「福岡大映劇場」。1973年の映画館名簿では「福岡松竹ピカデリー」。1973年の住宅地図では「松竹ピカデリー」。1975年・1978年・1980年・1982年・1985年・1988年の映画館名簿では「福岡松竹ピカデリー1・2」(2館)。1990年・1995年・1998年の映画館名簿では「福岡松竹劇場・福岡松竹ピカデリー」(2館)。1998年の映画館名簿では経営会社が松竹、経営者が奥山融、支配人が田中保、福岡松竹劇場が鉄筋造1階で420席で松竹を上映、福岡松竹ピカデリーが鉄筋造2階で254席で洋画ロードショーを上映。2000年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はマンション「リバーフェイス博多」建物南西部。最寄駅は福岡市地下鉄空港線中洲川端駅。
1950年12月、福岡市に「金星劇場」が開館した。1951年12月27日には「福岡公楽劇場」に改称し、1958年8月には「福岡大映劇場」に改称した。1971年6月11日には「松竹ピカデリー」に改称し、1989年9月15日には「福岡ピカデリー」に改称した。*84
1949年12月28日、福岡市の那珂川大橋河岸に「金星劇場」が開館した。オープニングはベティ・デイヴィス主演『花嫁の季節』。戦時中には「日活館」があった場所には「オークラ劇場」が建ち、その西側にあった。1951年12月27日には「福岡公楽劇場」に改称し、1953年には『風と共に去りぬ』を上映した。1955年9月29日、鉄筋コンクリート造4階建のビルに建て替えた。1958年8月には「福岡大映劇場」に改称した。1971年6月には松竹に売却され、「松竹ピカデリー」に改称した。*85
1958年8月1日、福岡市の洋画封切館「福岡公楽映劇」が「福岡大映」に改称して大映封切館に転向する。オープニングは『人肌孔雀』と『鬼火燈籠』の二本立てと、山本富士子・市川雷蔵・川口浩らの実演。工費180万円でネオンの新設などを進めており、約60万円で転向の宣伝に力を注いでいる。経営は公楽会館。*86
福岡市にあった映画館「大洋映劇」(大洋映画劇場)、「松竹ピカデリー」、「福岡東宝映劇」、「グランド映劇」(グランド劇場)の写真あり。*87
1971年11月には大映が全ての従業員を解雇し、12月には倒産した。この前の同年春には福岡大映劇場が松竹に売却され、6月26日には「松竹ピカデリー劇場」として新装開館した。これに伴い、「SY松竹座」は7月18日に閉館している。*88
松竹の直営劇場の動きを見ると、1973年12月に「福岡ピカデリー1・2」が開館し、1974年2月に「川口松竹」が閉館した。*89
1989年9月には「福岡松竹会館」が閉館し、「福岡ピカデリー1・2」が「福岡ピカデリー」と「福岡松竹」に改称された。*90
1998年4月5日をもって、福岡市博多区中洲の映画館「福岡松竹」と「福岡ピカデリー」が閉館する。松竹にとって九州唯一の直営映画館。主な理由は施設の老朽化。1997年3月には同じく中洲にあった「福岡宝塚会館」が閉館して天神地区に移転しており、福岡松竹の閉館によって福岡の映画館地図が大きく塗り替わる。1955年、那珂川沿いの敷地約1100平方メートルに「公楽劇場」として開館した。「福岡大映」という名称を経て、1971年6月に松竹が買収した。地下1階・地上4階建てのビルに、邦画専門の福岡松竹(420席)、洋画専門の福岡ピカデリー(254席)がある。13スクリーンの「AMCキャナルシティ13」が開館したことや、中洲の福岡宝塚会館が天神に移転して天神東宝となったことで、中洲地区の映画観客の吸引力は低下していた。閉館後には建物が取り壊され、土地は大手建設会社に売却されることが決まっている。中洲の映画館は「中洲大洋」など5館となり、松竹の封切作品は中洲大洋で上映される予定。*91
1998年4月5日をもって、福岡市博多区中洲の松竹直営映画館「福岡松竹」と「福岡ピカデリー」が閉館する。主な理由は施設の老朽化。建物は1949年に「福岡金星映劇」として開館し、「公楽劇場」や「福岡大映」に改称した後、70年代に松竹が買収して松竹直営館となった。420席の福岡松竹では邦画を、254席の福岡ピカデリーでは洋画を上映している。1996年に外資系シネコン「AMCキャナルシティ13」が開館したことや、中洲の福岡宝塚会館が天神に移転して天神東宝となったことで、中洲の映画館客数が減少していた。4月6日から松竹作品は「中洲大洋」で上映する予定。*92
1998年4月5日、「福岡ピカデリー」と「福岡松竹」が閉館した。*93
所在地 : 福岡県福岡市東中洲188(1953年)、福岡県福岡市東中洲(1958年)、福岡県福岡市東中洲188(1958年・1960年・1963年・1966年)、福岡県福岡市中洲3-4-6(1969年)、福岡県福岡市博多区中洲3-4-6(1973年・1975年)、福岡県福岡市博多区中洲3-4-9(1978年・1980年・1982年)、福岡県福岡市博多区中洲3-4-6(1985年・1988年・1990年・1992年・1995年・1998年・2000年)
開館年 : 1951年6月、1983年頃(建て替え)
閉館年 : 2000年9月30日
『全国映画館総覧 1955』によると1951年6月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「多門座」。1958年・1960年の映画館名簿では「多門映劇」。1963年の映画館名簿では「多門松竹映劇」。1966年の映画館名簿では「福岡多門日活映画劇場」。1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1982年・1983年の映画館名簿では「福岡多門日活劇場」。1973年の住宅地図では「多門日活劇場」。1983年の映画館名簿では経営者が山本謹也、支配人が三笠正幸、鉄筋造2階、432席、にっかつを上映。1984年・1985年・1988年の映画館名簿では「博多にっかつ劇場」。1984年の映画館名簿では経営会社が九州にっかつ興業、経営者が内藤利信、支配人が三笠正幸、鉄筋造7階、176席、にっかつを上映。1990年の映画館名簿では「ロッポニカ日活」。1992年・1995年・1998年の映画館名簿では「シネロマン博多」。1998年の映画館名簿では経営会社が日活、経営者が中村雅哉、支配人が吉田ヨシエ、鉄筋造7階、176席、成人映画を上映。2000年の映画館名簿では「シネ・リーブル博多」。2002年の映画館名簿には掲載されていない。多門ビル7階。建物の多門ビルは現存。最寄駅は福岡市地下鉄空港線中洲川端駅。
1937年5月1日には福岡市の映画館「第二民衆倶楽部」が演劇場「博多演芸館」となり、1944年3月1日には「多門座」に改称したが、1945年6月19日の福岡大空襲で焼失した。戦後には演劇場として営業を再開し、1948年7月21日には大映再映館に転向すると、その後「多門映劇」に改称し、1963年3月1日には「多門日活」に改称した。1981年11月1日には「博多にっかつ」に改称し、1988年7月1日には「ロッポニカ博多」に改称し、1990年9月には「シネロマン博多」に改称した。*94
1963年3月、日活九州支社は「多門日活」と「日活朝日館」と「千代田日活」の3館を専門館に加えた。多門日活は「多門松竹映劇」からの改称であり、経営者は山本謹之助。日活朝日館は「朝日松竹映画」からの改称であり、経営者は磯田博。千代田日活は「千代田東映」からの改称であり、経営者は白井賢治。*95
福岡市にあった映画館「多門日活劇場」、「東映地下劇場」、「中洲映劇」の写真あり。中洲にあった多数の映画館の上映作品を紹介する中洲連合看板の写真あり。多門日活劇場では『関東破門状』、『喜劇 男の顔は人生よ』などの看板が見える。*96
1979年には福岡市の「みなみ東映」が閉館し、1981年には「サンハクト劇場」が閉館し、1983年には「多門日活劇場」や「富士映劇」が閉館した。*97
1983年には福岡市に「駅前にっかつ」、「駅前パレス」、「博多にっかつ」(旧多門日活劇場)が開館した。*98
1983年11月1日、福岡市博多区中洲3丁目4番6号 多門ビル83に「博多にっかつ」が開場した。にっかつによる47番目の直営館。*99
1998年8月1日、福岡市中洲にある日活経営の成人映画館「シネロマン博多」がミニシアター「シネ・リーブル博多」に改称する。福岡市で3館目のアート系ミニシアターである。にっかつ時代の1983年に開館した。1997年には日活が一般映画の映画を再開したため、福岡市での上映館にするとともにアート系までジャンルを広げた。8月1日から8月7日には、崔洋一監督作『犬、走る』と相米慎二監督作『あ、春』などを日替わりで上映する。8月8日には本格的な上映を開始し、大林宣彦監督作『風の歌が聴きたい』を、22日からはインド映画『ムトゥ 踊るマハラジャ』を上映する。*100
2000年3月末をもって、福岡市博多区中洲3-4-6の「シネ・リーブル博多」は東京テアトルによる経営を終了し、4月1日には日活の経営に移った。*101
2000年9月30日をもって、福岡市中洲の日活直営館「シネ・リーブル博多」が閉館する。1998年8月、日活直営の成人映画館「シネロマン博多」を改装し、アート系作品の上映館として開館した。当初の運営は日活・東京テアトル・シネカノンの3社だった。インド映画『ムトゥ 踊るマハラジャ』や日本映画『ナビィの恋』などがヒットした。1999年5月にはJR博多駅近くに同系列の映画館が開館し、2000年4月には日活が単独で運営する映画館となった。*102
開館年 : 1951年6月、1983年頃(建て替え)
閉館年 : 2000年9月30日
『全国映画館総覧 1955』によると1951年6月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「多門座」。1958年・1960年の映画館名簿では「多門映劇」。1963年の映画館名簿では「多門松竹映劇」。1966年の映画館名簿では「福岡多門日活映画劇場」。1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1982年・1983年の映画館名簿では「福岡多門日活劇場」。1973年の住宅地図では「多門日活劇場」。1983年の映画館名簿では経営者が山本謹也、支配人が三笠正幸、鉄筋造2階、432席、にっかつを上映。1984年・1985年・1988年の映画館名簿では「博多にっかつ劇場」。1984年の映画館名簿では経営会社が九州にっかつ興業、経営者が内藤利信、支配人が三笠正幸、鉄筋造7階、176席、にっかつを上映。1990年の映画館名簿では「ロッポニカ日活」。1992年・1995年・1998年の映画館名簿では「シネロマン博多」。1998年の映画館名簿では経営会社が日活、経営者が中村雅哉、支配人が吉田ヨシエ、鉄筋造7階、176席、成人映画を上映。2000年の映画館名簿では「シネ・リーブル博多」。2002年の映画館名簿には掲載されていない。多門ビル7階。建物の多門ビルは現存。最寄駅は福岡市地下鉄空港線中洲川端駅。
1937年5月1日には福岡市の映画館「第二民衆倶楽部」が演劇場「博多演芸館」となり、1944年3月1日には「多門座」に改称したが、1945年6月19日の福岡大空襲で焼失した。戦後には演劇場として営業を再開し、1948年7月21日には大映再映館に転向すると、その後「多門映劇」に改称し、1963年3月1日には「多門日活」に改称した。1981年11月1日には「博多にっかつ」に改称し、1988年7月1日には「ロッポニカ博多」に改称し、1990年9月には「シネロマン博多」に改称した。*94
1963年3月、日活九州支社は「多門日活」と「日活朝日館」と「千代田日活」の3館を専門館に加えた。多門日活は「多門松竹映劇」からの改称であり、経営者は山本謹之助。日活朝日館は「朝日松竹映画」からの改称であり、経営者は磯田博。千代田日活は「千代田東映」からの改称であり、経営者は白井賢治。*95
福岡市にあった映画館「多門日活劇場」、「東映地下劇場」、「中洲映劇」の写真あり。中洲にあった多数の映画館の上映作品を紹介する中洲連合看板の写真あり。多門日活劇場では『関東破門状』、『喜劇 男の顔は人生よ』などの看板が見える。*96
1979年には福岡市の「みなみ東映」が閉館し、1981年には「サンハクト劇場」が閉館し、1983年には「多門日活劇場」や「富士映劇」が閉館した。*97
1983年には福岡市に「駅前にっかつ」、「駅前パレス」、「博多にっかつ」(旧多門日活劇場)が開館した。*98
1983年11月1日、福岡市博多区中洲3丁目4番6号 多門ビル83に「博多にっかつ」が開場した。にっかつによる47番目の直営館。*99
1998年8月1日、福岡市中洲にある日活経営の成人映画館「シネロマン博多」がミニシアター「シネ・リーブル博多」に改称する。福岡市で3館目のアート系ミニシアターである。にっかつ時代の1983年に開館した。1997年には日活が一般映画の映画を再開したため、福岡市での上映館にするとともにアート系までジャンルを広げた。8月1日から8月7日には、崔洋一監督作『犬、走る』と相米慎二監督作『あ、春』などを日替わりで上映する。8月8日には本格的な上映を開始し、大林宣彦監督作『風の歌が聴きたい』を、22日からはインド映画『ムトゥ 踊るマハラジャ』を上映する。*100
2000年3月末をもって、福岡市博多区中洲3-4-6の「シネ・リーブル博多」は東京テアトルによる経営を終了し、4月1日には日活の経営に移った。*101
2000年9月30日をもって、福岡市中洲の日活直営館「シネ・リーブル博多」が閉館する。1998年8月、日活直営の成人映画館「シネロマン博多」を改装し、アート系作品の上映館として開館した。当初の運営は日活・東京テアトル・シネカノンの3社だった。インド映画『ムトゥ 踊るマハラジャ』や日本映画『ナビィの恋』などがヒットした。1999年5月にはJR博多駅近くに同系列の映画館が開館し、2000年4月には日活が単独で運営する映画館となった。*102
所在地 : 福岡県福岡市東中洲町(1947年・1950年)、福岡県福岡市東中洲212(1953年・1955年)、福岡県福岡市東中洲(1958年)、福岡県福岡市東中洲272(1960年)、福岡県福岡市東中洲273(1963年)、福岡県福岡市東中洲212(1965年)、福岡県福岡市東中洲272(1966年)、福岡県福岡市中洲4-7-8(1969年)、福岡県福岡市博多区中洲4-7-8(1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1988年・1990年・1995年・1998年・2000年)
開館年 : 1946年1月(博多日活)、1963年12月(グランド劇場)、1998年8月8日(福岡松竹)
閉館年 : 2000年2月28日
1947年・1950年の映画館名簿では「博多日活映画劇場」。1953年の映画館名簿では「日活映劇」。1955年の映画館名簿では「博多日活」。1958年の映画館名簿では「博多日活映劇」。1960年の映画館名簿では「博多日活」。1963年の映画館名簿では「博多日活劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。1965年の映画館名簿では「グランド劇場」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「福岡グランド劇場」。1973年の住宅地図では「パチンコニュー上海」。1975年・1978年の映画館名簿では「福岡東映グランド劇場」。1980年の映画館名簿では「福岡グランド劇場」。1985年・1988年・1990年の映画館名簿では「福岡東映グランド劇場」。1995年・1998年の映画館名簿では「福岡東映グランド」。1998年の映画館名簿では経営会社が東映、経営者が高岩淡、支配人が後藤正義、鉄筋造5階、432席、洋画を上映。2000年の映画館名簿では「福岡松竹」。2000年の映画館名簿では経営会社が西日本松竹興行、経営者が木原秀雄、支配人が田中保、鉄筋造5階、432席、洋画ロードショーを上映。2002年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ラ・パピヨンビル」建物北東側。最寄駅は福岡市地下鉄空港線中洲川端駅。
1948年の福岡市にあった「博多日活」の写真あり。1957年3月1日、鉄筋コンクリート造2階建の建物で博多日活劇場が新装開館した。オープニングは『危険な関係』と『私は前科者である』の二本立。*103
1957年3月1日、福岡市に「博多日活劇場」が開館した。鉄筋コンクリート造2階建て、椅子席定員690人。支配人は花田善壮。*104
1962年夏のこのほど、日活九州支社は福岡市東中洲の直営館「博多日活映画劇場」を売却することを計画している。1963年秋には国鉄博多駅前地区が完成予定であり、この地に劇場を新設する計画がある。定員690人。*105
1963年7月、日活は経営不振のために「博多日活劇場」を文化企業に売却した。同劇場は12月に「福岡グランド劇場」として開館した。*106
東映の直営館を見ると、1972年12月に「金沢東映パラス」と「横浜東映」と「盛岡東映パラス」が開館し、1973年3月に「小倉東映パラス」と「黒崎東映パラス」が開館し、5月に「新宿名画座」が開館し、6月に「福岡グランド」と「浅草名画座」が開館し、7月に「富山東映パラス」が開館した。1972年7月には「鹿児島東映」が閉館し、1973年1月には「岩見沢東映」が閉館し、2月には「八幡東映」が閉館し、3月には「関西東映・関西小劇場」が閉館した。*107
福岡市にあった映画館「大洋映劇」(大洋映画劇場)、「松竹ピカデリー」、「福岡東宝映劇」、「グランド映劇」(グランド劇場)の写真あり。*108
東映の直営劇場の動きを見ると、1978年6月に「新宿東映ホール」が開館し、7月に「福岡グランド」が休館した。*109
1998年8月8日、福岡市博多区中洲の映画館「東映グランド」が「福岡松竹」の名称となる。福岡松竹は4月に閉館したが、430席の東映グランドを借りて営業を再開する。松竹の人気作品である『釣りバカ日誌10』がオープニング作品。東映が経営する東映グランドは洋画系を上映していたが、他の映画館でも洋画の上映が可能と判断した。*110
2000年2月末をもって、福岡市博多区中洲4の映画館「福岡松竹」が閉館する。1998年8月、中洲から東映系列の映画館を借りる形で現在地に移転した。賃借契約が切れることが閉館の理由。移転前の福岡松竹は1971年に開館したが、1998年4月に閉館して解体された。その後、松竹は「東映グランド」を借りて福岡松竹に改称し、営業を続けていた。『釣りバカ日誌』が最終上映作品。*111
2000年2月末をもって、福岡市博多区中洲の映画館「福岡松竹」が閉館する。経営は九州で松竹系列10館を運営する西日本松竹興行。建物の賃貸契約が切れることが理由だが、観客数の低迷も要因。1998年8月には近くにあった松竹直営館「(旧)福岡松竹」が閉館し、関連企業の西日本松竹興行が現在地の「東映グランド」跡地に同じ館名で営業を再開、松竹系列の作品を上映していた。*112
2000年2月末をもって、西日本松竹興行が経営する「福岡松竹」が閉館した。*113
2000年7月16日、福岡市博多区中洲4丁目の旧「福岡松竹」で自主上映グループ「W・L・C福岡」による上映会が開催される。木下啓介監督の『女の園』、大庭秀雄監督の『君の名は 総集編』が上映される。7月いっぱいで松竹と所有者の賃貸契約が切れる予定。*114
開館年 : 1946年1月(博多日活)、1963年12月(グランド劇場)、1998年8月8日(福岡松竹)
閉館年 : 2000年2月28日
1947年・1950年の映画館名簿では「博多日活映画劇場」。1953年の映画館名簿では「日活映劇」。1955年の映画館名簿では「博多日活」。1958年の映画館名簿では「博多日活映劇」。1960年の映画館名簿では「博多日活」。1963年の映画館名簿では「博多日活劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。1965年の映画館名簿では「グランド劇場」。1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「福岡グランド劇場」。1973年の住宅地図では「パチンコニュー上海」。1975年・1978年の映画館名簿では「福岡東映グランド劇場」。1980年の映画館名簿では「福岡グランド劇場」。1985年・1988年・1990年の映画館名簿では「福岡東映グランド劇場」。1995年・1998年の映画館名簿では「福岡東映グランド」。1998年の映画館名簿では経営会社が東映、経営者が高岩淡、支配人が後藤正義、鉄筋造5階、432席、洋画を上映。2000年の映画館名簿では「福岡松竹」。2000年の映画館名簿では経営会社が西日本松竹興行、経営者が木原秀雄、支配人が田中保、鉄筋造5階、432席、洋画ロードショーを上映。2002年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ラ・パピヨンビル」建物北東側。最寄駅は福岡市地下鉄空港線中洲川端駅。
1948年の福岡市にあった「博多日活」の写真あり。1957年3月1日、鉄筋コンクリート造2階建の建物で博多日活劇場が新装開館した。オープニングは『危険な関係』と『私は前科者である』の二本立。*103
1957年3月1日、福岡市に「博多日活劇場」が開館した。鉄筋コンクリート造2階建て、椅子席定員690人。支配人は花田善壮。*104
1962年夏のこのほど、日活九州支社は福岡市東中洲の直営館「博多日活映画劇場」を売却することを計画している。1963年秋には国鉄博多駅前地区が完成予定であり、この地に劇場を新設する計画がある。定員690人。*105
1963年7月、日活は経営不振のために「博多日活劇場」を文化企業に売却した。同劇場は12月に「福岡グランド劇場」として開館した。*106
東映の直営館を見ると、1972年12月に「金沢東映パラス」と「横浜東映」と「盛岡東映パラス」が開館し、1973年3月に「小倉東映パラス」と「黒崎東映パラス」が開館し、5月に「新宿名画座」が開館し、6月に「福岡グランド」と「浅草名画座」が開館し、7月に「富山東映パラス」が開館した。1972年7月には「鹿児島東映」が閉館し、1973年1月には「岩見沢東映」が閉館し、2月には「八幡東映」が閉館し、3月には「関西東映・関西小劇場」が閉館した。*107
福岡市にあった映画館「大洋映劇」(大洋映画劇場)、「松竹ピカデリー」、「福岡東宝映劇」、「グランド映劇」(グランド劇場)の写真あり。*108
東映の直営劇場の動きを見ると、1978年6月に「新宿東映ホール」が開館し、7月に「福岡グランド」が休館した。*109
1998年8月8日、福岡市博多区中洲の映画館「東映グランド」が「福岡松竹」の名称となる。福岡松竹は4月に閉館したが、430席の東映グランドを借りて営業を再開する。松竹の人気作品である『釣りバカ日誌10』がオープニング作品。東映が経営する東映グランドは洋画系を上映していたが、他の映画館でも洋画の上映が可能と判断した。*110
2000年2月末をもって、福岡市博多区中洲4の映画館「福岡松竹」が閉館する。1998年8月、中洲から東映系列の映画館を借りる形で現在地に移転した。賃借契約が切れることが閉館の理由。移転前の福岡松竹は1971年に開館したが、1998年4月に閉館して解体された。その後、松竹は「東映グランド」を借りて福岡松竹に改称し、営業を続けていた。『釣りバカ日誌』が最終上映作品。*111
2000年2月末をもって、福岡市博多区中洲の映画館「福岡松竹」が閉館する。経営は九州で松竹系列10館を運営する西日本松竹興行。建物の賃貸契約が切れることが理由だが、観客数の低迷も要因。1998年8月には近くにあった松竹直営館「(旧)福岡松竹」が閉館し、関連企業の西日本松竹興行が現在地の「東映グランド」跡地に同じ館名で営業を再開、松竹系列の作品を上映していた。*112
2000年2月末をもって、西日本松竹興行が経営する「福岡松竹」が閉館した。*113
2000年7月16日、福岡市博多区中洲4丁目の旧「福岡松竹」で自主上映グループ「W・L・C福岡」による上映会が開催される。木下啓介監督の『女の園』、大庭秀雄監督の『君の名は 総集編』が上映される。7月いっぱいで松竹と所有者の賃貸契約が切れる予定。*114
所在地 : 福岡県福岡市博多区中洲4-3-8(1995年)、福岡県福岡市博多区中洲4-3-18(1998年・2000年・2002年)
開館年 : 1994年6月2日
閉館年 : 2003年9月30日
Wikipedia : 福岡東映
1992年の映画館名簿には掲載されていない。1995年・1998年・2000年・2002年の映画館名簿では「福岡東映劇場」。2002年の映画館名簿では経営会社が東映、経営者が高岩淡、支配人が首藤昇悟、地下2階、288席、東映を上映。2005年の映画館名簿には掲載されていない。福岡東映プラザは現存。最寄駅は福岡市地下鉄空港線中洲川端駅。
1994年6月、東映によって福岡東映プラザと仙台東映プラザが開館した。6月2日に開館した福岡東映プラザには、288席の「福岡東映」が入る。6月17日に開館した仙台東映プラザには、298席の「仙台東映」と154席の「仙台東映2」が入る。*115
2003年9月末をもって、福岡市博多区中洲4丁目の映画館「福岡東映劇場」が閉館する。九州一の繁華街である中洲からは東宝や松竹系の封切館も撤退しており、福岡東映劇場は最後の邦画封切館だった。1955年に中洲に開館した。1992年にいったん閉館し、1994年に複合ビルの地下に再開館した。1990年代後半には中洲から「福岡宝塚」や「福岡松竹」などが撤退し、近隣には「AMCキャナルシティ13」や「天神東宝」などの都心型シネコンが開館した。かつては福岡市の東映作品の観客の8割が福岡東映劇場を訪れていたが、現在は1割にまで落ち込んでいる。1960年代前半の中洲には20以上の劇場があったが、福岡東映劇場の閉館後は洋画系の「中洲大洋」とピンク系の「オークラ劇場」のみとなる。*116
2003年9月いっぱいで、福岡市博多区中洲の映画館「福岡東映」が閉館する。東宝の直営館。1950年代後半の中洲には20館以上の劇場があったが、邦画直営館が消えることとなり、洋画中心の「中洲大洋」(4スクリーン)と成人映画館「オークラ劇場」(2スクリーン)のみとなる。福岡東映は1955年に開館した。1960年代後半には網走番外地シリーズが人気であり、任侠映画のオールナイト上映には筑豊からも客が来て立ち見も出た。1994年に改装し、商業ビルの地下に約300席を有していた。2000年の『長崎ぶらぶら節』や2001年の『ホタル』は年配客を集めた。1996年にはキャナルシティ博多に13スクリーンのシネコンが開館し、東宝や松竹の直営館が相次いで撤退していた。東映作品のシェアもシネコンに流れ、福岡東映のシェアは2割弱に過ぎなかった。最後のプログラムは『青春ばかちん料理塾』と『17才 旅立ちのふたり』の2本立てだったが、9月20日夕方の観客は母娘の2人だけだった。*117
2003年9月末をもって、福岡市中洲の映画館「福岡東映劇場」が閉館した。かつて中洲は映画街の代名詞だった。福岡東映は奥まった場所にあり、昼間も風俗店の客引きが多数いる環境だった。*118
開館年 : 1994年6月2日
閉館年 : 2003年9月30日
Wikipedia : 福岡東映
1992年の映画館名簿には掲載されていない。1995年・1998年・2000年・2002年の映画館名簿では「福岡東映劇場」。2002年の映画館名簿では経営会社が東映、経営者が高岩淡、支配人が首藤昇悟、地下2階、288席、東映を上映。2005年の映画館名簿には掲載されていない。福岡東映プラザは現存。最寄駅は福岡市地下鉄空港線中洲川端駅。
1994年6月、東映によって福岡東映プラザと仙台東映プラザが開館した。6月2日に開館した福岡東映プラザには、288席の「福岡東映」が入る。6月17日に開館した仙台東映プラザには、298席の「仙台東映」と154席の「仙台東映2」が入る。*115
2003年9月末をもって、福岡市博多区中洲4丁目の映画館「福岡東映劇場」が閉館する。九州一の繁華街である中洲からは東宝や松竹系の封切館も撤退しており、福岡東映劇場は最後の邦画封切館だった。1955年に中洲に開館した。1992年にいったん閉館し、1994年に複合ビルの地下に再開館した。1990年代後半には中洲から「福岡宝塚」や「福岡松竹」などが撤退し、近隣には「AMCキャナルシティ13」や「天神東宝」などの都心型シネコンが開館した。かつては福岡市の東映作品の観客の8割が福岡東映劇場を訪れていたが、現在は1割にまで落ち込んでいる。1960年代前半の中洲には20以上の劇場があったが、福岡東映劇場の閉館後は洋画系の「中洲大洋」とピンク系の「オークラ劇場」のみとなる。*116
2003年9月いっぱいで、福岡市博多区中洲の映画館「福岡東映」が閉館する。東宝の直営館。1950年代後半の中洲には20館以上の劇場があったが、邦画直営館が消えることとなり、洋画中心の「中洲大洋」(4スクリーン)と成人映画館「オークラ劇場」(2スクリーン)のみとなる。福岡東映は1955年に開館した。1960年代後半には網走番外地シリーズが人気であり、任侠映画のオールナイト上映には筑豊からも客が来て立ち見も出た。1994年に改装し、商業ビルの地下に約300席を有していた。2000年の『長崎ぶらぶら節』や2001年の『ホタル』は年配客を集めた。1996年にはキャナルシティ博多に13スクリーンのシネコンが開館し、東宝や松竹の直営館が相次いで撤退していた。東映作品のシェアもシネコンに流れ、福岡東映のシェアは2割弱に過ぎなかった。最後のプログラムは『青春ばかちん料理塾』と『17才 旅立ちのふたり』の2本立てだったが、9月20日夕方の観客は母娘の2人だけだった。*117
2003年9月末をもって、福岡市中洲の映画館「福岡東映劇場」が閉館した。かつて中洲は映画街の代名詞だった。福岡東映は奥まった場所にあり、昼間も風俗店の客引きが多数いる環境だった。*118
所在地 : 福岡県福岡市東中洲千日前(1953年)、福岡県福岡市東中洲234(1955年)、福岡県福岡市東中洲268(1958年・1960年・1963年・1966年)、福岡県福岡市中洲5-4-1(1969年)、福岡県福岡市博多区中洲5-4-1(1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2002年・2005年)
開館年 : 1952年12月3日(文化劇場)、1971年(オークラ劇場)、1981年(建て替え)
閉館年 : 2006年5月28日
『全国映画館総覧 1955』によると1952年12月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「文化劇場」。1958年の映画館名簿では「福岡文化劇場」。1960年の映画館名簿では「文化劇場」。1963年の映画館名簿では「文化映劇」。1966年・1969年の映画館名簿では「福岡文化映画劇場」。1973年・1975年の映画館名簿では「福岡文化オークラ映画劇場」。1973年の住宅地図では「オークラ劇場」。1978年・1980年の映画館名簿では「福岡文化オークラ映劇」。1985年・1990年・1995年・2000年・2002年・2005年の映画館名簿では「福岡オークラ劇場1・2」(2館)。2002年の映画館名簿では経営会社が大蔵映画、経営者が大蔵満彦、支配人が檀雅道、いずれも鉄筋造1階、1が70席、2が100席、いずれも成人映画を上映。2010年の映画館名簿には掲載されていない。70席と90席。ゲイ専門成人映画館。跡地は有料駐車場「Dパーキング中洲5丁目第1」。最寄駅は福岡市地下鉄空港線中洲川端駅。
1952年12月3日、福岡市に新東宝直営館「文化劇場」が開館した。同日には「大洋映画劇場」の鉄骨鉄筋造4階建ビルが開館している。*119
1952年12月3日、福岡市東中洲に新東宝によって「文化劇場」が開館した。オープニングは『真昼の決闘』。洋画・邦画の名作再映、各社ニュース上映館。定員400人。*120
1959年4月1日、福岡市の「福岡文化映画劇場」が小倉中央興業の経営となった。小倉中央興業は小倉市で「中央会館」、「第一中央」、「第二中央」、「第三中央」、「中央名画座」を経営しており、福岡市に初進出する。社長は河野音五郎。*121
1961年4月26日、福岡市東中洲268の洋画館「文化劇場」がニュー東映封切館に転向して「福岡ニュー東映」に改称した。経営は河野音五郎。*122
1961年12月27日、福岡市の「東中洲ニュー東映劇場」が「文化映劇」に改称して洋画封切館に転換した。第一弾は『荒野の決闘』と『裸の鏡』の二本立。*123
1965年10月1日午後2時10分頃、福岡市東中洲の「文化映劇」スクリーン上手の天井付近から出火したが、ぼや程度で鎮火した。*124
福岡市にあった映画館「福岡東映劇場」、「文化オークラ劇場」、「福岡松竹劇場」、「ニュー大洋映劇」の写真あり。*125
1981年には福岡市に「大洋シネサロン」、「中洲新東宝劇場」、「オークラ劇場1・2」が開館した。*126
2006年5月28日をもって、福岡市博多区中洲の映画館「福岡オークラ劇場」が閉館する。主として薔薇族映画と呼ばれる男性同性愛の作品を上映している。マジックミラーの扉の向こうには薄暗いロビーに受付がある。1971年、二番館だった「文化劇場」を大蔵映画が買収して成人映画専門館となった。1981年には現在の鉄骨造2階建てのビルを新築した。薔薇族映画とピンク映画を上映するが、約7割は薔薇族の客である。1971年の開館当時、男性同性愛者が知り合う場所は成人映画館くらいしかなく、オールナイト上映を行う土曜日には、長崎県・大分県・広島県などからも観客が訪れる。出会いの場がバーやインターネットに変化し、オークラ劇場では観客の高齢化が進んだ。2005年度の観客数は約3万5000人であり、10年前の約半分である。*127
2006年5月28日をもって、福岡市博多区中洲の映画館「福岡オークラ劇場」が閉館する。18歳未満入場禁止のピンク映画と、男性の同性愛を描く薔薇族映画を中心に上映していた。1981年に開館した。映画配給会社の大蔵映画が運営し、当初はピンク映画が中心だった。1984年には2スクリーンのうち片方で、九州で初めて薔薇族映画の常時上映を開始した。長崎県や鹿児島県からも観客が訪れ、週末には約70席のホールがあふれるほどだった。荒木太郎監督に福岡を舞台とする作品の制作を求め、2002年には中洲や野古島が登場する『年上の女 博多美人の恥じらい』が製作された。かつて中洲には16館の映画館があったが、福岡オークラ劇場の閉館後、中洲の映画館は「福岡中洲大洋」のみとなる。*128
「福岡オークラ」に言及している書籍として、高瀬進『ピンク映画館の灯 暗闇が恋しい都市の隠れ家』自由国民社、2001年がある。*129
「福岡市内映画館MAP」『福岡市の映画と映画館100年の歩み』(1995)。
開館年 : 1952年12月3日(文化劇場)、1971年(オークラ劇場)、1981年(建て替え)
閉館年 : 2006年5月28日
『全国映画館総覧 1955』によると1952年12月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年の映画館名簿では「文化劇場」。1958年の映画館名簿では「福岡文化劇場」。1960年の映画館名簿では「文化劇場」。1963年の映画館名簿では「文化映劇」。1966年・1969年の映画館名簿では「福岡文化映画劇場」。1973年・1975年の映画館名簿では「福岡文化オークラ映画劇場」。1973年の住宅地図では「オークラ劇場」。1978年・1980年の映画館名簿では「福岡文化オークラ映劇」。1985年・1990年・1995年・2000年・2002年・2005年の映画館名簿では「福岡オークラ劇場1・2」(2館)。2002年の映画館名簿では経営会社が大蔵映画、経営者が大蔵満彦、支配人が檀雅道、いずれも鉄筋造1階、1が70席、2が100席、いずれも成人映画を上映。2010年の映画館名簿には掲載されていない。70席と90席。ゲイ専門成人映画館。跡地は有料駐車場「Dパーキング中洲5丁目第1」。最寄駅は福岡市地下鉄空港線中洲川端駅。
1952年12月3日、福岡市に新東宝直営館「文化劇場」が開館した。同日には「大洋映画劇場」の鉄骨鉄筋造4階建ビルが開館している。*119
1952年12月3日、福岡市東中洲に新東宝によって「文化劇場」が開館した。オープニングは『真昼の決闘』。洋画・邦画の名作再映、各社ニュース上映館。定員400人。*120
1959年4月1日、福岡市の「福岡文化映画劇場」が小倉中央興業の経営となった。小倉中央興業は小倉市で「中央会館」、「第一中央」、「第二中央」、「第三中央」、「中央名画座」を経営しており、福岡市に初進出する。社長は河野音五郎。*121
1961年4月26日、福岡市東中洲268の洋画館「文化劇場」がニュー東映封切館に転向して「福岡ニュー東映」に改称した。経営は河野音五郎。*122
1961年12月27日、福岡市の「東中洲ニュー東映劇場」が「文化映劇」に改称して洋画封切館に転換した。第一弾は『荒野の決闘』と『裸の鏡』の二本立。*123
1965年10月1日午後2時10分頃、福岡市東中洲の「文化映劇」スクリーン上手の天井付近から出火したが、ぼや程度で鎮火した。*124
福岡市にあった映画館「福岡東映劇場」、「文化オークラ劇場」、「福岡松竹劇場」、「ニュー大洋映劇」の写真あり。*125
1981年には福岡市に「大洋シネサロン」、「中洲新東宝劇場」、「オークラ劇場1・2」が開館した。*126
2006年5月28日をもって、福岡市博多区中洲の映画館「福岡オークラ劇場」が閉館する。主として薔薇族映画と呼ばれる男性同性愛の作品を上映している。マジックミラーの扉の向こうには薄暗いロビーに受付がある。1971年、二番館だった「文化劇場」を大蔵映画が買収して成人映画専門館となった。1981年には現在の鉄骨造2階建てのビルを新築した。薔薇族映画とピンク映画を上映するが、約7割は薔薇族の客である。1971年の開館当時、男性同性愛者が知り合う場所は成人映画館くらいしかなく、オールナイト上映を行う土曜日には、長崎県・大分県・広島県などからも観客が訪れる。出会いの場がバーやインターネットに変化し、オークラ劇場では観客の高齢化が進んだ。2005年度の観客数は約3万5000人であり、10年前の約半分である。*127
2006年5月28日をもって、福岡市博多区中洲の映画館「福岡オークラ劇場」が閉館する。18歳未満入場禁止のピンク映画と、男性の同性愛を描く薔薇族映画を中心に上映していた。1981年に開館した。映画配給会社の大蔵映画が運営し、当初はピンク映画が中心だった。1984年には2スクリーンのうち片方で、九州で初めて薔薇族映画の常時上映を開始した。長崎県や鹿児島県からも観客が訪れ、週末には約70席のホールがあふれるほどだった。荒木太郎監督に福岡を舞台とする作品の制作を求め、2002年には中洲や野古島が登場する『年上の女 博多美人の恥じらい』が製作された。かつて中洲には16館の映画館があったが、福岡オークラ劇場の閉館後、中洲の映画館は「福岡中洲大洋」のみとなる。*128
「福岡オークラ」に言及している書籍として、高瀬進『ピンク映画館の灯 暗闇が恋しい都市の隠れ家』自由国民社、2001年がある。*129
「福岡市内映画館MAP」『福岡市の映画と映画館100年の歩み』(1995)。
所在地 : 福岡県福岡市博多区博多駅中央街2-1 福岡交通センタービル7階(2000年・2002年・2005年・2010年)
開館年 : 1999年5月1日
閉館年 : 2011年5月13日
1998年の映画館名簿には掲載されていない。2000年・2002年・2005年・2010年の映画館名簿では「シネ・リーブル博多駅1・2」(2館)。2002年の映画館名簿では経営会社が日活、経営者が中村雅哉、支配人が織田隆行、鉄筋造7階、1が80席、2が57席、いずれも邦画・洋画を上映。2012年の映画館名簿には掲載されていない。映画館が入っていた福岡交通センタービル(博多バスターミナル)は現存。最寄駅はJR博多駅。
1999年5月1日、福岡市博多区博多駅中央街2-1 福岡交通センタービル7階に「シネ・リーブル博多駅1・2」が開館した。JR博多駅に直結している。シネマ1が80席、シネマ2が57席。経営は日活。*130
2011年5月13日をもって、福岡市のJR博多駅の隣にある映画館「シネ・リーブル博多駅」が閉館する。1999年に開館し、アート系作品を中心に上映していた。80席と57席のミニシアター。現在の収支は黒字だが、3月にJR博多駅に福岡県最大級のシネコンが開館したことで撤退を決めた。*131
2011年5月13日をもって、福岡市博多区のミニシアター「シネ・リーブル博多駅」が閉館する。3月3日、隣接するJR博多駅ビルに11スクリーンのシネコン「T・ジョイ博多」が進出することなどが理由。1999年5月に開館した。80席と57席の2スクリーンを有し、2001年のフランス映画『アメリ』や2004年の邦画『誰も知らない』などのヒット作を上映した。もともとミニシアター「シネテリエ天神」だった成人映画館「天神シネマ」は2010年10月に閉館し、ミニシアターは3スクリーンの「ソラリアシネマ」と2スクリーンの「KBCシネマ」の5スクリーンのみとなった。*132
開館年 : 1999年5月1日
閉館年 : 2011年5月13日
1998年の映画館名簿には掲載されていない。2000年・2002年・2005年・2010年の映画館名簿では「シネ・リーブル博多駅1・2」(2館)。2002年の映画館名簿では経営会社が日活、経営者が中村雅哉、支配人が織田隆行、鉄筋造7階、1が80席、2が57席、いずれも邦画・洋画を上映。2012年の映画館名簿には掲載されていない。映画館が入っていた福岡交通センタービル(博多バスターミナル)は現存。最寄駅はJR博多駅。
1999年5月1日、福岡市博多区博多駅中央街2-1 福岡交通センタービル7階に「シネ・リーブル博多駅1・2」が開館した。JR博多駅に直結している。シネマ1が80席、シネマ2が57席。経営は日活。*130
2011年5月13日をもって、福岡市のJR博多駅の隣にある映画館「シネ・リーブル博多駅」が閉館する。1999年に開館し、アート系作品を中心に上映していた。80席と57席のミニシアター。現在の収支は黒字だが、3月にJR博多駅に福岡県最大級のシネコンが開館したことで撤退を決めた。*131
2011年5月13日をもって、福岡市博多区のミニシアター「シネ・リーブル博多駅」が閉館する。3月3日、隣接するJR博多駅ビルに11スクリーンのシネコン「T・ジョイ博多」が進出することなどが理由。1999年5月に開館した。80席と57席の2スクリーンを有し、2001年のフランス映画『アメリ』や2004年の邦画『誰も知らない』などのヒット作を上映した。もともとミニシアター「シネテリエ天神」だった成人映画館「天神シネマ」は2010年10月に閉館し、ミニシアターは3スクリーンの「ソラリアシネマ」と2スクリーンの「KBCシネマ」の5スクリーンのみとなった。*132
所在地 : 福岡県福岡市東中洲210(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年)、福岡県福岡市中洲4-6-18(1969年)、福岡県福岡市博多区中洲4-6-18(1973年・1975年・1978年・1980年・1982年・1985年・1988年・1990年・1995年・1996年・1998年・2000年・2005年・2010年・2015年・2020年)
開館年 : 1952年12月3日、1978年(2館化)、1980年(3館化)、1989年(4館化)
閉館年 : 2024年3月31日
Wikipedia : 大洋映画劇場
『全国映画館総覧 1955』によると1952年12月開館。前身館は単独館時代の大洋映画劇場。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「大洋映画劇場」。1955年の映画館名簿では「大洋映劇」。1958年の映画館名簿では「大洋映画劇場・ニュー大洋映画劇場」(2館)。1960年・1963年の映画館名簿では「大洋映劇・ニュー大洋」(2館)。1966年・1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「福岡大洋映画劇場・福岡ニュー大洋」(2館)。1973年の住宅地図では「太陽〈ママ〉ゲームセンター 大洋映劇 ニュー大洋」。1978年・1980年の映画館名簿では「福岡大洋劇場・福岡ニュー大洋」(2館)。1982年・1985年・1988年の映画館名簿では「福岡大洋劇場・福岡ニュー大洋劇場・福岡大洋シネマサロン」(3館)。1990年・1995年・1996年の映画館名簿では「福岡大洋劇場・福岡ニュー大洋1・2・福岡大洋シネサロン」(4館)。1998年・2000年・2005年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「福岡中洲大洋1-4」(4館)。2025年の映画館名簿には掲載されていない。最寄駅は福岡市地下鉄空港線・箱崎線中洲川端駅。
1946年4月3日、岡部重蔵を創業者として1458席の洋画専門館「大洋映画劇場」が開館した。「未知の世界の大海原に漕ぎ出す」という意味を込めて重蔵の妻岡部よしが命名した。なお、同年新春には焼失を免れた「博多日活」が営業を再開し、「有楽映劇」が再建されて営業を開始している。1949年8月14日には大映封切館に転向した。1952年4月には占領軍による統制が解除され、東中洲では映画館の新築や改築が相次いだ。同年4月4日には大洋映画劇場が改築のための長期休館に入り、12月には鉄筋コンクリート造4階建ての建物に改築された。*133
1952年4月には占領軍による統制が解除され、東中洲では映画館の新築や改築が相次いだ。同年4月4日には大洋映画劇場が改築のための長期休館に入り、12月には鉄筋コンクリート造4階建ての建物に改築された。1100席の映画館ではお披露目番組として大映作品『千羽鶴』を公開し、乙羽信子が舞台挨拶に来館した。1954年11月には『馬賊芸者』の完成披露試写会で京マチ子や高松英郎が舞台挨拶を行った。1955年4月30日には4階のキャバレー太陽を改装して「ニュー大洋」が開館した。1957年1月3日には長谷川一夫主演作『銭形平次捕物控まだら蛇』を公開し、この日には1万388人を動員して一日の来場者記録を作った。1958年7月29日には再び映画上映館に転向した。1954年2月9日と2月10日、マリリン・モンローとジョー・ディマジオの夫妻が大洋ビルのロイヤル本店で食事した。1962年12月20日公開の『史上最大の作戦』は23週間ものロングラン上映となり、動員数9万6241人、興行収入3555万1482円という記録を作った。1969年7月には松竹洋画チェーンに加入した。*134
昭和30年代は映画黄金期であり、1958年時点の福岡市には81館もの映画館があった。特に中洲が映画館激戦区であり、約20館の映画館がひしめき合っていた。現在の中洲では「中洲大洋映画劇場」のみが営業を続けている。1958年の中洲にあった映画館の地図、館名の一覧あり。*135
福岡市にあった映画館「大洋映劇」(大洋映画劇場)、「松竹ピカデリー」、「福岡東宝映劇」、「グランド映劇」(グランド劇場)の写真あり。*136
福岡市にあった映画館「福岡東映劇場」、「文化オークラ劇場」、「福岡松竹劇場」、「ニュー大洋映劇」の写真あり。*137
2005年のこのほど、福岡市中洲の映画館「大洋映画劇場」が開館60周年を迎えた。中洲が焼け野原だった1946年に創業し、オープニングとして上映したチャップリンの喜劇映画は2週間で6万6000人を動員した。中洲には多くの映画館が開館し、「映画の街」として発展した。1996年にはキャナルシティ博多にシネコンが開館し、中洲の映画館の売上が激減したことで、大洋映画劇場はクラシックな内装に全面改装した。*138
「大洋劇場」に言及している雑誌記事として、「大洋劇場」『ふくおか経済』1990年がある。現物は未確認。*139
「大洋劇場」に言及している雑誌記事として、森園照夫「大洋劇場の思い出」『大洋倶楽部』2003年創刊準備号〜2006年夏号がある。現物は未確認。*140
「中洲大洋劇場」に言及している雑誌記事として、「感動を共有する場所 映画館 中洲大洋劇場」『月刊はかた』2005年5月号、198号がある。現物は未確認。*141
「大洋シネサロン」に言及している書籍として、阿奈井文彦『名画座時代 消えた映画館を探して』岩波書店、2006年がある。*142
「福岡中洲大洋映画劇場」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。*143
「大洋映画劇場」に言及している書籍として、大屋尚浩『日本懐かし映画館大全』辰巳出版、2017年がある。*144
『福岡市の映画と映画館100年の歩み』(1995)、p.69に1962年の写真あり。
開館年 : 1952年12月3日、1978年(2館化)、1980年(3館化)、1989年(4館化)
閉館年 : 2024年3月31日
Wikipedia : 大洋映画劇場
『全国映画館総覧 1955』によると1952年12月開館。前身館は単独館時代の大洋映画劇場。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「大洋映画劇場」。1955年の映画館名簿では「大洋映劇」。1958年の映画館名簿では「大洋映画劇場・ニュー大洋映画劇場」(2館)。1960年・1963年の映画館名簿では「大洋映劇・ニュー大洋」(2館)。1966年・1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「福岡大洋映画劇場・福岡ニュー大洋」(2館)。1973年の住宅地図では「太陽〈ママ〉ゲームセンター 大洋映劇 ニュー大洋」。1978年・1980年の映画館名簿では「福岡大洋劇場・福岡ニュー大洋」(2館)。1982年・1985年・1988年の映画館名簿では「福岡大洋劇場・福岡ニュー大洋劇場・福岡大洋シネマサロン」(3館)。1990年・1995年・1996年の映画館名簿では「福岡大洋劇場・福岡ニュー大洋1・2・福岡大洋シネサロン」(4館)。1998年・2000年・2005年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「福岡中洲大洋1-4」(4館)。2025年の映画館名簿には掲載されていない。最寄駅は福岡市地下鉄空港線・箱崎線中洲川端駅。
1946年4月3日、岡部重蔵を創業者として1458席の洋画専門館「大洋映画劇場」が開館した。「未知の世界の大海原に漕ぎ出す」という意味を込めて重蔵の妻岡部よしが命名した。なお、同年新春には焼失を免れた「博多日活」が営業を再開し、「有楽映劇」が再建されて営業を開始している。1949年8月14日には大映封切館に転向した。1952年4月には占領軍による統制が解除され、東中洲では映画館の新築や改築が相次いだ。同年4月4日には大洋映画劇場が改築のための長期休館に入り、12月には鉄筋コンクリート造4階建ての建物に改築された。*133
1952年4月には占領軍による統制が解除され、東中洲では映画館の新築や改築が相次いだ。同年4月4日には大洋映画劇場が改築のための長期休館に入り、12月には鉄筋コンクリート造4階建ての建物に改築された。1100席の映画館ではお披露目番組として大映作品『千羽鶴』を公開し、乙羽信子が舞台挨拶に来館した。1954年11月には『馬賊芸者』の完成披露試写会で京マチ子や高松英郎が舞台挨拶を行った。1955年4月30日には4階のキャバレー太陽を改装して「ニュー大洋」が開館した。1957年1月3日には長谷川一夫主演作『銭形平次捕物控まだら蛇』を公開し、この日には1万388人を動員して一日の来場者記録を作った。1958年7月29日には再び映画上映館に転向した。1954年2月9日と2月10日、マリリン・モンローとジョー・ディマジオの夫妻が大洋ビルのロイヤル本店で食事した。1962年12月20日公開の『史上最大の作戦』は23週間ものロングラン上映となり、動員数9万6241人、興行収入3555万1482円という記録を作った。1969年7月には松竹洋画チェーンに加入した。*134
昭和30年代は映画黄金期であり、1958年時点の福岡市には81館もの映画館があった。特に中洲が映画館激戦区であり、約20館の映画館がひしめき合っていた。現在の中洲では「中洲大洋映画劇場」のみが営業を続けている。1958年の中洲にあった映画館の地図、館名の一覧あり。*135
福岡市にあった映画館「大洋映劇」(大洋映画劇場)、「松竹ピカデリー」、「福岡東宝映劇」、「グランド映劇」(グランド劇場)の写真あり。*136
福岡市にあった映画館「福岡東映劇場」、「文化オークラ劇場」、「福岡松竹劇場」、「ニュー大洋映劇」の写真あり。*137
2005年のこのほど、福岡市中洲の映画館「大洋映画劇場」が開館60周年を迎えた。中洲が焼け野原だった1946年に創業し、オープニングとして上映したチャップリンの喜劇映画は2週間で6万6000人を動員した。中洲には多くの映画館が開館し、「映画の街」として発展した。1996年にはキャナルシティ博多にシネコンが開館し、中洲の映画館の売上が激減したことで、大洋映画劇場はクラシックな内装に全面改装した。*138
「大洋劇場」に言及している雑誌記事として、「大洋劇場」『ふくおか経済』1990年がある。現物は未確認。*139
「大洋劇場」に言及している雑誌記事として、森園照夫「大洋劇場の思い出」『大洋倶楽部』2003年創刊準備号〜2006年夏号がある。現物は未確認。*140
「中洲大洋劇場」に言及している雑誌記事として、「感動を共有する場所 映画館 中洲大洋劇場」『月刊はかた』2005年5月号、198号がある。現物は未確認。*141
「大洋シネサロン」に言及している書籍として、阿奈井文彦『名画座時代 消えた映画館を探して』岩波書店、2006年がある。*142
「福岡中洲大洋映画劇場」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。*143
「大洋映画劇場」に言及している書籍として、大屋尚浩『日本懐かし映画館大全』辰巳出版、2017年がある。*144
『福岡市の映画と映画館100年の歩み』(1995)、p.69に1962年の写真あり。
所在地 : 福岡県福岡市博多区博多駅前1-11(1975年)、福岡県福岡市博多区博多駅前1-11-12(1978年・1980年・1982年・1985年・1990年・1991年・1992年・1995年・2000年・2002年・2005年・2010年・2015年・2020年)
開館年 : 1974年頃
閉館年 : 営業中
1973年の住宅地図では後の映画館の場所に「ヘルス商事」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。1975年の映画館名簿では「福岡駅前ロマン映劇」。1978年・1980年の映画館名簿では「福岡博多駅前ロマン」。1982年の映画館名簿では「博多駅前ロマン」。1982年の映画館名簿では経営会社が澄川興産、経営者が澄川洗之助、支配人が吉田博士、鉄筋造2階、100席、にっかつを上映。1985年・1990年・1991年の映画館名簿では「駅前ロマン」。1992年・1995年・2000年・2002年・2005年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「駅前パレス・駅前ロマン」(2館)。2002年の映画館名簿では経営会社が澄川興産、経営者・支配人ともに澄川正夫、駅前パレスが鉄筋造1階で32席、駅前ロマンが鉄筋造3階で34席、いずれも成人映画を上映。最寄駅は福岡市地下鉄空港線祇園駅。
開館年 : 1974年頃
閉館年 : 営業中
1973年の住宅地図では後の映画館の場所に「ヘルス商事」。1974年の映画館名簿には掲載されていない。1975年の映画館名簿では「福岡駅前ロマン映劇」。1978年・1980年の映画館名簿では「福岡博多駅前ロマン」。1982年の映画館名簿では「博多駅前ロマン」。1982年の映画館名簿では経営会社が澄川興産、経営者が澄川洗之助、支配人が吉田博士、鉄筋造2階、100席、にっかつを上映。1985年・1990年・1991年の映画館名簿では「駅前ロマン」。1992年・1995年・2000年・2002年・2005年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「駅前パレス・駅前ロマン」(2館)。2002年の映画館名簿では経営会社が澄川興産、経営者・支配人ともに澄川正夫、駅前パレスが鉄筋造1階で32席、駅前ロマンが鉄筋造3階で34席、いずれも成人映画を上映。最寄駅は福岡市地下鉄空港線祇園駅。
所在地 : 福岡県福岡市博多区住吉1-2-22(2000年・2005年・2010年・2015年)、福岡県福岡市博多区住吉1-2-22 キャナルシティ博多内(2020年)
開館年 : 1996年4月20日
閉館年 : 営業中
1995年の映画館名簿には掲載されていない。2000年・2005年の映画館名簿では「AMCキャナルシティ13スクリーンNo.1-No.13」(13館)。2010年の映画館名簿では「ユナイテッド・シネマ キャナルシティ13スクリーンNo.1-No.13」(13館)。2015年・2020年の映画館名簿では「ユナイテッド・シネマ キャナルシティ13 No.1-No.13」(13館)。最寄駅は福岡市地下鉄櫛田神社前駅。
1996年4月20日、福岡市博多区住吉町1-217-30に13スクリーンを有する「AMCキャナルシティ博多」が開館した。経営はアメリカの興行会社であるAMC。*145
開館年 : 1996年4月20日
閉館年 : 営業中
1995年の映画館名簿には掲載されていない。2000年・2005年の映画館名簿では「AMCキャナルシティ13スクリーンNo.1-No.13」(13館)。2010年の映画館名簿では「ユナイテッド・シネマ キャナルシティ13スクリーンNo.1-No.13」(13館)。2015年・2020年の映画館名簿では「ユナイテッド・シネマ キャナルシティ13 No.1-No.13」(13館)。最寄駅は福岡市地下鉄櫛田神社前駅。
1996年4月20日、福岡市博多区住吉町1-217-30に13スクリーンを有する「AMCキャナルシティ博多」が開館した。経営はアメリカの興行会社であるAMC。*145
所在地 : 福岡県福岡市博多区博多駅中央街1-1 JR博多シティ内9階(2012年・2015年・2020年)
開館年 : 2011年3月3日
閉館年 : 営業中
2010年の映画館名簿には掲載されていない。2012年・2015年・2020年の映画館名簿では「T・ジョイ博多1-11」(11館)。JR博多シティ9階。最寄駅はJR博多駅。
T・ジョイ博多に言及している雑誌記事として、「JR博多シティに『T・ジョイ』オープン 映画館競争、さらなる激化へ」『週刊財界九州』財界九州社、2011年4月4日、5992号がある。現物は未確認。*146
開館年 : 2011年3月3日
閉館年 : 営業中
2010年の映画館名簿には掲載されていない。2012年・2015年・2020年の映画館名簿では「T・ジョイ博多1-11」(11館)。JR博多シティ9階。最寄駅はJR博多駅。
T・ジョイ博多に言及している雑誌記事として、「JR博多シティに『T・ジョイ』オープン 映画館競争、さらなる激化へ」『週刊財界九州』財界九州社、2011年4月4日、5992号がある。現物は未確認。*146

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