日本の映画館の総合データベースです。



浜田市

末広座
所在地 : 島根県那賀郡浜田町(1930年・1934年)、島根県那賀郡浜田町若宮町(1936年)
開館年 : 1915年
閉館年 : 1936年8月16日
1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「末広座」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。後継館は日勝館。跡地は「能美クリニック」。最寄駅はJR山陰本線浜田駅。

1920年9月24日、浜田町で初めて「末広座」と「八満登座」で活動写真が上映された。浜田市には陸軍連隊があった関係で、活動写真の上映は松江市より2年から3年も早かった。1925年末には下村外山が末広座の経営者となり、その後山藤一郎の手に渡って1928年末に営業を再開した。1936年8月16日には火災で焼失したが、山口市の「山口座」を移築し、1938年正月に「日勝館」が開館した。*1

昭和初期の浜田町にあった「末広座」の写真あり。1897年には一丁田(天満町)に「明治座」が開館して西日本屈指の劇場と称されたが、1899年に全焼した。「若宮座」として再建され、1915年には末広座に改称したが、1936年に焼失した。その後、映画常設館の「日勝館」が開館した。*2
第二みゆき座
所在地 : 島根県浜田市長浜町(1961年)
開館年 : 1960年頃
閉館年 : 1961年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年の映画館名簿では「第二みゆき座」。1961年の映画館名簿では経営者・支配人ともに岡本博毅、木造2階、定員300、邦画・洋画を上映、電話が浜田705。1962年の映画館名簿には掲載されていない。
みゆき館/第一みゆき座
所在地 : 島根県浜田市長浜町(1959年・1960年・1961年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1961年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年の映画館名簿では「みゆき館」。1959年の映画館名簿では経営者が岡本博毅、支配人が記載なし、木造2階、定員250、邦画を上映、電話が浜田705。1961年の映画館名簿では「第一みゆき座」。1961年の映画館名簿では経営者・支配人ともに岡本博毅、木造2階、定員250、邦画を上映、電話が浜田705。1962年のゼンリン住宅地図では「長浜映劇」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「長浜天満宮」北北西30mの駐車場。最寄駅はJR山陰本線西浜田駅。
浪花座/浪花北座
所在地 : 島根県那賀郡杵束町(1961年・1962年・1963年・1965年)
開館年 : 1960年頃
閉館年 : 1965年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年・1962年・1963年の映画館名簿では「浪花座」。1965年の映画館名簿では「浪花北座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
三隅映劇
所在地 : 島根県那賀郡三隅町(1961年・1962年・1963年)、島根県那賀郡三隅町大字三隅(1966年・1968年)
開館年 : 1960年頃
閉館年 : 1968年頃
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年・1962年・1963年・1966年・1968年の映画館名簿では「三隅映劇」。1969年の映画館名簿には掲載されていない。
日勝館/浜田日勝館
所在地 : 島根県浜田市若宮町(1941年)、島根県浜田市原井町(1943年)、島根県浜田市若宮町(1947年)、島根県浜田市天満町(1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)、島根県浜田市天満町12(1966年)
開館年 : 1938年1月
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1930年8月開館。前身は同一地点の末広座。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「日勝館」。1962年のゼンリン住宅地図では「日勝館」。1966年の映画館名簿では「浜田日勝館」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。1986年の住宅地図では跡地に「能美病院」。跡地は「能美クリニック」。最寄駅はJR山陰本線浜田駅。

1936年8月16日には浜田町の「末広座」が火災で焼失したが、山口市の「山口座」を移築し、1938年正月に「日勝館」が開館した。大東亜戦争勃発後、日勝館では松竹のヒット作『愛染かつら』が上映されたが、陸軍連隊の部隊長から時局をわきまえない不届き者として叱責された。*3
朝日館/銀星館/銀星劇場/浜田銀星映劇
所在地 : 島根県浜田市朝日町(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年)、島根県浜田市朝日町34(1966年)
開館年 : 1951年8月、1952年3月1日(銀星改称)
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年8月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「銀星館」。1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「銀星劇場」。1962年のゼンリン住宅地図では「銀星映劇」。1963年の映画館名簿では「銀星映劇」。1966年の映画館名簿では「浜田銀星映劇」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。1986年の住宅地図では跡地に「キヌヤ朝日町店」。跡地は「浜田朝日町郵便局」西80mの駐車場。最寄駅はJR山陰本線浜田駅。

1951年、浜田市の朝日町商店街が発展策として「朝日映画館」(朝日館)を新設した。既存の3館との間で観客の争奪戦を起こし、朝日映画館は経営面で苦戦していたが、朝日映画館と吉田興行部との間で話し合いが進んだ。1952年2月中に改築に着手し、3月に洋邦画の封切館として開館する予定。*4

1952年3月1日の新聞広告。「開館特別大興行 元朝日館 株式会社浜田銀星映劇」。3月1日から浪曲師の伊丹秀子ら出演『呼子星』とゲーリー・クーパー主演作『暁の討伐隊』を上映。*5
八満登館/八満登座/やまと映劇/浜田八満登映劇
所在地 : 島根県那賀郡浜田町真光町(1936年・1941年)、島根県浜田市原井町(1943年)、島根県浜田市真光町(1947年)、島根県浜田市原井414-1(1950年)、島根県浜田市真光町(1953年)、島根県浜田市天満町(1955年・1958年・1960年)、島根県浜田市真光町(1963年)、島根県浜田市真光町88-1(1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1926年3月、1961年10月12日(建て替え)
閉館年 : 1970年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1926年3月開館。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1941年の映画館名簿では「八満登座」。1943年・1947年の映画館名簿では「八満登館」。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「八満登座」。1962年のゼンリン住宅地図では「やまと映劇」。1963年の映画館名簿では「やまと映劇」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「浜田八満登映劇」。1970年・1971年の住宅地図では「やまと映劇」。1971年の映画館名簿には掲載されていない。1980年の住宅地図では跡地に「レジャービルジョイプラザ レストランジョイ 浜田中央ボール」。1986年の住宅地図では跡地に「1階結婚式場ジョイプラザ 2階ビリヤード ボーリング場」。跡地は結婚式場「オープンハートジョイプラザ」。最寄駅はJR山陰本線浜田駅。

1920年9月24日、浜田町で初めて「末広座」と「八満登座」で活動写真が上映された。浜田市には陸軍連隊があった関係で、活動写真の上映は松江市より2年から3年も早かった。*6

1940年の浜田市にあった「八満登座」の写真あり。昭和の映画時代にも演劇設備を共用していた浜田唯一の劇場であり、回り舞台もあった。*7

1961年4月、浜田市の「八満登座」は改築のために今週いっぱいで休館に入る。*8

1961年4月、浜田市の「八満登座」は改築のために休館に入った。「八満登座改築お名残り興行」として、『若い仲間』と『木曽ぶし三度笠』の二本立が30円均一上映された。*9

1959年末には浜田市に洋画専門館「浜田国際」が開館し、1960年には「やまと映劇」が山陰随一の設備で新生なった。*10

1961年10月12日、浜田市に「八満登映劇」が新築開館した。12日夜、14日から17日には石原裕次郎主演『あいつと私』、橋幸夫主演『すっとび仁義』、ジョン・ウェイン主演『アラスカ魂』の三作品を上映する。13日にはフランク永井のショーを開催する。5月に旧館を解体していた。*11

1961年10月7日の『石見タイムズ』に掲載された浜田市の「八満登映劇」の開館広告。「ファン待望のうちに 八満登映劇堂々新築開館」「山陰随一豪華を誇る近代的鉄骨鉄筋ツースロープ三階建映画の大殿堂」。*12
国際映画劇場/浜田国際映画劇場/浜田国際
所在地 : 島根県浜田市牛市町103-1(1962年)、島根県浜田市牛市町103(1963年)、島根県浜田市牛市町1-4(1966年・1969年・1973年・1975年)、島根県浜田市牛市町104(1976年・1978年・1980年・1985年・1988年)
開館年 : 1960年12月30日
閉館年 : 1988年頃
1961年の映画館名簿には掲載されていない。1962年の映画館名簿では「国際映画劇場」。1963年・1966年・1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「浜田国際映画劇場」。1970年・1971年・1980年の住宅地図では「国際劇場」。1976年・1978年・1980年・1985年・1988年の映画館名簿では「浜田国際」。1988年の映画館名簿では経営会社が浜田国際、経営者・支配人ともに大内隆雄、鉄筋造2階、749席、東宝・洋画を上映。1989年の映画館名簿には掲載されていない。「紺屋町ふれあい広場」北東70mに建物が現存。最寄駅はJR山陰本線浜田駅。

1959年12月30日、浜田市牛市に洋画専門館「国際映画劇場」が開館する。12月30日には10時から開館式典を行い、午後から一般公開される。建物は今秋に完成していた。経営者は山形儀一。正月興行としてはチャップリンの『独裁者』が関西地方と同時封切される予定である。*13

1959年末の浜田市ではアンコール上映専門館がにぎわっており、封切館である「日勝館」「八満登座」「東映」などはかつてない緊張感を漂わせている。1959年12月30日には東亜商事によって洋画専門館「浜田国際劇場」が開館予定であり、12月30日からは『怒れる若者たちの遊び』『地獄舞台の突撃』『怪傑ターピン』の三本立が、新春番組としてチャップリンの『独裁者』が上映予定である。*14

1959年末には浜田市に洋画専門館「浜田国際」が開館し、1960年には「やまと映劇」が山陰随一の設備で新生なった。*15
浜田キネマ/寿館/寿座/浜田東宝/浜田東宝寿劇場/浜田寿映劇/浜田東宝寿館/浜田東宝劇場/浜田東映劇場/浜田東映
所在地 : 島根県那賀郡浜田町(1934年)、島根県那賀郡浜田町栄町(1936年)、島根県浜田市原井(1943年・1947年・1950年)、島根県浜田市栄町(1953年)、島根県浜田市栄町491(1955年)、島根県浜田市栄町1(1958年・1960年)、島根県浜田市栄町8(1966年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年)、島根県浜田市栄町(1988年)、島根県浜田市栄町8(1990年)
開館年 : 1927年1月
閉館年 : 1990年10月
『全国映画館総覧 1955』によると1933年12月開館。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1934年の映画館名簿では「浜田キネマ」。1936年の映画館名簿では「寿館」。1943年の映画館名簿では「寿座」。1947年の映画館名簿では「寿館」。1950年の映画館名簿では「寿座」。1953年の映画館名簿では「浜田東宝」。1955年の映画館名簿では「浜田東宝寿劇場」。1958年の映画館名簿では「浜田寿映劇」。1960年の映画館名簿では「浜田東宝寿館」。1962年のゼンリン住宅地図では「浜田東映」。1966年・1973年の映画館名簿では「浜田東宝劇場」。1970年・1971年・1980年・1986年の住宅地図では「浜田東映」。1975年の映画館名簿では「浜田東映劇場」。1978年・1980年・1985年・1988年・1990年の映画館名簿では「浜田東映」。1988年の映画館名簿では経営会社が山藤興行、経営者が山藤三郎、支配人が山藤克忠、木造1階、300席、松竹・東映・洋画を上映。1991年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はコンビニ「ローソン浜田栄町店」。最寄駅はJR山陰本線浜田駅。

1921年、浜田町に帝キネ作品を上映する「大正館」が開館した。1951年現在の宮脇洋服店の場所である。岩佐興行部は浜田町で「大正館」を経営していたが、1927年正月には「金竜館」を建てて大正館を廃止した。1928年頃には金竜館と「末広座」が山藤一郎の手に渡り、金竜館は「浜田キネマ」に改称して再出発した。1933年末、浜田キネマは「寿館」となった。

戦後の「浜田東宝映画館」の写真あり。「浜田東宝」や「KOTOBUKI KAN」の文字が見える。1927年、浜田町の栄町に「金竜館」として建てられた。「寿館」や「浜田東宝」に改称した後、1982年現在は「浜田東映」として営業している。*16

1940年の浜田市にあった「寿映画館」の写真あり。『支那の夜』や『嫁ぐ日まで』の看板が見える。*17

1958年の浜田市にあった栄町ロータリーと「浜田東宝」の写真あり。1933年12月に「浜田東宝寿館」として開館し、「浜田東宝劇場」、「浜田東映」と改称した。1990年10月に閉館した。*18

昭和30年代の「寿館」と栄町通りの写真あり。寿館の前には多くの自転車が見える。*19

1952年の浜田市にあった「寿館」の写真あり。「寿館」や「浜田東宝」の文字が見える。*20

1954年の浜田市栄町にあった「浜田東宝」の写真あり。「水爆大怪獣出現!」の文字とともに『ゴジラ』の看板が見える。*21

1960年の浜田市にあった「浜田東映寿館」の写真あり。『丹下左善』の看板が見える。1927年、浜田町の栄町に「金竜館」として建てられた。後に「寿館」や「浜田東宝」に改称し、1982年に「浜田東映」となった。*22

1990年9月20日付『山陰中央新報』には、10月に浜田市の「浜田東映」が60年の歴史に幕を閉じて閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*23
浜田東劇
所在地 : 島根県浜田市朝日町(1963年)、島根県浜田市朝日町1298(1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年)、島根県浜田市朝日町1535(1995年)、島根県浜田市朝日町31-2(2000年・2002年・2003年)
開館年 : 1960年7月28日
閉館年 : 2003年12月23日
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2002年・2003年の映画館名簿では「浜田東劇」。1970年・1971年・1980年の住宅地図では「浜田東劇」。2002年の映画館名簿では経営者・支配人ともに山藤克忠、木造1階、200席、邦画・洋画を上映。2004年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はアパート「レオパレス朝日」。最寄駅はJR山陰本線浜田駅。

https://dl.ndl.go.jp/pid/9572742/1/137

1960年7月28日、浜田市朝日町に「浜田東劇」が開館する。7月28日に開館披露御招待を行い、7月29日から31日に一般大公開興行を行う。東千代之介主演『暴れん坊兄弟』、梅宮辰夫主演『不死身の男』、西ドイツ・オーストラリア合作『U47出撃せよ』を上映する。「浜田東映」の姉妹館であり、いずれも館主は山藤一郎。*24

1960年の浜田市にあった「浜田東劇」の新館落成記念祝賀会の写真あり。「浜田東劇 新館落成 祝賀式会場」の文字が見える。山藤興行の山藤一郎によって平和街に落成した。祝賀会の舞台挨拶には東映スターの南郷京之介と円山栄子が訪れた。*25

2003年12月23日、浜田市朝日町の映画館「浜田東劇」が閉館する。最終上映作品は『陰陽師2』。浜田市唯一の常設映画館だった。家庭用ビデオの普及、シネコンがある広島市への客の離脱などが理由。1961年に開館。1961年から1962年の浜田市には6館の映画館があったが、1991年には経営者が同じ浜田東映が閉館し、浜田東劇のみとなっていた。*26

2003年12月19日付『山陰中央新報』には、浜田市唯一の映画館である「浜田東劇」が閉館するという記事が掲載されている。現物は未確認。*27

2003年12月23日をもって、浜田市旭町にある映画館「浜田東劇」が閉館する。1960年代の浜田市には6館の映画館があったが、1990年からは浜田東劇のみとなっていた。1961年、浜田市6番目の映画館として開館し、東宝や東映の封切館だった。近年は封切り上映も少なくなり、夏休みの子供向けアニメなどのみが活況を呈していた。ここ数年のヒット作は『タイタニック』や『ハリー・ポッター』や『千と千尋の神隠し』。12月23日の最後の上映作品は『陰陽師2』。*28

2003年12月23日をもって、浜田市唯一の映画館「浜田東劇」が閉館した。*29

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