最終更新: hekikaicinema 2024年06月30日(日) 18:08:01履歴
明治中期の磐田には劇場として、旧中泉公園に「照日座」(後の「中泉座」)、見付町に「磐田座」があった。大正時代になると映画が台頭し、1919年には中泉に「中活劇場」が設立された。大正後期には見付町(現・天王町)に「朝日座」が建設され、主に映画館として使用された。戦時中の朝日座ではニュース映画が上映された。*1
磐田市にもっとも映画館が多かった時期は1955年頃であり、東町の「中活劇場」、中町の「松竹劇場」、西町の「花月劇場」、田町の「スバル劇場」、天王町の「見付映画劇場」の5館があった。テレビが普及すると弱小映画館が閉館した。三ヶ野にはマイカーで鑑賞する野外映画劇場(ドライブインシアター)もお目見えしたが継続しなかった。1984年には最後まで残っていた中活劇場が閉館し、磐田市から映画館が姿を消した。*2
昭和30年代前半の磐田郡竜洋町では民間で常設映画館を開館させる動きがみられた。1959年には「松竹竜洋劇場」を設立するための株式の申込書が配布され、白羽21番地に冷暖房完備・独立椅子席の劇場が計画されたが、この年の皇太子御成婚を契機にテレビが急速に普及し、劇場の建設は実現しなかった。*3
磐田市にもっとも映画館が多かった時期は1955年頃であり、東町の「中活劇場」、中町の「松竹劇場」、西町の「花月劇場」、田町の「スバル劇場」、天王町の「見付映画劇場」の5館があった。テレビが普及すると弱小映画館が閉館した。三ヶ野にはマイカーで鑑賞する野外映画劇場(ドライブインシアター)もお目見えしたが継続しなかった。1984年には最後まで残っていた中活劇場が閉館し、磐田市から映画館が姿を消した。*2
昭和30年代前半の磐田郡竜洋町では民間で常設映画館を開館させる動きがみられた。1959年には「松竹竜洋劇場」を設立するための株式の申込書が配布され、白羽21番地に冷暖房完備・独立椅子席の劇場が計画されたが、この年の皇太子御成婚を契機にテレビが急速に普及し、劇場の建設は実現しなかった。*3
所在地 : 静岡県磐田郡見付町(1930年)
開館年 : 1881年以前
閉館年 : 1951年
1930年の映画館名簿では「磐田座」。1934年の映画館名簿には掲載されていない。
見付西坂町にあった「磐田座」では、1881年にはすでに興行が行われていた。磐田座は本格的な芝居劇場であり、廻り舞台や花道や下道もあった。天井は横天井であり、升目の中に呉服店の宣伝が書かれていた。1948年頃に土木建築業者の手にわたり、磐田座から新生劇場に改称、こけら落とし公演には松本幸四郎が招かれた。1951年には天竜二俣に移築された。1955年には新生劇場の跡地に西坂会館が建設された。*4
見付宿の西坂には七堂伽藍を備えた蓮光寺があったが、1911年に西光寺に統合されて廃止され、跡地には「磐田座」が開館した。花道と廻り舞台のある2階建ての立派な劇場だった。こけら落としには沢村田之助が招かれた。終戦直後には9代目市川海老蔵(後の11代目市川団十郎)一門の松本幸四郎劇団が訪れた。8代目市川八百蔵、市川牡丹、沢村茂美次も訪れている。毎週土曜日には吾妻座から持ち込まれたフィルムで映画が上映され、当日は楽隊が呼び込みを行った。1945年には周辺で強制建物疎開が行われたが、磐田座は建物疎開も空襲からも免れている。やがて「新生劇場」に改称し、後に天竜市の二俣に消え去った。*5
開館年 : 1881年以前
閉館年 : 1951年
1930年の映画館名簿では「磐田座」。1934年の映画館名簿には掲載されていない。
見付西坂町にあった「磐田座」では、1881年にはすでに興行が行われていた。磐田座は本格的な芝居劇場であり、廻り舞台や花道や下道もあった。天井は横天井であり、升目の中に呉服店の宣伝が書かれていた。1948年頃に土木建築業者の手にわたり、磐田座から新生劇場に改称、こけら落とし公演には松本幸四郎が招かれた。1951年には天竜二俣に移築された。1955年には新生劇場の跡地に西坂会館が建設された。*4
見付宿の西坂には七堂伽藍を備えた蓮光寺があったが、1911年に西光寺に統合されて廃止され、跡地には「磐田座」が開館した。花道と廻り舞台のある2階建ての立派な劇場だった。こけら落としには沢村田之助が招かれた。終戦直後には9代目市川海老蔵(後の11代目市川団十郎)一門の松本幸四郎劇団が訪れた。8代目市川八百蔵、市川牡丹、沢村茂美次も訪れている。毎週土曜日には吾妻座から持ち込まれたフィルムで映画が上映され、当日は楽隊が呼び込みを行った。1945年には周辺で強制建物疎開が行われたが、磐田座は建物疎開も空襲からも免れている。やがて「新生劇場」に改称し、後に天竜市の二俣に消え去った。*5
所在地 : 静岡県磐田郡掛塚町761(1947年)、静岡県磐田郡掛塚町(1949年)、静岡県磐田郡掛塚町761(1953年・1955年)、静岡県磐田郡竜洋町掛塚(1958年)
開館年 : 1921年8月
閉館年 : 1958年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1921年8月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「磐田帝国館」。1949年の映画館名簿では「掛塚劇場」。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「掛塚劇場」。1955年の映画館名簿では経営者・支配人ともに高橋伸宗、木造2階、定員650、混合を上映。1958年の映画館名簿では経営者が高橋秀佳、支配人が高橋常雄、木造2階、定員500。1959年・1960年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「旧掛塚郵便局」南110mにある民家。最寄駅はJR東海道本線豊田町駅。
『みんなと倶楽部 掛塚」』第10号・第11号・第14号、2018年には「帝国館」(掛塚劇場)について掲載されているとされる。現物は未確認。*6
開館年 : 1921年8月
閉館年 : 1958年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1921年8月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「磐田帝国館」。1949年の映画館名簿では「掛塚劇場」。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「掛塚劇場」。1955年の映画館名簿では経営者・支配人ともに高橋伸宗、木造2階、定員650、混合を上映。1958年の映画館名簿では経営者が高橋秀佳、支配人が高橋常雄、木造2階、定員500。1959年・1960年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「旧掛塚郵便局」南110mにある民家。最寄駅はJR東海道本線豊田町駅。
『みんなと倶楽部 掛塚」』第10号・第11号・第14号、2018年には「帝国館」(掛塚劇場)について掲載されているとされる。現物は未確認。*6
所在地 : 静岡県磐田市西町619(1955年)、静岡県磐田市西町612(1958年)、静岡県磐田市中泉西町612(1960年)、静岡県磐田市中泉西町2715(1962年)
開館年 : 1951年1月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年1月開館。1953年・1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年の映画館名簿では「花月劇場」。1960年・1962年の映画館名簿では「磐田花月劇場」。1960年の映画館名簿では経営者・支配人ともに高橋秀佳、木造1階、定員200、大映・新東宝を上映。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「善道寺大樟」北東100mの道路上。最寄駅はJR東海道本線磐田駅。
かつて磐田駅前にあった善導寺の北側に花月劇場があった。戦後に開館した畳敷きの劇場であり、1952年頃には三浦環の『蝶々夫人』などが上演された。昭和30年代後半の区画整理事業で閉館。現在は善導寺の大クスのみが磐田駅前に残っている。*7
開館年 : 1951年1月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1951年1月開館。1953年・1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年の映画館名簿では「花月劇場」。1960年・1962年の映画館名簿では「磐田花月劇場」。1960年の映画館名簿では経営者・支配人ともに高橋秀佳、木造1階、定員200、大映・新東宝を上映。1963年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「善道寺大樟」北東100mの道路上。最寄駅はJR東海道本線磐田駅。
かつて磐田駅前にあった善導寺の北側に花月劇場があった。戦後に開館した畳敷きの劇場であり、1952年頃には三浦環の『蝶々夫人』などが上演された。昭和30年代後半の区画整理事業で閉館。現在は善導寺の大クスのみが磐田駅前に残っている。*7
所在地 : 静岡県磐田郡見付町(1930年・1936年・1941年)、静岡県磐田郡磐田町見附(1943年・1947年)、静岡県磐田市見付(1950年)、静岡県磐田市見付2751(1953年)、静岡県磐田市天王2713(1955年)、静岡県磐田市見付2751(1960年・1962年)、静岡県磐田市見付275(1963年)
開館年 : 1926年3月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1926年3月開館。1930年の映画館名簿では「朝日座」。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1941年・1943年・1947年の映画館名簿では「朝日座」。1950年の映画館名簿では「見付朝日座」。1953年・1955年の映画館名簿では「朝日座」。1960年の映画館名簿では「朝日座」。1962年の映画館名簿では経営者が春日井斉部、支配人が記載なし、木造2階、定員300、邦画を上映。1962年の映画館名簿では経営者が天野政一、支配人が武内源太郎。1963年の映画館名簿では「見付映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「金剛寺」西北西40mにある建物。最寄駅はJR東海道本線磐田駅。
見付天王町の金剛寺の西隣には「あさひ座」があった。あさひ座は200席ほどの畳敷きの芝居小屋である。*8
開館年 : 1926年3月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1926年3月開館。1930年の映画館名簿では「朝日座」。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1941年・1943年・1947年の映画館名簿では「朝日座」。1950年の映画館名簿では「見付朝日座」。1953年・1955年の映画館名簿では「朝日座」。1960年の映画館名簿では「朝日座」。1962年の映画館名簿では経営者が春日井斉部、支配人が記載なし、木造2階、定員300、邦画を上映。1962年の映画館名簿では経営者が天野政一、支配人が武内源太郎。1963年の映画館名簿では「見付映画劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「金剛寺」西北西40mにある建物。最寄駅はJR東海道本線磐田駅。
見付天王町の金剛寺の西隣には「あさひ座」があった。あさひ座は200席ほどの畳敷きの芝居小屋である。*8
所在地 : 静岡県磐田郡福田町(1950年)、静岡県磐田郡福田町1564-1(1953年)、静岡県磐田郡福田町1941(1955年・1958年)、静岡県磐田郡福田町福田1941(1960年)、静岡県磐田郡福田町福田(1963年)、静岡県磐田郡福田町福田1941(1966年)
開館年 : 1921年7月
閉館年 : 1967年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1921年7月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年の映画館名簿では「福田座」。1955年・1958年の映画館名簿では「福田劇場」。1960年の映画館名簿では「福田座」。1963年・1966年・1967年の映画館名簿では「福田劇場」。1967年の映画館名簿では経営者が鈴木晋作、支配人が鈴木正文、木造2階、定員450。1968年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「六所神社」の西130mにある雑貨店「Y&K STORE」。最寄駅はJR東海道本線磐田駅。
福田町の商店街の中心は、本町通り映画館「福田座」のある中川通りにあった。菓子店・飲食店・銭湯・遊技場などがあった。福田座は映画館だったが芝居の興行なども行われた。『福島村誌』によると、福田座の前身は1912年に寄席として開館した「大正座」であり、1916年に廃止された。そこで横須賀町の某氏が資金を集め、1920年に福田座を設立したという。*9
『福田町史 資料編 民俗』には1932年製の「福田町福田区住民分布現況図」をもとにした商店分布図が掲載されている。「福田座(芝居小屋・映画館)」がある。隣接地には当時から「金友(料理屋)」があり、商店街には当時から「寺井酒店」「カジュウサ(八百屋)」「田島精肉店」「太郎衛門商店(よろず屋)」があった。*10
開館年 : 1921年7月
閉館年 : 1967年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1921年7月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年の映画館名簿では「福田座」。1955年・1958年の映画館名簿では「福田劇場」。1960年の映画館名簿では「福田座」。1963年・1966年・1967年の映画館名簿では「福田劇場」。1967年の映画館名簿では経営者が鈴木晋作、支配人が鈴木正文、木造2階、定員450。1968年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「六所神社」の西130mにある雑貨店「Y&K STORE」。最寄駅はJR東海道本線磐田駅。
福田町の商店街の中心は、本町通り映画館「福田座」のある中川通りにあった。菓子店・飲食店・銭湯・遊技場などがあった。福田座は映画館だったが芝居の興行なども行われた。『福島村誌』によると、福田座の前身は1912年に寄席として開館した「大正座」であり、1916年に廃止された。そこで横須賀町の某氏が資金を集め、1920年に福田座を設立したという。*9
『福田町史 資料編 民俗』には1932年製の「福田町福田区住民分布現況図」をもとにした商店分布図が掲載されている。「福田座(芝居小屋・映画館)」がある。隣接地には当時から「金友(料理屋)」があり、商店街には当時から「寺井酒店」「カジュウサ(八百屋)」「田島精肉店」「太郎衛門商店(よろず屋)」があった。*10
所在地 : 静岡県磐田郡豊浜村4420-1(1953年)、静岡県磐田郡豊浜村4420(1955年)、静岡県磐田郡福田町豊浜4420(1958年)、静岡県磐田郡福田町豊浜4420-1(1960年)、静岡県磐田郡福田町豊浜(1963年)、静岡県磐田郡福田町豊浜4420-1(1966年)、静岡県磐田郡福田町豊浜4420(1968年)
開館年 : 1924年9月? 1927年?
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1924年9月開館。1930年・1936年・1941年・1943年・1947年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1968年の映画館名簿では「豊浜劇場」。1968年の映画館名簿では経営者が加藤兼一、支配人が加藤和儀、木造2階、定員465。1969年の映画館名簿には掲載されていない。
1927年には磐田郡豊浜村に「豊浜座」が落成した。戦後には映画の時代となって「豊浜映画劇場」に改称された。近隣の村々からも自転車で大勢の観客が集まった。1955年頃の写真あり。『素浪人奉行』などのポスターが見える。*11
1955年頃の磐田郡福田町にあった「豊浜映画劇場」の写真あり。館内には芝居を上演できる舞台もあった。*12
開館年 : 1924年9月? 1927年?
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1924年9月開館。1930年・1936年・1941年・1943年・1947年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1968年の映画館名簿では「豊浜劇場」。1968年の映画館名簿では経営者が加藤兼一、支配人が加藤和儀、木造2階、定員465。1969年の映画館名簿には掲載されていない。
1927年には磐田郡豊浜村に「豊浜座」が落成した。戦後には映画の時代となって「豊浜映画劇場」に改称された。近隣の村々からも自転車で大勢の観客が集まった。1955年頃の写真あり。『素浪人奉行』などのポスターが見える。*11
1955年頃の磐田郡福田町にあった「豊浜映画劇場」の写真あり。館内には芝居を上演できる舞台もあった。*12
所在地 : 静岡県磐田郡磐田町中泉(1943年)、静岡県磐田郡磐田町2923(1947年)、静岡県磐田市中泉(1950年)、静岡県磐田市中泉402(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年)
開館年 : 1941年1月14日
閉館年 : 1970年頃
1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「磐田松竹映劇」。1947年の映画館名簿では「磐田映画劇場」。1950年の映画館名簿では「磐田松竹劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「松竹映画劇場」。1958年の映画館名簿では「磐田松竹映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「磐田東映劇場」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「磐田映画劇場」。1969年の住宅地図では「東映劇場」。1970年の映画館名簿では経営者が関東共栄興行、支配人が野呂俊弘、木造2階冷暖房付、定員650、東宝・洋画を上映。1971年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は天平通り沿いの居酒屋「foryouジュビロード店」。最寄駅はJR東海道本線磐田駅。
1953年頃の磐田市中町にあった「松竹劇場」の写真あり。「松竹」の文字が見える。頃頃はまだテレビが普及しておらず、庶民の娯楽と言えば映画だった。*13
磐田市の中町には「松竹劇場」があった。1953年4月27日、NHKダブルプレゼントショー公開ラジオ番組が松竹劇場で行われた。*14
国鉄磐田駅を北上したところの磐田市中泉402-1番地に「磐田東映(松竹)劇場」があった。1941年1月14日創業。座席数は436席。町の中心街にあったため観客が多かった。なお、現在のセブンイレブン磐田ジュビロード店は中泉400-1番地にある。1953年頃の松竹劇場の写真あり。*15
開館年 : 1941年1月14日
閉館年 : 1970年頃
1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「磐田松竹映劇」。1947年の映画館名簿では「磐田映画劇場」。1950年の映画館名簿では「磐田松竹劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「松竹映画劇場」。1958年の映画館名簿では「磐田松竹映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「磐田東映劇場」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「磐田映画劇場」。1969年の住宅地図では「東映劇場」。1970年の映画館名簿では経営者が関東共栄興行、支配人が野呂俊弘、木造2階冷暖房付、定員650、東宝・洋画を上映。1971年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は天平通り沿いの居酒屋「foryouジュビロード店」。最寄駅はJR東海道本線磐田駅。
1953年頃の磐田市中町にあった「松竹劇場」の写真あり。「松竹」の文字が見える。頃頃はまだテレビが普及しておらず、庶民の娯楽と言えば映画だった。*13
磐田市の中町には「松竹劇場」があった。1953年4月27日、NHKダブルプレゼントショー公開ラジオ番組が松竹劇場で行われた。*14
国鉄磐田駅を北上したところの磐田市中泉402-1番地に「磐田東映(松竹)劇場」があった。1941年1月14日創業。座席数は436席。町の中心街にあったため観客が多かった。なお、現在のセブンイレブン磐田ジュビロード店は中泉400-1番地にある。1953年頃の松竹劇場の写真あり。*15
所在地 : 静岡県磐田郡磐田町中泉(1947年)、静岡県磐田市久保(1953年)、静岡県磐田市中泉町1355-5(1955年)、静岡県磐田市中泉町1355(1958年)、静岡県磐田市中泉133-51(1960年)、静岡県磐田市中泉町1335(1963年)、静岡県磐田市中泉町1335-5(1966年)、静岡県磐田市中泉2235-5(1969年・1970年・1971年)
開館年 : 1946年12月25日? 1947年12月25日?
閉館年 : 1971年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年12月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「磐田スバル劇場」。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「スバル劇場」。1966年・1969年・1970年・1971年の映画館名簿では「磐田日活劇場」。1969年の住宅地図では「磐田日活劇場」。1970年の映画館名簿では経営者が太陽企業、支配人が中野成夫、木造2階冷暖房付、定員590、日活・成人映画を上映。1972年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「中泉歴史公園」北東すぐの民家数軒。最寄駅はJR東海道本線磐田駅。
1960年3月1日には第二東映が発足し、各地で第二東映上映館への転向が相次いでいる。静岡県では熱海市の「名画座」、三島市の「三島中央劇場」、沼津市の「東海劇場」、吉原市の「吉原オリオン座」、富士宮市の「ロマン座」、富士市の「富士東映劇場」、焼津市の「ヒカリ座」、島田市の「太陽館」、掛川市の「中央劇場」、磐田市の「スバル劇場」、浜松市の「浜松国際劇場」などが第二東映に転向した。*16
1963年9月1日、磐田市の日活系専門館「スバル座」を日活が賃借契約し、日活封切専門館「磐田日活」に改称した。経営は傍系の太陽興業。所有者は天野政一。定員588人。*17
田町の久保川沿いの西側にあった。1946年12月25日、歌舞伎役者の沢村田之助や9歳だった美空ひばりを招いてこけら落とし公演を行った。こけら落としには長谷川一夫を招こうとしたが、出演料が高額すぎて断念している。1947年から1949年にかけて、藤山一郎、加藤大介、東海林太郎、岡春夫、ディック・ミネ、古賀正男、近江敏郎、市川右太衛門、柳谷金語楼、昔々亭桃太郎、小林旭、小暮美千代、松原操、高峰三枝子、月形竜之介、片岡千恵蔵など、そうそうたる役者を招いている。夏には22時過ぎからナイトショーが行われ、『蜘蛛の巣城』や『七人の侍』などを2本、昼間の半額で観ることができた。1963年8月には日活に貸与され、日活が10年間ほど興行した。*18
1947年12月25日のクリスマス、磐田市に芝居小屋「スバル劇場」が開館した。東京のロードショー劇場「スバル座」(「劇場」ではなく「座」)と同じスバルを冠していた。社長は時事通信社出身の鈴木修次、副社長は新聞販売店主の松本文一。先代の中村吉右衛門一座の大歌舞伎がこけら落とし公演であり、スバル劇場は大入り満員となった。当初は歌舞伎・歌謡曲・軽演劇などの実演が多く、やがて映画上映館となった。磐田市政5周年記念式典、5ヶ村合併祝賀式典もスバル劇場で行われた。*19
中泉座の跡地にはスバル劇場が建設された。磐田市が合併した際のスバル劇場の写真あり。『大砂塵』や『明日の幸福』や『めくら狼』や『赤い山』のポスターが見える。1965年頃、スバル劇場は磐田日活に改称した。「日活直営 磐田日活」の文字が見える。*20
開館年 : 1946年12月25日? 1947年12月25日?
閉館年 : 1971年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年12月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「磐田スバル劇場」。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「スバル劇場」。1966年・1969年・1970年・1971年の映画館名簿では「磐田日活劇場」。1969年の住宅地図では「磐田日活劇場」。1970年の映画館名簿では経営者が太陽企業、支配人が中野成夫、木造2階冷暖房付、定員590、日活・成人映画を上映。1972年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「中泉歴史公園」北東すぐの民家数軒。最寄駅はJR東海道本線磐田駅。
1960年3月1日には第二東映が発足し、各地で第二東映上映館への転向が相次いでいる。静岡県では熱海市の「名画座」、三島市の「三島中央劇場」、沼津市の「東海劇場」、吉原市の「吉原オリオン座」、富士宮市の「ロマン座」、富士市の「富士東映劇場」、焼津市の「ヒカリ座」、島田市の「太陽館」、掛川市の「中央劇場」、磐田市の「スバル劇場」、浜松市の「浜松国際劇場」などが第二東映に転向した。*16
1963年9月1日、磐田市の日活系専門館「スバル座」を日活が賃借契約し、日活封切専門館「磐田日活」に改称した。経営は傍系の太陽興業。所有者は天野政一。定員588人。*17
田町の久保川沿いの西側にあった。1946年12月25日、歌舞伎役者の沢村田之助や9歳だった美空ひばりを招いてこけら落とし公演を行った。こけら落としには長谷川一夫を招こうとしたが、出演料が高額すぎて断念している。1947年から1949年にかけて、藤山一郎、加藤大介、東海林太郎、岡春夫、ディック・ミネ、古賀正男、近江敏郎、市川右太衛門、柳谷金語楼、昔々亭桃太郎、小林旭、小暮美千代、松原操、高峰三枝子、月形竜之介、片岡千恵蔵など、そうそうたる役者を招いている。夏には22時過ぎからナイトショーが行われ、『蜘蛛の巣城』や『七人の侍』などを2本、昼間の半額で観ることができた。1963年8月には日活に貸与され、日活が10年間ほど興行した。*18
1947年12月25日のクリスマス、磐田市に芝居小屋「スバル劇場」が開館した。東京のロードショー劇場「スバル座」(「劇場」ではなく「座」)と同じスバルを冠していた。社長は時事通信社出身の鈴木修次、副社長は新聞販売店主の松本文一。先代の中村吉右衛門一座の大歌舞伎がこけら落とし公演であり、スバル劇場は大入り満員となった。当初は歌舞伎・歌謡曲・軽演劇などの実演が多く、やがて映画上映館となった。磐田市政5周年記念式典、5ヶ村合併祝賀式典もスバル劇場で行われた。*19
中泉座の跡地にはスバル劇場が建設された。磐田市が合併した際のスバル劇場の写真あり。『大砂塵』や『明日の幸福』や『めくら狼』や『赤い山』のポスターが見える。1965年頃、スバル劇場は磐田日活に改称した。「日活直営 磐田日活」の文字が見える。*20
所在地 : 静岡県磐田市三ケ野
開館年 : 1969年12月15日
閉館年 : 1973年9月?
各年版の映画館名簿には掲載されていない。施設名は日活ゴールデンハイツ。跡地は「遠州鉄道磐田営業所」。最寄駅はJR東海道本線御厨駅。
1969年12月15日、磐田市三ケ野に「日活ドライブインシアター」がオープンする。日活がボウリング場横に建設中だった。総面積7404m2のうち6000m2を舗装して、150台の車を収容する。スクリーンは高さ18m×横25mである。*21
1967年2月には日活本社に開発部が新設され、ボウリングと総合レジャービルの推進を打ち出した。磐田市に総合娯楽施設の日活ゴールデンハイツを建設し、1969年11月には同施設内に磐田日活ボウリングセンターが、同年12月にはドライブインシアターが開設された。日活ゴールデンハイツは自動車を利用する顧客を対象とした郊外型レジャー施設である。ボウリングブームは1971年にピークを迎えたが、1973年のオイルショックを機に下火となり、全国でボウリング場が供給過剰となった。1973年9月には日活ゴールデンハイツが閉鎖され、1974年から1976年には日活が経営するその他のボウリングセンターも閉鎖された。*22
開館年 : 1969年12月15日
閉館年 : 1973年9月?
各年版の映画館名簿には掲載されていない。施設名は日活ゴールデンハイツ。跡地は「遠州鉄道磐田営業所」。最寄駅はJR東海道本線御厨駅。
1969年12月15日、磐田市三ケ野に「日活ドライブインシアター」がオープンする。日活がボウリング場横に建設中だった。総面積7404m2のうち6000m2を舗装して、150台の車を収容する。スクリーンは高さ18m×横25mである。*21
1967年2月には日活本社に開発部が新設され、ボウリングと総合レジャービルの推進を打ち出した。磐田市に総合娯楽施設の日活ゴールデンハイツを建設し、1969年11月には同施設内に磐田日活ボウリングセンターが、同年12月にはドライブインシアターが開設された。日活ゴールデンハイツは自動車を利用する顧客を対象とした郊外型レジャー施設である。ボウリングブームは1971年にピークを迎えたが、1973年のオイルショックを機に下火となり、全国でボウリング場が供給過剰となった。1973年9月には日活ゴールデンハイツが閉鎖され、1974年から1976年には日活が経営するその他のボウリングセンターも閉鎖された。*22
所在地 : 静岡県磐田郡中泉町(1925年)、静岡県磐田郡中泉町中泉(1927年)、静岡県磐田郡中泉町中町(1930年)、静岡県磐田郡中泉町七軒町(1936年)、静岡県磐田郡磐田町中泉(1941年・1943年)、静岡県磐田郡磐田町中泉507(1947年)、静岡県磐田市中泉(1950年)、静岡県磐田市中泉507(1953年)、静岡県磐田市七軒町504(1955年)、静岡県磐田市中泉504(1958年)、静岡県磐田市中泉507(1960年・1963年・1966年・1969年)、静岡県磐田市七軒町507(1973年)、静岡県磐田市中泉507(1976年・1980年・1982年・1984年・1985年・1986年)
開館年 : 1921年12月28日、1959年4月5日
閉館年 : 1983年10月
『全国映画館総覧 1955』では1935年5月開館。1925年・1927年の映画館名簿では「中活劇場」。1930年の映画館名簿では「中泉館」。1934年の映画館名簿では「日活館」。1936年の映画館名簿では「中泉中活館」。1941年・1943年の映画館名簿では「中泉日活館」。1947年の映画館名簿では「磐田日活館」。1950年の映画館名簿では「磐田東宝劇場」。1953年の映画館名簿では「東宝映画劇場」。1955年の映画館名簿では「東宝劇場」。1958年の映画館名簿では「磐田東宝映画劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年の映画館名簿では「磐田中活劇場」。1969年の住宅地図では「中活映画劇場」。1982年の映画館名簿では「磐田中活」。1984年の映画館名簿では「磐田中活劇場」。1985年・1986年の映画館名簿では「磐田中活」。1986年の映画館名簿では経営者が播磨福策、支配人が播磨さと子、木造1階、220席、邦画・洋画を上映。1988年の映画館名簿には掲載されていない。磐田市最後の従来型映画館。「佐鳴予備校磐田駅前校」の南東のブロック。閉館後の区画整理事業により道路割はかなり変化しているので参考程度に。最寄駅はJR東海道本線磐田駅。
1959年4月5日、磐田市中泉705の邦画上映館「磐田東宝劇場」は「中活劇場」に改称した。経営は春日井斎部。*23
磐田市中泉507番地、大乗院三仭坊(だいじょういんみひろぼう)の西側には「磐田中活劇場」があった。1921年12月28日、東町の有力者による経営で創立。座席数は379席。戦前は芝居が主だったが、戦後は洋画が主となった。1950年にはローレンス・オリビエ主演の『ハムレット』を上映。1955年以降は株式会社組織だった。磐田市で最後まで残っていた映画館であり、1983年10月に閉館した。現在、跡地は磐田市の公園となっている。*24
1927年に磐田郡中泉町が行った「活動写真と教育に関する調査」によると、東町の「中活劇場」の従業員は映画説明者4人・洋楽手4人・売店員1人だった。観客定員は497人であり、入場料は大人30銭・小人10銭だった。年間入場者数は5万9196人だった。*25
開館年 : 1921年12月28日、1959年4月5日
閉館年 : 1983年10月
『全国映画館総覧 1955』では1935年5月開館。1925年・1927年の映画館名簿では「中活劇場」。1930年の映画館名簿では「中泉館」。1934年の映画館名簿では「日活館」。1936年の映画館名簿では「中泉中活館」。1941年・1943年の映画館名簿では「中泉日活館」。1947年の映画館名簿では「磐田日活館」。1950年の映画館名簿では「磐田東宝劇場」。1953年の映画館名簿では「東宝映画劇場」。1955年の映画館名簿では「東宝劇場」。1958年の映画館名簿では「磐田東宝映画劇場」。1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年の映画館名簿では「磐田中活劇場」。1969年の住宅地図では「中活映画劇場」。1982年の映画館名簿では「磐田中活」。1984年の映画館名簿では「磐田中活劇場」。1985年・1986年の映画館名簿では「磐田中活」。1986年の映画館名簿では経営者が播磨福策、支配人が播磨さと子、木造1階、220席、邦画・洋画を上映。1988年の映画館名簿には掲載されていない。磐田市最後の従来型映画館。「佐鳴予備校磐田駅前校」の南東のブロック。閉館後の区画整理事業により道路割はかなり変化しているので参考程度に。最寄駅はJR東海道本線磐田駅。
1959年4月5日、磐田市中泉705の邦画上映館「磐田東宝劇場」は「中活劇場」に改称した。経営は春日井斎部。*23
磐田市中泉507番地、大乗院三仭坊(だいじょういんみひろぼう)の西側には「磐田中活劇場」があった。1921年12月28日、東町の有力者による経営で創立。座席数は379席。戦前は芝居が主だったが、戦後は洋画が主となった。1950年にはローレンス・オリビエ主演の『ハムレット』を上映。1955年以降は株式会社組織だった。磐田市で最後まで残っていた映画館であり、1983年10月に閉館した。現在、跡地は磐田市の公園となっている。*24
1927年に磐田郡中泉町が行った「活動写真と教育に関する調査」によると、東町の「中活劇場」の従業員は映画説明者4人・洋楽手4人・売店員1人だった。観客定員は497人であり、入場料は大人30銭・小人10銭だった。年間入場者数は5万9196人だった。*25
所在地 : 静岡県磐田市高見丘1200番地 ららぽーと磐田3階(2010年・2015年・2020年)
開館年 : 2009年7月23日
閉館年 : 営業中
2005年の映画館名簿には掲載されていない。2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「TOHOシネマズららぽーと磐田1-10」(10館)。最寄駅はJR東海道本線磐田駅。
2009年7月23日、磐田市高見丘のららぽーと磐田に「TOHOシネマズららぽーと磐田」が開館した。開館記念式典には、東宝の高井英幸社長、女優の長澤まさみが出席した。長澤は子どもの頃に磐田市民文化会館で映画を観たという。10スクリーン1663席。*26
開館年 : 2009年7月23日
閉館年 : 営業中
2005年の映画館名簿には掲載されていない。2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「TOHOシネマズららぽーと磐田1-10」(10館)。最寄駅はJR東海道本線磐田駅。
2009年7月23日、磐田市高見丘のららぽーと磐田に「TOHOシネマズららぽーと磐田」が開館した。開館記念式典には、東宝の高井英幸社長、女優の長澤まさみが出席した。長澤は子どもの頃に磐田市民文化会館で映画を観たという。10スクリーン1663席。*26
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