日本の映画館の総合データベースです。



島田市

白梅館
所在地 : 静岡県志太郡島田町(1925年・1927年)、静岡県志太郡島田町大川端(1930年)
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1930年以後1934年以前
1925年・1927年・1930年の映画館名簿では「白梅館」。1934年の映画館名簿には掲載されていない。
初倉劇場
所在地 : 静岡県島田市色尾
開館年 : 1960年12月27日
閉館年 : 1967年3月22日
映画館名簿には掲載されていない。1961年の島田市住宅明細図初倉版では「初倉劇場」。跡地は「スーパーカネハチ初倉店」北東50mの「ますだや第2駐車場」と民家。最寄駅はJR東海道本線六合駅。

1960年には島田市色尾に映画館「初倉劇場」が創業した。1957年頃からテレビの普及が始まり、1967年に廃業となった。*1

1964年の島田市にあった映画館「初倉劇場」の写真あり。「初倉劇場」の文字が見える。旧初倉村には2館の映画館があった。*2

戦前の島田町には「みのる座」と「太陽館」という2館の映画館、芝居その他を興行する「大正座」があった。戦後の映画館としては、1946年11月3日には「文化劇場」、1957年7月24日には「東映劇場」、1960年12月27日には色尾に「初倉劇場」、1965年12月24日には「オリオン座」が創業している。1950年5月には焼津市の某が大正座を「国際劇場」に改称して映画館化したが、1年後の1951年9月には早くも廃業した。1955年には島活会館の中野一雄が譲り受けて「第二文化」として営業し、1972年には「スカラ座」に改称した。1957年以降に普及したテレビの影響で映画が斜陽産業となり、1967年3月22日には初倉劇場が廃業し、1970年4月30日にはオリオン座が廃業した。*3
金谷日活/第二劇場/第二金谷劇場
所在地 : 静岡県榛原郡金谷町金屋河原376(1955年)、静岡県榛原郡金谷町金谷原376(1956年)、静岡県榛原郡金谷町金谷原387(1957年)、静岡県榛原郡金谷町378(1958年)、静岡県榛原郡金谷町宮崎町(1960年)、静岡県榛原郡金谷町栄町(1963年・1964年)
開館年 : 1953年12月
閉館年 : 1964年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年12月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では「金谷日活」。1956年・1957年の映画館名簿では「第二劇場」。1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「第二金谷劇場」。1961年の金谷町住宅明細図では「金谷第二劇場」。1964年の島田市金谷町住宅明細地図では「第二劇場」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1976年の住宅地図では跡地に「佐塚歯科医院」(当時の佐塚歯科医院は現在と場所が異なる)。跡地は「佐塚歯科医院」南東30mの建物。最寄駅は大井川鉄道大井川本線新金谷駅。

金谷町金谷河原には「金谷第二劇場」があった。所有者は太田直次、創立は1954年10月1日、収容力は320人。*4
家山劇場
所在地 : 静岡県榛原郡下川根村家山(1949年)、静岡県榛原郡下川根村家山660-2(1953年)、静岡県榛原郡下川根村家山269(1955年)、静岡県榛原郡川根町家山269(1958年)、静岡県榛原郡川根町家山(1960年・1963年・1966年・1968年)
開館年 : 1943年3月
閉館年 : 1968年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1943年3月開館。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1949年の映画館名簿では「家山劇場」。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1968年の映画館名簿では「家山劇場」。1968年の映画館名簿では経営者が戸塚興行、支配人が沖光男、木造2階、定員650。1969年の映画館名簿には掲載されていない。

川根町家山には「家山劇場」があった。所有者は朝比奈石郎、創立は不明、収容力は800人。*5
島田オリオン座/島田日活オリオン/島田日活オリオン座
所在地 : 静岡県島田市7-8422(1958年)、静岡県島田市本通り7-8422(1960年)、静岡県島田市本通り7丁目(1963年)、静岡県島田市本通り7-8422(1966年)、静岡県島田市7-8422(1969年・1970年)
開館年 : 1956年9月18日
閉館年 : 1970年4月30日
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「島田オリオン座」。1960年の島田市住宅明細図では「映画劇場 オリオン座」。1960年・1963年の映画館名簿では「島田日活オリオン」。1964年の島田市金谷町住宅明細地図では「映画劇場 オリオン座」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「島田日活オリオン座」。1972年の住宅地図では跡地は空き地。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1976年の住宅地図では跡地に「松野精肉」。跡地は和菓子屋「中村菓子舗」向かいの「岡本住建」。最寄駅はJR東海道本線島田駅。

1956年9月18日、島田市本通り7丁目に洋画館「島田オリオン座」が開館した。鉄筋造2階建て、客席514であり、島田市では画期的な大劇場である。経営は静活株式会社。支配人は田中繫。*6

1959年のこのほど、島田市の「島田オリオン座」が静活から戸塚興業に3年契約で賃借された。*7

1961年の島田市本通7丁目にあった向山商店の写真あり。左手にちらりと見えるのは映画館「オリオン座」。日活作品『ろくでなし野郎』の看板が見える。*8

戦前の島田町には「みのる座」と「太陽館」という2館の映画館、芝居その他を興行する「大正座」があった。戦後の映画館としては、1946年11月3日には「文化劇場」、1957年7月24日には「東映劇場」、1960年12月27日には色尾に「初倉劇場」、1965年12月24日には「オリオン座」が創業している。1950年5月には焼津市の某が大正座を「国際劇場」に改称して映画館化したが、1年後の1951年9月には早くも廃業した。1955年には島活会館の中野一雄が譲り受けて「第二文化」として営業し、1972年には「スカラ座」に改称した。1957年以降に普及したテレビの影響で映画が斜陽産業となり、1967年3月22日には初倉劇場が廃業し、1970年4月30日にはオリオン座が廃業した。*9
金河座/金谷劇場
所在地 : 静岡県榛原郡金谷町(1934年・1936年・1943年)、静岡県榛原郡金谷町72(1947年)、静岡県榛原郡金谷町(1950年)、静岡県榛原郡金谷町栄町(1953年)、静岡県榛原郡金谷町栄町73(1955年)、静岡県榛原郡金谷町73(1958年)、静岡県榛原郡金谷町栄町(1960年・1963年)、静岡県榛原郡金谷町金谷河原78(1966年)、静岡県榛原郡金谷町栄町(1969年・1970年)
開館年 : 1926年1月
閉館年 : 1970年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1926年1月開館。1930年の映画館名簿には掲載されていない。1934年・1936年の映画館名簿では「金河座」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年・1947年の映画館名簿では「金河座」。1949年の映画館名簿には掲載されていない。1950年の映画館名簿では「金河座」。1951年・1952年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「金谷劇場」。1961年の金谷町住宅明細図では「金谷劇場」。1964年の島田市金谷町住宅明細地図では「第一劇場」。1971年の映画館名簿には掲載されていない。1976年の住宅地腕は跡地に「ガレージ」。建物は2008年に取り壊された。跡地は「専求院」北北西40mにあるアパート「メゾンプランタン」。最寄駅は大井川鉄道大井川本線新金谷駅。

吉田初三郎『金谷牧之原鳥観図』川崎鉄工場、1931年には「金河座」が描かれている。*10

金谷町金谷河原には「金谷劇場」があった。所有者は太田直次、創立は1887年、収容力は600人。*11
太陽館/島田太陽館/島田大映
所在地 : 静岡県志太郡島田町(1934年・1936年・1941年・1943年)、静岡県志太郡島田町3丁目(1947年)、静岡県島田市本通り(1949年)、静岡県島田市川端(1950年)、静岡県島田市大川町4914-4(1953年)、静岡県島田市大川町4914(1955年・1958年)、静岡県島田市本通り4914-4(1960年)、静岡県島田市大川町4914-4(1969年・1970年・1972年)
開館年 : 1930年以後1934年以前、1945年11月
閉館年 : 1972年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1945年11月開館。1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「太陽館」。1947年の映画館名簿では「島田太陽館」。1949年・1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「太陽館」。1960年の島田市住宅明細図では「映画劇場 太陽館」。1964年の島田市金谷町住宅明細地図では「映画劇場 太陽館」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「島田太陽館」。1971年・1972年の映画館名簿では「島田大映」。1972年の住宅地図では「太陽館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。1976年の住宅地図では跡地に「車庫」。1984年の住宅地図では跡地に駐車場と「公園」。跡地は「福泉寺」南東20mの道路用地。1980年代以後の区画整理事業で道路割が大きく変化しているので参考程度に。最寄駅はJR東海道本線島田駅。

1960年3月1日には第二東映が発足し、各地で第二東映上映館への転向が相次いでいる。静岡県では熱海市の「名画座」、三島市の「三島中央劇場」、沼津市の「東海劇場」、吉原市の「吉原オリオン座」、富士宮市の「ロマン座」、富士市の「富士東映劇場」、焼津市の「ヒカリ座」、島田市の「太陽館」、掛川市の「中央劇場」、磐田市の「スバル劇場」、浜松市の「浜松国際劇場」などが第二東映に転向した。*12
島田東映/島田東映劇場
所在地 : 静岡県島田市日ノ出町8028(1958年・1960年・1966年・1969年・1973年・1976年・1977年)
開館年 : 1957年7月27日
閉館年 : 1977年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「島田東映劇場」。1960年の島田市住宅明細図では「東映劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「島田東映」。1964年の島田市金谷町住宅明細地図では「東映劇場」。1966年・1969年・1973年・1976年・1977年の映画館名簿では「島田東映劇場」。1972年・1976年の住宅地図では「東映劇場」。1978年の映画館名簿には掲載されていない。1970年代後半から1980年代前半の区画整理事業で道路割が大きく変化。跡地は「佐鳴予備校島田本部校」の西20mの道路用地。最寄駅はJR東海道本線島田駅。

1957年7月27日、島田市日之出町に「全映劇場」が開館した。経営者は井上恒雄、支配人は井上良雄。総工費約3200万円。建坪200坪、鉄筋造2階建て、冷暖房完備、客席415。シネスコ装置を有する。上映系統は東映を主にした邦画・洋画の二番館。*13

戦前の島田町には「みのる座」と「太陽館」という2館の映画館、芝居その他を興行する「大正座」があった。戦後の映画館としては、1946年11月3日には「文化劇場」、1957年7月24日には「東映劇場」、1960年12月27日には色尾に「初倉劇場」、1965年12月24日には「オリオン座」が創業している。1950年5月には焼津市の某が大正座を「国際劇場」に改称して映画館化したが、1年後の1951年9月には早くも廃業した。1955年には島活会館の中野一雄が譲り受けて「第二文化」として営業し、1972年には「スカラ座」に改称した。1957年以降に普及したテレビの影響で映画が斜陽産業となり、1967年3月22日には初倉劇場が廃業し、1970年4月30日にはオリオン座が廃業した。*14
島田第二文化劇場/第二文化劇場/島活会館第二文化/島田第二文化島田スカラ座/スカラ座
所在地 : 静岡県島田市大津通8596-25(1957年・1958年・1960年)、静岡県島田市大津通り(1963年・1966年)、静岡県島田市大津通8596-25(1969年・1976年・1980年)、静岡県島田市大津通8569-25(1985年)、静岡県島田市大津通8596-25(1990年)、静岡県島田市大津通8569-25(1995年)
開館年 : 1955年
閉館年 : 1995年頃(移転)
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1957年・1958年の映画館名簿では「島田第二文化劇場」。1960年の映画館名簿では「第二文化劇場」。1960年の島田市住宅明細図では「第二文化劇場(中野)」。1963年の映画館名簿では「島活会館第二文化」。1966年の映画館名簿では「島田第二文化」。1972年・1976年・1984年の住宅地図では「スカラ座」。1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「島田スカラ座」。1980年・1985年・1990年・1995年・1996年の映画館名簿では「スカラ座」。1996年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「洞源寺」南西70mの道路用地。2000年代以後の区画整理で道路割が大きく変化しているので参考程度に。最寄駅はJR東海道本線島田駅。

戦前の島田町には「みのる座」と「太陽館」という2館の映画館、芝居その他を興行する「大正座」があった。戦後の映画館としては、1946年11月3日には「文化劇場」、1957年7月24日には「東映劇場」、1960年12月27日には色尾に「初倉劇場」、1965年12月24日には「オリオン座」が創業している。1950年5月には焼津市の某が大正座を「国際劇場」に改称して映画館化し、1年後の1951年9月には早くも廃業したものの、1955年には島活会館の中野一雄が譲り受けて「第二文化」として営業し、1972年には「スカラ座」に改称した。1957年以降に普及したテレビの影響で映画が斜陽産業となり、1967年3月22日には初倉劇場が廃業し、1970年4月30日にはオリオン座が廃業した。*15
実座/島田実座/島田みのる座/みのる座/カンマザールみのる座
所在地 : 静岡県志太郡島田町(1930年・1934年)、静岡県志太郡島田町6丁目(1936年・1941年)、静岡県志太郡島田町(1943年)、静岡県志太郡島田町6丁目(1947年)、静岡県島田市本通り(1949年)、静岡県島田市本町6丁目(1950年)、静岡県島田市本通6(1953年)、静岡県島田市本通6丁目(1955年)、静岡県島田市本通6-7835(1958年)、静岡県島田市6丁目7835(1960年)、静岡県島田市本通6丁目(1963年)、静岡県島田市本通6-7835(1966年)、静岡県島田市6-7835(1969年)、静岡県島田市6丁目7835(1969年)、静岡県島田市本通6-7835(1976年・1995年・2005年・2010年)
開館年 : 1916年、1928年3月
閉館年 : 2010年3月10日
『全国映画館総覧 1955』によると1928年3月開館。1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「実座」。1947年・1949年の映画館名簿では「島田実座」。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「実座」。1958年の映画館名簿では「島田松竹実座」。1960年の映画館名簿では「実座」。1960年の島田市住宅明細図では「映画劇場 島田実座」。1963年の映画館名簿では「みのる座」。1964年の島田市金谷町住宅明細地図では「映画劇場 島田実座」。1966年・1969年の映画館名簿では「島田みのる座」。1972年・1976年・1984年の住宅地図では「みのる座」。1973年の映画館名簿では「島田実座」。1976年・1984年の映画館名簿では「島田みのる座」。1980年・1985年・1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「みのる座」。2005年・2010年の映画館名簿では「カンマザールみのる座」。跡地は和菓子屋「龍月堂」南南東50mの駐車場。最寄駅はJR東海道本線島田駅。

1916年に芝居小屋として開館した。1950年代に東京で映画関係の仕事をしていた太田修平が引き継いで映画館に改修したが、大正時代の煉瓦張りタイルは残っている。2010年3月10日に閉館した。静岡県に残る唯一の木造映画館だった。最終日の3月10日には山田洋次監督作『男はつらいよ 噂の寅次郎』を上映し、山田監督のトークショーを開催する。*16

2010年3月10日、島田市本通の島田みのる座が閉館する。経営は島田興業。1916年竣工の建物の老朽化などが理由。先代の太田修平は山田洋次監督作品『虹をつかむ男』のモデルの一人であることから、閉館日の3月10日には山田洋次監督を迎えた講演会を開催し、島田でロケが行われた『男はつらいよ 噂の寅次郎』のフィルム上映会を行う。木造平屋建て190席。芝居小屋時代の名残である楽屋や回り舞台も残る。「大勢の人が訪れて、実りがあるように」との思いで「実座」と命名された。1959年に映画館に改修した。*17

2010年3月10日、島田市の映画館「みのる座」が93年の歴史に幕を閉じて閉館。静岡県内の現存する映画館としてはもっとも古いとされていた。*18

閉館した島田市のみのる座を舞台とする映画の製作が進んでいる。余命僅かとなったみのる座の館主の物語である。題名は『安寧の巣』。製作費はゼロだが、みのる座やフィルムサポート島田の支援を受けている。2010年9月14日から9月24日頃まで現地で撮影し、2011年1月頃の完成を目指す。*19

2010年10月23日、島田市の映画館「みのる座」が閉館する。東海道本線島田駅から徒歩約10分、旧東海道沿いに商店が並ぶ本通りから小路を入って突き当りにある。建物のファサードはアール・デコ調であり、券売所には濃紫のタイルが貼られている。築94年の木造建築であり、芝居小屋として建てられた。51年前、東京の配給会社に勤めていた太田修平は、経営難で所有者が手放したみのる座を29歳で引き継いだ。全盛期の島田市には邦画4社の専門館、洋画専門館、ポルノ専門館の6館があり、みのる座は松竹作品の専門館だった。太田修平は松竹のパーティで山田洋次監督に出会い、50年にも及ぶ交流が始まった。1995年には山田監督が『虹をつかむ男』のロケハンに訪れ、みのる座の両脇の民家が空き家だと知ると「壊せますね」と言ったという。結局『虹をつかむ男』のロケは徳島県の脇町劇場で行われたが、山田監督は完成記者会見で主人公のモデルの一人に太田修平を挙げた。1964年の東京オリンピック後には島田市の映画館が相次いで閉館し、東宝や東映の作品も上映した。息子の太田晴也は音楽大学を出て教師をしていたが、1993年に太田修平から経営を継いだ。上映の中心を子ども向け作品とし、また土日営業に切り替え、落語会やコンサートなどの下士官営業も行った。100周年となる2016年までは営業を続ける予定だったが、2009年2月末には隣接する藤枝市にシネコンが開館し、『ドラえもん』の新作の観客数は前作の3分の1となった。太田晴也が閉館を決定すると、地元の建築士や大工の棟梁が建物の調査に訪れ、屋根裏からは格天井の枠や棟木札、「猿田彦」の木札などが発見された。奈落からは回り舞台の遺構や花道の痕跡も発見された。3月10日の最終興行は『男はつらいよ 噂の寅次郎』であり、山田監督も来館した上映は満員となった。10月23日には地元出身の落語家である三遊亭遊喜の公演を行う。*20

2012年1月5日、島田みのる座の元館主である太田修平が死去した。太田は映画館主を主人公とする山田洋次監督の映画『虹をつかむ男』のモデルとなった。太田は島田市議会議員を4期16年務め、島田市議会議長も務めた。2005年に旭日双光章を受章している。*21

2010年11月18日付の日本経済新聞にはみのる座の閉館に関する記事が掲載されている。11月23日の勤労感謝の日には最終興行として地元の落語家の興行が行われたという。現物は未確認。*22

「カンマーザール島田みのる座」に言及している書籍として、中馬聰『映画館 中馬聰写真集』リトルモア、2015年がある。*23

2021年1月にWeb OYA-bunko(大宅壮一文庫)で検索したが有意な言及は発見できず。
島田文化劇場/文化劇場/宝塚劇場・文化劇場/島活会館宝塚劇場・島活会館文化劇場/島田宝塚劇場・文化劇場/島田宝塚劇場/島田文化・スカラ座/島田文化
所在地 : 静岡県志太郡島田町6丁目(1947年)、静岡県島田市本通り(1949年)、静岡県島田市(1950年)、静岡県島田市本通4-8270-1(1953年)、静岡県島田市本通4-8270、本通4丁目(1958年)、静岡県島田市本通り4-8270(1960年)、静岡県島田市本通4丁目(1963年)、静岡県島田市本通り4-8270-1(1966年)、静岡県島田市4-8270-1(1969年)、静岡県島田市4丁目8270-1(1973年)、静岡県島田市本通り4-8270-1(1976年・1980年・1985年・1990年・1995年・2005年・2010年・2013年)
開館年 : 1945年11月、1957年7月10日(建て替え)
閉館年 : 2013年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1945年11月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「島田文化」。1949年・1950年の映画館名簿では「島田文化劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「文化劇場」。1958年の映画館名簿では「島活宝塚・島活島田文化劇場」(2館)。1960年の映画館名簿では「宝塚劇場・文化劇場」(2館)。1960年の島田市住宅明細図では「映画劇場 宝塚 文化」。1963年の映画館名簿では「島活会館宝塚劇場・島活会館文化劇場」(2館)。1964年の島田市金谷町住宅明細地図では「映画劇場 文化 宝塚」。1966年・1969年の映画館名簿では「島田宝塚劇場・文化劇場」(2館)。1969年の映画館名簿では「島田宝塚劇場」。1972年の住宅地図では「1階文化ホール 2階宝塚」。1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・1995年の映画館名簿では「島田文化」。1976年の住宅地図では「1F文化ホール2F島活」。1984年の住宅地図では「島活会館 1Fパチンコ文化ホール 2F映画館ブンカ」。1996年・1998年の映画館名簿では「島田文化・スカラ座」(2館)。2000年の映画館名簿には掲載されていない。2005年・2010年・2012年・2013年の映画館名簿では「島田文化」。2012年の映画館名簿では経営会社が有限会社島活会館、経営者・支配人ともに中野裕二、鉄筋造2階、80席、洋画を上映。2014年の映画館名簿には掲載されていない。島活会館2階。映画館の建物は衣料品店「島田ユニフォームセンター」が入る島活会館として現存。最寄駅はJR東海道本線島田駅。

1956年12月22日午前4時30分頃、島田市本通4丁目の「島田第一文化劇場」付近から出火し、同館ほか5商店が全焼した。損害額は約2000万円。経営者は中野一雄。*24

1957年7月10日、島田市本通り4丁目に「島活会館」が開館した。島田文化劇場が総工費5000万円で建設していた。鉄骨造3階建てで2館を有する。地上には洋画館「島田文化」(400席)が、地下には東宝・日活・新東宝の上映館「宝塚」(400席)がある。2階の一角は総合店舗となっており、3階には大衆食堂が、屋上には遊園地がある。*25

1957年の島田市の本通4丁目の北側の街並み。「文化劇場」と呼ばれた映画館「宝塚」の写真あり。2006年現在の跡地の写真もあり、「島田ユニフォームセンター」が見える。「ホテルルートイン島田」の2階部分には多目的文化ホールを兼ねた形で「文化」が存続している(※正確に文意を読み取れない)。*26

1962年の島田市本通4丁目にあった映画館の写真あり(※館名は記載されていない)。「洋画の文化 邦画の宝塚」の文字が見える。三船敏郎主演の東宝作品『どぶろくの辰』の看板が見える。右側のパーラーとりやはハイカラな西洋料理店であり、給料日・誕生日・デートなど特別な日に利用する人が多かった。*27

コメントをかく


利用規約をご確認のうえご記入下さい

Menu

目次

管理人/副管理人のみ編集できます