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hekikaicinema 2026年09月06日(日) 00:51:11履歴
松江市の映画館を参照。
出雲市の映画館を参照。
浜田市の映画館を参照。
所在地 : 島根県安来市大市場町(1963年)
開館年 : 1957年9月1日
閉館年 : 1963年頃
跡地は「ダスキン安来」。最寄駅はJR山陰本線安来駅。
1957年9月1日、安来市大市場に「昭映」が開館した。木造平屋建。建坪80坪。定員300人。系統は邦画各社。経営者は吉田新一。*2
開館年 : 1957年9月1日
閉館年 : 1963年頃
跡地は「ダスキン安来」。最寄駅はJR山陰本線安来駅。
1957年9月1日、安来市大市場に「昭映」が開館した。木造平屋建。建坪80坪。定員300人。系統は邦画各社。経営者は吉田新一。*2
所在地 : 島根県能義郡広瀬町(1964年)
開館年 : 1958年4月
閉館年 : 1964年頃
跡地は「吉田酒造」北西40mの倉庫と思われる。映画館の建物が現存している可能性あり。
1958年4月、広瀬町鍛冶町に「中央映画劇場」が開館した。*3
開館年 : 1958年4月
閉館年 : 1964年頃
跡地は「吉田酒造」北西40mの倉庫と思われる。映画館の建物が現存している可能性あり。
1958年4月、広瀬町鍛冶町に「中央映画劇場」が開館した。*3
所在地 : 島根県安来市安来町1958-2(1968年)
開館年 : 1877年、1954年5月
閉館年 : 1968年
跡地は「あたご山展望公園」東60mの作業用地。最寄駅はJR山陰本線安来駅。
1932年の『大日本職業別明細図 第281号』「安来町」には「快楽座」が描かれている。*4
1877年、安来町東小路の松平藩茶屋跡に「快楽座」が開場した。当初の小屋主は西小路の渡部育造だったが、昭和10年代には日立製作所安来工場に譲渡され、「偕楽座」に改称して映画館となった。偕楽座は日立坂下にあった。昭和30年代にはテレビが普及して観客数が激減し、1968年3月には映画常設館としての幕を閉じて休館した。1970年現在は日立金属安来工場の室内娯楽場に改装されている。安来市には偕楽座のほかに、「信盛館」、「東浜館」、「昭映」などの映画館もあった。*5
戦後の安来において、「偕楽座」は唯一の常設映画館だった。館内の写真あり。*6
開館年 : 1877年、1954年5月
閉館年 : 1968年
跡地は「あたご山展望公園」東60mの作業用地。最寄駅はJR山陰本線安来駅。
1932年の『大日本職業別明細図 第281号』「安来町」には「快楽座」が描かれている。*4
1877年、安来町東小路の松平藩茶屋跡に「快楽座」が開場した。当初の小屋主は西小路の渡部育造だったが、昭和10年代には日立製作所安来工場に譲渡され、「偕楽座」に改称して映画館となった。偕楽座は日立坂下にあった。昭和30年代にはテレビが普及して観客数が激減し、1968年3月には映画常設館としての幕を閉じて休館した。1970年現在は日立金属安来工場の室内娯楽場に改装されている。安来市には偕楽座のほかに、「信盛館」、「東浜館」、「昭映」などの映画館もあった。*5
戦後の安来において、「偕楽座」は唯一の常設映画館だった。館内の写真あり。*6
所在地 : 島根県大原郡木次町(1964年)
開館年 : 1937年4月
閉館年 : 1964年頃
跡地は「雲南市立木次図書館」北北西100mの月極駐車場。最寄駅はJR木次線木次駅。
1932年の『大日本職業別明細図 第281号』「木次町」には「木次座」が描かれている。*7
開館年 : 1937年4月
閉館年 : 1964年頃
跡地は「雲南市立木次図書館」北北西100mの月極駐車場。最寄駅はJR木次線木次駅。
1932年の『大日本職業別明細図 第281号』「木次町」には「木次座」が描かれている。*7
所在地 : 島根県大原郡加茂町(1965年)
開館年 : 1951年
閉館年 : 1964年
跡地は「東林寺」北西90mにある建物。最寄駅はJR木次線加茂中駅。
1951年、加茂町に小玉清によって「加茂映画館」が建てられた。屋上には拡声器が据え付けられて上映作品を宣伝した。テレビの普及によって1964年に廃業した。1984年現在の跡地は加茂町商工会館である。*8
1964年7月には昭和39年7月山陰北陸豪雨が起こり、加茂町中心部の305戸が水に浸かって全壊または半壊の被害を受けた。水害からの復興の過程で、1965年4月1日には加茂町商工会館が竣工した。1984年現在の加茂町商工会館の写真あり。*9
開館年 : 1951年
閉館年 : 1964年
跡地は「東林寺」北西90mにある建物。最寄駅はJR木次線加茂中駅。
1951年、加茂町に小玉清によって「加茂映画館」が建てられた。屋上には拡声器が据え付けられて上映作品を宣伝した。テレビの普及によって1964年に廃業した。1984年現在の跡地は加茂町商工会館である。*8
1964年7月には昭和39年7月山陰北陸豪雨が起こり、加茂町中心部の305戸が水に浸かって全壊または半壊の被害を受けた。水害からの復興の過程で、1965年4月1日には加茂町商工会館が竣工した。1984年現在の加茂町商工会館の写真あり。*9
所在地 : 島根県大原郡大東町大東(1968年)
開館年 : 1947年秋
閉館年 : 1967年7月
跡地は「出雲大東郵便局」南東100mの建物や島根県道24号の道路上。最寄駅はJR木次線出雲大東駅。
1947年秋、大東町に「石川文化劇場」が新築され、演劇・浪曲・少女歌劇の興行や、土日の映画上映などが行われた。1950年3月には経営者が変わって「オリエンタル劇場」に改称し、映画常設館として昼夜上映を行うようになった。1967年7月に閉館した。*10
開館年 : 1947年秋
閉館年 : 1967年7月
跡地は「出雲大東郵便局」南東100mの建物や島根県道24号の道路上。最寄駅はJR木次線出雲大東駅。
1947年秋、大東町に「石川文化劇場」が新築され、演劇・浪曲・少女歌劇の興行や、土日の映画上映などが行われた。1950年3月には経営者が変わって「オリエンタル劇場」に改称し、映画常設館として昼夜上映を行うようになった。1967年7月に閉館した。*10
所在地 : 島根県仁多郡横田町(1965年)
開館年 : 1961年頃
閉館年 : 1965年頃
1965年1月19日、横田町農業協同組合は旧「横田シネマ館」の建物の購入契約を交わし、1月27日には藤原璋夫と敷地の購入契約を交わした。*11
開館年 : 1961年頃
閉館年 : 1965年頃
1965年1月19日、横田町農業協同組合は旧「横田シネマ館」の建物の購入契約を交わし、1月27日には藤原璋夫と敷地の購入契約を交わした。*11
所在地 : 島根県飯石郡来島村三日市(1953年)
開館年 : 昭和20年代以前
閉館年 : 1953年頃
昭和20年代の来島村三日市には様々な商店があり、芝居を上演したり映画を上映する「来島劇場」もあった。来島劇場は来島におけるデートスポットだった。*12
開館年 : 昭和20年代以前
閉館年 : 1953年頃
昭和20年代の来島村三日市には様々な商店があり、芝居を上演したり映画を上映する「来島劇場」もあった。来島劇場は来島におけるデートスポットだった。*12
所在地 : 島根県美濃郡益田町高津(1943年)
開館年 : 1875年
閉館年 : 1943年以後1947年以前
明治初頭、美濃郡高津村の有志によって劇場が建立され、「芝居小屋」と称されていた。1875年には劇場が高津村に寄付され、小学校の仮校舎として使われていたこともある。明治中期には豊山久治らが「鴨山座」として経営した。鴨山座は1951年1月に焼失した。*14
開館年 : 1875年
閉館年 : 1943年以後1947年以前
明治初頭、美濃郡高津村の有志によって劇場が建立され、「芝居小屋」と称されていた。1875年には劇場が高津村に寄付され、小学校の仮校舎として使われていたこともある。明治中期には豊山久治らが「鴨山座」として経営した。鴨山座は1951年1月に焼失した。*14
所在地 : 島根県益田市西平原(1963年)
開館年 : 1960年頃
閉館年 : 1963年頃
1963年現在、小野沢勝太郎が所有する映画館は、益田市上吉田の「中央劇場」、益田市幸町の「益田東映」、益田市須子の「第三中央」、益田市津田の「津田会館」、益田市西平原の「鎌手劇場」、日原町の「日原中央」、松江市の「松江日活」、松江市の「スワン座」がある。*15
開館年 : 1960年頃
閉館年 : 1963年頃
1963年現在、小野沢勝太郎が所有する映画館は、益田市上吉田の「中央劇場」、益田市幸町の「益田東映」、益田市須子の「第三中央」、益田市津田の「津田会館」、益田市西平原の「鎌手劇場」、日原町の「日原中央」、松江市の「松江日活」、松江市の「スワン座」がある。*15
所在地 : 島根県益田市須子町(1964年)
開館年 : 1954年3月
閉館年 : 1964年頃
跡地は「甲佐薬局大和通店」専用駐車場。最寄駅はJR山陰本線・山口線益田駅。
1946年1月には益田町高津の「鴨山座」が焼失した。鴨山座と代わるように、益田市須子に洋画専門館「セントラル映劇」が開館し、1955年には益田市で初めてシネマスコープ作品を上映した。セントラルは益田市における映画館乱立のあおりを受け、やがて小野沢勝太郎に買収された。*18
益田市須子には「セントラル劇場」があったが、小野沢興業が買い受けて「第三中央」に改称した。*19
1954年の『日本商工業別明細図 益田市』東京交通社には駅前通りの「石見館」と須子の「益田映劇」の2館が描かれている。*20
開館年 : 1954年3月
閉館年 : 1964年頃
跡地は「甲佐薬局大和通店」専用駐車場。最寄駅はJR山陰本線・山口線益田駅。
1946年1月には益田町高津の「鴨山座」が焼失した。鴨山座と代わるように、益田市須子に洋画専門館「セントラル映劇」が開館し、1955年には益田市で初めてシネマスコープ作品を上映した。セントラルは益田市における映画館乱立のあおりを受け、やがて小野沢勝太郎に買収された。*18
益田市須子には「セントラル劇場」があったが、小野沢興業が買い受けて「第三中央」に改称した。*19
1954年の『日本商工業別明細図 益田市』東京交通社には駅前通りの「石見館」と須子の「益田映劇」の2館が描かれている。*20
所在地 : 島根県益田市中ノ島(1965年)
開館年 : 1958年
閉館年 : 1965年頃
益田市に中越パルプ工場設置の計画が浮上すると、橋本啓蔵は設置予定地に近い高津浜に「高津映画館」を建設した。1958年には橋本啓蔵によって上吉田に「マルハ映画館」も新設され、主として洋画を上映した。*23
1958年には橋本興業が益田市に「マルハ映劇」を新築した。小野沢勝太郎はマルハ映劇に対抗し、中央劇場を鉄筋造として暖房設備を設けた。*24
1958年には益田市上吉田に橋本興業株式会社が「マルハ映劇」を開館させ、主として洋画を上映した。やがて初代の石見館はスーパーに改造された。マルハ映劇は石見館に改称し、1979年現在も営業を続けている。時期不明のマルハ映劇の写真あり。*25
開館年 : 1958年
閉館年 : 1965年頃
益田市に中越パルプ工場設置の計画が浮上すると、橋本啓蔵は設置予定地に近い高津浜に「高津映画館」を建設した。1958年には橋本啓蔵によって上吉田に「マルハ映画館」も新設され、主として洋画を上映した。*23
1958年には橋本興業が益田市に「マルハ映劇」を新築した。小野沢勝太郎はマルハ映劇に対抗し、中央劇場を鉄筋造として暖房設備を設けた。*24
1958年には益田市上吉田に橋本興業株式会社が「マルハ映劇」を開館させ、主として洋画を上映した。やがて初代の石見館はスーパーに改造された。マルハ映劇は石見館に改称し、1979年現在も営業を続けている。時期不明のマルハ映劇の写真あり。*25
所在地 : 島根県益田市駅前町10-8(1976年)
開館年 : 1949年1月、1958年春(建て替え)
閉館年 : 1977年5月頃(移転)
跡地は「益田税務署」北30mの月極駐車場。最寄駅はJR山陰本線・山口線益田駅。
小野沢勝太郎。長野県小県郡東部町出身であり、大正末期に益田を訪れて財を成した。1932年に益田町会議員に就任し、1934年に小野沢興行を創立した。戦後の1947年に島根県議会議員に就任し、1952年には益田市体育協会長、1959年には島根県興行環境衛生同業組合理事長、1960年に全国興行環境衛生組合連合会理事などを歴任した。1965年春には高津柿本神社に柿本人麿の辞世の歌碑を建立した。*28
1946年、小野沢勝太郎は自身が所有する製材所を改修して劇場「中央劇場」とした。1949年1月にはさらに大改修して映画館とし、東映・大映などの邦画、セントラル・NCCなどの洋画を上映した。1958年春、小野沢勝太郎は中央劇場を鉄筋造で建て替え、暖房装置を設置した。1963年現在、小野沢勝太郎が所有する映画館は、益田市上吉田の「中央劇場」、益田市幸町の「益田東映」、益田市須子の「第三中央」、益田市津田の「津田会館」、益田市西平原の「鎌手劇場」、日原町の「日原中央」、松江市の「松江日活」、松江市の「スワン座」がある。*29
1946年の益田市にあった「中央劇場」の写真、1949年の改造後の中央劇場の写真あり。1958年の中央劇場の写真あり。1946年、小野沢勝太郎は経営していた製材所を改造して中央劇場とした。1949年1月にはさらに改造して映画館に転向した。東映や大映の邦画、セントラルやNCCの洋画を上映した。やがて中央劇場は益田駅の駅裏に移り、1979年現在の旧館はスーパーに改造されている。*30
開館年 : 1949年1月、1958年春(建て替え)
閉館年 : 1977年5月頃(移転)
跡地は「益田税務署」北30mの月極駐車場。最寄駅はJR山陰本線・山口線益田駅。
小野沢勝太郎。長野県小県郡東部町出身であり、大正末期に益田を訪れて財を成した。1932年に益田町会議員に就任し、1934年に小野沢興行を創立した。戦後の1947年に島根県議会議員に就任し、1952年には益田市体育協会長、1959年には島根県興行環境衛生同業組合理事長、1960年に全国興行環境衛生組合連合会理事などを歴任した。1965年春には高津柿本神社に柿本人麿の辞世の歌碑を建立した。*28
1946年、小野沢勝太郎は自身が所有する製材所を改修して劇場「中央劇場」とした。1949年1月にはさらに大改修して映画館とし、東映・大映などの邦画、セントラル・NCCなどの洋画を上映した。1958年春、小野沢勝太郎は中央劇場を鉄筋造で建て替え、暖房装置を設置した。1963年現在、小野沢勝太郎が所有する映画館は、益田市上吉田の「中央劇場」、益田市幸町の「益田東映」、益田市須子の「第三中央」、益田市津田の「津田会館」、益田市西平原の「鎌手劇場」、日原町の「日原中央」、松江市の「松江日活」、松江市の「スワン座」がある。*29
1946年の益田市にあった「中央劇場」の写真、1949年の改造後の中央劇場の写真あり。1958年の中央劇場の写真あり。1946年、小野沢勝太郎は経営していた製材所を改造して中央劇場とした。1949年1月にはさらに改造して映画館に転向した。東映や大映の邦画、セントラルやNCCの洋画を上映した。やがて中央劇場は益田駅の駅裏に移り、1979年現在の旧館はスーパーに改造されている。*30
所在地 : 島根県益田市駅前町30-19(1989年)
開館年 : 1940年5月5日
閉館年 : 1989年頃
跡地は「益田駅前交番」南西50mの「マスコスホテル」。最寄駅はJR山陰本線・山口線益田駅。
1954年の『日本商工業別明細図 益田市』東京交通社には駅前通りの「石見館」と須子の「益田映劇」の2館が描かれている。*31
1940年5月5日、益田町の益田駅前西側に橋本啓蔵が経営する「石見館」が開館した。益田警察署の佐々木署長らを招いて竣工式が催された。「都館」は大映・東映・セントラル・イギリス映画を上映していたが、石見館は東宝・松竹・セントラルを上映した。橋本啓蔵は橋本興業株式会社を設立し、都館を併合して「益田館」に改称した。橋本興業は津和野町の「津和野劇場」、小浜村小浜の「小浜座」、山口県江崎町の「千歳座」も買収した。*32
1940年5月、益田町の益田駅通り西側に橋本啓蔵が経営する「石見館」が開館した。主に東宝の封切館だった。やがて中島周平を専務として橋本興業株式会社が設立された。益田古川の「都館」を買収し、さらに中越バルブ工場設置の計画が浮上すると、工場予定地に近い高津浜に「連理会館」も開館させた。1958年には益田市上吉田に橋本興業株式会社が「マルハ映劇」を開館させ、主として洋画を上映した。やがて初代の石見館はスーパーに改造された。マルハ映劇は石見館に改称し、1979年現在も営業を続けている。時期不明の石見館の写真あり。『君の名は』の看板が見える。時期不明の都館の写真あり。時期不明の連理会館の写真あり。時期不明のマルハ映劇の写真あり。*33
1953年の「石見館」の写真あり。『君の名は』の看板が見える。1940年に開館した東宝系の映画館である。やがて「都館」を傘下に収めた。*34
1964年の益田市にあった「石見館」の写真あり。「洋画の殿堂 石見館」の文字が見える。1963年のアメリカ映画『魚雷艇109』の看板が見える。最盛期の益田市には6館の映画館があった。*35
開館年 : 1940年5月5日
閉館年 : 1989年頃
跡地は「益田駅前交番」南西50mの「マスコスホテル」。最寄駅はJR山陰本線・山口線益田駅。
1954年の『日本商工業別明細図 益田市』東京交通社には駅前通りの「石見館」と須子の「益田映劇」の2館が描かれている。*31
1940年5月5日、益田町の益田駅前西側に橋本啓蔵が経営する「石見館」が開館した。益田警察署の佐々木署長らを招いて竣工式が催された。「都館」は大映・東映・セントラル・イギリス映画を上映していたが、石見館は東宝・松竹・セントラルを上映した。橋本啓蔵は橋本興業株式会社を設立し、都館を併合して「益田館」に改称した。橋本興業は津和野町の「津和野劇場」、小浜村小浜の「小浜座」、山口県江崎町の「千歳座」も買収した。*32
1940年5月、益田町の益田駅通り西側に橋本啓蔵が経営する「石見館」が開館した。主に東宝の封切館だった。やがて中島周平を専務として橋本興業株式会社が設立された。益田古川の「都館」を買収し、さらに中越バルブ工場設置の計画が浮上すると、工場予定地に近い高津浜に「連理会館」も開館させた。1958年には益田市上吉田に橋本興業株式会社が「マルハ映劇」を開館させ、主として洋画を上映した。やがて初代の石見館はスーパーに改造された。マルハ映劇は石見館に改称し、1979年現在も営業を続けている。時期不明の石見館の写真あり。『君の名は』の看板が見える。時期不明の都館の写真あり。時期不明の連理会館の写真あり。時期不明のマルハ映劇の写真あり。*33
1953年の「石見館」の写真あり。『君の名は』の看板が見える。1940年に開館した東宝系の映画館である。やがて「都館」を傘下に収めた。*34
1964年の益田市にあった「石見館」の写真あり。「洋画の殿堂 石見館」の文字が見える。1963年のアメリカ映画『魚雷艇109』の看板が見える。最盛期の益田市には6館の映画館があった。*35
所在地 : 島根県益田市あけぼの東町2-1(2008年)
開館年 : 1975年12月(中央シネマ)、1977年5月(2館化)、1981年11月22日(ビル化)
閉館年 : 2008年8月31日
映画館が入っていた「小野沢ビル」は現存。最寄駅はJR山陰本線・山口線益田駅。
2008年8月末をもって、益田市あけぼの東町の映画館「デジタルシアター益田中央」が閉館する。戦後まもなく、駅前町に「中央劇場」として開館し、1950年代が最盛期だった。1981年に現在のビルに移転し、202席と155席の2スクリーンとなった。1997年には島根県で初めてデジタル音響設備を導入した。移転後は赤字続きであり、ボウリングなどの事業の収益で補填しながら経営を続けていた。最終上映作品は『ハルク』、『ハプニング』、『秘密結社鷹の爪 私を愛した黒烏龍茶』。*36
2008年8月31日、益田市あけぼの東町の映画館「デジタルシアター益田中央」が閉館する。これによって島根県西部から映画館がなくなる。202席と155席の2スクリーンを有し、小野沢興業が経営している。1981年に開店した総合レジャービルの小野沢ビルの中核施設であり、邦画の封切館だった。1997年のリニューアルを機に、島根県で初めてデジタル音響設備を導入した。小野沢興業は1945年から益田市で映画興行を行い、1950年代には3館を経営していた。6月には江津市にある同系列の映画館を閉館させたため、益田中央が島根県西部唯一の映画館だった。8月31日の最終日には『ハルク』と『ハプニング』が最終上映となる。*37
開館年 : 1975年12月(中央シネマ)、1977年5月(2館化)、1981年11月22日(ビル化)
閉館年 : 2008年8月31日
映画館が入っていた「小野沢ビル」は現存。最寄駅はJR山陰本線・山口線益田駅。
2008年8月末をもって、益田市あけぼの東町の映画館「デジタルシアター益田中央」が閉館する。戦後まもなく、駅前町に「中央劇場」として開館し、1950年代が最盛期だった。1981年に現在のビルに移転し、202席と155席の2スクリーンとなった。1997年には島根県で初めてデジタル音響設備を導入した。移転後は赤字続きであり、ボウリングなどの事業の収益で補填しながら経営を続けていた。最終上映作品は『ハルク』、『ハプニング』、『秘密結社鷹の爪 私を愛した黒烏龍茶』。*36
2008年8月31日、益田市あけぼの東町の映画館「デジタルシアター益田中央」が閉館する。これによって島根県西部から映画館がなくなる。202席と155席の2スクリーンを有し、小野沢興業が経営している。1981年に開店した総合レジャービルの小野沢ビルの中核施設であり、邦画の封切館だった。1997年のリニューアルを機に、島根県で初めてデジタル音響設備を導入した。小野沢興業は1945年から益田市で映画興行を行い、1950年代には3館を経営していた。6月には江津市にある同系列の映画館を閉館させたため、益田中央が島根県西部唯一の映画館だった。8月31日の最終日には『ハルク』と『ハプニング』が最終上映となる。*37
所在地 : 島根県益田市あけぼの東町2-1 小野沢ビル3階(2025年)
開館年 : 2022年1月25日
閉館年 : 営業中
最寄駅はJR山陰本線・山口線益田駅。
2021年6月には和田浩章(31)と妻の更沙(38)が益田市に転居し、映画館の再開を目指して活動を始めた。2008年8月には小野沢ビルの3階にあった「デジタルシアター益田中央」が閉館し、益田市から映画館がなくなった。現在の島根県西部には映画館がなく、益田市の住民は島根県東部や他県の映画館に足を運ぶ必要がある。夫妻は映画館の復活を目標に合同会社を設立し、クラウドファンディングなどで資金を集めている。*38
2008年8月、益田市の総合レジャービル「小野沢ビル」3階にあった映画館「デジタルシアター益田中央」が閉館した。2016年にはビルが小野沢興行から売却され、2020年9月には小野沢興行が特別清算されている。現在のオーナーがホテルやボウリング場などを経営しているが、映画館のスクリーンや座席はそのまま残されていた。和田浩章(31)は東京都北区の「シネマ・チュプキ・タバタ」で支配人をしていたが、2021年6月に益田市出身の妻とともに益田市に転居し、映画館の復活を目指して活動している。*39
2021年10月30日、益田市あけぼの東町の小野沢ビルで映画『場所はいつも旅先だった』の特別上映会が開催される。かつて小野沢ビル内には映画館があり、今冬に「Shimane Cinema ONOZAWA」(シマネ シネマ オノザワ)という名称で営業開始を目指している。*40
2022年1月26日、益田市あけぼの東町の小野沢ビルに映画館「Shimane Cinema Onozawa」(シマネ シネマ オノザワ)が開館した。2008年に閉館した映画館の施設を用いており、14年ぶりに益田市や島根県西部に映画館が復活した。東京都でミニシアターの支配人を務めていた和田浩章(32)、妻で益田市出身の更沙(38)が経営する。夫妻は2021年6月に千葉県から益田市に転居し、映画館の復活に奔走した。2021年9月に開始したクラウドファンディングでは島根県内外の467人から計653万7000円を集めた。*41
2022年1月26日、益田市あけぼの東町に映画館「Shimane Cinema Onozawa」(シマネ シネマ オノザワ)が開館した。2008年に閉館した「デジタルシアター益田中央」の施設を用いている。これまで島根県西部は映画館空白地帯だった。経営者の和田浩章(32)は東京都北区の「シネマ・チュプキ・タバタ」で支配人を務めていた。妻で益田市出身の更沙(38)とともに映画館の再開を企画し、最新の映写機を導入した。1月30日までは『鉄コン筋クリート』や『海のふた』など4作品を上映する。1スクリーン、200席。月曜と火曜は休館。入場料は一般1800円、シニア1200円。*42
開館年 : 2022年1月25日
閉館年 : 営業中
最寄駅はJR山陰本線・山口線益田駅。
2021年6月には和田浩章(31)と妻の更沙(38)が益田市に転居し、映画館の再開を目指して活動を始めた。2008年8月には小野沢ビルの3階にあった「デジタルシアター益田中央」が閉館し、益田市から映画館がなくなった。現在の島根県西部には映画館がなく、益田市の住民は島根県東部や他県の映画館に足を運ぶ必要がある。夫妻は映画館の復活を目標に合同会社を設立し、クラウドファンディングなどで資金を集めている。*38
2008年8月、益田市の総合レジャービル「小野沢ビル」3階にあった映画館「デジタルシアター益田中央」が閉館した。2016年にはビルが小野沢興行から売却され、2020年9月には小野沢興行が特別清算されている。現在のオーナーがホテルやボウリング場などを経営しているが、映画館のスクリーンや座席はそのまま残されていた。和田浩章(31)は東京都北区の「シネマ・チュプキ・タバタ」で支配人をしていたが、2021年6月に益田市出身の妻とともに益田市に転居し、映画館の復活を目指して活動している。*39
2021年10月30日、益田市あけぼの東町の小野沢ビルで映画『場所はいつも旅先だった』の特別上映会が開催される。かつて小野沢ビル内には映画館があり、今冬に「Shimane Cinema ONOZAWA」(シマネ シネマ オノザワ)という名称で営業開始を目指している。*40
2022年1月26日、益田市あけぼの東町の小野沢ビルに映画館「Shimane Cinema Onozawa」(シマネ シネマ オノザワ)が開館した。2008年に閉館した映画館の施設を用いており、14年ぶりに益田市や島根県西部に映画館が復活した。東京都でミニシアターの支配人を務めていた和田浩章(32)、妻で益田市出身の更沙(38)が経営する。夫妻は2021年6月に千葉県から益田市に転居し、映画館の復活に奔走した。2021年9月に開始したクラウドファンディングでは島根県内外の467人から計653万7000円を集めた。*41
2022年1月26日、益田市あけぼの東町に映画館「Shimane Cinema Onozawa」(シマネ シネマ オノザワ)が開館した。2008年に閉館した「デジタルシアター益田中央」の施設を用いている。これまで島根県西部は映画館空白地帯だった。経営者の和田浩章(32)は東京都北区の「シネマ・チュプキ・タバタ」で支配人を務めていた。妻で益田市出身の更沙(38)とともに映画館の再開を企画し、最新の映写機を導入した。1月30日までは『鉄コン筋クリート』や『海のふた』など4作品を上映する。1スクリーン、200席。月曜と火曜は休館。入場料は一般1800円、シニア1200円。*42
所在地 : 島根県大田市波根町(1964年)
開館年 : 1960年頃
閉館年 : 1964年頃
跡地は「武田旅館」北東30mの「立神岩説明板」がある駐車場。最寄駅はJR山陰本線波根駅。
波根むかし語りの会が作成した地図『波根の賑わい 戦後から昭和30年代の商店』には芝居小屋「海岸座」が描かれている。*43
開館年 : 1960年頃
閉館年 : 1964年頃
跡地は「武田旅館」北東30mの「立神岩説明板」がある駐車場。最寄駅はJR山陰本線波根駅。
波根むかし語りの会が作成した地図『波根の賑わい 戦後から昭和30年代の商店』には芝居小屋「海岸座」が描かれている。*43
所在地 : 島根県大田市大田町(1964年)
開館年 : 1946年4月
閉館年 : 1964年頃
跡地は「大田商工会議所」南西110mの駐車場。最寄駅はJR山陰本線大田市駅。
1959年現在、勝部康夫は大田市で「オリエンタル映画劇場」を経営している。大田市ではその他に遊技場、タクシー、食堂等を経営しているほか、出雲市、西郷町、木次町、大東町、邑智町でもそれぞれ「オリエンタル映画劇場」という名の劇場を経営している。映写技師や運転手など11人によってオリエンタル労働組合が組織されている。*44
開館年 : 1946年4月
閉館年 : 1964年頃
跡地は「大田商工会議所」南西110mの駐車場。最寄駅はJR山陰本線大田市駅。
1959年現在、勝部康夫は大田市で「オリエンタル映画劇場」を経営している。大田市ではその他に遊技場、タクシー、食堂等を経営しているほか、出雲市、西郷町、木次町、大東町、邑智町でもそれぞれ「オリエンタル映画劇場」という名の劇場を経営している。映写技師や運転手など11人によってオリエンタル労働組合が組織されている。*44
所在地 : 島根県江津市郷田町1215(1973年)
開館年 : 1948年5月
閉館年 : 1973年頃
跡地は「スーパーホテル江津駅前」。最寄駅はJR山陰本線江津駅。
1958年1月31日午後7時頃、江津市郷田町の「あけぼの館」から出火し、木造平屋建100坪が全焼した。損害は約1200万円。原因はプロパンガスの元栓が緩んで引火したとみられる。*45
開館年 : 1948年5月
閉館年 : 1973年頃
跡地は「スーパーホテル江津駅前」。最寄駅はJR山陰本線江津駅。
1958年1月31日午後7時頃、江津市郷田町の「あけぼの館」から出火し、木造平屋建100坪が全焼した。損害は約1200万円。原因はプロパンガスの元栓が緩んで引火したとみられる。*45
所在地 : 島根県江津市二宮町神主ハ315-1(2008年)
開館年 : 1973年
閉館年 : 2008年6月13日
跡地はパチンコ店「Vinto」建物中央部。最寄駅はJR山陰本線敬川駅。
2008年6月13日、江津市の映画館「デジタルシアター江津中央」が閉館する。広島市や松江市などのシネコンに観客を取られたことなどが理由であり、2008年6月21日には出雲市にも10スクリーンのシネコンが開館することが決定していた。1スクリーン180席。1973年、小野沢興行がオープンさせたボウリング場の一角に開館。JR江津駅近くにあった「江津あけぼの中央」の名前を引き継ぎ、江津あけぼの中央という名称で開館した。当初は夏休みなどに期間営業をしていたが、1998年にデジタル音響設備を導入した際に通年営業に切り替え、現在の名称に変更した。江津中央閉館後の約1週間は、島根県西部地方の映画館が「デジタルシアター益田中央」のみとなる。*46
2008年6月13日限りで、江津市二宮町神主の映画館「デジタルシアター江津中央」が35年の歴史に幕を閉じて閉館する。江津市唯一の映画館である。入場者の減少や、6月下旬に出雲市に大型シネコンが開館することなどが理由。石見地区の映画館は益田市の1館のみとなる。1973年に江津市唯一の映画館が閉館した際、益田市の小野沢興行が隣接するレジャー施設に「江津あけぼの中央」を開館させ、その後現在の名称となった。当初は夏休みなどの季節上映であり、『タイタニック』の大ヒットを機に1998年から通年営業を行っている。『千と千尋の神隠し』などでは180席が満席となることもあった。洋画『ヒットマン』が最終上映作品となる。*47
2008年6月13日をもって、江津市二宮神主の映画館「デジタルシアター江津中央」が閉館し、35年の歴史に幕を閉じた。石見地方の映画館は益田市内にある同系列の1館のみとなった。1973年、江津市唯一の別の映画館が閉館したのを機に、小野沢興行がボウリング場の敷地に併設した。1スクリーン180席。年間7本から8本を上映し、1998年の『タイタニック』などは満席となったが、DVDの普及などで赤字が続いていた。出雲市にもシネコンが開館することで閉館を決定した。最終日の6月13日には『ヒットマン』を3回上映したが、来館者は1人だった。*48
開館年 : 1973年
閉館年 : 2008年6月13日
跡地はパチンコ店「Vinto」建物中央部。最寄駅はJR山陰本線敬川駅。
2008年6月13日、江津市の映画館「デジタルシアター江津中央」が閉館する。広島市や松江市などのシネコンに観客を取られたことなどが理由であり、2008年6月21日には出雲市にも10スクリーンのシネコンが開館することが決定していた。1スクリーン180席。1973年、小野沢興行がオープンさせたボウリング場の一角に開館。JR江津駅近くにあった「江津あけぼの中央」の名前を引き継ぎ、江津あけぼの中央という名称で開館した。当初は夏休みなどに期間営業をしていたが、1998年にデジタル音響設備を導入した際に通年営業に切り替え、現在の名称に変更した。江津中央閉館後の約1週間は、島根県西部地方の映画館が「デジタルシアター益田中央」のみとなる。*46
2008年6月13日限りで、江津市二宮町神主の映画館「デジタルシアター江津中央」が35年の歴史に幕を閉じて閉館する。江津市唯一の映画館である。入場者の減少や、6月下旬に出雲市に大型シネコンが開館することなどが理由。石見地区の映画館は益田市の1館のみとなる。1973年に江津市唯一の映画館が閉館した際、益田市の小野沢興行が隣接するレジャー施設に「江津あけぼの中央」を開館させ、その後現在の名称となった。当初は夏休みなどの季節上映であり、『タイタニック』の大ヒットを機に1998年から通年営業を行っている。『千と千尋の神隠し』などでは180席が満席となることもあった。洋画『ヒットマン』が最終上映作品となる。*47
2008年6月13日をもって、江津市二宮神主の映画館「デジタルシアター江津中央」が閉館し、35年の歴史に幕を閉じた。石見地方の映画館は益田市内にある同系列の1館のみとなった。1973年、江津市唯一の別の映画館が閉館したのを機に、小野沢興行がボウリング場の敷地に併設した。1スクリーン180席。年間7本から8本を上映し、1998年の『タイタニック』などは満席となったが、DVDの普及などで赤字が続いていた。出雲市にもシネコンが開館することで閉館を決定した。最終日の6月13日には『ヒットマン』を3回上映したが、来館者は1人だった。*48
所在地 : 島根県邑智郡川本町(1962年)
開館年 : 1948年3月
閉館年 : 1962年頃
1948年には川本町の「川本劇場」(川本映劇)が改築された。1956年8月には駅通りに映画館「あけぼの館」が開館し、町内の映画館は川本映劇とともに2館体制となった。*49
開館年 : 1948年3月
閉館年 : 1962年頃
1948年には川本町の「川本劇場」(川本映劇)が改築された。1956年8月には駅通りに映画館「あけぼの館」が開館し、町内の映画館は川本映劇とともに2館体制となった。*49
所在地 : 島根県邑智郡川本町(1971年)
開館年 : 1956年8月
閉館年 : 1971年頃
1948年には川本町の「川本劇場」(川本映劇)が改築された。1956年8月には駅通りに映画館「あけぼの館」が開館し、町内の映画館は川本映劇とともに2館体制となった。*50
開館年 : 1956年8月
閉館年 : 1971年頃
1948年には川本町の「川本劇場」(川本映劇)が改築された。1956年8月には駅通りに映画館「あけぼの館」が開館し、町内の映画館は川本映劇とともに2館体制となった。*50
所在地 : 島根県邑智郡石見町(1963年)
開館年 : 1937年以前
閉館年 : 1963年頃
1937年頃の石見町中野の「中野劇場」舞台上で行われている、愛国婦人会による軍用真綿取りの写真あり。*51
開館年 : 1937年以前
閉館年 : 1963年頃
1937年頃の石見町中野の「中野劇場」舞台上で行われている、愛国婦人会による軍用真綿取りの写真あり。*51
所在地 : 島根県鹿足郡日原町(1965年)
開館年 : 1947年
閉館年 : 1963年1月
1947年、日原町に小野沢勝太郎によって「日原春日座」が開館した。日原春日座には歌舞伎の澤村宗十郎一座などが来演した。1963年1月、休館中だった日原春日座が積雪で倒壊した。*52
開館年 : 1947年
閉館年 : 1963年1月
1947年、日原町に小野沢勝太郎によって「日原春日座」が開館した。日原春日座には歌舞伎の澤村宗十郎一座などが来演した。1963年1月、休館中だった日原春日座が積雪で倒壊した。*52
所在地 : 島根県鹿足郡津和野町(1972年)
開館年 : 1922年、1948年12月21日
閉館年 : 1971年3月31日
跡地は「安野光雅美術館」別棟やその南側の広場。最寄駅はJR山口線津和野駅。
大正時代の橋北の屋敷割図を見ると、本町1丁目の財間本店(財間善一郎邸)裏に「演劇場」が描かれている。これは芝居小屋の「三国座」であり、1000人以上を収容できた。芝居に加えて、奇術、浪花節、活動写真などの興行が行われた。(pp.42-43では)明治20年代には既に存在したとされる。(pp.19-20では)1893年頃には津和野町本町に劇場「三国座」が建てられた。当時の津和野町唯一の娯楽施設だったが、1922年に「錦座」が建てられると三国座は解体された。*53
1932年の『大日本職業別明細図 第305号』「津和野町」には「錦座」が描かれている。*54
1922年8月5日には津和野町に鉄道が開通した。同じ頃に劇場「錦座」が竣工し、9月22日には錦座で鉄道開通祝賀式が行われている。沢村源之介一座による演劇がこけら落としとなった。錦座の写真あり。その後「戎座」に改称し、戦時中には荒廃した。戦後には橋本啓三が復興し、1948年12月21日に「津和野劇場」が開館した。命名は鹿野明町長である。その後映画全盛期が来て繁栄し、芝居や歌劇なども行われた。1971年3月31日に火災で焼失した。*55
1922年の津和野町後田に竣工したばかりの「錦座」の写真あり。廻り舞台を有する立派な劇場だった。戦後に「津和野劇場」に改称され、主として映画が上映された。1971年に焼失した。*56
1957年の津和野町にあった「津和野劇場」で開催された「演劇の夕べ」の写真あり。津和野劇場の前身は「錦座」であり、廻り舞台などを有する本格的な劇場だった。1971年に火災で焼失した。*57
歌手のさだまさしが卒業旅行で津和野を訪れた際、宿泊した宿の近くにあった「津和野映劇」(旧称は錦座)の火災を目撃した。*58
津和野町の「錦座」の写真あり。1922年には橋北地区に国鉄山口線津和野駅が開業し、同年には祇園町の弥栄社の背後に錦座が建てられた。*59
開館年 : 1922年、1948年12月21日
閉館年 : 1971年3月31日
跡地は「安野光雅美術館」別棟やその南側の広場。最寄駅はJR山口線津和野駅。
大正時代の橋北の屋敷割図を見ると、本町1丁目の財間本店(財間善一郎邸)裏に「演劇場」が描かれている。これは芝居小屋の「三国座」であり、1000人以上を収容できた。芝居に加えて、奇術、浪花節、活動写真などの興行が行われた。(pp.42-43では)明治20年代には既に存在したとされる。(pp.19-20では)1893年頃には津和野町本町に劇場「三国座」が建てられた。当時の津和野町唯一の娯楽施設だったが、1922年に「錦座」が建てられると三国座は解体された。*53
1932年の『大日本職業別明細図 第305号』「津和野町」には「錦座」が描かれている。*54
1922年8月5日には津和野町に鉄道が開通した。同じ頃に劇場「錦座」が竣工し、9月22日には錦座で鉄道開通祝賀式が行われている。沢村源之介一座による演劇がこけら落としとなった。錦座の写真あり。その後「戎座」に改称し、戦時中には荒廃した。戦後には橋本啓三が復興し、1948年12月21日に「津和野劇場」が開館した。命名は鹿野明町長である。その後映画全盛期が来て繁栄し、芝居や歌劇なども行われた。1971年3月31日に火災で焼失した。*55
1922年の津和野町後田に竣工したばかりの「錦座」の写真あり。廻り舞台を有する立派な劇場だった。戦後に「津和野劇場」に改称され、主として映画が上映された。1971年に焼失した。*56
1957年の津和野町にあった「津和野劇場」で開催された「演劇の夕べ」の写真あり。津和野劇場の前身は「錦座」であり、廻り舞台などを有する本格的な劇場だった。1971年に火災で焼失した。*57
歌手のさだまさしが卒業旅行で津和野を訪れた際、宿泊した宿の近くにあった「津和野映劇」(旧称は錦座)の火災を目撃した。*58
津和野町の「錦座」の写真あり。1922年には橋北地区に国鉄山口線津和野駅が開業し、同年には祇園町の弥栄社の背後に錦座が建てられた。*59
所在地 : 島根県周吉郡西郷町八尾1(1968年)
開館年 : 1952年
閉館年 : 1968年
昭和30年代の西郷町にあった映画館「オリエンタル映劇」の写真あり。「THEATRE」の文字が見える。戦後の西郷町は電力不足に悩まされ、週1回の夜間上映がやっとだったが、1952年には自家発電によって毎日営業するようになった。オリエンタル映劇は1968年に閉館した。2007年現在の跡地には朝日生命隠岐営業所が建っている。*62
開館年 : 1952年
閉館年 : 1968年
昭和30年代の西郷町にあった映画館「オリエンタル映劇」の写真あり。「THEATRE」の文字が見える。戦後の西郷町は電力不足に悩まされ、週1回の夜間上映がやっとだったが、1952年には自家発電によって毎日営業するようになった。オリエンタル映劇は1968年に閉館した。2007年現在の跡地には朝日生命隠岐営業所が建っている。*62

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