日本の映画館の総合データベースです。



田川市

日の出館
所在地 : 福岡県田川郡後藤寺町(1925年)
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1925年以後1927年以前
1925年の映画館名簿では「日の出館」。1927年の映画館名簿には掲載されていない。
大和館
所在地 : 福岡県田川郡後藤寺町(1925年)
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1925年以後1927年以前
1925年の映画館名簿では「大和館」。1927年の映画館名簿には掲載されていない。
春日座
所在地 : 福岡県田川郡後藤寺町(1930年)
開館年 : 1908年
閉館年 : 1931年3月18日
1927年の映画館名簿には掲載されていない。1930年の映画館名簿では「春日座」。1934年の映画館名簿には掲載されていない。

1909年には田川郡後藤寺町に「春日館」が開館した。1929年2月には丸山某の経営に変わり、内部を改修して帝キネ・河合系の映画館となった。1933年、火災で焼失して廃館となった。*1

田川市域初の常設劇場は、1908年に後藤寺春日町に開館した「春日座」である。1915年4月には関西歌舞伎が来演して活況だった。当初は麻生国吉による個人経営だったが、1918年には有志らが株式組織を設立して麻生から買収した。1929年には「世界館」の丸山繁が春日座を借り受けて活動常設館に改修した。1931年3月18日午前3時30分頃、春日座から出火して焼失し、後藤田町から劇場がなくなった。*2

1926年10月時点の田川地域には「朝陽館」(後藤寺町)、「松竹館」(後藤寺町)、「世界館」(伊田町)、「大和館」(金田町)、「鳳鳴館」(赤池町)の5館があった。1931年3月時点の田川地域には朝陽館、松竹館、「春日座」(後藤寺町)、世界館、「典寿館」(伊田町)、大和館、鳳鳴館、「豊国館」(糸田町)、「昭和館」(川崎町)、「宝城キネマ」(方城町)の10館があった。1940年1月時点の田川地域には朝陽館、松竹館、世界館、典寿館、大和館、鳳鳴館、豊国館、昭和館、「九州館」(添田町)、「電気館」(香春町)の10館があった。その後松竹館と世界館が閉館し、1945年8月の終戦時点の田川地域には8館があった。*3
世界館(田川市)/新世界
所在地 : 福岡県田川郡伊田町(1925年・1927年・1930年・1934年)、福岡県田川郡伊田町魚町(1936年)、福岡県田川郡伊田町(1941年・1943年)、福岡県田川市伊田町大宮(1950年)、福岡県田川市東区魚町(1953年)、福岡県田川市東区魚町2167(1954年)、福岡県田川市東区伊田(1958年)
開館年 : 1919年
閉館年 : 1956年1月
『全国映画館総覧 1954』には開館年が掲載されていない。1925年・1927年・1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「世界館」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1954年の映画館名簿では「世界館」。1955年の映画館名簿では田川市が掲載漏れしている。1958年の映画館名簿では「世界館」。1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年の西日本住宅詳細図では現在の福岡県道204号風治八幡宮前信号東30mに「パチンコ新世界」があるが関連は不明。

1919年に株式会社として「世界館」が開館し、開館当時は松竹系上映館だった。戦後には洋画専門館だったこともあるが、1954年現在は邦画館となっている。*4

1915年、伊田町に活動常設館「太陽館」が開館し、やがて「典寿館」に改称して日活系上映館となった。1916年7月、後藤田町本町に角銅朝太郎によって「朝陽館」が開館した。1920年には伊田町魚町に松竹系上映館「世界館」が開館した。経営者は原田岩太郎。シンボルとしてライオン像があったため「ライオン館」という名前でも知られた。1920年10月末、朝陽館の日野富三によって後藤田町平松に「松竹館」が開館した。*5

1926年10月時点の田川地域には「朝陽館」(後藤寺町)、「松竹館」(後藤寺町)、「世界館」(伊田町)、「大和館」(金田町)、「鳳鳴館」(赤池町)の5館があった。1931年3月時点の田川地域には朝陽館、松竹館、「春日座」(後藤寺町)、世界館、「典寿館」(伊田町)、大和館、鳳鳴館、「豊国館」(糸田町)、「昭和館」(川崎町)、「宝城キネマ」(方城町)の10館があった。1940年1月時点の田川地域には朝陽館、松竹館、世界館、典寿館、大和館、鳳鳴館、豊国館、昭和館、「九州館」(添田町)、「電気館」(香春町)の10館があった。その後松竹館と世界館が閉館し、1945年8月の終戦時点の田川地域には8館があった。*6
丸山劇場/丸山東映
所在地 : 福岡県田川市西区桜町(1953年・1954年・1958年)、福岡県田川市西区平松町(1960年)、福岡県田川市西区桜町(1962年)
開館年 : 1936年、1950年11月
閉館年 : 1962年頃
『全国映画館総覧 1954』によると1950年11月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1954年の映画館名簿では「丸山劇場」。1954年の最新日本商工案内図では「丸山映画劇場」。1955年の映画館名簿では田川市が掲載漏れしている。1958年・1960年・1962年の映画館名簿では「丸山東映」。1960年推定の西日本住宅詳細図では「丸山東映」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1963年推定の住宅地図では跡地に「アキヤ」。1969年の住宅地図では跡地に「車庫」。跡地は「ドラッグストアコスモス後藤寺店」駐車場北側。最寄駅はJR後藤寺線・日田彦山線田川後藤寺駅。

1936年、遠賀の松尾三蔵によって「丸山劇場」が建設され、こけら落としには東京大歌舞伎が来演した。「春日座」の廃館後には田川で唯一の劇場となった。戦後には映画館に転向したが、現在も劇団や芸人が訪れる。*7

1931年3月18日、後藤寺町の「春日座」が焼失して後藤寺町から劇場がなくなった。1936年、後藤寺町桜町に「丸山劇場」が開館し、こけら落としとして東京大歌舞伎の丸本幸四郎一行が来演した。経営者は遠賀郡の松尾三蔵であり、松尾は後に代議士に就任している。*8

1953年頃の田川市にあった「丸山映画劇場」の写真あり。「丸山映画劇場」の文字が見える。2009年現在の田川市桜町にあるボウリング場の場所である。1936年に松尾三蔵によって「丸山劇場」として開館した。やがて丸山映画劇場に改称し、猪口正太郎が経営者となった。1970年頃に閉館した。*9
鉱土館/三井鉱土館
所在地 : 福岡県田川市東区南大通(1953年・1954年)、福岡県田川市東区西大通(1958年)、福岡県田川市東区伊田(1960年)
開館年 : 1952年頃
閉館年 : 1960年頃
『全国映画館総覧 1954』には開館年が掲載されていない。1952年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1954年の映画館名簿では「鉱土館」。1955年の映画館名簿では田川市が掲載漏れしている。1958年・1960年の映画館名簿では「三井鉱土館」。1960年推定の西日本住宅詳細図では発見できず。1961年の映画館名簿には掲載されていない。
新町東映
所在地 : 福岡県田川市東区西大通(1956年)、福岡県田川市伊田町西大通(1958年)、福岡県田川市東区伊田(1960年)、福岡県田川市東区伊田町(1963年)
開館年 : 1959年10月
閉館年 : 1963年頃
各年版の映画館名簿には掲載されていない。1960年の西日本住宅詳細図では「新町東映」。1969年の住宅地図では跡地に「田川歯科医師会」。跡地は「西日本シティ銀行田川支店」北東150mの「本町公民館」。最寄駅はJR後藤寺線・日田彦山線田川後藤寺駅。
繁栄座/田川劇場
所在地 : 福岡県田川市東区伊田町(1963年)
開館年 : 1915年
閉館年 : 1963年頃
1954年の最新日本商工案内図では「田川劇場」。1960年の映画館名簿には掲載されていない。1963年の映画館名簿では「田川劇場」。1963年推定の住宅地図では「田川劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の住宅地図では跡地に「田川劇場跡」。跡地は「田川警察署」北北東140mの駐車場。最寄駅はJR後藤寺線・日田彦山線田川後藤寺駅。

1915年、伊田町栄町岩峠に株式会社として劇場「繁栄座」が設立された。戦後には「田川劇場」に改称し、1954年現在も演芸のみの興行を行っている。*10

1915年、伊田町栄町岩峠に株式組織の「繁栄座」(通称はさかえ座)が開館した。「富喜座」、「帝国座」を含めて、1915年だけで伊田町に3館の劇場が開館しており、過当競争が生じる結果となった。*11
松竹館/松竹映画劇場/田川松竹館/田川松竹映劇/田川中央劇場
所在地 : 福岡県田川郡後藤寺町(1925年・1927年・1930年・1934年)、福岡県田川郡後藤寺町平松2丁目(1936年)、福岡県田川郡後藤寺町(1941年・1943年)、福岡県田川市後藤寺町(1947年・1950年)、福岡県田川市西区平松(1953年)、福岡県田川市東区栄町3170(1954年)、福岡県田川市西区平松1797(1958年)、福岡県田川市西区平松町1797(1960年)、福岡県田川市西区平松町(1963年)
開館年 : 1920年10月
閉館年 : 1963年頃
『全国映画館総覧 1954』には開館年が掲載されていない。1925年・1927年・1930年・1934年・1936年・1941年・1943年・1947年の映画館名簿では「松竹館」。1950年の映画館名簿では「松竹映画劇場」。1953年・1954年の映画館名簿では「田川松竹館」。1954年の最新日本商工案内図では「松竹映画劇場」。1955年の映画館名簿では田川市が掲載漏れしている。1958年の映画館名簿では「田川松竹映画劇場」。1960年の映画館名簿では「田川松竹映劇」。1963年の映画館名簿では「田川中央劇場」。1963年推定の住宅地図では「田川松竹」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の住宅地図では跡地に「田川衣料 山一商事」。跡地は「西浄寺」北北東50mのアパート「SKレジデンス」。最寄駅はJR後藤寺線・日田彦山線田川後藤寺駅。

1920年10月、株式組織で日活上映館「松竹映画劇場」が開館した。その後松竹も上映するようになり、やがて松竹専門館となった。1953年に建物を新築した。*12

1915年、伊田町に活動常設館「太陽館」が開館し、やがて「典寿館」に改称して日活系上映館となった。1916年7月、後藤田町本町に角銅朝太郎によって「朝陽館」が開館した。1920年には伊田町魚町に松竹系上映館「世界館」が開館した。経営者は原田岩太郎。シンボルとしてライオン像があったため「ライオン館」という名前でも知られた。1920年10月末、朝陽館の日野富三によって後藤田町平松に「松竹館」が開館した。*13

1926年10月時点の田川地域には「朝陽館」(後藤寺町)、「松竹館」(後藤寺町)、「世界館」(伊田町)、「大和館」(金田町)、「鳳鳴館」(赤池町)の5館があった。1931年3月時点の田川地域には朝陽館、松竹館、「春日座」(後藤寺町)、世界館、「典寿館」(伊田町)、大和館、鳳鳴館、「豊国館」(糸田町)、「昭和館」(川崎町)、「宝城キネマ」(方城町)の10館があった。1940年1月時点の田川地域には朝陽館、松竹館、世界館、典寿館、大和館、鳳鳴館、豊国館、昭和館、「九州館」(添田町)、「電気館」(香春町)の10館があった。その後松竹館と世界館が閉館し、1945年8月の終戦時点の田川地域には8館があった。*14
クラウン劇場/クラウン映劇
所在地 : 福岡県田川市東区西大通(1956年)、福岡県田川市伊田町西大通(1958年)、福岡県田川市東区伊田(1960年)、福岡県田川市東区伊田町(1963年)
開館年 : 1954年12月
閉館年 : 1963年7月
1954年の映画館名簿には掲載されていない。1955年の映画館名簿では田川市が掲載漏れしている。1956年の映画館名簿では「クラウン劇場」。1958年の映画館名簿では「クラウン映画劇場」。1960年の映画館名簿では「クラウン劇場」。1960年推定の西日本住宅詳細図では「クラウン映劇」。1963年の映画館名簿では「クラウン映劇」。1963年推定の住宅地図では跡地に空白。1964年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の住宅地図では跡地に「アキヤ」。跡地は「吉峯医院」北東60mの更地。最寄駅はJR日田彦山線・平成筑豊鉄道田川伊田駅。
太陽館/典寿館/典寿映画劇場/第一プリンセス/プリンセス映劇/プリンス映劇
所在地 : 福岡県田川郡伊田町本町(1930年・1934年・1936年)、福岡県田川郡伊田町南大通り(1941年)、福岡県田川郡伊田町(1943年・1947年)、福岡県田川市大宮伊田2007(1950年・1951年)、福岡県田川市南大通(1952年)、福岡県田川市東区南大通(1953年)、福岡県田川市東区伊田町字清水町(1954年)、福岡県田川市伊田町236(1958年)、福岡県田川市東区伊田3081(1960年)、福岡県田川市東区伊田町(1963年)、福岡県田川市東区南大通(1964年)
開館年 : 1915年、1940年(移転)
閉館年 : 1963年12月
『全国映画館総覧 1954』によると1922年1月開館。1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「典寿館」。1947年・1950年・1951年の映画館名簿では「典寿映画劇場」。1952年・1953年の映画館名簿では「プリンセス映劇」。1954年の映画館名簿では「第一プリンセス」。1954年の最新日本商工案内図では「プリンセス劇場(映)」。1955年の映画館名簿では田川市が掲載漏れしている。1958年・1960年の映画館名簿では「プリンセス映劇」。1960年推定の西日本住宅詳細図では「プリンセス映劇」。1963年・1964年の映画館名簿では「プリンス映劇」。1963年推定の住宅地図では「プリンセス映劇」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の住宅地図では跡地に「日本生命田川支部」。跡地は「九州労働金庫田川支店」南東60mの「日本生命田川営業部」など。最寄駅はJR日田彦山線・平成筑豊鉄道田川伊田駅。

1915年、伊田町に活動常設館「太陽館」が開館し、やがて「典寿館」に改称して日活系上映館となった。1916年7月、後藤田町本町に角銅朝太郎によって「朝陽館」が開館した。*15

田川市の「典寿館」の写真あり。*16

1915年には東区寺町に日活系上映館「太陽館」が開館し、やがて「典寿館」に改称した。1940年に移転し、戦後には「プリンセス映画劇場」に改称した。*17

1926年10月時点の田川地域には「朝陽館」(後藤寺町)、「松竹館」(後藤寺町)、「世界館」(伊田町)、「大和館」(金田町)、「鳳鳴館」(赤池町)の5館があった。1931年3月時点の田川地域には朝陽館、松竹館、「春日座」(後藤寺町)、世界館、「典寿館」(伊田町)、大和館、鳳鳴館、「豊国館」(糸田町)、「昭和館」(川崎町)、「宝城キネマ」(方城町)の10館があった。1940年1月時点の田川地域には朝陽館、松竹館、世界館、典寿館、大和館、鳳鳴館、豊国館、昭和館、「九州館」(添田町)、「電気館」(香春町)の10館があった。その後松竹館と世界館が閉館し、1945年8月の終戦時点の田川地域には8館があった。*18
帝国座/田川東映/田川東映劇場
所在地 : 福岡県田川市東区魚町(1953年)、福岡県田川市東区大字伊田2145(1954年)、福岡県田川市東区伊田(1956年)、福岡県田川市東区魚町(1958年)、福岡県田川市東区伊田2142(1960年)、福岡県田川市東区伊田町(1963年)、福岡県田川市東区伊田2142(1966年)
開館年 : 1915年1月18日、1949年9月
閉館年 : 1966年頃
『全国映画館総覧 1954』によると1949年9月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1954年の映画館名簿では「帝国座」。1954年の最新日本商工案内図では「帝国座(映)」。1955年の映画館名簿では田川市が掲載漏れしている。1956年の映画館名簿では「田川東映」。1958年の映画館名簿では「田川東映劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「田川東映」。1960年推定の西日本住宅詳細図では北西に「第一田川東映」で南東に「第二田川東映」。1963年推定の住宅地図では北西に「第一田川東映」で南東に「第二田川東映」。1966年の映画館名簿では「田川東映劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。1969年の住宅地図では跡地に「割烹とみ永」。跡地は「村上外科病院」北東80mのアパート「コーポメイツ」。最寄駅はJR日田彦山線・平成筑豊鉄道田川伊田駅。

1914年8月、伊田町の彦山川の河畔に「帝国座」が起工し、1915年1月18日に開場式が行われ、1月19日に大阪音羽家若手俳優一座旧派大演劇のこけら落とし興行が行われた。伊田町有志の出資による株式組織だった。*19

1956年現在、田川市議会の議長は映画館主の山田幸四郎である。*20

1926年10月時点の田川地域には「朝陽館」(後藤寺町)、「松竹館」(後藤寺町)、「世界館」(伊田町)、「大和館」(金田町)、「鳳鳴館」(赤池町)の5館があった。1931年3月時点の田川地域には朝陽館、松竹館、「春日座」(後藤寺町)、世界館、「典寿館」(伊田町)、大和館、鳳鳴館、「豊国館」(糸田町)、「昭和館」(川崎町)、「宝城キネマ」(方城町)の10館があった。1940年1月時点の田川地域には朝陽館、松竹館、世界館、典寿館、大和館、鳳鳴館、豊国館、昭和館、「九州館」(添田町)、「電気館」(香春町)の10館があった。その後松竹館と世界館が閉館し、1945年8月の終戦時点の田川地域には8館があった。*21
朝陽館/朝陽映画劇場/朝陽映劇/田川朝陽映画劇場
所在地 : 福岡県田川郡後藤寺町(1925年・1927年・1930年・1934年)、福岡県田川郡後藤寺町本町(1936年)、福岡県田川郡後藤寺町(1941年・1943年)、福岡県田川市(1947年)、福岡県田川市本町1826(1950年)、福岡県田川市本町1(1953年)、福岡県田川市西区本町1(1954年)、福岡県田川市西区本町1826(1958年)、福岡県田川市西区平松町(1960年)、福岡県田川市西区本町(1963年・1966年・1969年)、福岡県田川市本町2-14(1970年)
開館年 : 1917年、1950年
閉館年 : 1971年頃
『全国映画館総覧 1954』によると1917年開館。1925年・1927年・1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「朝陽館」。1947年・1950年・1953年の映画館名簿では「朝陽映画劇場」。1954年の映画館名簿では「朝陽映劇」。1955年の映画館名簿では田川市が掲載漏れしている。1958年の映画館名簿では「朝陽映画劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「朝陽映劇」。1960年の西日本住宅詳細図では「朝映館」。1963年推定の住宅地図では「朝映館」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「田川朝陽映画劇場」。1969年の住宅地図では「朝陽映劇」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「田川後藤寺駅」駅舎北西90mの建物北側。最寄駅はJR後藤寺線・日田彦山線田川後藤寺駅。

1916年7月、後藤寺町に日活や帝国キネマの上映館「朝陽館」が開館した。1923年に改築して日活の上映館となった。戦後の1950年にふたたび改築して「朝陽映画劇場」に改称した。1954年現在は田川市唯一の洋画専門館である。*22

1915年、伊田町に活動常設館「太陽館」が開館し、やがて「典寿館」に改称して日活系上映館となった。1916年7月、後藤田町本町に角銅朝太郎によって「朝陽館」が開館した。1920年には伊田町魚町に「世界館」が開館した。*23

1916年8月13日、筑豊で2番目の活動常設館として後藤寺町に「朝陽館」が開館した。*24

1916年、後藤寺町に活動写真館「朝陽館」が設立された。1926年10月時点の田川地域には朝陽館、「松竹館」(後藤寺町)、「世界館」(伊田町)、「大和館」(金田町)、「鳳鳴館」(赤池町)の5館があった。1931年3月時点の田川地域には朝陽館、松竹館、「春日座」(後藤寺町)、世界館、「典寿館」(伊田町)、大和館、鳳鳴館、「豊国館」(糸田町)、「昭和館」(川崎町)、「宝城キネマ」(方城町)の10館があった。1940年1月時点の田川地域には朝陽館、松竹館、世界館、典寿館、大和館、鳳鳴館、豊国館、昭和館、「九州館」(添田町)、「電気館」(香春町)の10館があった。その後松竹館と世界館が閉館し、1945年8月の終戦時点の田川地域には8館があった。*25
東陽劇場/田川東陽映画劇場/田川東陽映劇
所在地 : 福岡県田川市東区(1958年)、福岡県田川市東区日之出町(1960年・1963年・1966年・1969年)、福岡県田川市日の出町7-24(1973年・1975年・1980年)
開館年 : 1957年5月14日、1974年4月(建て替え)
閉館年 : 1984年
1954年の最新日本商工案内図には描かれていない。1955年の映画館名簿では田川市が掲載漏れしている。1958年・1960年の映画館名簿では「東陽劇場」。1960年推定の西日本住宅詳細図では「東洋映劇」(※洋は原文ママ)。1963年の映画館名簿では「東陽映劇」。1966年・1969年の映画館名簿では「田川東陽映画劇場」。1969年の住宅地図では「東陽劇場」。1973年・1975年の映画館名簿では「田川東陽映劇」。1978年の映画館名簿には掲載されていない。1980年の映画館名簿では「田川東陽映劇」。1981年の住宅地図では「東陽劇場」。1982年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「田川信用金庫東支店」廃墟西隣の建物。映画館の建物が現存する可能性あり。最寄駅はJR日田彦山線・平成筑豊鉄道田川伊田駅。

1957年5月14日、田川市に「東洋劇場」(※東陽ではなく東洋)が開館した。オープニングは『柳生武芸帳』と『残月講道館』の二本立。大映スターの山本富士子、船越英二らが舞台挨拶を行った。鉄筋造2階建、定員520人。館主は上田猿之介。*26

1974年頃の田川市にあった「東陽劇場」の写真あり。1957年に開館し、館主は上田尊之助だった。1973年に閉館し、1974年4月に建て替えられた。1984年に閉館した。田川市日の出町の田川信用金庫東支店付近にあった。*27
ターミナル会館/田川ターミナル会館
所在地 : 福岡県田川市大字奈良795(1960年)、福岡県田川市西区本町(1963年・1966年・1969年)、福岡県田川市宮尾町3-8(1973年・1975年・1980年・1985年・1988年)
開館年 : 1959年9月15日
閉館年 : 1988年8月30日
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1963年の映画館名簿では「ターミナル会館」。1960年推定の西日本住宅詳細図では「ターミナル会館」。1963年推定の住宅地図では「タミナル会館」(※タミナルは原文ママ)。1966年・1969年・1973年・1975年の映画館名簿では「田川ターミナル会館」。1969年の住宅地図では「西鉄バスターミナル 2階レストランターミナル」(※映画館への言及なし)。1978年の映画館名簿には掲載されていない。1980年・1985年・1986年・1988年の映画館名簿では「田川ターミナル会館」。1981年の住宅地図では「西鉄バスターミナル 2階レストランターミナル 映画 ハンバーガーショップ」。1986年の映画館名簿では経営会社が朝映観光、経営者が上田尊之助、支配人が浦田義純、鉄筋造2階、550席、洋画・邦画を上映。1990年の映画館名簿には掲載されていない。田川市最後の映画館。建物名はターミナル会館。建物のターミナル会館は「福岡銀行後藤寺支店」北北東50mに現存(2016年閉鎖)。最寄駅はJR後藤寺線・日田彦山線田川後藤寺駅。

1959年9月15日、田川市東区桜町に「ターミナル会館」が開館した。鉄筋造4階建て。2階と3階がワンスロープ式の映画館。座席数664。上映系統は東宝と大映。代表者は上田尊之助。*28

1961年頃の田川市にあった「田川ターミナル会館」の写真あり。1959年10月、朝映観光株式会社の上田尊之助によって開館した。バスターミナルの2階にあり、食堂も併設されていた。田川地区最後の映画館だったが、1988年8月30日に閉館した。2009年現在も後藤寺バスセンターの建物として現存している。映写機は田川市石炭・歴史博物館に展示されている。*29

2006年11月20日から26日まで、田川市石炭・歴史博物館で「産炭地と映像文化」が開催される。1988年に閉館した田川市最後の映画館「田川ターミナル会館」(西鉄後藤寺バスセンター2階)で使われていた映写機やポスター、田川地区での映画ロケの写真などが展示される。田川地区には約10館の常設映画館があったが、炭鉱の衰退とともに相次いで閉館し、田川ターミナル会館の閉館によって映画館が亡くなった。この2006年夏に田川ターミナル会館の設備が撤去された際、映画ファンが映写機を博物館に無償譲渡する橋渡しをした。*30

2006年11月26日まで、田川市石炭・歴史博物館で「産炭地と映像文化」が開催されている。田川市最後の映画館「田川ターミナル会館」で使われていた映写機やポスターが集められている。1960年頃には約10館の映画館があったが、鉱山の閉山やテレビの普及などが理由で相次いで閉館した。1988年には田川ターミナル会館も閉館したが、そのまま残っていた映写機を所有者が博物館に寄贈した。*31

全盛期の田川地区(田川市・田川郡)には25の映画館があった。1988年8月には田川地区最後の映画館「ターミナル会館」が閉館した。2007年2月、田川地区の映画ファンが集まって田川映画愛好会が結成された。2012年5月2日、田川市弓削田の炭都劇場内に田川映画資料館が開館し、『男はつらいよ』や『花と龍』など映画の手書き看板、田川地区で撮影された『青春の門』や『筑豊のこどもたち』などのロケ風景の写真、映画ポスターなどが展示されている。*32

1960年の田川地区(田川市・田川郡)には25の映画館があった。1988年8月には田川地区最後の映画館「ターミナル会館」が閉館した。2007年2月には田川映画愛好会が結成され、定期的な映画上映会の開催や映画資料の収集を続けている。2012年5月には田川市弓削田の炭都劇場1階に田川映画資料館が開館したが、2013年6月末で炭都劇場が閉鎖を余儀なくされされ、田川映画愛好会は資料を常設展示できる場所を探している。*33

2013年7月下旬、田川市の伊田商店街に田川映画愛好会によって「1日限りの田川映画ミュージアム」がお目見えした。田川映画愛好会は資料を田川市内の大衆劇場の一角で展示していたが、この大衆劇場は2013年6月に閉鎖されていた。JR田川伊田駅の西側にある伊田商店街は、1895年の田川伊田駅開業に伴って店が集積し、炭鉱の発展と伴って栄えた。50年前には450メートルのアーケードが完成したが、現在は約4割が空き店舗である。1960年には5館の映画館があったが、約30年前までにすべて閉館した。*34

2015年3月現在も田川市の後藤寺地区には「ターミナル会館」の建物が現存し、バスターミナルとして使用されている。昭和末期まで映画館が営業していた。地下と2階にはレストランがあり、複合商業ビルの先駆けとされる。往時の田川地区には25館もの映画館があったが、それを伝える風景はターミナル会館のみとなった。*35

1975年1月には田川市を舞台とする東宝作品『青春の門』が公開され、「ターミナル会館」が全国封切りの場となったことで、出演した田中健と吉永小百合が満員の観客の前で舞台挨拶を行った。田川地区(田川市・田川郡)にはかつて25館の映画館があったが、1976年に筑豊から炭鉱が消えたことで景気が低迷した。1988年にはターミナル会館も閉館し、田川地区から映画館がなくなった。*36

1988年8月には田川市宮尾町の「ターミナル会館」が閉館し、田川地域から映画館がなくなった。2023年現在もターミナル会館の建物は現存している。*37

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