最終更新:
hekikaicinema 2025年07月23日(水) 03:04:55履歴
所在地 : 秋田県北秋田郡大館町(1930年)、秋田県北秋田郡大館町弁天町(1934年・1936年)
開館年 : 1920年2月、1930年
閉館年 : 1934年
1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「大館座」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。
明治末期、大館町下町の武田庄之助が「大館座」を建てた。大館座は1919年5月27日の大火で罹災した。1919年夏、大館町弁天町において「大館座」の再建が開始され、1920年2月に完成した。東京の明治座を模した3階建の劇場であり、廻り舞台も有していた。3階建の大館座の写真あり。1923年には失火で焼失したが、1930年に同一地点で再建された。建物は2階建てであり、間口14間、奥行20間で1000人を収容した。東京の邦楽館を模したとされており、やはり廻り舞台を有していた。1934年には3度目の焼失に遭って幕を閉じた。*1
1920年、大館町弁天町(現・幸町)に「大館座」が開館した。3階建ての洋風建築であり、休憩ホールや食堂も備えた芝居小屋だった。こけら落としには尾上菊五郎をはじめとする音羽屋一門を招いた。この建物が焼失した後、昭和に入って東京の歌舞伎座を模した建物が再建された。1934年にはその建物も焼失した。*2
1920年の大館町にあった「大館座」の写真あり。明治末期に大館初の本格的劇場として弁天町に建てられた。1919年5月27日の火災で焼失し、1920年2月に2代目の建物が再建されると、同年7月14日に6代目尾上菊五郎と大谷友右衛門一座によってこけら落しが行われた。東京の明治座を模した建物であり、廻り舞台を有していた。3階の食堂は社交場も兼ねていた。1934年には再び焼失した。*3
明治末期、大館町弁天町に武田庄之助によって「大館座」が建てられた。1919年5月27日の大火で類焼した。同年中に資本金5万円で株式会社が設立され、畠山福蔵が社長に就任した。1920年2月に2代目大館座が再建され、7月中旬のこけら落としには尾上菊五郎や大谷友右衛門が来演した。木造3階建であり、建築費は5万円。東京の明治座を模した、廻り舞台を有する立派な劇場であり、日活の活動写真や演劇の興行を行った。コーヒーを飲みながら鑑賞できる食堂もあった。国民党の犬養毅が額の字を書いた。1923年、自然出火して焼失した。1928年5月31日には株主総会が開かれて再建が決定し、1930年に同一地点で3代目大館座が再建された。木造2階建、収容人員1000人。東京の邦楽館を模しており、廻り舞台を有する立派な建物だった。こけら落としには歌舞伎の大谷紫好が来演した。1934年頃には3度目の火災で焼失し、再建されることはなかった。*4
開館年 : 1920年2月、1930年
閉館年 : 1934年
1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「大館座」。1941年の映画館名簿には掲載されていない。
明治末期、大館町下町の武田庄之助が「大館座」を建てた。大館座は1919年5月27日の大火で罹災した。1919年夏、大館町弁天町において「大館座」の再建が開始され、1920年2月に完成した。東京の明治座を模した3階建の劇場であり、廻り舞台も有していた。3階建の大館座の写真あり。1923年には失火で焼失したが、1930年に同一地点で再建された。建物は2階建てであり、間口14間、奥行20間で1000人を収容した。東京の邦楽館を模したとされており、やはり廻り舞台を有していた。1934年には3度目の焼失に遭って幕を閉じた。*1
1920年、大館町弁天町(現・幸町)に「大館座」が開館した。3階建ての洋風建築であり、休憩ホールや食堂も備えた芝居小屋だった。こけら落としには尾上菊五郎をはじめとする音羽屋一門を招いた。この建物が焼失した後、昭和に入って東京の歌舞伎座を模した建物が再建された。1934年にはその建物も焼失した。*2
1920年の大館町にあった「大館座」の写真あり。明治末期に大館初の本格的劇場として弁天町に建てられた。1919年5月27日の火災で焼失し、1920年2月に2代目の建物が再建されると、同年7月14日に6代目尾上菊五郎と大谷友右衛門一座によってこけら落しが行われた。東京の明治座を模した建物であり、廻り舞台を有していた。3階の食堂は社交場も兼ねていた。1934年には再び焼失した。*3
明治末期、大館町弁天町に武田庄之助によって「大館座」が建てられた。1919年5月27日の大火で類焼した。同年中に資本金5万円で株式会社が設立され、畠山福蔵が社長に就任した。1920年2月に2代目大館座が再建され、7月中旬のこけら落としには尾上菊五郎や大谷友右衛門が来演した。木造3階建であり、建築費は5万円。東京の明治座を模した、廻り舞台を有する立派な劇場であり、日活の活動写真や演劇の興行を行った。コーヒーを飲みながら鑑賞できる食堂もあった。国民党の犬養毅が額の字を書いた。1923年、自然出火して焼失した。1928年5月31日には株主総会が開かれて再建が決定し、1930年に同一地点で3代目大館座が再建された。木造2階建、収容人員1000人。東京の邦楽館を模しており、廻り舞台を有する立派な建物だった。こけら落としには歌舞伎の大谷紫好が来演した。1934年頃には3度目の火災で焼失し、再建されることはなかった。*4
所在地 : 秋田県北秋田郡大館町常盤本町(1936年・1941年)、秋田県北秋田郡大館町(1943年・1947年・1950年)
開館年 : 1935年秋
閉館年 : 1951年3月13日
1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1941年・1943年・1947年の映画館名簿では「常盤座」。1950年の映画館名簿では「常盤館」。1953年の映画館名簿には掲載されていない。
1935年、大館町に「大館常盤座」が創立した。*5
1935年秋、大館町常盤木町に株式組織の「常盤座」が建てられ、山口チヨが経営した。木造2階建、800人収容。舞台、楽屋、花道がある立派な劇場だった。1951年3月13日の火災で類焼した。*6
1927年から1928年頃、大館町の弁天町には常設小屋「弁天座」があったが、1934年頃に閉館して取り壊された。小坂町の「花園館」経営者である山口チヨによって、1935年には弁天座の古材の一部を利用して「常盤座」が建てられた。常盤座は1951年3月13日に焼失した。*7
開館年 : 1935年秋
閉館年 : 1951年3月13日
1930年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1941年・1943年・1947年の映画館名簿では「常盤座」。1950年の映画館名簿では「常盤館」。1953年の映画館名簿には掲載されていない。
1935年、大館町に「大館常盤座」が創立した。*5
1935年秋、大館町常盤木町に株式組織の「常盤座」が建てられ、山口チヨが経営した。木造2階建、800人収容。舞台、楽屋、花道がある立派な劇場だった。1951年3月13日の火災で類焼した。*6
1927年から1928年頃、大館町の弁天町には常設小屋「弁天座」があったが、1934年頃に閉館して取り壊された。小坂町の「花園館」経営者である山口チヨによって、1935年には弁天座の古材の一部を利用して「常盤座」が建てられた。常盤座は1951年3月13日に焼失した。*7
所在地 : 秋田県北秋田郡十二所町十二所(1952年・1953年・1954年)
開館年 : 1951年頃
閉館年 : 1954年頃
1951年の映画館名簿には掲載されていない。1952年・1953年・1954年の映画館名簿では「大滝会館」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1951年頃
閉館年 : 1954年頃
1951年の映画館名簿には掲載されていない。1952年・1953年・1954年の映画館名簿では「大滝会館」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 秋田県北秋田郡花矢町花岡(1958年・1960年・1961年)
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1961年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1961年の映画館名簿では「花岡公民館」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。
開館年 : 1957年頃
閉館年 : 1961年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1961年の映画館名簿では「花岡公民館」。1962年の映画館名簿には掲載されていない。
所在地 : 秋田県大館市常盤木町7-2(1962年・1963年)
開館年 : 1959年1月
閉館年 : 1963年5月
1961年の映画館名簿には掲載されていない。1962年・1963年の映画館名簿では「ときわ館」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。1970年のニッケイ住宅地図では地図の精度が低くて跡地が判然としない。1980年の住宅地図では跡地に「国際駐車場」か。跡地は「アネックスロイヤルホテル」西20mの駐車場付近。最寄駅はJR花輪線東大館駅。
開館年 : 1959年1月
閉館年 : 1963年5月
1961年の映画館名簿には掲載されていない。1962年・1963年の映画館名簿では「ときわ館」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。1970年のニッケイ住宅地図では地図の精度が低くて跡地が判然としない。1980年の住宅地図では跡地に「国際駐車場」か。跡地は「アネックスロイヤルホテル」西20mの駐車場付近。最寄駅はJR花輪線東大館駅。
所在地 : 秋田県大館市新町130(1958年・1960年)、秋田県大館市新地町138(1963年)
開館年 : 1957年1月
閉館年 : 1962年5月
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「大館国際劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。1970年のニッケイ住宅地図では跡地に計9軒のバーなど。1980年の住宅地図では跡地に駐車場。跡地は「アネックスロイヤルホテル」南西40mの倉庫。最寄駅はJR花輪線東大館駅。
開館年 : 1957年1月
閉館年 : 1962年5月
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「大館国際劇場」。1964年の映画館名簿には掲載されていない。1970年のニッケイ住宅地図では跡地に計9軒のバーなど。1980年の住宅地図では跡地に駐車場。跡地は「アネックスロイヤルホテル」南西40mの倉庫。最寄駅はJR花輪線東大館駅。
所在地 : 秋田県北秋田郡花岡町姥沢42(1953年)、秋田県北秋田郡花矢町花岡(1956年・1957年)、秋田県北秋田郡花矢町堤沢42(1958年)、秋田県北秋田郡花矢町花岡(1960年・1963年・1964年)
開館年 : 1941年1月
閉館年 : 1964年頃
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「共楽館」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「共楽館」。1956年の映画館名簿では経営者が花岡鉱業所、支配人が成瀬憲、木造2階、定員1200、邦画を上映。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1970年のニッケイ住宅地図では「共楽館」。1978年7月解体。跡地は「大館市立花岡体育館」建物東端部。最寄駅はJR奥羽本線白沢駅。
花岡町の花岡鉱山には「花岡座」があったが、1928年頃の大雪によって倒壊して死者1人を出した。花岡鉱山は倒壊した花岡座を解体し、近くに800人収容の「共楽館」を建てた。1940年頃に近くの民家の火災で類焼したが、1941年3月には桜町に2代目共楽館が再建された。1300人を収容する大劇場であり、1944年に大改築されている。1976年現在は建物が老朽化している。*10
鉱山町の花岡には常設小屋「花岡座」があったが、1928年の大雪で建物が倒壊した。花岡座の跡地には鉱山によって娯楽施設「共楽館」が建てられ、その後共楽館は火災で焼失したが、1941年には桜町に移転して新築された。終戦間際には花岡事件の現場となった。共楽館は1978年7月に取り壊され、跡地には大館市立花岡体育館が建てられた。*11
1941年1月、花岡に「共楽館」が新築落成した。1979年1月10日、共楽館の跡地に大館市立花岡体育館が竣工した。*12
1940年4月、花矢町の「花岡共楽館」が全焼した。1963年3月、鉱業危機突破町民総決起大会が共楽館で開催された。1964年、花矢町物価対策協議会が結成されて町民大会が共楽館で開催された。*13
戦時中の鹿島組花岡出張所には986人の中国人が強制連行され、花岡川の改修工事などに従事させられた。日常的に補導員に暴行を受けたことで死亡者が続出し、1945年6月23日には法規が計画されたが、事前に計画が漏れたことで集団逃走に至った。7月1日頃までには大半が捕らわれ、「共楽館」前の広場に拘置された。*14
1978年7月5日、大館市の花岡鉱業が所有する「共楽館」が解体された。花岡事件の舞台になった建物である。守る会は抜き打ちの解体であると抗議している。*15
開館年 : 1941年1月
閉館年 : 1964年頃
1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「共楽館」。1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年・1957年・1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「共楽館」。1956年の映画館名簿では経営者が花岡鉱業所、支配人が成瀬憲、木造2階、定員1200、邦画を上映。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1970年のニッケイ住宅地図では「共楽館」。1978年7月解体。跡地は「大館市立花岡体育館」建物東端部。最寄駅はJR奥羽本線白沢駅。
花岡町の花岡鉱山には「花岡座」があったが、1928年頃の大雪によって倒壊して死者1人を出した。花岡鉱山は倒壊した花岡座を解体し、近くに800人収容の「共楽館」を建てた。1940年頃に近くの民家の火災で類焼したが、1941年3月には桜町に2代目共楽館が再建された。1300人を収容する大劇場であり、1944年に大改築されている。1976年現在は建物が老朽化している。*10
鉱山町の花岡には常設小屋「花岡座」があったが、1928年の大雪で建物が倒壊した。花岡座の跡地には鉱山によって娯楽施設「共楽館」が建てられ、その後共楽館は火災で焼失したが、1941年には桜町に移転して新築された。終戦間際には花岡事件の現場となった。共楽館は1978年7月に取り壊され、跡地には大館市立花岡体育館が建てられた。*11
1941年1月、花岡に「共楽館」が新築落成した。1979年1月10日、共楽館の跡地に大館市立花岡体育館が竣工した。*12
1940年4月、花矢町の「花岡共楽館」が全焼した。1963年3月、鉱業危機突破町民総決起大会が共楽館で開催された。1964年、花矢町物価対策協議会が結成されて町民大会が共楽館で開催された。*13
戦時中の鹿島組花岡出張所には986人の中国人が強制連行され、花岡川の改修工事などに従事させられた。日常的に補導員に暴行を受けたことで死亡者が続出し、1945年6月23日には法規が計画されたが、事前に計画が漏れたことで集団逃走に至った。7月1日頃までには大半が捕らわれ、「共楽館」前の広場に拘置された。*14
1978年7月5日、大館市の花岡鉱業が所有する「共楽館」が解体された。花岡事件の舞台になった建物である。守る会は抜き打ちの解体であると抗議している。*15
所在地 : 秋田県北秋田郡扇田町字町尻12-1(1955年)、秋田県北秋田郡比内町扇田字町尻(1958年)、秋田県北秋田郡比内町扇田(1960年・1963年・1965年)
開館年 : 1952年12月24日
閉館年 : 1964年12月24日
『全国映画館総覧 1955』によると1952年12月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「比内座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1970年のニッケイ住宅地図では発見できず。
1952年12月24日、比内町扇田馬喰町に「比内座」が建てられた。大館市議会議員の佐々木正治が「オナリ座」の分館として建てたものである。東宝・松竹・東映作品を上映した。1965年12月24日、火災で焼失した。*16
1964年12月下旬、北秋田郡比内町の「比内座」ボイラー室から出火して全焼した。観客は無事だったが支配人が軽傷を負った。*17
開館年 : 1952年12月24日
閉館年 : 1964年12月24日
『全国映画館総覧 1955』によると1952年12月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「比内座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1970年のニッケイ住宅地図では発見できず。
1952年12月24日、比内町扇田馬喰町に「比内座」が建てられた。大館市議会議員の佐々木正治が「オナリ座」の分館として建てたものである。東宝・松竹・東映作品を上映した。1965年12月24日、火災で焼失した。*16
1964年12月下旬、北秋田郡比内町の「比内座」ボイラー室から出火して全焼した。観客は無事だったが支配人が軽傷を負った。*17
所在地 : 秋田県北秋田郡田代町(1958年)、秋田県北秋田郡田代町早口(1960年)、秋田県北秋田郡田代町早口赤沼(1963年・1965年)
開館年 : 1918年頃
閉館年 : 1965年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「早口中央劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
1918年から1919年頃、早口村赤沼に鳥潟幸三によって「早口中央劇場」が建てられた。木造平屋建、約150人収容。映画や演芸に加えて女相撲の興行を行うこともあった。1954年頃に閉館した。*18
開館年 : 1918年頃
閉館年 : 1965年頃
1957年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「早口中央劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。
1918年から1919年頃、早口村赤沼に鳥潟幸三によって「早口中央劇場」が建てられた。木造平屋建、約150人収容。映画や演芸に加えて女相撲の興行を行うこともあった。1954年頃に閉館した。*18
所在地 : 秋田県大館市護摩木道下(1957年)、秋田県大館市御成町3丁目(1958年・1960年・1963年・1965年)
開館年 : 1955年8月
閉館年 : 1966年5月
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「大館東映」。1960年の映画館名簿では「大館東映劇場」。1963年の映画館名簿では「大館第二東映劇場」。1965年の映画館名簿では「大館ニュー東映劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1970年のニッケイ住宅地図では跡地に「明石自動車工業」。1980年の住宅地図では「花岡タクシー」や「明石自動車工業」。跡地は「ミスタードーナツ大館ショップ」南30mの民家。最寄駅はJR奥羽本線・花輪線大館駅。
1956年8月30日、大館市御成町3丁目に佐々木正治によって「大館第一東映」が建てられた。木造平屋建、椅子席300人収容。1970年頃、都市計画のために取り壊された。*19
開館年 : 1955年8月
閉館年 : 1966年5月
1956年の映画館名簿には掲載されていない。1958年の映画館名簿では「大館東映」。1960年の映画館名簿では「大館東映劇場」。1963年の映画館名簿では「大館第二東映劇場」。1965年の映画館名簿では「大館ニュー東映劇場」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。1970年のニッケイ住宅地図では跡地に「明石自動車工業」。1980年の住宅地図では「花岡タクシー」や「明石自動車工業」。跡地は「ミスタードーナツ大館ショップ」南30mの民家。最寄駅はJR奥羽本線・花輪線大館駅。
1956年8月30日、大館市御成町3丁目に佐々木正治によって「大館第一東映」が建てられた。木造平屋建、椅子席300人収容。1970年頃、都市計画のために取り壊された。*19
所在地 : 秋田県大館市仲町58(1961年)、秋田県大館市馬喰町(1962年・1963年)、秋田県大館市仲町58(1966年)
開館年 : 1958年12月
閉館年 : 1966年2月
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年・1962年の映画館名簿では「大館東映」。1963年・1966年の映画館名簿では「大館東映劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。1970年のニッケイ住宅地図では跡地に「キノシタ」。1980年・1988年の住宅地図では「家具のキノシタ」。中町東映とも。跡地は「聖パウロ学園大館幼稚園」西100mの駐車場。最寄駅はJR花輪線東大館駅。
1959年、大館市中町に佐々木正治によって「大館第二東映」が建てられた。鉄骨ブロック造平屋建、椅子席450人収容。1965年頃に閉館した。*20
開館年 : 1958年12月
閉館年 : 1966年2月
1960年の映画館名簿には掲載されていない。1961年・1962年の映画館名簿では「大館東映」。1963年・1966年の映画館名簿では「大館東映劇場」。1967年の映画館名簿には掲載されていない。1970年のニッケイ住宅地図では跡地に「キノシタ」。1980年・1988年の住宅地図では「家具のキノシタ」。中町東映とも。跡地は「聖パウロ学園大館幼稚園」西100mの駐車場。最寄駅はJR花輪線東大館駅。
1959年、大館市中町に佐々木正治によって「大館第二東映」が建てられた。鉄骨ブロック造平屋建、椅子席450人収容。1965年頃に閉館した。*20
所在地 : 秋田県大館市新町37(1953年)、秋田県大館市新町(1955年・1958年・1960年・1963年・1966年)、秋田県大館市新町1(1969年・1973年・1975年・1978年・1980年)、秋田県大館市新町38-4(1985年・1986年)
開館年 : 1950年9月、1956年9月(建て替え)、1968年8月(2館化)
閉館年 : 1985年12月
『全国映画館総覧 1955』によると1950年9月開館。1953年の映画館名簿では「大館銀映劇場」。1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「銀映劇場」。1963年・1966年の映画館名簿では「大館銀映劇場」。1969年・1973年・1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「大館銀映劇場・大館ロマンス」(2館)。1970年のニッケイ住宅地図では「ギンエイ」。1980年の住宅地図では「銀映ロマンス座」。1981年の住宅地図では「銀映 パルクささき」。1985年・1986年の映画館名簿では「大館銀映劇場・大館銀嶺プラザ」(2館)。1987年の映画館名簿には掲載されていない。1988年の住宅地図では跡地に「アキヤ」。1990年の住宅地図では跡地に駐車場。跡地は「秋田魁新報社大館支社」南東50mの「宮崎ドライスーパークリーニング中央店」。最寄駅はJR花輪線東大館駅。
1950年、大館市新町に山口典子によって「大館銀映劇場」が建てられた。木造2階建、椅子席500人収容。1956年の大火で焼失したが、同年9月にはバラック建ての劇場で営業を再開し、1966年には本建築の劇場を建てた。木造平屋建一部鉄骨造2階建、210人収容。1969年には2階を改装して「ロマンス小劇場」とし、50席のミニ劇場でピンク映画を上映した。*21
1950年、大館市に「大館銀映劇場」が落成した。*22
開館年 : 1950年9月、1956年9月(建て替え)、1968年8月(2館化)
閉館年 : 1985年12月
『全国映画館総覧 1955』によると1950年9月開館。1953年の映画館名簿では「大館銀映劇場」。1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「銀映劇場」。1963年・1966年の映画館名簿では「大館銀映劇場」。1969年・1973年・1975年・1978年・1980年の映画館名簿では「大館銀映劇場・大館ロマンス」(2館)。1970年のニッケイ住宅地図では「ギンエイ」。1980年の住宅地図では「銀映ロマンス座」。1981年の住宅地図では「銀映 パルクささき」。1985年・1986年の映画館名簿では「大館銀映劇場・大館銀嶺プラザ」(2館)。1987年の映画館名簿には掲載されていない。1988年の住宅地図では跡地に「アキヤ」。1990年の住宅地図では跡地に駐車場。跡地は「秋田魁新報社大館支社」南東50mの「宮崎ドライスーパークリーニング中央店」。最寄駅はJR花輪線東大館駅。
1950年、大館市新町に山口典子によって「大館銀映劇場」が建てられた。木造2階建、椅子席500人収容。1956年の大火で焼失したが、同年9月にはバラック建ての劇場で営業を再開し、1966年には本建築の劇場を建てた。木造平屋建一部鉄骨造2階建、210人収容。1969年には2階を改装して「ロマンス小劇場」とし、50席のミニ劇場でピンク映画を上映した。*21
1950年、大館市に「大館銀映劇場」が落成した。*22
所在地 : 秋田県北秋田郡大館町常盤本町(1936年・1941年)、秋田県北秋田郡大館町(1943年・1947年・1950年)、秋田県大館市光倉町(1955年・1956年)、秋田県大館市長倉町(1957年・1958年・1960年)、秋田県大館市長倉町20(1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年)、秋田県大館市長倉町14(1985年・1986年)
開館年 : 1953年12月18日、1956年12月
閉館年 : 1985年8月(建て替え)
『全国映画館総覧 1955』によると1953年12月開館。前身は別地点の常盤座。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1956年・1957年の映画館名簿では「常盤座」。1958年・1960年の映画館名簿では「中央劇場」。1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1986年の映画館名簿では「大館中央劇場」。1970年のニッケイ住宅地図では「中央映画劇場」。1980年・1981年の住宅地図では「中劇」。1987年の映画館名簿には掲載されていない。1988年の住宅地図では(単独施設で)「中央劇場」。跡地は高齢者向け住宅「マザーパレス大館」。最寄駅はJR花輪線東大館駅。
1953年12月18日、大館市長倉町の大館警察署跡地に「大館中央劇場」が建てられた。1956年8月18日の大火で類焼したが、同年12月に再建された。木造平屋建一部2階建、椅子席400人収容。*23
開館年 : 1953年12月18日、1956年12月
閉館年 : 1985年8月(建て替え)
『全国映画館総覧 1955』によると1953年12月開館。前身は別地点の常盤座。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1956年・1957年の映画館名簿では「常盤座」。1958年・1960年の映画館名簿では「中央劇場」。1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1986年の映画館名簿では「大館中央劇場」。1970年のニッケイ住宅地図では「中央映画劇場」。1980年・1981年の住宅地図では「中劇」。1987年の映画館名簿には掲載されていない。1988年の住宅地図では(単独施設で)「中央劇場」。跡地は高齢者向け住宅「マザーパレス大館」。最寄駅はJR花輪線東大館駅。
1953年12月18日、大館市長倉町の大館警察署跡地に「大館中央劇場」が建てられた。1956年8月18日の大火で類焼したが、同年12月に再建された。木造平屋建一部2階建、椅子席400人収容。*23
所在地 : 秋田県北秋田郡大館町(1925年)、秋田県北秋田郡大館町新町(1930年・1934年・1936年・1941年・1943年)、秋田県北秋田郡大館町(1950年)、秋田県大館市新町83(1953年・1955年・1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年)
開館年 : 1920年12月中旬、1956年12月(建て替え)
閉館年 : 1990年
『全国映画館総覧 1955』によると1951年11月開館。1925年・1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「大館劇場」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「大館劇場」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「大館日活劇場」。1970年のニッケイ住宅地図では「日活劇場」。1975年・1978年の映画館名簿では「大館日活」。1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「大館日活劇場」。1980年・1981年・1988年・1990年の住宅地図では「日活」。1990年の映画館名簿では経営会社が竹村商店、経営者が岩沢桂一、支配人が記載なし、木造1階、200席、成人映画を上映。1991年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は介護施設「ショートステイとんぼ新町」。最寄駅はJR花輪線東大館駅。
時期不明の「大館劇場」の写真あり。1920年、秋田県会議員の平泉喜八らによって新町に開館した。岩沢米四郎らが支配人を務めた。1981年現在の「日活」である。*24
1920年12月中旬、大館町新町に「大館劇場」が開館した。資本金2万円の株式会社であり、製材会社社長で秋田県会議員でもある平泉喜八が社長に就任した。国活映画の常設館であり、1923年から1924年にはアメリカ映画『愚なる妻』が大ヒットした。1951年3月の火災で焼失した。*25
1951年秋頃、「大館劇場」跡地に岩沢桂一によって日活上映館「大館日活劇場」が建てられた。木造モルタル2階建、386人収容。1956年の大火で焼失したが、その後再建された。*26
1920年12月中旬、大館町に「大館劇場」が完成した。建物は木造2階建であり、間口は12間、奥行は23間だった。社長は材木商の平泉喜八であり、経営責任者は岩沢米四郎だった。国際活映(国活)の常設館として発足し、井上正夫や水谷八重子ら主演の『寒椿』などを上映したが、外国映画も人気があった。大館劇場の写真あり。*27
1919年、大館町に「大館劇場」が創業した。1967年現在の「大館日活」である。*28
1951年4月10日、大館市の「大館劇場」で市制施行を記念した石井漠舞踏公演が開催された。*29
開館年 : 1920年12月中旬、1956年12月(建て替え)
閉館年 : 1990年
『全国映画館総覧 1955』によると1951年11月開館。1925年・1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「大館劇場」。1947年の映画館名簿には掲載されていない。1950年・1953年・1955年の映画館名簿では「大館劇場」。1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1973年の映画館名簿では「大館日活劇場」。1970年のニッケイ住宅地図では「日活劇場」。1975年・1978年の映画館名簿では「大館日活」。1980年・1985年・1990年の映画館名簿では「大館日活劇場」。1980年・1981年・1988年・1990年の住宅地図では「日活」。1990年の映画館名簿では経営会社が竹村商店、経営者が岩沢桂一、支配人が記載なし、木造1階、200席、成人映画を上映。1991年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は介護施設「ショートステイとんぼ新町」。最寄駅はJR花輪線東大館駅。
時期不明の「大館劇場」の写真あり。1920年、秋田県会議員の平泉喜八らによって新町に開館した。岩沢米四郎らが支配人を務めた。1981年現在の「日活」である。*24
1920年12月中旬、大館町新町に「大館劇場」が開館した。資本金2万円の株式会社であり、製材会社社長で秋田県会議員でもある平泉喜八が社長に就任した。国活映画の常設館であり、1923年から1924年にはアメリカ映画『愚なる妻』が大ヒットした。1951年3月の火災で焼失した。*25
1951年秋頃、「大館劇場」跡地に岩沢桂一によって日活上映館「大館日活劇場」が建てられた。木造モルタル2階建、386人収容。1956年の大火で焼失したが、その後再建された。*26
1920年12月中旬、大館町に「大館劇場」が完成した。建物は木造2階建であり、間口は12間、奥行は23間だった。社長は材木商の平泉喜八であり、経営責任者は岩沢米四郎だった。国際活映(国活)の常設館として発足し、井上正夫や水谷八重子ら主演の『寒椿』などを上映したが、外国映画も人気があった。大館劇場の写真あり。*27
1919年、大館町に「大館劇場」が創業した。1967年現在の「大館日活」である。*28
1951年4月10日、大館市の「大館劇場」で市制施行を記念した石井漠舞踏公演が開催された。*29
所在地 : 秋田県大館市長倉町14(1987年・1988年)、秋田県大館市字長倉14(1990年・1995年・2000年・2002年・2003年)
開館年 : 1986年2月
閉館年 : 2002年
1987年・1988年・1990年・1995年・2000年・2002年・2003年の映画館名簿では「大館中央劇場・大館銀映劇場」(2館)。1988年の映画館名簿では経営会社が合資会社中央劇場、経営者が山口真範、支配人が山口昌紀、中央が鉄筋造1階で200席、銀映が鉄筋造2階で150席、いずれも邦画・洋画を上映。1990年の住宅地図では「中央劇場 大館銀映 シャローム」。2002年の映画館名簿では経営会社が大館中央劇場、経営者が山口真範、支配人が山口昌紀、中央が鉄筋造1階で200席で邦画・洋画を上映、中央が鉄筋造2階で179席で邦画・洋画を上映。2004年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は高齢者向け住宅「マザーパレス大館」。最寄駅はJR花輪線東大館駅。
開館年 : 1986年2月
閉館年 : 2002年
1987年・1988年・1990年・1995年・2000年・2002年・2003年の映画館名簿では「大館中央劇場・大館銀映劇場」(2館)。1988年の映画館名簿では経営会社が合資会社中央劇場、経営者が山口真範、支配人が山口昌紀、中央が鉄筋造1階で200席、銀映が鉄筋造2階で150席、いずれも邦画・洋画を上映。1990年の住宅地図では「中央劇場 大館銀映 シャローム」。2002年の映画館名簿では経営会社が大館中央劇場、経営者が山口真範、支配人が山口昌紀、中央が鉄筋造1階で200席で邦画・洋画を上映、中央が鉄筋造2階で179席で邦画・洋画を上映。2004年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は高齢者向け住宅「マザーパレス大館」。最寄駅はJR花輪線東大館駅。
所在地 : 秋田県大館市御成町1丁目(1953年)、秋田県大館市新成町1-111(1955年)、秋田県大館市大館駅前(1958年)、秋田県大館市御成町1丁目(1960年・1963年)、秋田県大館市御成町1(1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2006年)
開館年 : 1952年9月、1955年9月(建て替え)、2014年7月18日(営業再開)
閉館年 : 2005年(第一次閉館)、営業中
Wikipedia : 御成座
『全国映画館総覧 1955』によると1952年9月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「御成座」。1953年の映画館名簿では経営者が佐々木正治、木造1階、定員300、DY・SY・Nを上映。1955年の映画館名簿では「オナリ座」。1955年の映画館名簿では木造1階、定員280、東映・TY・SYを上映。1955年の焼失後再建。1958年の映画館名簿では「オナリ座」。1958年の映画館名簿では経営者が佐々木正治、支配人が木村栄二、木造1階冷暖房付、定員300、洋画を上映。1960年の映画館名簿では「オナリザ」。1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2006年の映画館名簿では「御成座」。1970年のニッケイ住宅地図では「御成座」。1980年・1988年・1990年の住宅地図では「御成座」。1990年の映画館名簿では経営者が佐々木正治、木造1階、280席、洋画を上映。2006年の映画館名簿では経営者・支配人ともに佐々木則雄、木造1階、210席、洋画を上映。2007年・2010年・2015年・2020年・2022年の映画館名簿には掲載されていない。最寄駅はJR奥羽本線・花輪線大館駅。
1952年9月4日、大館市御成町1丁目に大館市議会議員の佐々木正治によって洋画館「オナリ座」が建てられた。木造平屋建、椅子席300人収容。1955年5月には大館駅前の大火で焼失したが、その後再建された。木造モルタル2階建、椅子席300人収容。*30
『映画と映画館の本 ジャックと豆の木』シネマ・ジャック&ベティ、2017年、第4号には「映画館探訪 御成座」が掲載されている。*31
「御成座」に言及している書籍として、大屋尚浩『日本懐かし映画館大全』辰巳出版、2017年がある。*32
「御成座」に言及している書籍として、藤森照信(文)、中馬聰(写真)『藤森照信のクラシック映画館』青幻舎、2019年がある。*33
開館年 : 1952年9月、1955年9月(建て替え)、2014年7月18日(営業再開)
閉館年 : 2005年(第一次閉館)、営業中
Wikipedia : 御成座
『全国映画館総覧 1955』によると1952年9月開館。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年の映画館名簿では「御成座」。1953年の映画館名簿では経営者が佐々木正治、木造1階、定員300、DY・SY・Nを上映。1955年の映画館名簿では「オナリ座」。1955年の映画館名簿では木造1階、定員280、東映・TY・SYを上映。1955年の焼失後再建。1958年の映画館名簿では「オナリ座」。1958年の映画館名簿では経営者が佐々木正治、支配人が木村栄二、木造1階冷暖房付、定員300、洋画を上映。1960年の映画館名簿では「オナリザ」。1963年・1966年・1969年・1973年・1975年・1978年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2006年の映画館名簿では「御成座」。1970年のニッケイ住宅地図では「御成座」。1980年・1988年・1990年の住宅地図では「御成座」。1990年の映画館名簿では経営者が佐々木正治、木造1階、280席、洋画を上映。2006年の映画館名簿では経営者・支配人ともに佐々木則雄、木造1階、210席、洋画を上映。2007年・2010年・2015年・2020年・2022年の映画館名簿には掲載されていない。最寄駅はJR奥羽本線・花輪線大館駅。
1952年9月4日、大館市御成町1丁目に大館市議会議員の佐々木正治によって洋画館「オナリ座」が建てられた。木造平屋建、椅子席300人収容。1955年5月には大館駅前の大火で焼失したが、その後再建された。木造モルタル2階建、椅子席300人収容。*30
『映画と映画館の本 ジャックと豆の木』シネマ・ジャック&ベティ、2017年、第4号には「映画館探訪 御成座」が掲載されている。*31
「御成座」に言及している書籍として、大屋尚浩『日本懐かし映画館大全』辰巳出版、2017年がある。*32
「御成座」に言及している書籍として、藤森照信(文)、中馬聰(写真)『藤森照信のクラシック映画館』青幻舎、2019年がある。*33

コメントをかく