日本の映画館の総合データベースです。

小田原市

有楽館/吾妻座
所在地 : 神奈川県足柄下郡小田原町
開館年 : 1913年12月18日
閉館年 : 1923年9月1日
各年版の映画館名簿には掲載されていない。

1914年から1917年頃に製作された小田原町幸2丁目(現・本町3丁目)の有楽館前の東海道を写した絵葉書の写真あり。右端は小伊勢屋旅館であり、その奥が1913年12月18日開館の活動常設館「有楽館」である。洋館2階建て、定員800人。1917年に「吾妻座」に改称したが、1923年9月の関東大震災で焼失した。*1
娯楽館/帝国館/電気館
所在地 : 神奈川県足柄下郡小田原町幸2-400(1925年)、神奈川県足柄下郡小田原町幸町2丁目(1927年・1930年)
開館年 : 1925年以前
閉館年 : 1930年以後1934年以前
1925年の映画館名簿では「娯楽館」。1927年の映画館名簿では「帝国館」。1930年の映画館名簿では「電気館」。1934年の映画館名簿には掲載されていない。
松竹富貴座/小田原富貴座/富貴座
所在地 : 神奈川県足柄下郡小田原町幸1-219(1925年)、神奈川県足柄下郡小田原町幸町1丁目(1927年・1930年)、神奈川県足柄下郡小田原町幸町1-193(1934年・1936年)、神奈川県小田原市幸町1(1943年)、神奈川県小田原市幸町1-193(1947年・1953年・1955年・1957年)
開館年 : 1923年頃、1946年(建て替え)
閉館年 : 1957年
1881年幸座開館。1893年若竹座として再建。1896年富貴座改称。1923年の関東大震災後に再建。1925年の映画館名簿では「富貴座」。1927年の映画館名簿では「富貴館」。1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「富貴座」。1943年の映画館名簿では「松竹富貴座」。太平洋戦争後の1946年に再建。1947年の映画館名簿では「小田原富貴座」。1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1957年の映画館名簿では「富貴座」。1957年閉館。1958年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「小田原本町郵便局」南西40mの駐車場など。最寄駅はJR東海道線小田原駅。

1869年、松原神社の別当である滝坊の境内に芝居小屋が建てられた。1890年に火災で焼失した後、1893年には「若竹座」として再建され、1896年には座主が交代して「富貴座」に改称した。1915年には活動常設館となり、当初は日活の直営館だったが、やがて松竹の特約館となった。1923年9月の関東大震災で焼失し、再建されるとトーキー映画を上映した。戦後には松竹作品を上映し、やがて洋画専門館となったが、1958年の失火で焼失した。*2

1940年頃の小田原市にあった「富貴座」の写真あり。高峰三枝子主演の『くろがねの力』の看板が見える。1869年に建てられた芝居小屋に源を持つ劇場である。1890年に焼失した後、1893年に「若竹座」として再開館した。1915年に活動常設館となり、戦後には松竹上映館を経て洋画専門館となった。1958年に火災で焼失して閉館した。*3

戦前の小田原市には宮小路の「富貴座」(幸1丁目)、青物町の「復興館」(幸1丁目)、緑町の「東宝館」(緑1丁目)の3館の映画館があった。1945年8月15日未明に行われた空襲で富貴座と復興館は焼失したが、両館とも戦後まもなく建物が再建された。1946年9月、幸2丁目に「オリオン座」が開館した。オリオン座では戦後の小田原市で初のストリップショーも開催された。1953年には復興館が「小田原国際劇場」に改称した。その後、「小田原東映劇場」(本町2-7)、「中央劇場」(本町2-9)も開館した。*4

1956年の『小田原商工名鑑』には映画館として「ロマンス座」「(有)小田原東宝館」「(有)小田原銀映座」「小田原国際劇場」「(株)中央劇場」「富貴座」「オリオン座」「国府津ロマンス座」の8館が、劇場として「御幸座」の1館が掲載されている。富貴座の経営者は渡辺和三郎、所在地は幸1-193。*5
福音館
所在地 : 神奈川県小田原市曽我原558(1959年・1960年)、神奈川県小田原市曽我原75(1962年)
開館年 : 1958年頃
閉館年 : 1962年頃
1958年の映画館名簿には掲載されていない。1959年・1960年・1962年の映画館名簿では「福音館」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。
ロマンス座/国府津ロマンス座
所在地 : 神奈川県小田原市国府津1258(1956年・1958年・1960年・1963年・1964年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 1964年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の映画館名簿では「国府津ロマンス座」。1958年・1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「国府津ロマンス座」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。

1956年の『小田原商工名鑑』には映画館として「ロマンス座」「(有)小田原東宝館」「(有)小田原銀映座」「小田原国際劇場」「(株)中央劇場」「富貴座」「オリオン座」「国府津ロマンス座」の8館が、劇場として「御幸座」の1館が掲載されている。国府津ロマンス座の経営者は石井専之助、所在地は国府津1258-4。*6
小田原ロマンス座
所在地 : 神奈川県小田原市緑町1-6(1955年・1958年・1960年・1963年・1965年)
開館年 : 1953年8月
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年8月開館。1953年の映画館名簿には掲載されていない。1955年・1958年・1960年・1963年・1965年の映画館名簿では「小田原ロマンス座」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。後継館は小田原オークラ劇場。跡地は「音羽プラーザビル」北側の駐車場「ザ・パーク栄町一丁目」。最寄駅はJR東海道線小田原駅。

1956年の『小田原商工名鑑』には映画館として「ロマンス座」「(有)小田原東宝館」「(有)小田原銀映座」「小田原国際劇場」「(株)中央劇場」「富貴座」「オリオン座」「国府津ロマンス座」の8館が、劇場として「御幸座」の1館が掲載されている。ロマンス座の経営者は佐藤正寿、所在地は緑1-6。*7
小田原東宝劇場(旧)/小田原東宝館(旧)/小田原銀映座
所在地 : 神奈川県小田原市緑町1-49(1941年)、神奈川県小田原市緑町1(1943年)、神奈川県小田原市緑町1-49(1947年・1950年・1953年・1955年・1957年・1958年・1960年・1966年)、神奈川県小田原市栄町2-8-17(1969年・1970年)
開館年 : 1937年12月
閉館年 : 1970年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1937年12月開館。1936年の映画館名簿には掲載されていない。1941年・1943年・1947年の映画館名簿では「小田原東宝館」。1950年の映画館名簿では「小田原東宝劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「小田原東宝館」。1957年・1958年・1960年・1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「小田原銀映座」。1971年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ドン・キホーテ小田原店」などがある「山崎商事ビル」建物中央部。最寄駅はJR東海道線小田原駅。

1956年の『小田原商工名鑑』には映画館として「ロマンス座」「(有)小田原東宝館」「(有)小田原銀映座」「小田原国際劇場」「(株)中央劇場」「富貴座」「オリオン座」「国府津ロマンス座」の8館が、劇場として「御幸座」の1館が掲載されている。小田原東宝館の経営者は山崎キチ、所在地は緑1-49。小田原銀映座の経営者は山崎キチ、所在地は緑1-49。*8
オリオン座/小田原松竹オリオン座/小田原オリオン座(旧)
所在地 : 神奈川県小田原市(1947年)、神奈川県小田原市幸町2-286(1950年・1953年)、神奈川県小田原市幸2-286(1953年・1955年・1958年・1960年・1966年)、神奈川県小田原市本町3-11-20(1969年・1973年・1976年・1980年)
開館年 : 1946年9月
閉館年 : 1979年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1946年9月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年の映画館名簿では「オリオン座」。1950年の映画館名簿では「松竹オリオン座」。1953年・1955年の映画館名簿では「オリオン座」。1958年の映画館名簿では「小田原オリオン座」。1960年の映画館名簿では「小田原松竹オリオン座」。1966年・1969年・1973年・1976年・1980年の映画館名簿では「小田原オリオン座」。1980年の映画館名簿では経営会社が石井商会、経営者が石井康之助、支配人が川口啓介、木造1階、355席、洋画を上映。後継館は小田原オリオン座レッドホール・イエローホール・ブルーホール。跡地は2005年竣工のマンション「レアージュ小田原本町」。最寄駅はJR東海道線小田原駅。

1948年頃の小田原市本町にあった「オリオン座」の写真あり。「オリオン座」「松竹直営」の文字が見える。1946年に開館し、1953年にはNHKの番組「のど自慢」で会場となった。1979年には3館体制となったが、シネコンに観客が流れたことで、2003年8月に閉館した。*9

1956年の『小田原商工名鑑』には映画館として「ロマンス座」「(有)小田原東宝館」「(有)小田原銀映座」「小田原国際劇場」「(株)中央劇場」「富貴座」「オリオン座」「国府津ロマンス座」の8館が、劇場として「御幸座」の1館が掲載されている。オリオン座の経営者は石井康之助、所在地は幸2-286。*10

戦前の小田原市には宮小路の「富貴座」(幸1丁目)、青物町の「復興館」(幸1丁目)、緑町の「東宝館」(緑1丁目)の3館の映画館があった。1945年8月15日未明に行われた空襲で富貴座と復興館は焼失したが、両館とも戦後まもなく建物が再建された。1946年9月、幸2丁目に「オリオン座」が開館した。オリオン座では戦後の小田原市で初のストリップショーも開催された。1953年には復興館が「小田原国際劇場」に改称した。その後、「小田原東映劇場」(本町2-7)、「中央劇場」(本町2-9)も開館した。*11
小田原復興館/小田原国際劇場/小田原日活国際劇場/小田原松竹国際劇場・小田原日活ロマン劇場/小田原国際劇場・小田原にっかつ劇場
所在地 : 神奈川県足柄下郡小田原町万年4-660(1925年)、神奈川県足柄下郡小田原町万年4丁目(1927年・1930年)、神奈川県足柄下郡小田原町万年4-660(1936年)、神奈川県小田原市万年町(1941年・1943年)、神奈川県小田原市万年町4-695(1947年)、神奈川県小田原市万年町(1950年)、神奈川県小田原市万年町4-66(1953年)、神奈川県小田原市万年4-660(1960年)、神奈川県小田原市本町2-5-4(1969年・1973年・1975年・1976年・1978年・1980年・1981年)
開館年 : 1923年12月、1953年12月、1973年4月(2館化)
閉館年 : 1981年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1953年12月開館。1925年・1927年・1930年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「復興館」。1947年・1950年の映画館名簿では「小田原復興館」。1953年の映画館名簿では「復興館」。1955年の映画館名簿では「国際劇場」。1960年の映画館名簿では「小田原国際劇場」。1969年・1973年の映画館名簿では「小田原日活国際劇場」。1975年・1976年の映画館名簿では「小田原松竹国際劇場・小田原日活ロマン劇場」(2館)。1978年の映画館名簿では「小田原国際劇場・小田原日活ロマン劇場」(2館)。1980年・1981年の映画館名簿では「小田原国際劇場・小田原にっかつ劇場」(2館)。1982年の映画館名簿には掲載されていない。1988年の住宅地図では跡地に駐車場。跡地は葬儀場「ファミリーホール小田原」。最寄駅はJR東海道線小田原駅。

時期不明の小田原市にあった映画館「復興館」の写真あり。1923年12月、万年4丁目の国道交差点付近に開館した。日活の現代劇や松竹の時代劇を上映した。1945年の戦災では「富貴座」とともに焼失したが、同年12月に再建された。その後は「国際劇場」や「小田原日活」に改称した。*12

1938年から1939年頃の小田原市にあった「復興館」の写真あり。旧青物町の国道交差点に近かった。1923年9月の関東大震災後に建てられたことが名称の由来である。1945年には戦災で焼失したが、その後復興して松竹の時代劇や日活の現代劇を上映した。平成に入って廃館となった。*13

1923年9月1日の関東大震災からの復興を願って、同年に日活作品の上映館として「復興館」が開館した。1953年には建物を建て替え、「国際劇場」に改称して大映と東映作品の上映館となった。1960年には「小田原日活」に改称して再び日活作品の上映館となった。小田原東映と同じく2000年に閉館した。東海道と青物町商店街が交わる国際通り交差点の角にあった。1967年の写真あり。当時の青物町商店街の入口にはアーチが架けられており、現在の東海道に架かる歩道橋はまだないように見える。*14

日活の直営館を見ると、1972年11月に「梅田日活ロマン」が開館し、1973年2月に「浜松日活」が開館し、4月に「小田原ロマン」が開館し、5月に「水戸ロマン」が開館した。1972年7月には「久留米日活」が閉館し、12月には「浜松スカラ座」と「浜松日活」が閉館し、1973年3月には「大牟田日活」が閉館し、5月には「大垣日活」が閉館した。*15

1956年の『小田原商工名鑑』には映画館として「ロマンス座」「(有)小田原東宝館」「(有)小田原銀映座」「小田原国際劇場」「(株)中央劇場」「富貴座」「オリオン座」「国府津ロマンス座」の8館が、劇場として「御幸座」の1館が掲載されている。小田原国際劇場の経営者は角田久五郎、所在地は万年4-660。*16

戦前の小田原市には宮小路の「富貴座」(幸1丁目)、青物町の「復興館」(幸1丁目)、緑町の「東宝館」(緑1丁目)の3館の映画館があった。1945年8月15日未明に行われた空襲で富貴座と復興館は焼失したが、両館とも戦後まもなく建物が再建された。1946年9月、幸2丁目に「オリオン座」が開館した。オリオン座では戦後の小田原市で初のストリップショーも開催された。1953年には復興館が「小田原国際劇場」に改称した。その後、「小田原東映劇場」(本町2-7)、「中央劇場」(本町2-9)も開館した。*17
御幸座/小田原みゆき座/小田原御幸座
所在地 : 神奈川県小田原市新玉245(1964年)、神奈川県小田原市新王町2-245(1966年)、神奈川県小田原市浜町1-5-35(1969年・1970年・1973年・1976年・1980年・1984年)
開館年 : 1927年、1960年(映画館化)
閉館年 : 1984年
1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年の映画館名簿では「御幸座」。1966年・1969年・1970年の映画館名簿では「小田原みゆき座」。1973年・1976年・1980年・1984年の映画館名簿では「小田原御幸座」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。1988年の住宅地図では「小田原御幸座」。跡地はマンション「アエリア小田原浜町」。最寄駅はJR東海道線小田原駅。

1919年、小田原町新玉2丁目に芝居小屋「御幸座」が建てられ、守田勘弥がこけら落とし興行を行ったた。周辺にはかつて小田原藩の牢屋があり、牢屋町と呼ばれていた地域であるが、大正初期に地元の要望で御幸町に改められ、町名を館名とした。1923年9月の関東大震災で焼失し、震災後には建物が再建されたものの、約3年後には再び焼失した。1927年、早稲田劇場を買収・移築して再開館した。1961年には映画館に転向した。*18

昭和初期頃の小田原市にあった「御幸座」の写真あり。1919年に芝居小屋として開館し、1923年9月の関東大震災での焼失後に再建された。すぐに火災で焼失したが、1927年に再開館している。1961年には芝居小屋から映画館に転向した。*19

小田原市浜松1丁目には御幸座という芝居小屋があったが、1960年に映画館に転換した。1984年に閉館した。「御幸座」の文字が見える1962年の写真あり。*20

1956年の『小田原商工名鑑』には映画館として「ロマンス座」「(有)小田原東宝館」「(有)小田原銀映座」「小田原国際劇場」「(株)中央劇場」「富貴座」「オリオン座」「国府津ロマンス座」の8館が、劇場として「御幸座」の1館が掲載されている。御幸座の経営者は曽我重五郎、所在地は新玉2-245。*21
小田原オークラ劇場
所在地 : 神奈川県小田原市栄町1-14-4(1977年・1980年・1985年・1988年・1989年)
開館年 : 1976年頃
閉館年 : 1989年頃
1976年の映画館名簿には掲載されていない。1977年・1978年・1980年・1985年・1988年・1989年の映画館名簿では「小田原オークラ劇場」。1978年の映画館名簿では経営会社が大蔵映画、経営者が大倉貢、支配人が藤井義信、鉄筋造2階、120席、成人映画を上映。1990年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「音羽プラーザビル」北側の駐車場。最寄駅はJR東海道線小田原駅。
シネサロンネムレ/にっかつロマンネムレ
所在地 : 神奈川県小田原市栄町2-4-1(1975年・1976年・1978年・1980年・1985年・1988年・1989年)
開館年 : 1974年頃
閉館年 : 1989年頃
1974年の映画館名簿には掲載されていない。1975年・1976年・1978年・1980年の映画館名簿では「シネサロン・ネムレ」。1978年の映画館名簿では経営会社が石井商会、経営者が石井康之助、支配人が川口啓介、鉄筋造4階、48席、洋画を上映。1985年・1988年・1989年の映画館名簿では「にっかつロマンネムレ」。1988年の住宅地図では「杉田ビル」4階の「にっかつロマンネムレ」。1990年の映画館名簿には掲載されていない。建物は「小田原ターミナルホテル」南10mの「杉田ビル」として現存。最寄駅はJR東海道線小田原駅。
小田原中央劇場/小田原中央劇場1・2
所在地 : 神奈川県小田原市幸1-179(1958年・1960年・1966年)、神奈川県小田原市本町2-9-27(1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・1992年)
開館年 : 1956年4月24日
閉館年 : 1992年頃
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年の映画館名簿では「中央劇場」。1966年・1969年・1973年・1976年・1980年の映画館名簿では「小田原中央劇場」。1985年・1990年・1992年の映画館名簿では「小田原中央劇場1・2」(2館)。1988年の住宅地図では「小田原中央劇場」。1993年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「さがみ信用金庫本店」北側の駐車場。最寄駅はJR東海道線小田原駅。

1956年4月24日、小田原市幸1丁目179にシネスコ劇場「中央劇場」が開館した。会長は増井慶太郎、社長は渡辺重光。*22

小田原市の国道1号沿いには、小田原東映と同じく1956年に開館した中央劇場があった。西湘地区唯一の「洋画封切り劇場」がうたい文句であり、『太陽がいっぱい』『ベン・ハー』『慕情』などを上映した。2003年に閉館した。1967年頃の写真あり。『カレードマン 大胆不敵』などの看板が見え、「Chuo Theatre」の文字が見える。*23

1956年の『小田原商工名鑑』には映画館として「ロマンス座」「(有)小田原東宝館」「(有)小田原銀映座」「小田原国際劇場」「(株)中央劇場」「富貴座」「オリオン座」「国府津ロマンス座」の8館が、劇場として「御幸座」の1館が掲載されている。中央劇場の経営者は渡辺重光、所在地は幸1-179。*24
小田原東映劇場/小田原東映
所在地 : 神奈川県小田原市幸1-185(1958年・1960年・1966年)、神奈川県小田原市本町2-7-5(1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年)
開館年 : 1956年
閉館年 : 2000年3月31日
Wikipedia : 小田原東映劇場
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1958年・1960年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年の映画館名簿では「小田原東映劇場」。1988年の住宅地図では「小田原東映劇場」。1990年・1995年・2000年の映画館名簿では「小田原東映」。2002年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はどら焼き店「菜の花あん工房」。最寄駅はJR東海道線小田原駅。

国道1号の小田原市民会館交差点の近くには、1956年に開館した小田原東映劇場があった。東映作品の専門館であり、「東映まんがまつり」は人気が高かった。2000年に閉館した。「小田原東映」の文字が見える1967年の写真あり。『一心太助 江戸っ子祭り』、『網走番外地 決斗零下30度』の看板が見える。*25
小田原オリオン座レッドホール・イエローホール・ブルーホール
所在地 : 神奈川県小田原市本町3-11-20(1981年・1982年・1985年・1990年・1995年・2000年・2002年)
開館年 : 1979年
閉館年 : 2003年8月20日
前身館は小田原オリオン座。1981年・1982年・1985年・1990年・1995年・2000年・2002年の映画館名簿では「小田原オリオン座レッドホール・イエローホール・ブルーホール」(3館)。1981年の映画館名簿では経営会社が石井商会、経営者が石井康之助、支配人が川口啓介、レッドが鉄筋造1階で238席で洋画を上映、イエローが鉄筋造2階で86席で松竹を上映、ブルーが鉄筋造3階で324席で洋画を上映。1988年の住宅地図では「オリオン座ビル」の「1階レッドホール 2階イエローホール 3階ブルーホール」。2002年の映画館名簿では経営会社が石井商会、経営者が石井基雄、支配人が川口啓介、レッドが鉄筋造1階で168席で邦画・洋画を上映、イエローが鉄筋造2階で74席で邦画・洋画を上映、ブルーが鉄筋造3階で245席で洋画を上映。2004年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は2005年竣工のマンション「レアージュ小田原本町」。最寄駅はJR東海道線小田原駅。

戦争からの復興途中の1946年9月、小田原市にオリオン座が開館した。『わが生涯の輝ける日』の看板が見える昭和20年代の写真あり。オリオン座は松竹の直営館だった。最盛期の小田原市街地には9館の映画館があったが、テレビやビデオの普及、娯楽の多様化などが理由で相次いで閉館していった。平成に入って中央劇場と東映劇場も閉館し、2003年現在は東宝館とオリオン座の2施設のみとなっている。松竹の直営館だったオリオン座は洋画も上映する映画館となり、3スクリーンに増やして営業している。「THEATER ORION」の看板が見える2003年の写真あり。*26

2003年8月、小田原市の中心市街地にある洋画館「小田原オリオン座」と「小田原東宝劇場」が閉館する予定。2002年12月には中里に郊外型大型映画館「バージンシネマズ小田原」が開館し、両館は観客を奪われていた。1946年2月、オリオン座は『ロビンフッドの冒険』を初上映作品として開館した。建物は2階建てで340人を収容するが、初日から立ち見が出ると、一日で3500人もの大入りとなった。昭和30年代の県西地区には15館もの映画館があった。オリオン座は56年間で約1万本の作品を上映した。*27

2003年8月号の『小田原史談』には「オリオン座と東宝館の閉館に際し映画館特集号」という記事が掲載されている。現物は未確認。*28
小田原東宝館(新)/小田原東宝劇場/小田原東宝
所在地 : 神奈川県小田原市緑町1-49(1956年・1957年)、神奈川県小田原市緑町1-6(1958年)、神奈川県小田原市緑町1-49(1960年・1966年)、神奈川県小田原市栄町2-8-18(1969年・1973年・1976年・1980年・1985年・1990年・1995年・2000年・2002年)
開館年 : 1955年頃
閉館年 : 2003年8月29日
1955年の映画館名簿には掲載されていない。1956年の映画館名簿では「小田原東宝館」。1957年・1958年・1960年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年・1985年の映画館名簿では「小田原東宝劇場」。1988年の住宅地図では「サンバード長崎屋小田原店」の地下。1990年・1995年・2000年・2002年の映画館名簿では「小田原東宝」。2002年の映画館名簿では経営会社が山崎商事、経営者が山崎博靖、支配人が山崎新一、鉄筋造地下、140席、東宝を上映。2005年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「ドン・キホーテ小田原店」などがある「山崎商事ビル」。最寄駅はJR東海道線小田原駅。

1939年、小田原市緑1丁目(現・栄町2丁目)に「東宝館」が開館した。しばらくは「富貴座」と「復興館」とともに3館の映画館があった時代が続いた。太平洋戦争中には戦災を免れ、1945年9月には再開館した。1990年現在も存続している。*29

1939年頃の小田原市栄町2丁目にあった「東宝館」の写真あり。1939年に開館した。2003年8月に閉館し、2009年現在の跡地にはディスカウント量販店がある。*30

戦前の1939年、足柄下郡小田原町緑1丁目(現・栄町2丁目)に「東宝館」が開館した。「東宝館」(※東宝劇場ではない)の文字が見える。当時の小田原には東宝館のほかに、日活系の復興館と松竹系の富貴座もあった。東宝館は1945年8月15日の小田原空襲を免れ、戦後まもなく営業を再開したことで、映画館前の通りは東宝館通りと呼ばれるようになった。1962年には隣接地に長崎屋小田原店が開店。長崎屋小田原店の店舗改修時には東宝館が地下に入り、東宝館通りはダイヤ街に名を変えている。かつての東宝館通りは飲食店が中心だったが、現在は大型店やアパレル店・日用雑貨店なども多く、小田原市街地の繁華街となっている。*31

2003年8月号の『小田原史談』には「オリオン座と東宝館の閉館に際し映画館特集号」という記事が掲載されている。現物は未確認。*32

2003年8月、小田原市の中心市街地にある洋画館「小田原オリオン座」と「小田原東宝劇場」が閉館する予定。2002年12月には中里に郊外型大型映画館「バージンシネマズ小田原」が開館し、両館は観客を奪われていた。昭和30年代の県西地区には15館もの映画館があった。*33
ヴァージンシネマズ小田原/TOHOシネマズ小田原
所在地 : 神奈川県小田原市中里313-12(2004年・2005年・2010年)、神奈川県小田原市中里313-12 ダイナシティウォーク内(2015年・2020年)
開館年 : 2002年12月、2004年2月(改称)
閉館年 : 営業中
2002年の映画館名簿には掲載されていない。2004年の映画館名簿では「ヴァージンシネマズ小田原1-8・プレミア」(9館)。2005年の映画館名簿では「TOHOシネマズ小田原1-8・プレミア」(9館)。2010年・2015年の映画館名簿では「TOHOシネマズ小田原1-8・プレミアスクリーン」(9館)。2020年の映画館名簿では「TOHOシネマズ小田原1-8・プレミア」(9館)。ダイナシティウォーク。最寄駅はJR東海道線鴨宮駅。
小田原コロナシネマワールド
所在地 : 神奈川県小田原市前川219-4(2004年・2005年・2010年・2015年・2020年)
開館年 : 2003年12月
閉館年 : 営業中
2002年の映画館名簿には掲載されていない。2004年の映画館名簿では「小田原コロナシネマワールド1-8」(8館)。2005年・2010年・2015年・2020年の映画館名簿では「小田原コロナシネマワールド1-10」(10館)。最寄駅はJR東海道線鴨宮駅。

2014年8月2日、小田原市の「小田原コロナシネマワールド」のシネコンに「4DX」映画館がオープンする。国内5番目。10スクリーンのうち1スクリーンを改造し、216席が112席となった。1700円の通常料金に加えて1000円〜1300円が必要。8月2日と8月3日には『パシフィック・リム』と『アナと雪の女王』を上映する。*34
小田原シネマ館
所在地 : 神奈川県小田原市栄町2-7-30 みのさん第一ビル1階
開館年 : 2024年3月20日
閉館年 : 営業中
2022年の映画館名簿には掲載されていない。最寄駅はJR東海道線小田原駅。

2022年9月、蓑宮武夫は『まちおこしは総力戦で挑め!』(PHP研究所)を刊行し、「小田原街中映画館」(通称は小田原シネマ)が2023年春に開館予定であることが明らかとなった。すでに用地は取得済みである。かつて小田原駅周辺には8館の映画館があったが、1980年代以降に相次いで閉館し、2003年に最後の映画館も閉館した。2005年から2021年まで、蓑宮はNPOおだわらシネマトピアの理事長を務め、小田原映画祭を主催していた。*35

2024年3月20日、小田原市栄町2-7-30 みのさん第一ビル1階に「小田原シネマ館」が開館する。40席の1スクリーン。かつて小田原駅周辺にあった8館の映画館は2003年にすべて閉館した。2016年には蓑宮武夫が映画館の開館を構想し、2022年に賛同者と小田原シネマ株式会社を設立した。社長は古川達高。支配人は蓑宮大介。*36

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