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hekikaicinema 2025年05月02日(金) 00:20:08履歴
所在地 : 新潟県南蒲原郡三条町(1925年・1927年・1930年)、新潟県南蒲原郡三条町旭町(1934年)、新潟県三条市旭町(1936年・1941年)
開館年 : 1919年
閉館年 : 1947年以後1950年以前
1925年・1927年の映画館名簿では「旭館キネマ」。1930年・1934年・1936年・1941年の映画館名簿では「旭館」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。
1915年、三条町北四日町に三条初の活動常設館「常盤館」が開館した。常盤橋の四日町側のたもとである。1919年には活動常設館として「旭館」も開館した。常盤館と旭館の写真あり。*4
大正期の「旭館」の写真あり。活動写真の常設館である。入場料は10銭から20銭だった。*5
開館年 : 1919年
閉館年 : 1947年以後1950年以前
1925年・1927年の映画館名簿では「旭館キネマ」。1930年・1934年・1936年・1941年の映画館名簿では「旭館」。1943年の映画館名簿には掲載されていない。
1915年、三条町北四日町に三条初の活動常設館「常盤館」が開館した。常盤橋の四日町側のたもとである。1919年には活動常設館として「旭館」も開館した。常盤館と旭館の写真あり。*4
大正期の「旭館」の写真あり。活動写真の常設館である。入場料は10銭から20銭だった。*5
所在地 : 新潟県南蒲原郡三条町(1925年)、新潟県南蒲原郡三条町四日町(1927年・1930年・1934年)、新潟県三条市四日町(1936年・1941年・1943年・1947年)
開館年 : 1915年
閉館年 : 1947年以後1950年以前
1925年・1927年・1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「常盤館」。1941年・1943年・1947年の映画館名簿では「三条映画劇場」。1950年の映画館名簿には掲載されていない。
1915年、三条町北四日町に三条初の活動常設館「常盤館」が開館した。常盤橋の四日町側のたもとである。1919年には活動常設館として「旭館」も開館した。常盤館と旭館の写真あり。*6
大正期の「常盤館」の写真あり。三条で最も古い活動写真の常設館である。常盤橋の四日町側にあり、三角屋根が珍しい外観である。*7
開館年 : 1915年
閉館年 : 1947年以後1950年以前
1925年・1927年・1930年・1934年・1936年の映画館名簿では「常盤館」。1941年・1943年・1947年の映画館名簿では「三条映画劇場」。1950年の映画館名簿には掲載されていない。
1915年、三条町北四日町に三条初の活動常設館「常盤館」が開館した。常盤橋の四日町側のたもとである。1919年には活動常設館として「旭館」も開館した。常盤館と旭館の写真あり。*6
大正期の「常盤館」の写真あり。三条で最も古い活動写真の常設館である。常盤橋の四日町側にあり、三角屋根が珍しい外観である。*7
所在地 : 新潟県三条市
開館年 : 1897年
閉館年 : 1955年頃
映画館ではなく演劇場。映画館名簿には掲載されていない。跡地は「三条ロイヤルホテル」。最寄駅はJR弥彦線北三条駅。
1897年、三条初の本格的劇場として極楽寺裏に「三条座」が落成した。こけら落としは中央歌舞伎だった。*8
1897年、三条町の一ノ町に「三条座」が落成し、こけら落としとして市川左團次の一座が来演した。*9
戦前の三条にあった演劇場「三条座」の館内の写真あり。明治・大正・昭和にわたって、「三条座」は三条市で唯一の本格的な芝居小屋だった。跡地は1992年現在の三条ロイヤルホテル。*10
1896年には三条に劇場「三条座」が建てられ、歌舞伎・歌謡・芝居などの公演が行われた。1955年頃まで建っていた。本町三丁目(一ノ町)には三条座小路という路地がある。*11
開館年 : 1897年
閉館年 : 1955年頃
映画館ではなく演劇場。映画館名簿には掲載されていない。跡地は「三条ロイヤルホテル」。最寄駅はJR弥彦線北三条駅。
1897年、三条初の本格的劇場として極楽寺裏に「三条座」が落成した。こけら落としは中央歌舞伎だった。*8
1897年、三条町の一ノ町に「三条座」が落成し、こけら落としとして市川左團次の一座が来演した。*9
戦前の三条にあった演劇場「三条座」の館内の写真あり。明治・大正・昭和にわたって、「三条座」は三条市で唯一の本格的な芝居小屋だった。跡地は1992年現在の三条ロイヤルホテル。*10
1896年には三条に劇場「三条座」が建てられ、歌舞伎・歌謡・芝居などの公演が行われた。1955年頃まで建っていた。本町三丁目(一ノ町)には三条座小路という路地がある。*11
所在地 : 新潟県三条市四日町(1952年・1953年・1955年)、新潟県三条市北四日町1(1958年)、新潟県三条市四日町(1960年・1963年・1965年)
開館年 : 1951年頃
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が記載されていない。1951年の映画館名簿には掲載されていない。1952年の映画館名簿では「三条文化劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「三条銀映劇場」。1959年の住宅地図では「銀映」。1958年の映画館名簿では「銀座映画劇場」。1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「三条銀座映画劇場」。1965年の映画館名簿では「三条銀座映劇」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「冨田理容」やその北側の駐車場。最寄駅はJR信越本線三条駅。
開館年 : 1951年頃
閉館年 : 1965年頃
『全国映画館総覧 1955』には開館年が記載されていない。1951年の映画館名簿には掲載されていない。1952年の映画館名簿では「三条文化劇場」。1953年・1955年の映画館名簿では「三条銀映劇場」。1959年の住宅地図では「銀映」。1958年の映画館名簿では「銀座映画劇場」。1960年・1963年・1964年の映画館名簿では「三条銀座映画劇場」。1965年の映画館名簿では「三条銀座映劇」。1966年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「冨田理容」やその北側の駐車場。最寄駅はJR信越本線三条駅。
所在地 : 新潟県南蒲原郡三条町(1925年・1927年・1930年)、新潟県南蒲原郡三条町上町(1934年)、新潟県三条市上町(1936年・1941年・1943年)、新潟県三条市上町350(1947年)、新潟県三条市上町(1950年・1953年・1955年)、新潟県三条市上町350(1958年・1960年・1963年・1966年・1969年・1971年)
開館年 : 大正時代、1933年9月
閉館年 : 1972年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1933年9月開館。1925年・1927年の映画館名簿では「敷島館」。1930年の映画館名簿では「中央館」。1934年・1936年の映画館名簿では「敷島館」。1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「三条松竹館」。1959年の住宅地図では「東映劇場」。1960年の映画館名簿では「三条東映」。1963年・1966年・1969年・1970年・1971年・1972年の映画館名簿では「三条東映劇場」。1970年の映画館名簿では経営者が中川静江、支配人が中川堅一、木造2階冷暖房付、250席、東宝・東映・日活・洋画を上映。1972年の映画館名簿では経営者・支配人ともに中川堅一、木造2階冷暖房付、250席、邦画・洋画を上映。後継館は東映ムービル。跡地は「正楽寺」南西110mの敷地。最寄駅はJR弥彦線北三条駅。
三条市の「敷島館」は、1983年現在の東映ムービルの場所にあった。*12
1937年頃の三条にあった「松竹館」の写真あり。前身は大正時代から続く「敷島館」。1932年に火災に遭っている。公演は18時に開演し、終了は24時頃だった。*13
1949年頃の三条にあった「松竹館」の写真あり。もとは大正時代に建てられた映画館であり、昭和に入って「松竹館」となると、戦後の一時期は洋画専門館だった。アメリカ映画『我等の生涯の最良の年』の看板が見える。1946年のアカデミー賞で7部門を受賞し、日本では1948年に公開された。昭和30年代には松竹から東映系列となって「三条東映」に改称した。やがて複数の劇場を有する「東映ムービル」のビルが建てられた。2006年現在の「東映ムービル」のビルの写真あり。ビル内には居酒屋などもある。*14
1965年の三条市にあった「三条東映」の写真あり。三船敏郎主演の『赤ひげ』の看板が見える。「新潟井関製作所創立3周年記念」の垂れ幕が見える。大正中期、三条の上町(現・本町1丁目)に活動写真の常設館として開館し、「敷島館」、「中央館」、「松竹館」と改称して続いた。昭和30年代には「三条東映」(東映ムービル)に改称した。近年は演劇場となっていたが、平成末期に姿を消した。*15
開館年 : 大正時代、1933年9月
閉館年 : 1972年頃
『全国映画館総覧 1955』によると1933年9月開館。1925年・1927年の映画館名簿では「敷島館」。1930年の映画館名簿では「中央館」。1934年・1936年の映画館名簿では「敷島館」。1941年・1943年・1947年・1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「三条松竹館」。1959年の住宅地図では「東映劇場」。1960年の映画館名簿では「三条東映」。1963年・1966年・1969年・1970年・1971年・1972年の映画館名簿では「三条東映劇場」。1970年の映画館名簿では経営者が中川静江、支配人が中川堅一、木造2階冷暖房付、250席、東宝・東映・日活・洋画を上映。1972年の映画館名簿では経営者・支配人ともに中川堅一、木造2階冷暖房付、250席、邦画・洋画を上映。後継館は東映ムービル。跡地は「正楽寺」南西110mの敷地。最寄駅はJR弥彦線北三条駅。
三条市の「敷島館」は、1983年現在の東映ムービルの場所にあった。*12
1937年頃の三条にあった「松竹館」の写真あり。前身は大正時代から続く「敷島館」。1932年に火災に遭っている。公演は18時に開演し、終了は24時頃だった。*13
1949年頃の三条にあった「松竹館」の写真あり。もとは大正時代に建てられた映画館であり、昭和に入って「松竹館」となると、戦後の一時期は洋画専門館だった。アメリカ映画『我等の生涯の最良の年』の看板が見える。1946年のアカデミー賞で7部門を受賞し、日本では1948年に公開された。昭和30年代には松竹から東映系列となって「三条東映」に改称した。やがて複数の劇場を有する「東映ムービル」のビルが建てられた。2006年現在の「東映ムービル」のビルの写真あり。ビル内には居酒屋などもある。*14
1965年の三条市にあった「三条東映」の写真あり。三船敏郎主演の『赤ひげ』の看板が見える。「新潟井関製作所創立3周年記念」の垂れ幕が見える。大正中期、三条の上町(現・本町1丁目)に活動写真の常設館として開館し、「敷島館」、「中央館」、「松竹館」と改称して続いた。昭和30年代には「三条東映」(東映ムービル)に改称した。近年は演劇場となっていたが、平成末期に姿を消した。*15
所在地 : 新潟県三条市旭町(1943年)、新潟県三条市旭町1484(1947年)、新潟県三条市旭町(1950年・1953年・1955年)、新潟県三条市旭町320(1958年)、新潟県三条市旭町(1960年・1963年)、新潟県三条市旭町350(1966年)、新潟県三条市旭町35-3(1969年・1973年)、新潟県三条市旭町1484(1976年)、新潟県三条市旭町350-3(1980年)
開館年 : 1940年4月
閉館年 : 1984年4月30日
『全国映画館総覧 1955』によると1940年4月開館。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「東亜劇場」。1947年の映画館名簿では「三条東亜劇場」。1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「東亜劇場」。1959年の住宅地図では「東劇」。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「三条東亜劇場」。1969年の映画館名簿では「東亜劇場」。1973年の映画館名簿では「テアトル三条」。1976年の映画館名簿では「東王劇場」。1980年の映画館名簿では「三条東王劇場」。1983年の住宅地図では「三条アメリカ東王劇場」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「三條信用組合中央支店」。最寄駅はJR弥彦線北三条駅。
1956年頃の三条市にあった「旭館」の写真あり。アメリカ映画『四十人の女盗賊』と市川崑監督作『処刑の部屋』の看板が見える。田町の通りから北に曲がると電軌会社があり、その通りに旭館があった。旭館は「東亜劇場」に改称し、さらに縮めて「東劇」とした。*16
1985年頃の三条市にあった「東王劇場」の写真あり。左隣に三条信用組合中央支店が見えている。1919年、三条の旭町の通りに活動写真の常設館として開館し、やがて「東亜劇場」に改称して「東劇」と呼ばれた。その後「東王劇場」に改称し、閉館してからはサロンなどとなった。*17
1942年頃、三条市の旭町に「東亜劇場」が開館した。1965年頃に「三条東宝」に改称したとされるが詳細は不明。1966年の三条市には再び「東亜劇場」があった。1971年には「東亜劇場」が閉館し、同一地点に「テアトル三条」が開館。1971年から1973年には「テアトル三条」が閉館した。1974年には以前の「東亜劇場」とは別地点に「東王劇場」が開館し、1984年4月30日に閉館した。*18
開館年 : 1940年4月
閉館年 : 1984年4月30日
『全国映画館総覧 1955』によると1940年4月開館。1941年の映画館名簿には掲載されていない。1943年の映画館名簿では「東亜劇場」。1947年の映画館名簿では「三条東亜劇場」。1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「東亜劇場」。1959年の住宅地図では「東劇」。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「三条東亜劇場」。1969年の映画館名簿では「東亜劇場」。1973年の映画館名簿では「テアトル三条」。1976年の映画館名簿では「東王劇場」。1980年の映画館名簿では「三条東王劇場」。1983年の住宅地図では「三条アメリカ東王劇場」。1985年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「三條信用組合中央支店」。最寄駅はJR弥彦線北三条駅。
1956年頃の三条市にあった「旭館」の写真あり。アメリカ映画『四十人の女盗賊』と市川崑監督作『処刑の部屋』の看板が見える。田町の通りから北に曲がると電軌会社があり、その通りに旭館があった。旭館は「東亜劇場」に改称し、さらに縮めて「東劇」とした。*16
1985年頃の三条市にあった「東王劇場」の写真あり。左隣に三条信用組合中央支店が見えている。1919年、三条の旭町の通りに活動写真の常設館として開館し、やがて「東亜劇場」に改称して「東劇」と呼ばれた。その後「東王劇場」に改称し、閉館してからはサロンなどとなった。*17
1942年頃、三条市の旭町に「東亜劇場」が開館した。1965年頃に「三条東宝」に改称したとされるが詳細は不明。1966年の三条市には再び「東亜劇場」があった。1971年には「東亜劇場」が閉館し、同一地点に「テアトル三条」が開館。1971年から1973年には「テアトル三条」が閉館した。1974年には以前の「東亜劇場」とは別地点に「東王劇場」が開館し、1984年4月30日に閉館した。*18
所在地 : 新潟県三条市一ノ木戸仲町1945(1960年)、新潟県三条市一ノ木戸仲ノ町(1963年)、新潟県三条市一ノ木戸仲ノ町1945(1966年・1969年)、新潟県三条市一ノ木戸仲町1945(1973年)、新潟県三条市一の木戸仲町1945(1976年)、新潟県三条市一ノ木戸町仲の町1944(1980年)、新潟県三条市一ノ木戸仲の町1944(1985年・1988年)
開館年 : 1959年7月4日
閉館年 : 1988年頃
1959年の住宅地図では「三条パレス劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「三条パレス映画劇場」。1966年・1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「三条パレス劇場」。1980年・1985年・1988年の映画館名簿では「三条テアトルタワー」。1983年の住宅地図では「タワービル 1階パチンコサロンタワー 2階三条テアトルタワー レストラン塔 3階割烹 4階大宴会場 6階サウナサロンタワー 屋上ビアガーデンブルースカイタワー」。1989年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「三条信用金庫一ノ木戸支店」。最寄駅はJR弥彦線北三条駅。
1959年7月4日、三条市一の木戸の「三条パレス映画劇場」が開館した。鉄筋造3階建て。座席数370。系統は大映中心。支配人は大軒和生。*19
1964年の三条市にあった映画館「三条パレス」の写真あり。『パームスプリングの週末』と『春のめざめ』の看板が見える。1959年に一ノ木戸商店街に開館した洋画専門館である。2011年現在の三条信用金庫一ノ木戸支店の場所である。*20
1959年7月4日には三条パレス映画劇場が開館した。1972年11月8日には建物の取り壊し工事が始まり、1973年12月22日には同一地点にパレスビルが開業。1973年から1977年までパレス劇場として営業した。1階にはパチンコ、2階にはレストランなど、3階にはパレス劇場、4階には喫茶店、5階にはビジネスホテル、6階にはサウナ、7階にはラウンジ、屋上には庭園があるビルだった。閉館日は定かでないが、1976年末頃とされる。*21
開館年 : 1959年7月4日
閉館年 : 1988年頃
1959年の住宅地図では「三条パレス劇場」。1960年・1963年の映画館名簿では「三条パレス映画劇場」。1966年・1969年・1973年・1976年の映画館名簿では「三条パレス劇場」。1980年・1985年・1988年の映画館名簿では「三条テアトルタワー」。1983年の住宅地図では「タワービル 1階パチンコサロンタワー 2階三条テアトルタワー レストラン塔 3階割烹 4階大宴会場 6階サウナサロンタワー 屋上ビアガーデンブルースカイタワー」。1989年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「三条信用金庫一ノ木戸支店」。最寄駅はJR弥彦線北三条駅。
1959年7月4日、三条市一の木戸の「三条パレス映画劇場」が開館した。鉄筋造3階建て。座席数370。系統は大映中心。支配人は大軒和生。*19
1964年の三条市にあった映画館「三条パレス」の写真あり。『パームスプリングの週末』と『春のめざめ』の看板が見える。1959年に一ノ木戸商店街に開館した洋画専門館である。2011年現在の三条信用金庫一ノ木戸支店の場所である。*20
1959年7月4日には三条パレス映画劇場が開館した。1972年11月8日には建物の取り壊し工事が始まり、1973年12月22日には同一地点にパレスビルが開業。1973年から1977年までパレス劇場として営業した。1階にはパチンコ、2階にはレストランなど、3階にはパレス劇場、4階には喫茶店、5階にはビジネスホテル、6階にはサウナ、7階にはラウンジ、屋上には庭園があるビルだった。閉館日は定かでないが、1976年末頃とされる。*21
所在地 : 新潟県三条市上町350(1973年・1976年・1980年)、新潟県三条市本町1-9-6(1985年・1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2012年・2013年)
開館年 : 1972年頃
閉館年 : 1998年10月31日
前身は三条東映劇場。1973年の映画館名簿では「三条東映劇場・三条プラザ劇場」(2館)。1973年の映画館名簿では経営者・支配人ともに中川堅一、いずれも鉄筋造4階、三条東映劇場は140席、三条プラザ劇場は120席、いずれも邦画・洋画を上映。1976年の映画館名簿では「三条東映劇場・三条プラザ」(2館)。1980年の映画館名簿では「三条東映・三条プラザ・三条みゆき座」(3館)。1983年の住宅地図では「東映ムービル 1階三条ライフ 喫茶ティファニー 2階三条みゆき座 3階三条東映 5階三条プラザ」。1985年の映画館名簿では「三条東映・三条プラザ・三条みゆき座・三条ライフ」(4館)。1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2012年・2013年の映画館名簿では「三条東映」。2013年の映画館名簿では経営会社が東映ムービル、経営者・支配人が中川堅一、鉄筋造3階、150席、邦画・洋画を上映。2014年の映画館名簿には掲載されていない。三条市最後の映画館。建物は2022年後半以後2023年前半以前解体。跡地は「正楽寺」南西110mの敷地。最寄駅はJR弥彦線北三条駅。
1949年頃の三条にあった「松竹館」の写真あり。もとは大正時代に建てられた映画館であり、昭和に入って「松竹館」となると、戦後の一時期は洋画専門館だった。アメリカ映画『我等の生涯の最良の年』の看板が見える。1946年のアカデミー賞で7部門を受賞し、日本では1948年に公開された。昭和30年代には松竹から東映系列となって「三条東映」に改称した。やがて複数の劇場を有する「東映ムービル」のビルが建てられた。2006年現在の「東映ムービル」のビルの写真あり。ビル内には居酒屋などもある。*22
1965年の三条市にあった「三条東映」の写真あり。三船敏郎主演の『赤ひげ』の看板が見える。「新潟井関製作所創立3周年記念」の垂れ幕が見える。大正中期、三条の上町(現・本町1丁目)に活動写真の常設館として開館し、「敷島館」、「中央館」、「松竹館」と改称して続いた。昭和30年代には「三条東映」(東映ムービル)に改称した。近年は演劇場となっていたが、平成末期に姿を消した。*23
1958年に三条市に「三条東映」が開館。「松竹館」から改称された可能性が高いとされる。1973年には「三条東映」と「三条プラザ」が、複合ビル「東映ムービル」に開館した。1977年には東映ムービルのビルに「三条みゆき座」が追加され、1980年には「三条ライフ」も追加された。1984年には「三条ライフ」が閉館し、1985年には「三条みゆき座」が閉館している。1988年からは「三条東映ムービル」の1スクリーンとなり、1998年10月31日に閉館した。最終上映作品は『釣りバカ日誌10』と『ラブレター』。1997年には燕市にシネコンの「ワーナー・マイカル・シネマズ県央」が開館していた。跡地には2002年に「大衆演劇場 三条東映」が開館し、現存している。*24
開館年 : 1972年頃
閉館年 : 1998年10月31日
前身は三条東映劇場。1973年の映画館名簿では「三条東映劇場・三条プラザ劇場」(2館)。1973年の映画館名簿では経営者・支配人ともに中川堅一、いずれも鉄筋造4階、三条東映劇場は140席、三条プラザ劇場は120席、いずれも邦画・洋画を上映。1976年の映画館名簿では「三条東映劇場・三条プラザ」(2館)。1980年の映画館名簿では「三条東映・三条プラザ・三条みゆき座」(3館)。1983年の住宅地図では「東映ムービル 1階三条ライフ 喫茶ティファニー 2階三条みゆき座 3階三条東映 5階三条プラザ」。1985年の映画館名簿では「三条東映・三条プラザ・三条みゆき座・三条ライフ」(4館)。1990年・1995年・2000年・2005年・2010年・2012年・2013年の映画館名簿では「三条東映」。2013年の映画館名簿では経営会社が東映ムービル、経営者・支配人が中川堅一、鉄筋造3階、150席、邦画・洋画を上映。2014年の映画館名簿には掲載されていない。三条市最後の映画館。建物は2022年後半以後2023年前半以前解体。跡地は「正楽寺」南西110mの敷地。最寄駅はJR弥彦線北三条駅。
1949年頃の三条にあった「松竹館」の写真あり。もとは大正時代に建てられた映画館であり、昭和に入って「松竹館」となると、戦後の一時期は洋画専門館だった。アメリカ映画『我等の生涯の最良の年』の看板が見える。1946年のアカデミー賞で7部門を受賞し、日本では1948年に公開された。昭和30年代には松竹から東映系列となって「三条東映」に改称した。やがて複数の劇場を有する「東映ムービル」のビルが建てられた。2006年現在の「東映ムービル」のビルの写真あり。ビル内には居酒屋などもある。*22
1965年の三条市にあった「三条東映」の写真あり。三船敏郎主演の『赤ひげ』の看板が見える。「新潟井関製作所創立3周年記念」の垂れ幕が見える。大正中期、三条の上町(現・本町1丁目)に活動写真の常設館として開館し、「敷島館」、「中央館」、「松竹館」と改称して続いた。昭和30年代には「三条東映」(東映ムービル)に改称した。近年は演劇場となっていたが、平成末期に姿を消した。*23
1958年に三条市に「三条東映」が開館。「松竹館」から改称された可能性が高いとされる。1973年には「三条東映」と「三条プラザ」が、複合ビル「東映ムービル」に開館した。1977年には東映ムービルのビルに「三条みゆき座」が追加され、1980年には「三条ライフ」も追加された。1984年には「三条ライフ」が閉館し、1985年には「三条みゆき座」が閉館している。1988年からは「三条東映ムービル」の1スクリーンとなり、1998年10月31日に閉館した。最終上映作品は『釣りバカ日誌10』と『ラブレター』。1997年には燕市にシネコンの「ワーナー・マイカル・シネマズ県央」が開館していた。跡地には2002年に「大衆演劇場 三条東映」が開館し、現存している。*24
2013年10月、三条市の三条中央商店街にシアターカフェ「キネマ・カンテツ座」が開店した。地元で居酒屋を経営する関本秀次郎(40)が開店させた。15席と130インチのスクリーンがある。若手作家が製作した15分から60分のショートムービーのみを上映している。*25
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