日本の映画館の総合データベースです。

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関市

千歳座(洞戸村)
所在地 : 岐阜県武儀郡洞戸村
開館年 : 1927年2月
閉館年 : 1972年10月
各年版の映画館名簿には掲載されていない。映画も上映する劇場。跡地は「国道256号関市洞戸事務所前交差点」北100mにある空き地。最寄駅は長良川鉄道越美南線湯の洞温泉口駅。

1930年の『大日本職業別明細図 第200号』「洞戸村」には「劇場」が描かれている。*1

1927年2月、洞戸村に劇場「千歳座」ができた。1972年10月、千歳座が閉館した。*2

1927年、洞戸村に劇場「千歳座」ができた。1972年、千歳座が閉館した。*3

1927年には板取川の河原で行われた軽業師の興行が大人気を博したことから、洞戸の旦那衆の間で常設小屋を建設する機運が高まった。市場の川甚(篠田甚市)、米寅バザー(武藤松太郎)を発起人の代表として、株式組織の千歳座組合が発足し、吉田銀行洞戸支店長の林米次郎が筆頭株主となった。1株100円で50口を募り、5000円で小屋の建設に着手。総工費はさらに5口加えた5500円となっている。大野の大忠(船戸忠衛門)が工事を行った。御大典で日本中が沸いていた1928年、洞戸村に芝居小屋「千歳座」が竣工した。洞戸村にとって前にも後にも唯一の芝居小屋である。旧正月の3日間にこけら落とし興行を行い、関西歌舞伎の嵐八千代一行が公演した。10歳くらいの嵐八千代が竹駕籠に乗って練り歩いて顔見せし、近在の村からも観客を集めて3日間とも大入り満員だった。街道から千歳座に通じる路地の入口には招きが掲げられた。小屋の正面には矢来格子の戸があり、戸の左手に出札場が、建物の中に下足場があった。桝形に仕切られた客席、左右両側の桟敷席、2階席、花道、仲店、巡査の臨検場があった。廻り舞台はなかった。創業当初は盆、正月、旧正月、祭礼、彼岸などに興行が行われ、株主には優待券が配られた。歌舞伎、新派劇、剣劇、活動写真、浪曲、漫才、奇術などが行われた。1944年には名古屋の軍需工場である小塩製作所が千歳座に疎開し、桝席を取り払って機械を設置したが、操業を開始する前に終戦を迎えた。戦後には洞戸村連合青年団の設立総会、農民組合大会などの各種集会が行われた。1959年の伊勢湾台風では屋根が壊れたが、その後から映画上映専門の小屋となり、毎月1日と15日に定期興行が行われた。昭和40年代になるとテレビが普及して観客が少なくなり、1974年には市場の神山百貨店に身売りした。内部は改装されてホームセンターとなり、洞戸一の店として板取・美山・上牧などからも客を集めている。*4

2002年10月27日から武儀郡洞戸村市場の旧「千歳座」で映画ポスター展が、11月4日には映画上映会が開催される。洞戸村教育委員会によって交流拠点として整備された。千歳座は1928年に芝居小屋として建てられ、活動写真の上映や芝居の公演などに用いられた。当時としては珍しい一部2階建ての建物であり、近郷からも観客を集めた。戦時中には軍需工場として使われたこともある。昭和40年代まで娯楽の殿堂として親しまれたが、1974年には地元の商店に身売りされてホームセンターとなった。2002年5月にはホームセンターも閉鎖され、洞戸村教育委員会が緊急雇用早秋つ特別対策事業の一環で改修した。1階と2階を合わせて約250平方メートルであり、約200人が入場できる。*5

2002年10月27日から武儀郡洞戸村の旧「千歳座」で映画ポスター展が開催され、11月4日には映画上映会が開催される。1928年には洞戸村の旦那衆が資金を出し合い、本格的な芝居小屋として千歳座が開館した。約200人を収容し、当時としては珍しい一部2階建てだった。旅回りの一座の芝居、浪曲、剣劇などの興行が行われ、近隣の町村からも観客を集めた。戦時中は軍事工場となり、戦後には青年団の素人演劇や芸能大会が開催された。1955年頃からは映画館として使用されたが、1965年頃には観客数が激減し、1974年には地元の商店に身売りした。内部はそのままにホームセンターとなったが、2002年5月にはホームセンターも閉店した。洞戸村教育委員会は再整備を検討し、緊急雇用創出特別対策事業で約68万円をかけて改修や清掃を行った。舞台や2階席には芝居小屋の雰囲気が残っており、緞帳も保管されていた。*6

2002年11月4日、武儀郡洞戸村市場の旧「千歳座」で映画上映会が開催され、地元住民ら約100人が楽しんだ。昭和初期に建てられ、芝居の公演や映画の上映が行われた。1974年に売却されてホームセンターとなり、2002年5月にはホームセンターが閉鎖された。洞戸村教育委員会が交流拠点として整備し、天井などを修理した。11月4日の上映会ではアニメ映画、嵐寛寿郎主演の『鞍馬天狗』など5本が上映された。*7
関劇場/関映画劇場
所在地 : 岐阜県武儀郡関町(1936年)、岐阜県武儀郡関町美吉町(1941年)、岐阜県関市大平町(1955年・1958年・1960年)
開館年 : 1934年以後1936年以前、1948年12月
閉館年 : 1961年12月26日
『全国映画館総覧1955』によると1948年12月開館。1934年の映画館名簿には掲載されていない。1936年・1941年の映画館名簿では「関劇場」。1943年・1947年・1950年の映画館名簿には掲載されていない。1953年・1955年・1958年・1960年の映画館名簿では「関映画劇場」。1963年の映画館名簿には掲載されていない。1968年の住宅地図では跡地に「関パチンコホール」。跡地は「新長谷寺仁王門」南東150mにある民家数軒と道路。最寄駅は長良川鉄道線関口駅。

1961年12月26日、関市大平町2の映画館「関映画劇場」が火災で全焼した。暖房室付近から出火し、木造モルタル式一部2階建てトタン葺きの劇場を焼いた。観客約50人は避難して無事だった。関市の繁華街で家屋が密集しているが、外壁がモルタルだったことなどが奏功して類焼はなかった。関映画劇場は1945年12月7日にも全焼している。黒煙を上げて燃える映画館の写真あり。*8

一昨年の暮れ(※正確には昨年の暮れ)、関市太平町通り(※大平町通りではない)にあった「関映画劇場」が焼失した。その後の跡地は空き地のままであり、映画館を再建するかどうかが市民の関心ごとだったが、関映画劇場の小林秀社長は跡地にアパートを建てる計画を練っている。327坪の土地に4階建てアパートを建て、1階はマーケット、2階以上を計45部屋のアパートとする予定。工費は約8000万円であり、1963年8月頃までの完成を目指す。*9
栄盛座/跡部劇場
所在地 : 岐阜県武儀郡武芸村跡部(1960年)、岐阜県武儀郡武芸村(1961年)、岐阜県武儀郡武芸村跡部(1964年)、岐阜県武儀郡武芸川町字跡部(1966年・1967年・1968年・1969年・1970年)
開館年 : 1929年
閉館年 : 1970年
1959年の映画館名簿には掲載されていない。1960年・1961年の映画館名簿では「栄盛座」。1960年の映画館名簿では経営者が武藤留吉、支配人が武藤道郎、木造1階、定員382、映写機はミクニ、発声器はナショナル、邦画を上映。1962年・1963年の映画館名簿には掲載されていない。1964年の映画館名簿では「栄盛座」。1965年の映画館名簿には掲載されていない。1966年・1967年・1968年・1969年・1970年の映画館名簿では「跡部劇場」。1966年の映画館名簿では経営者が武藤実、支配人が記載なし、木造2階、定員150、映写機はミクニ、発声器は自家製、松竹・大映・東映・日活・洋画を上映。1970年の映画館名簿では経営者が武藤実、支配人が記載なし、木造2階、定員150、映写機はミクニ、発声器はローラー、邦画・洋画を上映。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「川北構造改善センター」南西20mにある民家。最寄駅は長良川鉄道関駅。

1988年の『武芸川町ふるさと探訪』には跡部地区の地図が掲載されている。川北地区には「6 栄盛座」「7 川北の地蔵堂」「9 秋葉神社」などが、また「15 南武芸橋」などが描かれている。*10

南武芸橋の東詰を少し下った角には、1929年に建てられた常設劇場「栄盛座」(えいせいざ)があった。木造平屋の巨大な建物である。月に4〜5回、また盆や正月に、歌舞伎、歌謡曲、浪曲などの興行が行われ、歌手の村田英雄や岡晴夫や豆千代、歌舞伎の8代目澤村宗十郎、浪曲の三門博や酒井雲などが来演した。時には政談演説の会場にもなり、永井柳太郎や大野伴睦などが訪れている。栄盛座は戦後に復活したが、テレビや自動車の普及もあって1970年に幕を引いた。*11

武芸川町には芝居小屋「跡部栄盛座」があった。1984年現在の武藤道行の家の場所である。1929年に仮設劇場として誕生し、芝居や映画の興行が行われた。1935年に常設劇場となり、戦前・戦後を通じて著名な劇団や歌手が来演した。テレビが普及したり交通の便がよくなると、都市の娯楽に敗れて廃業した。*12

昭和20年代の南武芸村跡部の街並みの写真あり。左奥の2階建ては酒屋であり、北に進むと薬局・八百屋・銀行などがあった。この付近には1929年開館の「跡部栄盛座」があり、芝居や映画の興行が行われた。*13
千歳座(関市)/千年会館/関千年会館/関千年劇場
所在地 : 岐阜県武儀郡関町(1930年)、岐阜県武儀郡関町千年町(1934年・1936年)、岐阜県武儀郡関町甲314(1941年)、岐阜県武儀郡関町甲(1943年)、岐阜県武儀郡関町千歳町(1947年)、岐阜県武儀郡関町(1950年)、岐阜県関市千年町(1953年・1955年)、岐阜県関市千年町1-21(1958年)、岐阜県関市千年町2-21(1960年・1961年)、岐阜県関市千年町1(1962年)、岐阜県関市千年町2-21(1963年)、岐阜県関市千年町1-22(1964年・1966年・1969年)
開館年 : 1937年9月、1962年12月15日(建て替え)
閉館年 : 1972年5月頃
『全国映画館総覧1955』によると1937年9月開館。1930年・1934年・1936年・1941年・1943年の映画館名簿では「千歳座」。1947年の映画館名簿では「千歳劇場」。1950年・1953年・1955年・1958年・1960年・1963年の映画館名簿では「千歳座」。1955年の経営者は関土地興業、支配人は後藤重貞、定員900、日活・松竹・洋画を上映。1958年の映画館名簿では経営者・支配人ともに後藤裕宣、木造2階、定員700、邦画・洋画を上映。1963年の映画館名簿では経営者・支配人ともに後藤裕宣、木造2階、定員700、洋画を上映。1964年の映画館名簿では「千年会館」。1964年の映画館名簿では経営者が岸田寿朗、支配人が後藤重貞、鉄筋造2階、定員500、日活・大映を上映。1966年・1969年の映画館名簿では「関千年会館」。1968年・1969年の住宅地図では跡地に「パチンコ千年会館」。1973年の映画館名簿には掲載されていない。跡地はスーパー「山憲商店関店」。最寄駅は長良川鉄道線刃物会館前駅。

1951年の関市千年町にあった「千歳座」の写真あり。「Chitoseza」の文字や『真珠夫人』の看板が見える。芝居小屋として開館した。1935年に改装され、映画も上映するようになった。*14

1953年の関市千年町にあった「千歳座」で開催された日本舞踊の発表会の写真あり。1890年に開設された芝居小屋であり、1935年に改装されると映画も上映するようになった。*15

1962年の関市千年町にあった「千歳座」で開催された成人式の写真あり。入口の上部には女優・俳優の看板が並んでいる。*16
自由劇場/関東映/関東映劇場
所在地 : 岐阜県武儀郡関町(1947年・1950年)、岐阜県関市東栄町(1953年・1955年・1958年)、岐阜県関市栄町1-53(1960年・1966年・1969年・1973年・1976年・1980年)
開館年 : 1946年3月(自由劇場)、1958年7月30日(関東映)
閉館年 : 1981年9月23日
『全国映画館総覧1955』によると1946年3月開館。1943年の映画館名簿には掲載されていない。1947年・1950年・1953年・1955年・1958年の映画館名簿では「自由劇場」。1958年7月30日関東映改称。1960年・1963年・1966年の映画館名簿では「関東映」。1966年・1969年・1973年・1976年・1980年の映画館名簿では「関東映劇場」。1968年・1969年の住宅地図では「関東映」。1980年の映画館名簿では木造1階、350席、経営会社は中外興業、経営者は篠田軍治、支配人は高橋昭、邦画と洋画を上映。1982年の映画館名簿には掲載されていない。跡地は「関栄町郵便局」北東110mにある関川西岸の分譲住宅地。北側の道路が名鉄美濃町線の廃線跡であり北西すぐの場所に新関駅があった。最寄駅は長良川鉄道線関駅。

1958年7月30日より、関市栄町1丁目の映画館「自由劇場」が関東映に改称した。岐阜土地興行株式会社の篠田軍治社長が、自由劇場株式会社の高橋照社長から一切の施設を借り受けて、個人で経営することになった。高橋は支配人として経営に参加する。東映・東宝の上映館であり、連日昼夜三本立ての興行を行う。7月30日から8月5日までの上映作品は、東映スコープの『花笠若衆』、東映スコープの『陽気な靴みがき』、東宝スコープの『美女と液体人間』の3本立て。*17

このほど、関市唯一の映画館だった「関東映」が23年の歴史に幕を閉じて閉館することが決定した。建物の老朽化が理由。ひとまず駐車場として生まれ変わる。中濃路から映画館がなくなる。関市にはかつて「千年会館」「関映画劇場」「関東映」の3館があり、休日や夜間には特ににぎわったが、娯楽の多様化やテレビの普及で斜陽化産業となった。車社会が観客の減少に拍車をかけ、関東映だけが残っていた。1958年に中外興業が「自由劇場」を引き継ぎ、大改装して関東映が開館した。木造モルタル、660m2、350席であり、当時としては立派な劇場だった。再改築して150席に縮小する計画もあったが、建築防災法の関係で叶わなかった。ひとまず9月23日に休館とし、10月には建物を撤去して駐車場とする。建物の再建は白紙である。*18

1981年10月7日付『中部読売新聞』岐阜版朝刊には「関東映」が閉館する際の記事が掲載されている。現物は未確認。*19

1981年10月13日付『朝日新聞』岐阜版朝刊には「関東映」が閉館する際の記事が掲載されている。現物は未確認。*20
関シネックスマーゴ
所在地 : 岐阜県関市倉知516(2005年・2010年)、岐阜県関市倉知516 サンサンシティマーゴシネマ館(2015年・2018年・2020年・2022年)
開館年 : 2003年11月21日
閉館年 : 営業中
2002年の映画館名簿には掲載されていない。2005年の映画館名簿では「CINEX-MAGO 1-8」(8館)。2010年・2015年・2018年・2020年・2022年の映画館名簿では「関シネックスマーゴ1-8」(8館)。2022年の映画館名簿では経営会社が岐阜土地興業、経営者が大塚聖司、支配人が西村麻里。中濃地方初のシネコン。最寄駅は長良川鉄道線せきてらす前駅。

2003年11月21日、関市倉知に「マーゴシネマ館」が開館する。岐阜県では岐阜市・岐南町・真正町・柳津町に続いて5施設目のシネコンであり、中濃地区では初のシネコンである。8スクリーン計1389席。*21

2003年11月21日、関市倉知に「マーゴシネマ館」が開館する。複合映画館(シネマコンプレックス)とゲームコーナーや飲食店などがある一大アミューズメント施設。中濃地域初のシネコンであり、東濃地域や飛騨地域からの集客も期待される。映画館「シネックス マーゴ」は8スクリーンからなり、最大スクリーンは313席の広さ。シートはスタジアム形式で見やすい。シート最前列とスクリーンの間が広いため、ゆったりと観賞できる。岐阜県内の映画館では初となるペアシートが設けられており、2人で鑑賞したいカップルにお勧め。*22

関市倉知のマーゴ本館北隣に建設途中だった「マーゴシネマ館」が完成。大型ショッピングセンター「サンサンシティマーゴ」を運営するサン・ストラッセが建設していた。2003年11月21日のグランドオープンを前に、11月19日には地元関係者や取引先関係者ら約230人を招いて完成式と内覧会が行われた。中濃地区初のシネマコンプレックスと岐阜県内最大級のアミューズメントを併設している。鉄骨2階建てであり、延床面積は約8500平方メートル。1階は岐阜土地興行が運営する映画館「シネックスマーゴ」であり、8スクリーン計1389席(全指定席)を持つ。*23

2003年12月5日の記事。関市の商業施設「サンサンシティマーゴ」に、岐阜市の名鉄新岐阜駅前に次いで岐阜県2店目のスターバックスがオープンする。2003年11月21日に「マーゴシネマ館」が開館したことで商業施設全体の集客力がアップし、安定した利用が見込めると判断した。*24

2003年11月19日付『朝日新聞』にはシネックスマーゴが開館する際の掲載されている。現物は未確認。*25

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