かつて存在した映画館についてのwikiです。事実上の個人サイトであり管理人「hekikaicinema」のみが編集可能です。

碧南市

1948年、大浜町新川町棚尾町旭村の3町1村が合併して碧南市が成立した。大浜町は現在の碧南市中央部、新川町は碧南市北部、棚尾村は碧南市、旭村は碧南市東部に位置する。大浜町には1館、新川町には3館、棚尾町には1館の映画館が存在した。「トボトボ歩く 碧南市」というサイト(個人サイト?)で映画館の歴史が触れられている。

新盛座(しんせいざ)

所在地 : 碧南市新川町*1
開館年 : 1887年
閉館年 : 1961年
Wikipedia : 新盛座
大浜の蓬莱座に対抗して西三河最大級の劇場「新盛座」が明治20年に開館。演劇以外にも講演会・演説会など開かれ、公共施設のしての役割を果たした。惜しまれつつ昭和36年に閉館。伊勢湾台風時の「三波春夫」のエピソードは人々心に深く残る
銀座通り商店街の一角、衣料品学生服の「大黒屋」裏に広がる駐車場敷地は、開館当時、西三河最大級の規模を誇る劇場「新盛座」のあった場所である。 明治16年(1883)11月26日に悲願であった北大浜村(新川)を誕生させた岡本八右衛門は、大浜の劇場「蓬莱座」(後の寿ヶ座)に対抗して、明治20年(1887)に劇場「新盛座」を賛同者6人と共に資本金2万円の株式会社として開館させる。 新盛座は木造3階建てという当時、西三河最大級の規模。演劇の他に公共施設的な役割も負い、人々に親しまれる劇場となっていた。 今も伝わる新盛座のエピソードがある。昭和34年(1959)9月26日、伊勢湾台風の来襲した夜に商店街の招きでやって来た「三波春夫」は停電中の新盛座舞台で、蝋燭の明かりの中、観客を楽しませていた。 次第に風雨が激しくなり公演は中止。三波春夫は翌年の出演を観客に約束し、本当に翌年やって来た。 三波春夫の律儀さに皆、感心したという。*2


新盛座は明治20年開館、昭和36年閉館。大浜村の蓬莱座に対抗して、北大浜村の鶴ケ崎(現・浅間町)に、岡本八右衛門ら7人が出資し、株式会社として開場した。後に奥谷市朗が経営を継いだ。木造3階建で、当時は西三河最大の劇場であった。演劇以外にも講演会・演説会などの各種の会が開かれ、公共性の強い多目的に使われた。文化の殿堂といわれ、その役割を果たした。戦後は映画スターや歌手の実演も行われた。伊勢湾台風来襲の夜は、浪曲師から歌手に転向して大ヒット中の三波春夫が出演していた。停電のため、ろうそくの明かりで歌ったが、途中で風雨が強まり、翌年の出演を約束して幕を下ろした。奥谷市郎が亡くなると共に70年の歴史を閉じた。*3*4

寿々喜座(すずきざ)

1934年の寿々喜座*5
1951年の寿々喜座*6
所在地 : 碧南市大浜町六供*7
開館年 : 1879年(劇場)、1902年(移転・改称)
閉館年 : 1963年
Wikipedia : 寿々喜座

大浜村林泉寺の前に、明治13年芝居の蓬莱座と称して村営の劇場が開設された。これが大浜の劇場の始まりである。そののち民間に払い下げられ、明治35年に至って鈴木喜三郎が字六供に新築移転し、寿々喜座と改称した。昭和7年火災にあい、昭和9年3月再開された。*8


大浜本町通りにあったという劇場「寿々喜座」。碧南最初の劇場として明治12年(1879)に誕生したが、映画人気の衰退に昭和38年(1963)閉館してしまう。「浪花節は寿々喜座」と言われるほど繁盛し、映画全盛期には数々の名作洋画を上映
現在の碧海信用金庫・碧南支店のある場所に、大浜の人々に親しまれた「寿々喜座」という劇場があった。 明治12年(1879)に大浜村が村営劇場として、林泉寺前に「蓬莱座」を創立した。碧南市域最初の劇場である。 ところが経営が行き詰まり、存続が困難になったために「鈴木喜三郎」に156円で蓬莱座を売却する。 明治35年(1902)に現『碧海信用金庫碧南支店』の場所に移転し、劇場名を「寿々喜座」と改名した。 大浜の気質に浪花節が合致したことから、寿々喜座では浪花節が多く上演され、賑わいを見せた。 映画全盛期には、碧南市域の他の劇場が邦画を上映するなか、寿々喜座では対照的に洋画が上映され、人気を博した。 映画の人気がピークを越えた昭和38年(1963)、惜しくも寿々喜座は84年の歴史に幕を閉じた。*9


寿々喜座は明治35年、碧海郡大浜町六供(現・碧南市)にオープン。昭和7年、火事で焼失し2年後に再建されたが、現在はなく、跡地に碧海信用金庫が建っている。*10


寿々喜座は明治12年ごろ開館、昭和38年閉館。大浜村が村営劇場として、林泉寺の前に蓬莱座を創立した。後に経営困難のために鈴木喜三郎へ156円で払い下げた。明治35年(1902)に本郷町(現在の碧信の場所)に移築して、寿々喜座と改称した。大正から昭和初期には浪花節会の一流者の出演が続き、「浪花節は寿々喜座」とまで言われた。その後は、浪花節や芝居も上演したが、映画が主体となった。昭和25年(1950)ころから一時期洋画専門館となったが、間もなく東映時代劇映画にウェイトを置いた。昭和38年に時代の流れによって閉館し、碧南で最古の劇場は、80年の歴史の幕を下ろした。*11


碧南市本郷町。寿々喜座は浪花節や軽演劇で人気を博した劇場。昭和7年の火災で焼失した後、再建されたときの一枚である。戦後の映画の隆興期には洋画専門館として賑わい、長く大浜の人びとに親しまれた。*12

浜劇(浜劇場)

所在地 : 新川町
開館年 : 1958年
閉館年 : 1962年
Wikipedia : 浜劇
昭和19年に明治飛行場の将校をもてなす為に特殊飲食店が開業。戦後はパチンコ・麻雀などの有する施設を増やし歓楽街として発展。売春防止法制定の動きを察知、昭和29年に温泉街へと転換を図り、危機を乗り越える。最盛期には10軒の温泉旅館が営業し賑わいを見せた
県道50号を北上、山神社を越えて最初の信号交差点を通過、100メートルほど進むと左手に現れるゲート。 ここから先、山神町1・2・6丁目の3区画にあたる場所が「衣浦温泉街」と呼ばれた地帯である。歓楽街として発展するきっかけとなったのは昭和19年(1844)、東端(安城市)に海軍の明治航空基地が造られ、将校の慰安所として特殊飲食店をこの地へ設置したことによる。 戦後は花柳街として賑わいを見せるが、昭和33年(1958)の売春防止法施行に先立って、昭和29年(1954)より温泉街へと転換を図る。同年10月に料理旅館「吉文」が開業したのを始めに、最盛期の昭和32年(1957)には10軒の旅館を数え、翌年の33年(1958)には平屋建270席の劇場「浜劇」が出来た。 碧南一の歓楽街として賑わった衣浦温泉街も海が埋め立てられ次第に衰退していき、現在では数軒の料理旅館が営業するだけとなった。*13


浜劇は昭和33年開館、昭和37年閉館。衣浦温泉の全盛期に、温泉街の一角で平屋建270席で開場したが、昭和35年ころからの映画人口減少で閉場した。*14*15

三栄座/棚尾三栄座

所在地 : 碧海郡棚尾村字森下2番地、碧南市棚尾町森下*16
開館年 : 1897年(劇場)、1937年(映画館化)
閉館年 : 1978年
Wikipedia : 三栄座

明治30年(1897)頃、八柱神社の裏に「三栄座」という劇場が誕生した。 この三栄座へ来る客を当て込んで、客相手の商売が発展し、棚尾のまちは歓楽街として名声を得ていた。 昭和12年(1937)頃から三栄座は映画専門館となり、映画全盛の時流に乗ってさらに栄える事となる。 だが、映画産業の衰退と共に昭和53年(1978)に三栄座は閉館する。以後、それまであった人の波は嘘のように消え、棚尾は閑散とした街となった。*17


明治から昭和にかけて、弥生町3丁目の八柱神社隣に劇場の三栄座があり、近隣市町村からの来客も多く棚尾の町は大いににぎわった。明治・大正時代は、近くで栄えた花街の客を主体として、演劇や浪花節などが興行された。又、花柳界の芸事の発表なども行われ、花街の中心となって繁栄した。昭和に入り、この頃から大衆娯楽の中心となった映画の専門館に改装した。特に、戦後の昭和三十年代にテレビが普及するまでは、町の人だけではなく電車で来る客なども多く、活況を呈した。*18


三栄座は昭和30年ころ開館、昭和53年閉館。棚尾の八柱神社北で、株式会社として開場した。映画専門館になったのは昭和12、13年ころで、オーケストラボックスを設け、ピアノを備えた。映画の全盛期には電車に乗って、平坂方面からも多くの観客がきた。近くの風俗営業店と共に大層にぎわった。昭和35年に経営権は、創業者の斎藤家から西尾の松栄館に移った。53年に新川キネマと共に、碧南の最後の劇場が幕を閉じた。*19


三栄座は村芝居が好きなこの地に、明治31年、創業をみた劇場である。*20

新川キネマ

1964年頃の新川キネマ*21
所在地 : 碧南市小狭間42*22
開館年 : 1929年
閉館年 : 1978年
Wikipedia : 新川キネマ

「新川キネマ通り」として新しく発展していく界隈。新しく並木通りが整備され、往年の面影は消されつつある。新川キネマが現役当時の雰囲気を未だ残す一帯が鶴見町にある
水門橋から碧南市民図書館へ行く道は、高機能舗装が敷設され、碧南一美しい並木通りとなった。 外灯には透かした編み目に「キネマ通り」と浮かび上がる仕組みを施し、盛んに「新川キネマ通り」である事を宣言している。 「新川キネマ」とは昭和53年(1978)まで、この地にあった映画館の事。昭和初期に千福から西山に抜ける農道が整備された時、 地区の発展を願って映画館は作られた。千福ポケット広場から北東へ向かう道、和菓子屋、オートバイ屋、八百屋、染め物屋が並ぶ商店街、 これがその農道である。颯爽と歩く並木道とは対照的に、どこか淋しげな雰囲気。だがここが本当のキネマ通りなのである。
キネマ通りの由来となった「新川キネマ」は今は跡形もなく消えている。 水門橋から碧南市民図書館へ抜ける道路上、「いちことこや」(千福町3丁目)の西南にあった。 新川キネマは、昭和4年(1929)に地区の発展に寄与する施設として開館した。 開館した時には、外車のオープンカーに乗り、トランペットを吹いて新川キネマを宣伝したりした。 無声映画の時代で、上映しながら弁士が内容を語り表現するというものだった。 昭和35年(1960)をピークに映画の人気も陰りを見せ始め、昭和53年(1978)、奇しくも棚尾の「三栄座」と同じ年に閉館した。 新川キネマと共に栄えた界隈の店舗も年を追う事に少なくなり、現在は「キネマ通り」という名だけが残り、往時の賑わいを伝えているだけである。*23


新川キネマは昭和4年開館、昭和53年閉館。河原真市・中根初太郎・石川幸三郎・石黒某らを発起人として株式会社が設立された。当時、千福から西山へ通じる農道(現・キネマ通り)を拡張するに当たり、「地区の発展に寄与する私設を」という要望から、粘土採掘場の跡地(現・千福町3-96)に、木造2階建切妻造り・赤かわらぶきのしゃれた建物で開場した。初代マネージャーとして、京都の映画会社帝国キネマから高田英太郎を招いた。開業の宣伝には、帝国キネマ宣伝部から外車のオープンカー(当時市内には三輪車はあったが、四輪自動車はなかった)を借り、背広にちょうネクタイの楽士(当時は医者もすべて和服が普通)が乗って、トランペットを吹いて走り回った。このころは無声映画で、楽士や弁士たちは町の人気者であった。戦後、経営権は西尾の松栄館に移り、昭和35年ころまでキネマの黄金期が続いた。*24

旭座

所在地 :
開館年 : 1927年
閉館年 : 1929年
旭座は昭和2年開館。昭和4年閉館。三河旭駅前に木造平屋建で開場した。短命であった。*25

碧南キネマ

所在地 :
開館年 : 1928年
閉館年 : 1931年-1932年頃
碧南キネマは昭和3年開館、昭和6、7年ころ閉館。生田重松・田中某らを発起人として、大浜港駅(現・碧南駅)の南に木造平屋建で開場した。碧南で最初の映画専門館、碧南の名を冠した最初の民間企業、碧南で洋画のトーキー(発声映画)を最初に上映したという三点は、碧南の文化を知るうえで意味があるが、惜しくも3、4年で閉鎖した。トーキーは米国で1926年に初公開され、日本では昭和6年(1931)に初めて制作された。*26

碧南市の映画館

明治12〜13年(1879-80)ころ、大浜村が村営の蓬莱座(後の寿々喜座)を開き、同20年に新盛座ができた。大正2年(1913)に活動大写真(無声映画)が製作され、寿々喜座新盛座で弁士がついて上映された。トーキーになったのは昭和の初めで、同3年(1928)に現碧南駅の南に市内最初の映画常設館である碧南キネマが開場し、初めてトーキーの洋画を上映した。*27

高浜市

千歳座

1926年の千歳座
所在地 : 碧海郡高浜町高浜*28
開館年 : 1926年以前
閉館年 : 1962年以後
高浜市青木町の千歳座。高浜町内でただ1か所の映画館だった。木戸を通って履物を預けて引替札を受取り、畳の客席に腰を下ろした。活動写真全盛期から昭和の中頃まであった。*29

衣浦東映

開館当初と思われる衣浦東映*30
所在地 : 高浜市字馬場52*31
開館年 : 1957年
閉館年 : 1990年以後
衣浦東映は、千歳座と同じ経営者で、昭和32年12月新築開館。昭和34年の伊勢湾台風で被害を受けたが、業者に依頼するとなかなか順番が来ないので、スレートなどの建材を仕入れ自分達で修復し開館、しかし平成2年9月の13号台風で屋根・壁が壊れてやむなく休館。映画全盛時代には、村田英雄・市川猿之助・松竹歌劇団が舞台に立って、大入り満員だったそうです。*32

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