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伊那地方を除く長野県の映画館。長野市、松本市、塩尻市、佐久市、木曽郡木曽町。

長野市

長野市の映画館

長野市内の映画館は、『長野商工要覧』(昭和30年・長野商工会議所発行)掲載の特定商工業者名簿によると、裾花映画劇場中央映画劇場長野活動館長野東映商工会館長野映画興業(相生座)、七瀬映画劇場の6館があった。さらに、長野市街地には、千石劇場千石小劇場演芸館長野映画劇場東映劇場が載っている。このほか吉田に1館があり、また、篠ノ井町、松代町にも各1館があった。その後もしだいに増えていき、32年には15館になっている。当時の映画館経営は、ふつう「2万人に1館」が限度とされていたが、長野市は15万人に15館をかかえ「1万人に1館」という飽和状態になっていた。33年には、さらに1館が開館した。東映株式会社直営の封切館で、映画愛好者には冷暖房完備の高級施設で封切映画をみせるということで歓迎されたいっぽうで、同業者からは「経営不振の映画館も2、3館あって、これ以上映画館がふえることは経営面から非常に困る(『信毎』)との意見がだされていた。36年には、映画館客数は前年の3割減となった。テレビの普及に加えて屋外のレジャーを楽しむ人がふえ、若者たちが映画にあまり興味を示さなくなったためと言われており、大衆娯楽としての映画もかげりをみせるようになった。映画館では、対策や人気スター出演の作品を集めたり、施設の改善などをおこなったりして客足の確保に力をそそいだが、閉館を余儀なくされる映画館もふえていった。*1

長野市営中央映画劇場

所在地 : 長野県長野市
開館年 : 1948年12月16日
閉館年 : 1949年12月
1948年12月16日、長野市営中央映画劇場が開館。全国でも珍しい市営の映画館。日本映画史研究家の牧野守は「日本の公共機関のレベルで運営する映画館があったとは聞いたことがない」。現在の長野東宝中劇の場所。建物は1946年に完成。西鶴賀にあった菊田劇場の館主である藤原正次郎が建築主。棟上げ後には娯楽施設の建設にGHQから開館中止指令を受けたが、国会議員に働きかけて完成。長野市営だったら開館してもよいとGHQから許可が出たとされる。長野市は「アメリカ映画の上映によりアメリカ文化を市民に紹介し、その教養を高めること」を経営目的とし、開館記念公演は『我等の生涯の最良の年』(アメリカ、1946年)。1949年12月の閉館公演は『黄金』(アメリカ、1948年)。1年間の借受契約期間が終了したため所有者に変換し、民間の株式会社による経営に変わった。市営時代は民営の映画館と協調関係を維持するのが難しかったのが短命の理由である。戦前から戦後に続いた映画館は長野活動館と長野演芸館。1948年には長野市営中央映画劇場と相生座が開館。1950年には菊田劇場が商工会館と改称して映画館化し、千石劇場と吉田映画劇場が開館。1951年には千石小劇場が開館。*2

長野東映劇場

所在地 : 長野県長野市
開館年 :
閉館年 : 2006年8月4日

長野グランドシネマズ

所在地 :
開館年 : 2006年6月
閉館年 : 営業中
2006年6月下旬、長野市初のシネマコンプレックスが開館。8スクリーンで1365席。3館の長野松竹座ロキシー1・2、80席のシネマポイント、シネコンと上映作品が近い千石劇場に影響も出ている。長野東映劇場は2006年8月4日、老朽化を理由に半世紀近い営業に幕を下ろした。*3

松本市

松本東宝セントラル

所在地 :
開館年 :
閉館年 : 2004年
2003年6月21日、長野県松本深志高校に住みついて授業や職員会議に出た野良犬の物語を映画化した『さよなら、クロ』の上映が長野県内8カ所の映画館で始まった。撮影にも使われた映画館「松本東宝セントラル」では、松岡錠司監督や主演の妻夫木聡さんが舞台挨拶を行った。*4

2004年10月24日、松本市の老舗映画館「松本東宝セントラル」が半世紀余りの歴史の幕を閉じる。今年2月の「松本中劇」に続く閉館であり、松本市内の映画館は3館に減る。シネマコンプレックスが台頭し、全国の地方都市で従来型の映画館が姿を消している。こうした中、「まちなかの映画館の灯を残したい」と、市民の間に署名活動や自主上映の動きも広がっている。*5

このほど、2004年10月に閉館した松本市の老舗映画館「松本東宝セントラル」のロビーに飾られていたシャンデリア3基が松本市民芸術館に寄贈された。1975年の改装時に計180万円で購入した6基のうちの3基。販売した照明器具会社「ヤマギワ」によると、フランスのベルサイユ宮殿にある1740年製のシャンデリアと同じデザインである。*6

松本中劇

所在地 :
開館年 :
閉館年 : 2004年
松本市大手4丁目の「松本中劇」「シネサロン」などを経営する中央劇場は、2004年2月16日に地裁松本支部に自己破産を申請し、映画館を封鎖した。負債総額は約1億9700万円。1913年に同所で始めた呉服店が同社の前身であり、その後デパートに。1945年に同社を設立し、1946年に映画館の運営を開始した。洋画中心の老舗で、15日まで『ラスト・サムライ』などを上映していた。2002年3月期の年収入高は1億500万円だったが、2003年同期は8500万円に。*7

2004年2月16日、松本市の映画館「松本中劇」を経営する中央劇場(藤本徳次社長、資本金1千万円)は長野地方裁判所松本支部に自己破産を申請した。負債総額は約1億9700万円。*8

2年前に倒産した松本市の映画館「松本中劇」を主な会場として、宮崎義文は約25年間にわたって名画の自主上映会を行ってきた。2006年にはNPO法人「コミュニティシネマ松本CINEMAセレクト」を立ち上げ、映画の街・松本の再生をめざしている。宮崎は寺院の跡取りだったが、映画に触れていたくて松本中劇に就職。もぎりや売店の仕事をこなしながら、年に数回は自身が観たい映画を自主上映した。1987年には任意団体の「松本CINEMAセレクト」を1人で結成。上映本数は年100本を超え、監督をゲストに迎えるイベントなども手掛けるようになった。実家の寺が忙しくなり、1991年に松本中劇を退社するが、僧侶の仕事を終えた後の夜には松本中劇で映画鑑賞を行っていた。2004年2月に松本中劇が倒産するまでに公開した作品は、アジア映画・東欧映画・中南米映画など約500本に上る。松本中劇の閉館後は、松本市美術館などを会場に活動を続けている。大都市と地方との「上映格差」をなくそうという「コミュニティシネマ運動」にも参画し、「CINEMAセレクト」をNPO化して運動を本格化することにした。*9

松本テアトル銀映

所在地 :
開館年 : 1870年、1914年、1963年
閉館年 : 2008年10月
松本市街地で最古の映画館「テアトル銀映」は2008年10月24日をもって営業を終了。経営者の松本興行が今冬にシネコンを開館させるため。1870年に開館した筑摩県最初の常設劇場「松本劇場」が前身。1914年に現在の城東1丁目に移転。この大正期の建物を残しており、天井には豪華な木彫刻が施されている。1963年にはテアトル銀映に改称し、70ミリフィルム対応の巨大スクリーンを上映。主に洋画を上映した。施設の老朽化、駐車場がない立地などから観客数が低迷し、1回に1人も入らないこともあった。*10

上土シネマ

所在地 : 長野県松本市大手4丁目10番12号
開館年 : 1917年
閉館年 : 2008年11月14日(2008年11月24日)
Wikipedia : 松本エンギザ(単独記事ではない)

2008年10月には市街地で最も歴史が古かった松本テアトル銀映が閉館。諏訪市では2005年に花松館・2007年にシネマレイクが閉館して市街地から映画館がなくなった。2008年11月下旬、上土シネマの最終日には『緋牡丹博徒 花札勝負』を上映。最後の上映作品は「不採算を理由に廃止が決まったローカル線の駅をめぐる人間ドラマ」『鉄道員』であり、映画館の姿と重なった。*11

平形興行は大手4丁目の上土シネマを2008年11月14日をもって閉館させる。経営資源を大手4丁目のエンギザに集中させるため。大正時代から続くとされるミニシアター。市街地の有志が出資して営業。*12

松本エンギザ

所在地 : 長野県松本市大手四丁目9番21号
開館年 : 1921年
閉館年 : 2010年6月27日
Wikipedia : 松本エンギザ(単独記事)
1997年11月8日、松本市大手4丁目のエンギザはミニシアター風劇場を2館備えた映画館を新装オープンする。明るい色の壁、障碍者用トイレを設置した映画館は、長野県屈指の映画館密集地である松本市でも珍しい。鉄筋コンクリート造4階建。1階と2階には飲食店、3階に120席と160席の映画館。エンギザは1921年に演技座として開館し、戦後に盛り上がりを見せたが、テレビやビデオ映画の普及で入場者が減少した。*13

松本シネマライツ

所在地 : 長野県松本市
開館年 : 2008年
閉館年 : 営業中
松本興行はイトーヨーカドー南松本店の駐車場の一角に県内最大級のシネコンを建設する予定。8館1374席。商圏は半径60劼鯀枋蝓G間売上高は約6億円を見込む。松本都市圏では2000年に東筑摩郡山形村に6館のアイシティシネマが開館。2004年には市街地の老舗映画館2館が相次いで閉館した。松本興行は松本市城東1丁目のテアトル銀映(2館)や長野市の千石劇場(3館)も経営。*14

須坂市

須坂電気館

所在地 : 須坂市東横町
開館年 : 1924年頃
閉館年 : 1965年頃
須坂市東横町。1924年頃には須坂電気館の建物が竣工し、1965年頃まで映画館として営業していた。建物はその後家具店となり、2000年春には家具店も閉店した。2000年7月1日・2日にはさよなら上映会を開催し、8月にはこの建物が解体された。*15

上田市

上田映劇

所在地 :
開館年 : 1917年
閉館年 : 2011年4月
1917年に歌舞伎・演劇・寄席などの興行を行う劇場として上田劇場が開館。昭和初期に映画館となった。格天井がある。2011年1月時点で上田市の映画館は上田でんき館と上田映劇のみであり、同じ会社が運営していた。2011年4月には8スクリーンのTOHOシネマズ上田がアリオ上田に開館したことで、同月には上田映劇が閉館し、7月には上田でんき館が定期上映を終了した。*16

上田電気館/上田でんき館

所在地 :
開館年 :
閉館年 : 2011年7月
2011年1月時点で上田市の映画館は上田でんき館と上田映劇のみであり、同じ会社が運営していた。2011年4月には8スクリーンのTOHOシネマズ上田がアリオ上田に開館したことで、同月には上田映劇が閉館し、7月には上田でんき館が定期上映を終了した。*17

諏訪市

高島座

所在地 :
開館年 : 不明/1906年
閉館年 : 1921年頃
高島座は、諏訪地方唯一の娯楽の殿堂として人々を楽しませていたが、明治39年10月、清水六軒下(現清水2)へ宏大な洋風建築の劇場として引き移った。その初興行には、煙火を打ち上げ、百俵の撒餅をし、舞台開きは、市川久米八の一座45名によって「菅原伝授手習鑑」「勧進帳」などが上演され、大観衆を集め盛大なものであった。市川団女・坂東鶴之助・中村信乃らの一座の来演もあり、諏訪唯一の常設劇場として栄えた。この高島座も、大正元年(1921)都座の開場のころ廃座となり、建物は下諏訪町へ移され御田劇場となった。明治39年の写真あり。*18

真松亭(真松座)

所在地 :
開館年 : 不明
閉館年 : 1912年
真松亭真松座)は、いつ始まったかはっきりしないが、明治38年8月の南信評論に「中町裏(現末広)に小松真吉氏創立にかかわる寄席あり、三味・太鼓常に不景気風に一導の活気を齎す」と報ぜられている。芝居・義太夫・浪花節・奇術・活動写真などに、気易く出入りする所として多くの人に親しまれ、明治末年までつづいた。*19

都座

所在地 :
開館年 : 1912年
閉館年 : 1966年
都座は、大正元年10月、大手並木南東裏の稲田の中に開場した。洋風三層楼、舞台80坪、観客席1000余という大建築で県下第一の威容を誇った。初興行は市川段四郎・市川猿之助一座76名によって5日間華々しく開かれ、名優の目の覚めるような演技は、満場の大観衆をうっとりさせた。都座は、芝居をはじめ浪花節・義太夫・奇術など次々に開演し、時々映画も上映して、町に唯一の演劇場として大きな存在であった。15年発足の青年演劇「街の劇場」の公演の場であったことも意義深いことであった。都座は単に演劇場としてだけでなく、青年会・壮年会・組合大会・演説会など各種大会が開催され、諏訪地方第一の大集会場としての役割も果たした。芝居が主であったころは、枡席で行火にあたってご馳走を食べながら観劇していたが、映画が主になってきて、昭和12年には椅子席に改造した。戦後、洋画がもてはやされるようになって、31年には洋画専門のシネマレイクをつくった。本館は、邦画を主とする映画館として引き続き庶民の楽しみの場となっていたが、41年には閉館した。大正元年の開館時の写真あり。*20

花松館

所在地 : 諏訪市末広町
開館年 : 1916年
閉館年 : 2005年
花松館は、大正5年諏訪地方初めての常設活動写真館として末広町に開館した。当時上諏訪には、大娯楽場としては都座が唯一つしかなかったので、大いに期待されて発足した。尾上松之助が「目玉の松ちゃん」として大活躍をし、「ジゴマ」がもてはやされるころであった。当時はもろちん、昭和初期までは無声映画で、フロックコートや羽織袴の弁士がスクリーン脇の演台で、状況の説明や登場人物の対話などを独演した。映画を活かすも殺すも弁士の口先一つで、人気弁士には大向うから声がかかる程であった。花松館は、前からあった都座、あとかできたオデオン座とともに、3館鼎立して長い間、地方の映画の殿堂として栄えた。創立以来幾多の困難をのり越え、一貫して今なお、市内わずかに残る2映画館の1つとして面目を保ち続けている。1974年の写真あり。*21

シネマレイク

開館年 : 1956年
閉館年 : 2007年8月31日
シネマレイクは、昭和31年開設以来、幾多の困難に耐えながら、現在市内わずかに残る2つの映画館の1つとして、洋画を上映し、若人たちを引きつけ続けている。*22


2007年8月31日をもって諏訪市のシネマレイクが閉館する。2005年には末広の花松館も閉館しており、諏訪市から映画館が消える。1954年12月末に洋画の上映館として開館した。その後映画業界が低迷したが、『エマニュエル夫人』や『E.T.』などはヒットした。最終上映作品は『ダイ・ハード4.0』。*23

オデオン座

所在地 :
開館年 : 1923年
閉館年 : 1965年以前
オデオン座は、大正12年大震災後に大手町に開館した。新しい時代劇「清水の次郎長」が評判になり、女優中心の母性愛映画や恋愛映画がファンを引き付け、アメリカの映画が盛んに輸入される頃であった。その後昭和20年代には市内で一番盛んな時期もあったが、30年代末には姿を消した。*24

諏訪東映・ニュー東映

所在地 :
開館年 : 1955年以後
閉館年 : 1976年以前
諏訪東映ニュー東映は、ともに昭和30年代に開館し、市内に6映画館が競い立つ華やかな時期もあったが、時代の波におされて、わずか十数年にして2館とも転業した。*25

茅野市

茅野市の映画館

テレビが普及する前は、映画が盛んであった。戦後、占領軍の文教政策の一環として「ナトコ映画」がさかんに上映された。ナトコ映画とは、ナトコ映写機を使用してい画を上映したから、この名前が付けられた。「ナトコ映画」は22年ころから、主として民主化に関係したフィルムを上映したが、戦後、娯楽の乏しかった時代に、学校や村の公民館で手軽に上映できたので、人びとに親しまれた。このようなことから、常設映画館でも移動映写機を購入して、映画館のない山浦地方に出張して映画を上映した。このようにして、映画は人々に迎えられ、20年代後半から常設映画館が盛況となった。映画製作会社も新しくでき、映画の画面のワイド化と相まって観客数が急激に増加した。このような情勢下、32年には、茅野駅周辺に「新星劇場」と「東映劇場」が相次いで開館した。今まで、上諏訪以東で茅野市域を含む原村にかけては中央劇場1館だけであったのが3館となり、それぞれの映画会社のフィルムを上映した。しかし、30年代後半からテレビの普及によって次第に映画が衰退し、観客が著しく減少した。この結果、明治45年以来、長い歴史を持つ中央劇場は40年に、東映劇場は41年に閉館した。*26

茅野新星劇場

所在地 :
開館年 : 1957年
閉館年 : 2013年10月31日
茅野市の新星劇場は2013年10月に通常営業を終了し、11月11日・12日にお別れ上映イベントを開催した。『北のカナリアたち』、『レ・ミゼラブル』を上映し、ほぼ毎回満員の観客が詰めかけた*27

1969年正月には茅野の新星劇場に新藤兼人監督が来場し、スタッフや相原昭信支配人と記念撮影を行った。約1000万円かかるデジタル機器への更新を行わず、閉館を決定した。2013年10月4日が楽日で通常営業を終えた。今後も出張上映を続ける予定である。*28

茅野市の新星劇場は1957年に開館した。かつて映画館では発火しやすいフィルムを使用していたため、映写室の天井にはボヤの際の煙のすすが残る。2005年頃から観客数の落ち込みが深刻となった。*29

2013年11月11日、茅野市で唯一の映画館である新星劇場が閉館。新星劇場は1957年に地元有志が設立した運営会社によって開館した。やがて柏原勇太郎が経営に乗り出し、1963年に息子の柏原昭信が引き継いだ。市内にあった残り2館は1960年代半ばに相次いで閉館。2010年代にはデジタル化の資金を回収できる見込みが経たず、2013年春に閉館を決意した。2013年10月30日をもって通常営業を終了し、11月10日・11日に記念上映を行った。*30

2009年4月からは茅野市役所が毎月第3日曜日を「映画館の日」とし、茅野新星劇場を市による貸し切り扱いとして無料開放する。茅野市では1998年から蓼科高原映画祭を開催していることから、「(苦境が続く単館系映画館の)スクリーンを守りたい」としている。諏訪地域では近年に諏訪市の2館が相次いで閉館し、茅野新星劇場と岡谷キネマの2施設のみとなった。*31

2009年4月19日に茅野新星劇場で開催された「第1回 映画館の日」には、松竹の大谷信義社長も来館してあいさつを行った。*32

佐久市

佐久市の映画館

昭和23年頃の岩村田劇場の写真あり。昭和20年代半ばの市域の映画館には、岩村田劇場岩村田キネマ中込座野沢演芸館岸野劇場があり、佐久地域には常設でないものも含めると16館もあった。「定員1200人の中込座では、座席が朝から満員という日が続いたこともあった」という。25年9月10日の『信濃毎日新聞』広告には岩劇(がんげき、岩村田劇場)、望月川西座、同年11月10日の『東信濃新聞』広告では臼田劇場栄座の名が見え、同日の『東信濃新聞』には「入場者数が県下で4番目といわれる中込座」で「東京大歌舞伎市川羽左衛門一行50余名」による「京鹿子娘道成寺」などの特別興業が、昼夜2回おこなわれたという記事も掲載されている。
『信濃毎日新聞』(昭和40年8月5日)によると、当時、県内では観客数の増加に伴って映画館は増え続け、昭和33年度には県下の観客は138万人に達して映画全盛時代を迎え、県民1人あたり1年間に7回は映画を見ていた計算で、県下の常設映画館が一番多かった36年度には141館あって観客を集めたという。映画全盛期であった34年4月『信濃毎日新聞』の週間映画案内には、市域の岩村田ロマンス座野沢演芸館中込座の3館、小諸中映小諸キネマ佐久町栄キネマを含めて咲く全域では計6館の名がある。岸野の依田伯治は35年大みそかの日記で一年を振り返り「映画を見る機会が多く月に3回位は見た」と記し、36年5月13日には「11時から野沢演芸館で有名な『人間の条件』全巻を夜の9時まで10時間。本で読んだことがあるのでよくわかり面白かった。仲代達也主演。10時帰宅」と書いている。
しかし、テレビの普及やレジャー産業の多様化によって、戦後娯楽の中心であった映画の観客数は減少傾向をたどった。県下のテレビ普及率が全世帯の74%に達した38年ころからは、映画館の休廃館が目立つようになって39年度には110館にまで減少し、「県下の観客数はピーク時の4割弱」(『信濃毎日新聞』昭和38年12月5日)にまで落ち込んだ。このような状況が続く一方で観客誘致の努力もみられ、岩村田ロマンス座は30年に新築した映画館の建物を取り壊し、「時代に合ったコンパクトな映画館に生まれ変わった」(『昨新聞』昭和60年8月23日)。しかし、平成13年現在、市内で営業を続けているのは、多様な客の要望に応じるシネマコンプレックスで、最新の機器・施設への投資、話題映画の導入などによって映画館の灯を守り続けている佐久グランドシネマと、アムシネマの2館だけで、佐久地域内にはほかに常設の映画館はない。*33

望月川西座

所在地 : 北佐久郡望月町(現・佐久市)
開館年 : 1907年
閉館年 : 1999年
Wikipedia : 望月川西座
県内の町村部では最後の映画館となっていた北佐久郡望月町の望月川西座が閉館し、ファンたちがお別れ興行を23日から開く。芝居小屋として90余年前に建てられて以来、地元の客を楽しませてきたが、時代の流れはどうしようもなかった。最終日の10月3日には上映終了後の午後四時半から、ファンが3代目経営者の山田寛さん(58)と美代子さん(54)夫婦に花束を贈り、川西座を語る会を開く。
川西座の上棟式は1907年(明治40年)年。当初は畳敷きで、有名な役者や浪曲師が農閑期に巡り、近在から客が集まった。130館近くを数えた県内の映画館は59年を頂点に減り、昨秋は49館と半減した。川西座の経営もピンク映画に頼らざるを得なくなり、施設も老朽化した。7月の大雨がとどめを刺した。雨漏りがひどくなり、修理するには多額の費用が必要となった。通常の興行を今月1日で打ち切った。
突然の閉館を知り、地元のファンは驚いた。川西座で「風の谷のナウシカ」などの上映運動をしたことがある町役場職員の松本荘雄(ただお)さん(52)たちが「閉館を惜しむ有志の会」を急きょ結成。モントリオール映画祭で高倉健さんが主演男優賞を受けたばかりの「鉄道員(ぽっぽや)」と小津安二郎監督の「秋日和」の2本立てのお別れ興行開催を決めた。*34

大町市

大町劇場

所在地 :
開館年 :
閉館年 : 2005年
2013年4月17日、カモシカは映画館跡の脇を通って大町市街をうろついた。*35

池田町

大町・北安曇、安曇野地方の映画ファンで構成される「シネマ・ファン倶楽部」は、2008年から池田町で名画の上映会を行っていた。資金難によって60回目で定期的な上映会を終了した。
*36

木曽地方

木曽映画劇場

所在地 : 長野県西筑摩郡福島町(現・木曽郡木曽町大字福島)
開館年 : 1951年10月1日
閉館年 :
戦後間もない1951年(昭和26年)10月1日、長野県西筑摩郡福島町(現・木曽郡木曽町大字福島)に町営の映画館として木曽映画劇場が開館した。当時の木曽地方に娯楽施設は少なく、福島町に常設の映画館はなかった。映画の上映が中心だったが、その他にも各種催しが開催された。*37

木曽映画劇場は福島町公民館の西側に隣接していた。*38

牧尾劇場

所在地 : 長野県西筑摩郡王滝村二子持(現・木曽郡王滝村二子持)
開館年 : 1958年
閉館年 :
木曽郡木曽町から王滝村に通じる長野県道256号を走り、御岳湖の牧尾ダムが姿を見せる直前、道路わきの山林に映画館「牧尾劇場」の廃墟が見える。牧尾ダムの建設工事が本格化した1958年(昭和33年)から完成までの数年間、連日にわたって満員の客を集めた。かつて牧尾劇場の周辺には、「かっぱ亭」「ミナト」「宝船」「百万石」などのプレハブの飲み屋が集まっていた。牧尾ダム着工後には約3000人(※管理者注 : 300人の間違いではないかと思います。)の工事関係者が王滝村に集まり、牧尾ダム直下の二子持地区には愛知用水公団(現・水資源機構)の事務所や作業員の宿舎が建設され、牧尾劇場のほかにはダンスホールやパチンコ屋なども開店した。信濃毎日新聞は当時の様子を「牧尾銀座」と名付けた。*39

「かっぱ亭」「ミナト」「宝船」「百万石」。飲食店、酒場、パチンコ屋、ダンスホール、林の中の映画館「牧尾劇場」などがあった。*40

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