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伊那地方を除く長野県の映画館。北信(長野市、須坂市)、東信(上田市、小諸市、佐久市)、中信(松本市、塩尻市、大町市、安曇野市、北安曇郡池田町、木曽郡木曽町、木曽郡王滝村)、南信(諏訪市、岡谷市、茅野市、諏訪郡下諏訪町)の順。伊那地方は別ページ参照。

長野市

長野市の映画館

長野市内の映画館は、『長野商工要覧』(昭和30年・長野商工会議所発行)掲載の特定商工業者名簿によると、裾花映画劇場中央映画劇場長野活動館長野東映商工会館長野映画興業(相生座)、七瀬映画劇場の6館があった。さらに、長野市街地には、千石劇場千石小劇場演芸館長野映画劇場東映劇場が載っている。このほか吉田に1館があり、また、篠ノ井町、松代町にも各1館があった。その後もしだいに増えていき、32年には15館になっている。当時の映画館経営は、ふつう「2万人に1館」が限度とされていたが、長野市は15万人に15館をかかえ「1万人に1館」という飽和状態になっていた。33年には、さらに1館が開館した。東映株式会社直営の封切館で、映画愛好者には冷暖房完備の高級施設で封切映画をみせるということで歓迎されたいっぽうで、同業者からは「経営不振の映画館も2、3館あって、これ以上映画館がふえることは経営面から非常に困る(『信毎』)との意見がだされていた。36年には、映画館客数は前年の3割減となった。テレビの普及に加えて屋外のレジャーを楽しむ人がふえ、若者たちが映画にあまり興味を示さなくなったためと言われており、大衆娯楽としての映画もかげりをみせるようになった。映画館では、対策や人気スター出演の作品を集めたり、施設の改善などをおこなったりして客足の確保に力をそそいだが、閉館を余儀なくされる映画館もふえていった。*1

長野市営中央映画劇場

所在地 : 長野県長野市
開館年 : 1948年12月16日
閉館年 : 1949年12月
1948年12月16日、長野市営中央映画劇場が開館。全国でも珍しい市営の映画館。日本映画史研究家の牧野守は「日本の公共機関のレベルで運営する映画館があったとは聞いたことがない」。現在の長野東宝中劇の場所。建物は1946年に完成。西鶴賀にあった菊田劇場の館主である藤原正次郎が建築主。棟上げ後には娯楽施設の建設にGHQから開館中止指令を受けたが、国会議員に働きかけて完成。長野市営だったら開館してもよいとGHQから許可が出たとされる。長野市は「アメリカ映画の上映によりアメリカ文化を市民に紹介し、その教養を高めること」を経営目的とし、開館記念公演は『我等の生涯の最良の年』(アメリカ、1946年)。1949年12月の閉館公演は『黄金』(アメリカ、1948年)。1年間の借受契約期間が終了したため所有者に変換し、民間の株式会社による経営に変わった。市営時代は民営の映画館と協調関係を維持するのが難しかったのが短命の理由である。戦前から戦後に続いた映画館は長野活動館と長野演芸館。1948年には長野市営中央映画劇場と相生座が開館。1950年には菊田劇場が商工会館と改称して映画館化し、千石劇場と吉田映画劇場が開館。1951年には千石小劇場が開館。*2

長野東映劇場

所在地 : 長野県長野市権堂町6-2268
開館年 : 1960年以前
閉館年 : 2006年8月4日

長野グランドシネマズ

所在地 : 長野県長野市権堂町1506
開館年 : 2006年6月
閉館年 : 営業中
Wikipedia : 長野グランドシネマズ
2006年6月下旬、長野市初のシネマコンプレックスが開館。8スクリーンで1365席。3館の長野松竹座ロキシー1・2、80席のシネマポイント、シネコンと上映作品が近い千石劇場に影響も出ている。長野東映劇場は2006年8月4日、老朽化を理由に半世紀近い営業に幕を下ろした。*3

須坂市

須坂電気館

所在地 : 長野県須坂市東横町
開館年 : 1924年頃
閉館年 : 1965年頃
須坂市東横町。1924年頃には須坂電気館の建物が竣工し、1965年頃まで映画館として営業していた。建物はその後家具店となり、2000年春には家具店も閉店した。2000年7月1日・2日にはさよなら上映会を開催し、8月にはこの建物が解体された。*4

須坂映画劇場/須坂映劇

所在地 : 長野県須坂市中町広小路235
開館年 : 1914年
閉館年 : 2000年以降2010年以前
かつて須坂市には須坂映劇、電気館、末広館、日進会館の4館があったが、2000年以降2010年以前には最後に残った須坂映劇が閉館した。閉館後の建物はスーパーマーケット「あらいマート」として活用されていたが、2015年に解体された。

須坂地域で製糸業が盛んだった1914年(大正3年)に劇場として開館した。こけら落とし公演は中村吉右衛門。1915年(大正4年)には松井須磨子の「剃刀」「復活」の公演や、島村抱月の講演も行われた。1975年頃まで映画館として使用されていたが、やがて閉館した。その後建物はスーパーなどとして使われてきた。*5

飯山市

飯山座

所在地 : 長野県飯山市鉄砲町1267(1960年)
開館年 : 1960年以前
閉館年 : 1960年以後
飯山市に2館あったうちの1館。

共栄映画館/飯山共栄館

所在地 : 長野県飯山市中町2767(1969年)
開館年 : 1969年以前
閉館年 : 1969年以後1976年以前
飯山市最後の映画館。『懐かし写真館昭和の街角 須坂・中野・飯山』郷土出版社、2009年、p.108には共栄館が掲載されているらしい。

千曲市

埴生映画館

所在地 : 長野県更埴市杭瀬下53-2(1969年)
開館年 : 1950年以前
閉館年 : 1969年以後1976年以前
屋代駅前。跡地は西友、のちにビッグスポットだったらしい。

上田市

上田映劇

所在地 : 長野県上田市中央2丁目12番30号
開館年 : 1917年
閉館年 : 営業中
Wikipedia : 上田映劇
1917年に歌舞伎・演劇・寄席などの興行を行う劇場として上田劇場が開館。昭和初期に映画館となった。格天井がある。2011年1月時点で上田市の映画館は上田でんき館と上田映劇のみであり、同じ会社が運営していた。2011年4月には8スクリーンのTOHOシネマズ上田がアリオ上田に開館したことで、同月には上田映劇が閉館し、7月には上田でんき館が定期上映を終了した。*6

上田電気館/上田でんき館

所在地 : 長野県上田市中央1-6-13
開館年 : 1921年
閉館年 : 2011年7月
Wikipedia : 上田でんき館
2011年1月時点で上田市の映画館は上田でんき館と上田映劇のみであり、同じ会社が運営していた。2011年4月には8スクリーンのTOHOシネマズ上田がアリオ上田に開館したことで、同月には上田映劇が閉館し、7月には上田でんき館が定期上映を終了した。*7

小諸市

小諸キネマ

所在地 : 長野県小諸市鶴巻町2708
開館年 : 1920年
閉館年 : 1985年
Wikipedia : 小諸キネマ

小諸中央映画劇場

所在地 : 長野県小諸市大手町1-5-25
開館年 : 1950年
閉館年 : 1993年
Wikipedia : 小諸中央映画劇場

佐久市

佐久市の映画館

昭和23年頃の岩村田劇場の写真あり。昭和20年代半ばの市域の映画館には、岩村田劇場岩村田キネマ中込座野沢演芸館岸野劇場があり、佐久地域には常設でないものも含めると16館もあった。「定員1200人の中込座では、座席が朝から満員という日が続いたこともあった」という。25年9月10日の『信濃毎日新聞』広告には岩劇(がんげき、岩村田劇場)、望月川西座、同年11月10日の『東信濃新聞』広告では臼田劇場栄座の名が見え、同日の『東信濃新聞』には「入場者数が県下で4番目といわれる中込座」で「東京大歌舞伎市川羽左衛門一行50余名」による「京鹿子娘道成寺」などの特別興業が、昼夜2回おこなわれたという記事も掲載されている。
『信濃毎日新聞』(昭和40年8月5日)によると、当時、県内では観客数の増加に伴って映画館は増え続け、昭和33年度には県下の観客は138万人に達して映画全盛時代を迎え、県民1人あたり1年間に7回は映画を見ていた計算で、県下の常設映画館が一番多かった36年度には141館あって観客を集めたという。映画全盛期であった34年4月『信濃毎日新聞』の週間映画案内には、市域の岩村田ロマンス座野沢演芸館中込座の3館、小諸中映小諸キネマ佐久町栄キネマを含めて咲く全域では計6館の名がある。岸野の依田伯治は35年大みそかの日記で一年を振り返り「映画を見る機会が多く月に3回位は見た」と記し、36年5月13日には「11時から野沢演芸館で有名な『人間の条件』全巻を夜の9時まで10時間。本で読んだことがあるのでよくわかり面白かった。仲代達也主演。10時帰宅」と書いている。
しかし、テレビの普及やレジャー産業の多様化によって、戦後娯楽の中心であった映画の観客数は減少傾向をたどった。県下のテレビ普及率が全世帯の74%に達した38年ころからは、映画館の休廃館が目立つようになって39年度には110館にまで減少し、「県下の観客数はピーク時の4割弱」(『信濃毎日新聞』昭和38年12月5日)にまで落ち込んだ。このような状況が続く一方で観客誘致の努力もみられ、岩村田ロマンス座は30年に新築した映画館の建物を取り壊し、「時代に合ったコンパクトな映画館に生まれ変わった」(『昨新聞』昭和60年8月23日)。しかし、平成13年現在、市内で営業を続けているのは、多様な客の要望に応じるシネマコンプレックスで、最新の機器・施設への投資、話題映画の導入などによって映画館の灯を守り続けている佐久グランドシネマと、アムシネマの2館だけで、佐久地域内にはほかに常設の映画館はない。*8

望月川西座

所在地 : 長野県北佐久郡望月町大字望月95-2(現・佐久市)
開館年 : 1907年
閉館年 : 1999年
Wikipedia : 望月川西座
1999年9月23日から、長野県の町村部では最後の映画館だった北佐久郡望月町の望月川西座でお別れ興行が開催される。最終日の10月3日の上映終了後の16時30分から、3代目経営者の山田寛さん(58)と美代子さん(54)夫婦とファンが川西座を語る会を開く。1907年年(明治40年)に芝居小屋として開館した。開館当初は畳敷きであり、有名な役者や浪曲師が農閑期に訪れて公演を行った。1959年(昭和34年)に130館近くあった長野県の映画館は、1998年秋時点で49間にまで減少している。川西座も晩年には成人映画に頼るようになり、施設の老朽化が進んでいたことに1999年7月の大雨による雨漏りの深刻化がとどめを刺した。改修には多額の費用が必要となったため、通常の興行を今月9月1日で打ち切った。川西座で「風の谷のナウシカ」などの上映運動をしたことがある町役場職員の松本荘雄さん(52)らは「閉館を惜しむ有志の会」を急遽結成し、モントリオール映画祭で高倉健さんが主演男優賞を受けたばかりの「鉄道員(ぽっぽや)」と小津安二郎監督の「秋日和」の2本立てのお別れ興行開催を決めた。*9

佐久グランドシネマ

所在地 : 長野県佐久市中込2-27-1
開館年 : 不明
閉館年 : 2005年
佐久グランドシネマが入っていたヤングプラザは2016年後半に取り壊された。

佐久アムシネマ

所在地 : 長野県佐久市中込2-27-1
開館年 : 1995年12月?
閉館年 : 営業中
佐久アムシネマがあるアムアムビレッジのオープン年は1995年12月。

佐久IC開通から2年後の1995年12月、小県郡東部町でパチンコ店経営を主とする興行会社「アメニティーズ」がアムアムビレッジをオープンさせた。佐久ICからの距離はわずか200メートル。敷地面積は22400平方メートルと広大であり、700台分の無料駐車場がある。2000年には2スクリーンを増やして計5スクリーンとし、県内最多のスクリーン数を有するシネマコンプレックスとなった。約6600平方メートルの広い建物には、映画館のほかにもゲームセンターやカラオケや飲食店などが入っている。座席数は約100席から約170席。*10

松本市

松本開明座/松本松竹開明座

所在地 : 長野県松本市大手4-7-2
開館年 : 1950年以前
閉館年 : 1990年以後2000年以前
1990年(平成2年)頃の松本開明座の写真あり。『釣りバカ日誌2』『男はつらいよ ぼくの伯父さん』(いずれも1989年・松竹)の看板が見える。*11

松本東宝セントラル

所在地 : 長野県松本市大手2-9-23
開館年 : 1975年以前
閉館年 : 2004年10月24日
Wikipedia : 大手 (松本市)

1975年(昭和50年)頃の東宝セントラルの写真あり。*12

2003年6月21日、長野県松本深志高校に住みついて授業や職員会議に出た野良犬の物語を映画化した『さよなら、クロ』の上映が長野県内8カ所の映画館で始まった。撮影にも使われた映画館「松本東宝セントラル」では、松岡錠司監督や主演の妻夫木聡さんが舞台挨拶を行った。*13

2004年10月24日、松本市の老舗映画館「松本東宝セントラル」が半世紀余りの歴史の幕を閉じる。今年2月の「松本中劇」に続く閉館であり、松本市内の映画館は3館に減る。シネマコンプレックスが台頭し、全国の地方都市で従来型の映画館が姿を消している。こうした中、「まちなかの映画館の灯を残したい」と、市民の間に署名活動や自主上映の動きも広がっている。*14

2004年10月24日、映画館と旅館を経営する松本宝塚劇場は松本東宝セントラルを閉館させる。松本東宝セントラルと信州会館は福祉施設に生まれ変わる。1927年(昭和2年)に芝居小屋の松筑座として開館し、1947年(昭和22年)に洋画の封切館となった。1953年(昭和28年)から1959年(昭和34年)頃には1日7-8回の上映で3000-4000人が入館した。立ち見はもちろんのこと、通路や2-3階席にも人があふれたという。「映画から夢が広がった」をテーマに閉館記念企画を実施し、『E.T.』『大脱走』『タイタニック』などを上映する。*15

このほど、2004年10月に閉館した松本市の老舗映画館「松本東宝セントラル」のロビーに飾られていたシャンデリア3基が松本市民芸術館に寄贈された。1975年の改装時に計180万円で購入した6基のうちの3基。販売した照明器具会社「ヤマギワ」によると、フランスのベルサイユ宮殿にある1740年製のシャンデリアと同じデザインである。*16

松本中劇

所在地 : 長野県松本市大手4-1-13
開館年 : 1946年
閉館年 : 2004年
松本市大手4丁目の「松本中劇」「シネサロン」などを経営する中央劇場は、2004年2月16日に地裁松本支部に自己破産を申請し、映画館を封鎖した。負債総額は約1億9700万円。1913年に同所で始めた呉服店が同社の前身であり、その後デパートに。1945年に同社を設立し、1946年に映画館の運営を開始した。洋画中心の老舗で、15日まで『ラスト・サムライ』などを上映していた。2002年3月期の年収入高は1億500万円だったが、2003年同期は8500万円に。*17

2004年2月16日、松本市の映画館「松本中劇」を経営する中央劇場(藤本徳次社長、資本金1千万円)は長野地方裁判所松本支部に自己破産を申請した。負債総額は約1億9700万円。*18

2年前に倒産した松本市の映画館「松本中劇」を主な会場として、宮崎義文は約25年間にわたって名画の自主上映会を行ってきた。2006年にはNPO法人「コミュニティシネマ松本CINEMAセレクト」を立ち上げ、映画の街・松本の再生をめざしている。宮崎は寺院の跡取りだったが、映画に触れていたくて松本中劇に就職。もぎりや売店の仕事をこなしながら、年に数回は自身が観たい映画を自主上映した。1987年には任意団体の「松本CINEMAセレクト」を1人で結成。上映本数は年100本を超え、監督をゲストに迎えるイベントなども手掛けるようになった。実家の寺が忙しくなり、1991年に松本中劇を退社するが、僧侶の仕事を終えた後の夜には松本中劇で映画鑑賞を行っていた。2004年2月に松本中劇が倒産するまでに公開した作品は、アジア映画・東欧映画・中南米映画など約500本に上る。松本中劇の閉館後は、松本市美術館などを会場に活動を続けている。大都市と地方との「上映格差」をなくそうという「コミュニティシネマ運動」にも参画し、「CINEMAセレクト」をNPO化して運動を本格化することにした。*19

松本劇場/松本大映/スカラ座/松本テアトル銀映

所在地 : 長野県松本市城東1-1-4
開館年 : 1870年(松本劇場)、1914年(現在地移転)、1963年(テアトル銀映)
閉館年 : 2008年10月
Wikipedia : シネマライツ8
1993年(平成5年)の写真あり。「テアトル銀映」「GINEI」の文字が見える。*20

松本市街地で最古の映画館「テアトル銀映」は2008年(平成20年)10月24日をもって営業を終了。経営者の松本興行が今冬にシネコンを開館させるため。1870年(明治3年)に開館した筑摩県最初の常設劇場「松本劇場」が前身。1914年(大正3年)に現在の城東1丁目に移転。この大正期の建物を残しており、天井には豪華な木彫刻が施されている。1963年(昭和38年)にはテアトル銀映に改称し、70ミリフィルム対応の巨大スクリーンを上映。主に洋画を上映した。施設の老朽化、駐車場がない立地などから観客数が低迷し、1回に1人も入らないこともあった。*21

戦前の同館では歌舞伎が上演されていた。1950年(昭和25年)には松本大映が開館し、一時はスカラ座に改称したが、1963年(昭和38年)には銀映で定着した。松本市郊外の東筑摩郡山形村にシネコンが開館した影響などもあり、2008年(平成20年)10月24日に閉館した。*22

松本東映/上土シネマ

所在地 : 長野県松本市大手4丁目10番12号
開館年 : 1917年
閉館年 : 2008年11月14日(2008年11月24日)
Wikipedia : 松本エンギザ(単独記事ではない)

1990年(平成2年)の松本東映の写真あり。「現上土シネマ」とある。『公園通りの猫たち』(1989年・東映)の看板が見える。*23

2008年(平成20年)10月には市街地で最も歴史が古かった松本テアトル銀映が閉館。諏訪市では2005年に花松館・2007年にシネマレイクが閉館して市街地から映画館がなくなった。2008年11月下旬、上土シネマの最終日には『緋牡丹博徒 花札勝負』を上映。最後の上映作品は「不採算を理由に廃止が決まったローカル線の駅をめぐる人間ドラマ」『鉄道員』であり、映画館の姿と重なった。*24

平形興行は大手4丁目の上土シネマを2008年(平成20年)11月14日をもって閉館させる。経営資源を大手4丁目のエンギザに集中させるため。大正時代から続くとされるミニシアター。市街地の有志が出資して営業。*25

1917年(大正6年)頃に松本電気館が開館した。後に上土シネマと改称し、2008年(平成20年)11月に閉館した。大正時代竣工の擬洋風の建物はそのまま残されており、2014年(平成26年)頃からは商店街振興組合が築100年の建物の活用の検討を始め、2016年(平成28年)からは松本大学観光ホスピタリティ学科の教授や学生も加わって構想づくりを開始した。*26

松本エンギザ

所在地 : 長野県松本市大手四丁目9番21号
開館年 : 1921年
閉館年 : 2010年6月27日
Wikipedia : 松本エンギザ(単独記事)
1997年11月8日、松本市大手4丁目のエンギザはミニシアター風劇場を2館備えた映画館を新装オープンする。明るい色の壁、障碍者用トイレを設置した映画館は、長野県屈指の映画館密集地である松本市でも珍しい。鉄筋コンクリート造4階建。1階と2階には飲食店、3階に120席と160席の映画館。エンギザは1921年に演技座として開館し、戦後に盛り上がりを見せたが、テレビやビデオ映画の普及で入場者が減少した。*27

シネマライツ8

所在地 : 長野県松本市高宮中116−2
開館年 : 2008年
閉館年 : 営業中
Wikipedia : シネマライツ8
松本興行はイトーヨーカドー南松本店の駐車場の一角に県内最大級のシネコンを建設する予定。8館1374席。商圏は半径60劼鯀枋蝓G間売上高は約6億円を見込む。松本都市圏では2000年に東筑摩郡山形村に6館のアイシティシネマが開館。2004年には市街地の老舗映画館2館が相次いで閉館した。松本興行は松本市城東1丁目のテアトル銀映(2館)や長野市の千石劇場(3館)も経営。*28

塩尻市

塩尻映画館/塩尻映画劇場

所在地 : 長野県塩尻市大門一番町16-10
開館年 : 1953年8月
閉館年 : 2000年以後
昭和30年代の写真あり。「塩尻映画館」「SHIOJIRI EIGAKAN」の文字が見える。*29

1953年8月には東筑摩郡塩尻町大門一番町に塩尻映画劇場が開館。近くにあった映画館が焼失したことが理由である。封切館ではなかったが、邦画も洋画も上映した。週に2回上映作品を変えて、一日3本を上映した。客足の低迷や施設の老朽化などが理由で、2003年11月30日に閉館した。晩年は子ども向けアニメ専門の映画館であり、最終日もアニメ映画を4回上映した。約400席だった。*30

塩尻東座

所在地 : 長野県塩尻市大門四番町4-8
開館年 : 1922年
閉館年 : 営業中
昭和30年代の写真あり。『ロマンス祭』(1958年・東宝)の看板が見える。*31

大町市

大町市の映画館

大正期の大町市には白塩町の錦座(800人収容)と大町劇場(大町座とも、800人収容)があった。1921年(大正10年)1月・2月には、大町座で4回の活動写真興行が行われ、延べ1800人が来場した。入場料は特等が80銭、1等が50銭、2等が20銭の3段階であり、1等は白米1升が買える値段だった。錦座や大町座では活動写真のほかに演劇も上演された。*32

大町演芸館

所在地 : 長野県大町市日之出町3306(1969年)
開館年 : 1950年以前
閉館年 : 1976年以後1980年以前

大町劇場(大町座、大劇)

所在地 : 長野県大町市白塩町白塩町2416-1(1990年)
開館年 : 大正期以前、1968年
閉館年 : 2005年8月21日

大町劇場は大北地域唯一の映画館だったが、2005年8月21日をもって閉館した。最終日の上映作品は『名探偵コナン 水平線上の陰謀』と『クレヨンしんちゃん 伝説を呼ぶブリブリ 3分ポッキリ大進撃』。*33

昭和初期に大町劇場で開催された地元同好グループの演奏発表会の様子の写真あり。*34

『懐かし写真館 昭和の街角 大町・安曇野・北安曇』郷土出版社、2009年、p.54に写真が掲載されているらしい。未確認。

昭和時代の大町劇場の外観の写真あり。*35

1968年に新しい建物を建てた。*36

2005年8月の閉館前には大糸タイムスに記事が掲載されているらしい。

2013年4月17日、カモシカは映画館跡の脇を通って大町市街をうろついた。*37

安曇野市

穂高劇場

所在地 : 長野県南安曇郡穂高町
開館年 : 1916年
閉館年 : 1945年5月?(1945年以後も継続したかは定かでない)
1943年(昭和18年)頃の「穂高劇場」の写真あり。1916年(大正5年)に大門から等々力区への村道を100メートルほど進んだ場所(2006年現在のJAあづみ穂高支所付近)に建設された。外観はモダンであり、ホールには回り舞台があった。約500人を収容できた。こけら落とし公演は守田勘彌らの東京歌舞伎の一座。昭和に入ると映画も上映された。太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)5月、穂高通信株式会社に売却された。*38

明科座

所在地 : 長野県東筑摩郡明科町
開館年 :
閉館年 :
『保存版 ふるさと安曇野』郷土出版社、2006年?に明科座が掲載されている。要再確認。*39

相生座/豊科座/豊科劇場

所在地 : 長野県南安曇郡豊科町4307(1960年)、長野県安曇野市豊科成相4307(2018年)
開館年 : 1887年、昭和初期
閉館年 : 1965年頃
建物は南安曇郡三郷村一日市場で松ヶ枝座として営業していたものであり、1887年(明治20年)に南安曇郡豊科村成相相生町に移築されて相生座となった。1893年(明治27年)の豊科大火では市街地の大半が焼失し、『豊科学校沿革誌』によるとき「焼出サレタル人民は相生座ニ仮住シ、 郡役所ヨリ炊出シテ救護シツツアリ」という。1912年(明治45年)発行の『南安曇案内』(酒井俊三著)には「劇場は町の中央にあり相生座といふ」とある。昭和初期に現在の建物が建設され、当初は豊科座として営業していたが、戦後には経営者の交代により豊科劇場となった。『市民タイムス』の連載「近代化遺産を歩く」で取り上げられている。安曇野市役所による「安曇野の近代化遺産に歴史を探る」でも紹介されている。*40*41

『懐かし写真館 昭和の街角 大町・安曇野・北安曇』郷土出版社、2009年、p.76に豊科劇場の写真が掲載されているらしい。未確認。

『保存版 ふるさと安曇野』郷土出版社、2006年?に豊科劇場が掲載されている。要再確認。*42

建物は2018年時点でも残っており、上部にはうっすらと「豊科劇場」の文字が見える。「居酒屋マキ」「居酒屋タイランド」「スナック暖」「スナックVIP」が営業中。

安曇野ふるさと応援団による「安曇野の原風景を巡るふるさとウォッチングマップ」でも紹介されている。*43

北安曇郡池田町

シネマ・ファン倶楽部

大町・北安曇、安曇野地方の映画ファンで構成される「シネマ・ファン倶楽部」は、2008年から池田町で名画の上映会を行っていた。資金難が理由で、2013年の60回目を最後に定期的な上映会を終了した。
*44

木曽郡木曽町

木曽映画劇場

所在地 : 長野県西筑摩郡福島町5118(1960年、現・木曽郡木曽町大字福島)
開館年 : 1951年10月1日
閉館年 : 1960年以後
戦後間もない1951年(昭和26年)10月1日、長野県西筑摩郡福島町(現・木曽郡木曽町大字福島)に町営の映画館として木曽映画劇場が開館した。当時の木曽地方に娯楽施設は少なく、福島町に常設の映画館はなかった。映画の上映が中心だったが、その他にも各種催しが開催された。*45

木曽映画劇場は福島町公民館の西側に隣接していた。*46

木曽郡王滝村

牧尾劇場

所在地 : 長野県西筑摩郡王滝村二子持(現・木曽郡王滝村二子持)
開館年 : 1958年
閉館年 :
木曽郡木曽町から王滝村に通じる長野県道256号を走り、御岳湖の牧尾ダムが姿を見せる直前、道路わきの山林に映画館「牧尾劇場」の廃墟が見える。牧尾ダムの建設工事が本格化した1958年(昭和33年)から完成までの数年間、連日にわたって満員の客を集めた。かつて牧尾劇場の周辺には、「かっぱ亭」「ミナト」「宝船」「百万石」などのプレハブの飲み屋が集まっていた。牧尾ダム着工後には約3000人(※管理者注 : 300人の間違いではないかと思います。)の工事関係者が王滝村に集まり、牧尾ダム直下の二子持地区には愛知用水公団(現・水資源機構)の事務所や作業員の宿舎が建設され、牧尾劇場のほかにはダンスホールやパチンコ屋なども開店した。信濃毎日新聞は当時の様子を「牧尾銀座」と名付けた。*47

「かっぱ亭」「ミナト」「宝船」「百万石」。飲食店、酒場、パチンコ屋、ダンスホール、林の中の映画館「牧尾劇場」などがあった。*48

諏訪市

諏訪の映画館
諏訪市最古の花松館は1913年(大正2年)に開館した。1957年現在の館主である小池花男は長野県興行協会南信支部長当初は松竹系だったが、1957年現在は東宝や大映、また独立系の作品を上映している。1921年(大正10年)に大手町に開館したオデオン座は洋画専門であり、横浜オデオン座に次いで全国で2番目に「オデオン座」と名付けられた館である。館主の飯田実治によると「外国映画が好きで始めたが、当時は洋画など見る人がなかった」という。オデオン座とともに都座シネマレイクも大手町にあり、両者は諏訪映画興行株式会社の経営である。都座は松竹・日活・新東宝系であり、シネマレイクは洋画である。都座では『二十四の瞳』(1954年、松竹、木下恵介監督)や『馬喰一代』(1951年、大映、三船敏郎主演)などは諏訪始まって以来の大入りだった。シネマレイクでは『風と共に去りぬ』と『ローマの休日』が筆頭だった。旅館街には1956年(昭和31年)4月開館の諏訪東映劇場があり、旅館街から客を集めている。
*49

1957年現在で人口4万3000人の諏訪市には、花松館、オデオン座、都座、シネマレイク、諏訪東映劇場の5館の映画館がある。隣接する下諏訪町には、三国座、富士館の2館の映画館がある。花松館、都座、シネマレイク、諏訪東映劇場、中央劇場、富士館、オデオン座、三国座の写真あり。なお、キネマ旬報では1953年(昭和28年)5月上旬号から1959年(昭和34年)4月下旬号で「新・盛り場風土記」の連載を行っている。*50

諏訪市の映画館は花松館シネマレイクの2館となる。ニュー東映オデオン座都座東映劇場が順次閉館した。*51

高島座

所在地 : 長野県諏訪郡上諏訪町清水六軒下(現・長野県諏訪市清水2丁目)
開館年 : 不明/1906年
閉館年 : 1912年頃
1906年以前にあった高島座は諏訪地方唯一の娯楽の場だった。1906年(明治39年)10月、上諏訪町清水六軒下(現・清水2丁目)へ宏大な洋風建築の劇場として引き移った。初興行では煙火を打ち上げ、百俵の餅まきを行った。こけら落とし公演は市川久米八の一座45名であり、大観衆を集めて「菅原伝授手習鑑」「勧進帳」などが上演された。市川団女・坂東鶴之助・中村信乃らの一座の来演もあり、諏訪唯一の常設劇場として栄えた。1912年(大正元年)に都座が開場する頃には高島座が廃座となり、建物は下諏訪町へ移築されて御田劇場となった。1906年(明治39年)の写真あり。*52

真松亭(真松座)

所在地 : 長野県諏訪郡上諏訪町
開館年 : 1905年以前
閉館年 : 1912年頃
真松亭(真松座)の開館年は定かでないが、1905年(明治38年)8月の南信評論には「中町裏(現末広)に小松真吉氏創立にかかわる寄席あり、三味・太鼓常に不景気風に一導の活気を齎す」とある。芝居・義太夫・浪花節・奇術・活動写真などの興行が行われ、明治末期までつづいた。*53

オデオン座

所在地 : 長野県諏訪市大手町2-2975(1960年)
開館年 : 1923年後半
閉館年 : 1965年以前
関東大震災後の1923年(大正12年)後半、大手町にオデオン座が開館した。新しい時代劇「清水の次郎長」が評判になり、女優中心の母性愛映画や恋愛映画がファンを引き付け、アメリカの映画が盛んに輸入された。その後昭和20年代には市内で一番盛んな時期もあったが、昭和30年代末には姿を消した。*54

都座

所在地 : 長野県諏訪市大手町2979(1960年)
開館年 : 1912年
閉館年 : 1966年
1912年(大正元年)10月、大手並木南東裏の稲田の中に都座が開場した。洋風三層楼、舞台80坪、観客席1000余の大建築であり、長野県下第一ともいわれる豪華な劇場だった。初興行は市川段四郎・市川猿之助一座76名であり、満員の観客の中で5日間にわたって興行された。芝居のほかに浪花節・義太夫・奇術なども興行し、しばしば映画も上映した。上諏訪町で唯一の演劇場だった。1926年(大正15年)には青年演劇団「街の劇場」が発足したが、この劇団は都座で公演を行った。各種興行のほかには、青年会・壮年会・組合大会・演説会など各種大会が開催され、諏訪地方第一の大集会場としての役割も果たした。芝居が主だったころは枡席であり行火があったが、映画が主になると1937年(昭和12年)には椅子席に改造した。戦後、洋画のブームが起こると、1956年(昭和31年)には洋画専門のシネマレイクを開館させた。その後も都座は邦画を主とする映画館として営業したが、1966年(昭和41年)には閉館した。1912年(大正元年)の開館時の写真あり。*55

諏訪東映・ニュー東映

所在地 : 長野県諏訪市富浜町469(1960年)
開館年 : 1955年以後
閉館年 : 1976年以前
昭和30年代には諏訪東映とニュー東映がそろって開館。映画最盛期には諏訪市内に6映画館があったが、わずか十数年で2館とも転業した。*56

花松館(かしょうかん)

所在地 : 長野県諏訪市末広7-13
開館年 : 1913年?、1916年?
閉館年 : 2005年
1916年(大正5年)、諏訪地方初の常設映画館として末広町に花松館が開館した。なお当時上諏訪には大娯楽場として都座があった。尾上松之助が「目玉の松ちゃん」として大活躍をし、「ジゴマ」がもてはやされる時代だった。昭和初期までは上映されるのは無声映画であり、フロックコートや羽織袴の弁士が、スクリーン脇の演台で状況説明や登場人物の対話などを独演した。上諏訪には都座、花松館、オデオン座の3映画館が鼎立して競い合った。1976年(昭和51年)の『諏訪市史 下巻 近現代』刊行時点では諏訪市に残る2つの映画館の1つ。1974年(昭和49年)の写真あり。*57

1940年(昭和15年)頃の末広町の写真あり。花松館が映っている。花松館は1916年(大正5年)に諏訪地方初の常設映画館として開館。都座、オデオン座とともに親しまれた。*58

1940年頃の末広町の写真あり。花松館が映っている。道路を挟んで西側のタバコ屋の建物は1940年と2002年現在で変化がない。*59

2000年2月15日には、JR上諏訪駅周辺の5つの商業会でつくる「地域活性化委員会in上諏訪」が花松館で「懐かし映画上映会」を開催した。高齢者に優しい商店街をPRする一連のイベントの一つである。諏訪市がロケ地となった『喜劇 駅前弁天』(1966年、東宝)を2回上映した。*60

花松館の建物は2006年頃に取り壊された。

シネマレイク

所在地 : 長野県諏訪市大手2-4-6
開館年 : 1954年12月末、または1956年
閉館年 : 2007年8月31日
諏訪を代表する劇場だった都座が、隣接する道具小屋を改築して1954年(昭和29年)に開館させた。2007年(平成19年)に閉館した。1959年(昭和34年)頃のシネマレイクの写真あり。『戦場にかける橋』の看板が見える。*61

1956年(昭和31年)にシネマレイクが開館。1976年(昭和51年)の『諏訪市史 下巻 近現代』刊行時点では諏訪市に残る2つの映画館の1つ。主に洋画を上映している。*62

2007年8月31日をもって諏訪市のシネマレイクが閉館する。2005年には末広の花松館も閉館しており、諏訪市から映画館が消える。1954年12月末に洋画の上映館として開館した。その後映画業界が低迷したが、『エマニエル夫人』や『E.T.』などはヒットした。最終上映作品は『ダイ・ハード4.0』。*63

2007年8月31日夜、諏訪市唯一の映画館であるシネマレイクが最後の上映を終えた。1954年12月末に洋画専門の単独映画館として開館。昭和30年代の諏訪市内には6館の劇場があった。テレビの普及や録画機器の普及、シネコンの登場に伴って観客数が減少した。後継者はおらず、また建物が老朽化したため、閉館を決めた。最終上映作品は19時30分からの『ダイ・ハード4.0』であり、15人ほどの観客が訪れた。*64

岡谷市

岡谷座

所在地 : 長野県岡谷市
開館年 : 1910年
閉館年 : 1946年
1910年の開館直後の岡谷座の写真あり。諏訪郡平野村(現在の岡谷市御倉町)に寄席として創設された。1913年(大正2年)に改築されて劇場となり、製糸業の従業員の娯楽施設として人気があった。*65

1910年(明治43年)5月30日、林玉六が御倉町に寄席の岡谷座を創立した。1913年(大正2年)に改築して8月6日に劇場への変更認可を受け、坂東鶴之助一座を招いて開場披露興行を行った。有力製糸家の支援を受けて1918年(大正7年)3月にも大改築を行っている。芝居の興行前には役者が人力車に乗って町内を回り、太鼓や三味線で人寄せを行った。主に芝居を興行したが、昭和に入ると映画を上映したこともあった。ただし太平洋戦争終戦後にはしばらく映画館として営業し、1946年に廃業した。岡谷座の建物は中央通りに移築されて岡谷中央劇場となった。*66

岡宝映画劇場

所在地 : 長野県岡谷市中央通(1960年)
開館年 : 1960年以前
閉館年 : 1963年

岡宝映画劇場は1963年(昭和38年)に閉館した。*67

岡谷中央劇場

所在地 : 長野県岡谷市中央町4-20(1980年)
開館年 : 1960年以前
閉館年 : 1980年以後1990年以前
1946年に岡谷座が廃業すると、上浜の川崎忠之が岡谷座の建物を買い取って、中央通りに移築して岡谷中央劇場とした。アメリカ映画専門館としての申請を行ったが、認可を得られなかったため、約2年間は岡谷市公民館として使用され、その後映画専門館としての営業を開始した。*68

岡谷キネマ

所在地 : 長野県岡谷市本町4-12-13(1980年)
開館年 : 1926年8月
閉館年 : 1988年
大正時代に日活と松竹の活動写真の常設館として設立された。1930年(昭和5年)には火災で焼失して再建されている。太平洋戦争末期には映画館も統制の対象となったが、岡谷では岡谷キネマのみが営業を許された。1926年(大正15年)の外観の写真あり。*69

1956年(昭和31年)の岡谷キネマの写真あり。1926年(大正15年)に設立され、日活と松竹の作品を上映した。1930年(昭和5年)に建物が焼失し、同年に再建されている。第二次世界大戦時には同館のみが上映を許された。かつての岡谷市には岡谷キネマ、中央劇場、岡宝、電気館もあったが、2002年(平成14年)現在は岡谷スカラ座のみ。2002年現在の岡谷キネマの跡地は駐車場となっている。*70

スターの三浦恍一が公演。1956年(昭和31年)の岡谷キネマの写真あり。『人妻椿』や『妻の心』などのポスターが見える。*71

1930年(昭和5年)5月1日には岡谷キネマで火災が発生し、金松山敬念寺も類焼した。*72

建設会社である岡谷組の野口会長が、1926年(大正15年)8月に岡谷キネマを開館させた。岡谷市内に4万人近くいた製糸関連従業者などでにぎわい、映画館の前には商店街ができたほどだった。1927年(昭和2年)8月と9月には女工らが労働組合を結成して山一林組労働争議を起こしたが、女工らが岡谷キネマを訪れた隙に経営者が工場を封鎖した、というエピソードもある。1930年(昭和5年)には火災で焼失したが、有志らによる組合組織で再建して営業を再開した。木造であり壁面はモルタル、ハイカラな外観だった。戦時中には岡谷キネマのみが営業を許可された。戦後には映画館前の通りがキネマ通りと呼ばれた。テレビの普及にともなって観客数が減少し、1988年(昭和63年)に閉館した。建物の老朽化が進んだことから、1996年(平成8年)2月1日から建物が取り壊された。*73

岡谷キネマで支配人を務めていた長谷川充男さん(2008年時点?で75歳)は、甥が経営するパン屋でパン職人となり、ガンの闘病をしながらパン作りを行っている。*74

岡谷スカラ座

所在地 : 長野県岡谷市中央町2丁目4−14
開館年 : 1962年
閉館年 : 営業中
Wikipedia : 岡谷スカラ座

茅野市

茅野市の映画館

昭和20年代後半には常設映画館が盛況となり、観客数が急激に増加した。諏訪郡茅野町では1957年(昭和32年)、国鉄中央本線茅野駅周辺に「新星劇場」と「東映劇場」が相次いで開館した。それまで茅野町以南の諏訪地方には中央劇場1館だけだったのが3館となり、それぞれの映画会社のフィルムを上映した。昭和30年代後半にはテレビの普及によって映画観客数が著しく減少し、1965年(昭和40年)には中央劇場が、1966年(昭和41年)には東映劇場が閉館した。*75

茅野中央座/中央劇場

所在地 : 長野県茅野市仲町3574(1960年)
開館年 : 1912年
閉館年 : 1965年
1912年(明治45年)3月には諏訪郡永明村塚原(後のちの町、現在の茅野市中心部)に「中央座」が開館。現在の茅野市域唯一の娯楽演劇場だった。1906年(明治39年)に国鉄中央本線の新宿駅=塩尻駅間が全通しており、東京の役者が比較的容易に来訪できることから、諏訪地方では演劇の人気が高かった。中央座の開場公演には東京歌舞伎の市川一座が来場している。なお、同時期の諏訪地域には平野村の岡谷座(1910年)、下諏訪町の下諏訪座(1911年)、上諏訪町の都座(1912年)、下諏訪町の御田劇場(1913年)が開業している。中央座の開業時には周囲はすべて田畑だった。2階建ての建物であり、収容人数は立ち見を含めずに800人だった。各種興行のほかに、広いホールを持つことから講演会や祝賀会にも利用された。昭和時代に入ると映画を主体とする劇場となり、中央座から「中央劇場」に改称した。中央劇場は1965年(昭和40年)に閉館した。大正初期の中央座の写真あり。また中央劇場への改称後の写真あり。*76

茅野中央劇場は映画館でもあり芸能ホールでもあった。1963年(昭和38年)には神戸一郎歌謡ショーが開催された。1963年の茅野中央劇場の写真あり。*77

1957年(昭和32年)時点の諏訪郡茅野町には矢崎瞬彦が経営する中央劇場がある。*78

東映劇場

所在地 : 長野県茅野市茅野町3552(1960年)
開館年 : 1960年以前
閉館年 : 1966年
東映劇場は1966年(昭和41年)に閉館した。*79

茅野新星劇場

所在地 : 長野県茅野市仲町9−15
開館年 : 1957年
閉館年 : 2013年10月31日
茅野市の新星劇場は2013年10月に通常営業を終了し、11月11日・12日にお別れ上映イベントを開催した。『北のカナリアたち』、『レ・ミゼラブル』を上映し、ほぼ毎回満員の観客が詰めかけた*80

1969年正月には茅野の新星劇場に新藤兼人監督が来場し、スタッフや相原昭信支配人と記念撮影を行った。約1000万円かかるデジタル機器への更新を行わず、閉館を決定した。2013年10月4日が楽日で通常営業を終えた。今後も出張上映を続ける予定である。*81

茅野市の新星劇場は1957年に開館した。かつて映画館では発火しやすいフィルムを使用していたため、映写室の天井にはボヤの際の煙のすすが残る。2005年頃から観客数の落ち込みが深刻となった。*82

2013年11月11日、茅野市で唯一の映画館である新星劇場が閉館。新星劇場は1957年に地元有志が設立した運営会社によって開館した。やがて柏原勇太郎が経営に乗り出し、1963年に息子の柏原昭信が引き継いだ。市内にあった残り2館は1960年代半ばに相次いで閉館。2010年代にはデジタル化の資金を回収できる見込みが経たず、2013年春に閉館を決意した。2013年10月30日をもって通常営業を終了し、11月10日・11日に記念上映を行った。*83

2009年4月からは茅野市役所が毎月第3日曜日を「映画館の日」とし、茅野新星劇場を市による貸し切り扱いとして無料開放する。茅野市では1998年から蓼科高原映画祭を開催していることから、「(苦境が続く単館系映画館の)スクリーンを守りたい」としている。諏訪地域では近年に諏訪市の2館が相次いで閉館し、茅野新星劇場と岡谷キネマの2施設のみとなった。*84

2009年4月19日に茅野新星劇場で開催された「第1回 映画館の日」には、松竹の大谷信義社長も来館してあいさつを行った。*85

諏訪郡下諏訪町

下諏訪町の映画館

諏訪郡下諏訪町の三国座は松竹・日活・新東宝系であり、富士館は大映・東映系である。三国座は諏訪映画興行株式会社の経営であり、富士館は久保田ひとえの個人経営である。
*86

御田劇場(みたげきじょう)

所在地 : 長野県諏訪郡下諏訪町
開館年 : 1913年
閉館年 : 1958年以後
下諏訪町の御田劇場の1955年(昭和30年)頃の写真あり。御田劇場は1913年(大正2年)に入一製糸場と御田町有志によって設立された。建物は諏訪市清水町にあった高島座を買収して移築したもの。1958年(昭和33年)には経営がヤシカに買収された。2002年(平成14年)現在では跡地に諏訪信用金庫御田町支店が建っている。*87

1955年(昭和30年)頃の御田劇場。1913年(大正2年)に従業員慰安を目的として、入一製糸場と御田町有志によって設立された。諏訪市清水町の高島座を1万円で買収して移築。その後ヤシカに買収され、現在は駐車場である。*88

諏訪郡富士見町

富士見劇場/富士見映画劇場/富士見映劇/富士見東映

所在地 : 長野県諏訪郡富士見町
開館年 : 1953年以前
閉館年 : 1969年以後
富士見東映は映画・芝居・後援会・弁論大会などで用いられた。『赤い靴』『ハムレット』などの名画には近隣の学校から教員に引率された児童生徒が集団で鑑賞した。昭和30年代の富士見東映の写真あり。時代劇の旗本シリーズのポスターがある。*89

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